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元ベース弾きの田舎暮らしは

60歳で田舎にUターン、素人の「米と野菜」作り
音楽が縦軸の人生
就職相談・紹介が「天職」

九人兄弟の父の私の従兄弟(いとこ)たち

2007年10月05日 | 思い出


今週 叔父が亡くなりました。85歳でした。父のすぐ下の弟です。

顔を見ると、病気のせいもありますが、すっかり痩せていました。
もうずいぶん前に亡くなった祖父にそっくりです。親子ですから当然と言えば、そうですが、その年齢になると身内は同じような顔になるのだと実感しました。

葬儀に出席して、久しぶりに従兄弟たちに会いました。

幼いころの話をしだすと、一気に昔にタイムスリップです。いつも集まる母や叔母たちが、今回いないので雰囲気が違います。

頭を押さえる世代がいないため、若い(?)従兄弟たちは気を遣わなくて済みます。その中でも私が一番年配格になってしまいました。実家は昔で言う「本家」ですから、従兄弟たちが小さい頃、良く来ていたのです。築120年前の古民家には、皆思い出があります。



                                  

来年Uターンすると告げると一様に驚きます。40年も出ていたからです。
田舎に帰ったら、従兄弟たちに集合をかけると言うと喜んでくれます。

昔のように、親戚が行き来をしなくなり、葬儀の時しか会えなくなっているため、慌ただしくて、近況も語りつくせません。

父も母も9人兄弟でした。従兄弟や身内は相当な人数です。

冠婚葬祭は自宅でするため、田舎の家の造り方は独特で、ふすまをとっぱらうと、大広間になります。雑魚寝でした。個人のプライバシーなんてありません。

この古い家を四人の娘たちのためにどのように作り替えるか思案のしどころです。

画像は、実家のイチョウの木の下の奥の間と床の間
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小京都 松江の忘れられない恩人

2007年08月28日 | 思い出
小学館発行のシニア向け雑誌「サライ」の最新号は「小京都を廻る」です。
この中に松江が特集されています。お茶とお菓子のおいしいところです。

松江・出雲・米子は、昔 新入社員時代、初めて担当したエリアです。
その松江から40分ほど離れた島根半島の日本海側に、野波という小さな漁港があります。

                

ここに販売店があり、月に1~2回営業で訪問していました。
そして独身の私は、食事をごちそうになり、泊めてもらっていました。家族同様の温かいもてなしでした。経営者は女社長さんで、社会人1年生の私に仕事の厳しさや経営のことを教えていただいたのです。

おつきあいは30年を超えました。いつも長い手紙のやり取りでした。
しかし 3年前にがんで亡くなったのです。

連絡を受け病院に見舞いに行きました。
帰り際、それまで横になっていたその人が、起き上がりベッドに腰をかけ、「よく来てくれたね、ありがとう」しっかりした口調でお別れを言ってくれました。

「また来ますから」と気楽に別れましたが、そのあと1週間で亡くなったのです。まさかと思いました。本人はたぶん最後だと覚悟し、気力をふりしぼって起き上ったのでしょう。凛とした姿です。その想いに気がつかなかった自分を後悔しました。

                   

私の娘の成長を自分の孫のことのように喜んでくれていました。
初盆に、4人の娘と墓参りに行きました。当時の従業員さんが、集まってくれて同窓会の雰囲気です。

松江の記事や写真を見るたびに野波の「お母さん」を思い出します。 合掌

画像は 駅は世界さんより   松江駅、宍道湖
http://blog.goo.ne.jp/naka_premium



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恐怖の体験 「まむしを手づかみ!」

2007年08月15日 | 思い出
自分でも信じられない恐怖体験をしました。

帰省中のことです。

朝7時過ぎに、家の周りを掃除をしていたときのことです。
階段の掃除を終わり、家の方に上がりかけていたとき、階段の横の溝に落ち葉と小枝が固まって残っていることに気付き、拾い上げて捨てようとしたのです。



拾い上げた瞬間、葉っぱや小枝にはありえない冷たい「ぬるっ」とした感じがあり、そのゴミを思わず投げ捨てました。すると茶色い蛇がその中に居たのです。それも頭が三角のマムシだったのです。目を離すと逃げられると思い、大声で家族を呼びましたが聞こえないのか誰も出てきません。

仕方なく覚悟して殺そうと思いました。逃がしたあといつ出てくるかの恐怖よりも、殺して安心したかったのです。

前日も一匹出てきて、母親が処分したそうです。マムシは2匹一緒に居るそうで、母親が心配していた通りもう一匹が居たのです。

よく噛まれなかったものです。

近くの丸太で頭を潰しました。
お盆に殺生をしたわけですが、マムシですから許してもらえるでしょう。

爬虫類の大嫌いな私が、マムシを手づかみしたことを今思い出してもぞっとして、身震いします。

ふるさとではマムシのことを「ハミ(噛む?、食べる?)」と呼びます。

動物が何でも居る田舎の「八つ墓村」ですが、「たたり」より怖い今年の体験です。
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30年ぶりの再会

