のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

『ヒトラー最期の12日間』

2006-04-30 | 映画
のろの愛聴していたラジオ番組、Barakan Beat が本日で終了してしまいました。
はなはだ傷心でございます。

さておき。

本日は
第三帝国総統アドルフ・ヒトラーが前日に結婚したエヴァ・ブラウンと共に自殺した日でございます。
というわけで
映画『ヒトラー最期の12日間』をご紹介いたします。

紹介といっても、詳しくストーリーを申し上げる必要はございますまい。
1942年にヒトラーの個人秘書として雇われたトラウドゥル・ユンゲ嬢の手記をもとに
ヒトラーおよび「第三帝国」の最期の日々を綴った作品でございます。

首都ベルリンでの市街戦、SSによる一般市民の処刑、市民兵として死んで行く子供たち。
ここで描かれているのは、戦争の むごさ というよりも 愚かしさ です。
「理想」という題目のもとに、戦争という異常事態へまで突き進んでしまう愚かしさ。
その異常事態の中で、自らの倫理観や判断力を見失ってしまう弱さ。
この弱さ、愚かしさはしかし、時代や状況のみに帰せられるものではございません。
この映画の中にある愚かしさはまぎれもなく 私 た ち、人 間 の 愚かしさでございます。

イスラエルのプレスはこの作品を、「ヒトラーを美化している」と批判しました。
本作のパンフレットに寄稿している映画評論家も
「これではヒトラーが怪物ではなく人間に見えてしまう、困ったことだ」というような文章を書いておられます。

しかしのろは ヒトラーという人物はこのように描かれるべきである と思います。
「怪物」ではなく、あくまで「ただの人間」として。
しかも、魅力的な側面も併せ持った・愚かな・哀れな・弱い・
つまり、私たちと何ら変わることのない、一人の人間として。
そうでなければ、 歴史 というものの意味が無くなってしまうと思うのでございます。
(いたって当たり前のことしか申し上げられないのですが、)
ホロコーストやファシズム旋風や独裁政治を
「怪物」が起こした、一過性の特殊な出来事として扱ってはならないからでございます。
「歴史の中で一時的に出現した、おかしな人々の起こした事件」という視点ではなく、
私たち、即ち人間という存在が、いかに愚かなことを行いうるか、行ってしまうのか、という視点から、過去を眺めねばなりません。
そうしてこそ、二度と同じ過ちを繰りかえさぬよう、自らに立ち返って考えることができますし
それこそが 歴史 の持つ最も重要な役割であるからでございます。

本作が採用しているのはこの視点であり
ヒトラーも、その周辺の人々ーーー崩壊の日まで付き従った幹部たちーーーも
人格や信念や感情を持った 普通の人間 として描かれています。

監督オリヴァー・ヒルシュビーゲルは、前作の『ES』(エス)で
ごく普通の市民が、状況によって短期間のうちにサディスティックな「怪物」へと変貌していく様を描きました。
これも、恐ろしいことに実話がもとになっている作品でございます。

どちらも、
映画の中の「彼ら」の話ではなく、生きている「私たち(=全ての人間」の話として
受け止めるべき作品でございます。