のろの愛聴していたラジオ番組、Barakan Beat が本日で終了してしまいました。
はなはだ傷心でございます。
さておき。
本日は
第三帝国総統アドルフ・ヒトラーが前日に結婚したエヴァ・ブラウンと共に自殺した日でございます。
というわけで
映画『ヒトラー最期の12日間』をご紹介いたします。
紹介といっても、詳しくストーリーを申し上げる必要はございますまい。
1942年にヒトラーの個人秘書として雇われたトラウドゥル・ユンゲ嬢の手記をもとに
ヒトラーおよび「第三帝国」の最期の日々を綴った作品でございます。
首都ベルリンでの市街戦、SSによる一般市民の処刑、市民兵として死んで行く子供たち。
ここで描かれているのは、戦争の むごさ というよりも 愚かしさ です。
「理想」という題目のもとに、戦争という異常事態へまで突き進んでしまう愚かしさ。
その異常事態の中で、自らの倫理観や判断力を見失ってしまう弱さ。
この弱さ、愚かしさはしかし、時代や状況のみに帰せられるものではございません。
この映画の中にある愚かしさはまぎれもなく 私 た ち、人 間 の 愚かしさでございます。
イスラエルのプレスはこの作品を、「ヒトラーを美化している」と批判しました。
本作のパンフレットに寄稿している映画評論家も
「これではヒトラーが怪物ではなく人間に見えてしまう、困ったことだ」というような文章を書いておられます。
しかしのろは ヒトラーという人物はこのように描かれるべきである と思います。
「怪物」ではなく、あくまで「ただの人間」として。
しかも、魅力的な側面も併せ持った・愚かな・哀れな・弱い・
つまり、私たちと何ら変わることのない、一人の人間として。
そうでなければ、 歴史 というものの意味が無くなってしまうと思うのでございます。
(いたって当たり前のことしか申し上げられないのですが、)
ホロコーストやファシズム旋風や独裁政治を
「怪物」が起こした、一過性の特殊な出来事として扱ってはならないからでございます。
「歴史の中で一時的に出現した、おかしな人々の起こした事件」という視点ではなく、
私たち、即ち人間という存在が、いかに愚かなことを行いうるか、行ってしまうのか、という視点から、過去を眺めねばなりません。
そうしてこそ、二度と同じ過ちを繰りかえさぬよう、自らに立ち返って考えることができますし
それこそが 歴史 の持つ最も重要な役割であるからでございます。
本作が採用しているのはこの視点であり
ヒトラーも、その周辺の人々ーーー崩壊の日まで付き従った幹部たちーーーも
人格や信念や感情を持った 普通の人間 として描かれています。
監督オリヴァー・ヒルシュビーゲルは、前作の『ES』(エス)で
ごく普通の市民が、状況によって短期間のうちにサディスティックな「怪物」へと変貌していく様を描きました。
これも、恐ろしいことに実話がもとになっている作品でございます。
どちらも、
映画の中の「彼ら」の話ではなく、生きている「私たち(=全ての人間」の話として
受け止めるべき作品でございます。
はなはだ傷心でございます。
さておき。
本日は
第三帝国総統アドルフ・ヒトラーが前日に結婚したエヴァ・ブラウンと共に自殺した日でございます。
というわけで
映画『ヒトラー最期の12日間』をご紹介いたします。
紹介といっても、詳しくストーリーを申し上げる必要はございますまい。
1942年にヒトラーの個人秘書として雇われたトラウドゥル・ユンゲ嬢の手記をもとに
ヒトラーおよび「第三帝国」の最期の日々を綴った作品でございます。
首都ベルリンでの市街戦、SSによる一般市民の処刑、市民兵として死んで行く子供たち。
ここで描かれているのは、戦争の むごさ というよりも 愚かしさ です。
「理想」という題目のもとに、戦争という異常事態へまで突き進んでしまう愚かしさ。
その異常事態の中で、自らの倫理観や判断力を見失ってしまう弱さ。
この弱さ、愚かしさはしかし、時代や状況のみに帰せられるものではございません。