2007年07月16日 | 思い出
台風の雨の中、広島県呉市から珍しい人が東京の私を訪ねてくれました。

30年前 お世話になった販売店の社長です。

私の新入社員の赴任地が広島でした。
何にもわからない新入社員が特約店に連れられて、販売店に同行していました。
ようやく慣れてきたころの話です。

呉市で兄弟で経営していた販売店の弟が、将来を考えて独立したのです。

流通の常として、どんなに円満退社であろうとも顧客の奪い合いになることは必至です。
両方に均等に付き合うことの難しさは新入社員に毛の生えた程度の私には、荷の重いことでした。

独立間もない販売店の自宅にお邪魔して、よく食事をさせてもらいました。
奥さんや義理のお父さんの熱意が伝わってきたのを覚えています。

私の出した東京に転居の案内状を見て、急に会いたくなったそうです。
年賀状は出し続けていましたので所在は意識していましたが、新幹線で台風の中、そのためだけに上京してくれたのです。

非常にうれしい想いで、恵比寿のガーデンプレースでビールを飲んだあと、単身のマンションにおいでいただき夜中まで話しました。当時の先輩にも連絡を取り、同窓会の雰囲気です。

友人でなく、メーカーと販売店のお客様の関係で、独立の支援ができるベテランでもない私を良く覚えていて、会いにきてくれた社長(頭が白くなっていましたが)の義理堅さに驚くと同時に、懐かしさで、大雨の中幸せな一日でした。

(写真はお土産にいただいた呉の饅頭とチリメン)
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「熊」社会  北海道にて

2007年06月26日 | 思い出
先週末 北海道の登別の近くの「熊牧場」を訪ねました。

ロープウェイを上ること10分で着きます。
多くの熊がいくつかのグループにわけられ、5メートルほど低い飼育場を、歩き回っています。

がっかりしたのは、熊が人間に媚びている姿を見たからです。
観光客が売店で100円で売っているお菓子を熊にやるのですが、どうすれば人間が自分にえさをくれるのかを知っているのです。

人間のように座ったり、立ち上がって手をたたいたり、大きく口を開け注意を引く術を披露するのです。
なんだか悲しくなりました。
ボス熊が歩くと、逃げる熊、擦り寄る若い熊、なんだか人間社会を感じさせます。

飼育係の人に聞くと、オスどうしのけんかはまさに力の社会でわかりやすいのだそうですが、メスのけんかは周りを巻き込んで複雑なのだそうです。母性本能からくるらしいのです。

猛獣を感じさせたのは、若い熊同士のけんかでした。その声はまさにヒグマらしく、迫力満点でした。牙をむく姿になんだかほっとしました。

長い年月培われた本性がそんなに簡単に変わるとは思えません。ということは熊は人間を熟知し、見透かした上で行動しているのでしょう。賢いのです。
生まれたときから人間の中にいると、自分も人間と思っているのかも知れません。
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少年時代 「いじめと待ち伏せと謹慎処分」

2007年01月11日 | 思い出
50年前の小学校時代を良く覚えています。

 団塊世代を含みながら全学年でも150人くらいの小さな田舎の学校でした。1学年1クラスで私のクラスは28人でした。その小学校の5~6年生時代に、いじめられた記憶があります。何人かに押さえつけられ、つばを吐きかけられ、くやし涙でよく見えない教室の雑巾がけをしました。

 そのシーンは、記憶の中では「モノクロ」ですが鮮明によみがえります。

 中学校時代は、高校生の待ち伏せです。

 自宅へ帰る道は、山道含め3本でした。その分岐点の手前に待っていました。
高校生数人が相手でしたから、勝てるわけがありません。

 数日後 高校生が校長先生と謝りに来て、親の知るところとなりました。
不思議と殴られたシーンの記憶がないのです。その前後は良く覚えているのに。

 高校3年の時、謹慎処分を受けました。

 授業直前に派手なけんかをして、相手が鼻血を出しました。
周囲は大騒ぎでした。教室の前の廊下でしたから。
大学の受験の年ですから、内申書への記載があるかどうか気になりました。
何日間か保健室で反省文を書いた記憶があります。数日の謹慎だったと思います。

 SNSのmixiでこのとき喧嘩した相手の息子さんから、「親父がよろしく言ってます、会いたいそうです」とメッセージがあったのには驚きました。mixi登録は本名ですから連絡してくれたのでしょう。

昔は徒党を組むのが嫌いでした。
冷静にみればカッコをつけていたのです。
大学時代は、音楽三昧で短気がわざわいしませんでしたが、社会人になってこの短気さで失敗をするのです。

 (社会人編は後日)

(画像の校舎は  ながのフィルムコミッションより
  http://www.nagano-fc.org/locationlib.php?cat=school)
コメント (2)
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