この映画の中にある愚かしさはまぎれもなく 私 た ち、人 間 の 愚かしさでございます。
イスラエルのプレスはこの作品を、「ヒトラーを美化している」と批判しました。
本作のパンフレットに寄稿している映画評論家も
「これではヒトラーが怪物ではなく人間に見えてしまう、困ったことだ」というような文章を書いておられます。
しかしのろは ヒトラーという人物はこのように描かれるべきである と思います。
「怪物」ではなく、あくまで「ただの人間」として。
しかも、魅力的な側面も併せ持った・愚かな・哀れな・弱い・
つまり、私たちと何ら変わることのない、一人の人間として。
そうでなければ、 歴史 というものの意味が無くなってしまうと思うのでございます。
(いたって当たり前のことしか申し上げられないのですが、)
ホロコーストやファシズム旋風や独裁政治を
「怪物」が起こした、一過性の特殊な出来事として扱ってはならないからでございます。
「歴史の中で一時的に出現した、おかしな人々の起こした事件」という視点ではなく、
私たち、即ち人間という存在が、いかに愚かなことを行いうるか、行ってしまうのか、という視点から、過去を眺めねばなりません。
そうしてこそ、二度と同じ過ちを繰りかえさぬよう、自らに立ち返って考えることができますし
それこそが 歴史 の持つ最も重要な役割であるからでございます。
本作が採用しているのはこの視点であり
ヒトラーも、その周辺の人々ーーー崩壊の日まで付き従った幹部たちーーーも
人格や信念や感情を持った 普通の人間 として描かれています。
監督オリヴァー・ヒルシュビーゲルは、前作の『ES』(エス)で
ごく普通の市民が、状況によって短期間のうちにサディスティックな「怪物」へと変貌していく様を描きました。
これも、恐ろしいことに実話がもとになっている作品でございます。
どちらも、
映画の中の「彼ら」の話ではなく、生きている「私たち(=全ての人間」の話として
受け止めるべき作品でございます。
前半は愛嬌のある魔女も、後半はやっぱり重苦しくなってくる作品でした。
そう、ここでも人間の愚かさを、
これでもか!これでもか!と見せ付けられたように感じました。
とくに、足が砂の中に半分まで入った二人の人間が、
どちらかが死ぬまで殴り合うという作品には、
う~~~~む、こ、これは・・・。
国家に置き換えれば、戦争じゃないですか・・・、ね。
ゴヤさんの闇の部分の絵は暗くて怖いから、
あんまし好きじゃなかったンですけど、
今日は、ゴヤさんの見方が少し変わった日でもありました。
司会者の変わった日曜美術館、テーマのラインナップも上々でございますねえ。「プラド美術館展」の目玉商品の中から、とりわけゴヤを取り上げてくれたことが、のろは大変うれしうございました。
Beth様のおっしゃる通り、
「黒い絵」や「戦争の惨禍」シリーズで表現されているのは
人間の愚かさ、業の深さ、そして
悪 に捕われ、突き動かされる人間の心 でございますね。
ゴヤの描く魔女や人間が一様にあのように愚かしい/恐ろしい風貌をしているのは、絵の中の彼らが「自分は一体、何をしているのか」という内省を全く欠いているからではないかと、のろは思うのです。
そしてなお恐ろしいことに、人間はごくごく容易に、かのような状態になりうるんでございますね。
ゴヤはこうした人間性の負の部分を目の当たりにして、かつそれに背を向けたり、目をつむったりせずに、自分を含めた全ての人間が抱える 闇 として表現しました。
Beth様とは逆になりますが、のろはゴヤの 闇 を表現した作品の方が好きなのでございます。多分、のろはそちらの方に親和性があるからでございましょう、。
ゴヤの「黒い絵」シリーズをのろが初めて見たのはおそらく10数年前、NHKの「プラド美術館」シリーズにおいてでございました。ブラウン管を通した画像からでさえ、墓石で頭を殴られたような衝撃を受けたことを覚えております。それ以来、「黒い絵」シリーズはのろの 生きているうちに絶対見ておきたいものランキングでも上の方に位置しております。