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『日本語文法の謎を解く』

2015年05月14日 | 評論
金谷武洋『日本語文法の謎を解く』(ちくま新書383、2003年)

以前この著者の本で『日本語に主語はいらない』を読んで感銘を受けた。長くカナダのフランス語圏の大学で日本語を教えてきた経験から、日本の学校で使用されている文法―明治初期に大槻が英語文法をもとにして作ったもので、日本語に真の姿を捉えていない、したがって外国人教育にはまったく使用できない―を批判しつつ、新しい日本語文法の大本を、英語文法との比較から解き明かそうとしたのが、本書である。実に興味深い。

著者は、この本の副題にもなっているが、日本語と英語の違いは、「ある」言語と「する」言語の違いだと考えており、それを第一章で発送の違いから生じた、基本文が日本語は三つ、それらすべてが「ある」の形になっていること、他方英語の方は基本文が5つ、すべて主語が「する」文になっていることをしめして、読者を驚かせる。

第二章では、主語をとりあげ、そもそも日本語には「行為者が不在」の文が多いこと、したがって主語はいらないとして、日本語の構造を理解するために盆栽型を提案する。「象は鼻が長い」という文で見れば、この文の基本形は「長い」であり、「象は」は主題提示―「は」は主語ではなくて、主題を提示するという説明が、実に的を得ている―、「鼻が」は補語だということになる。つまり「長い」という基本形の斜め上に「象は」と「鼻が」が盆栽のように乗っかっている形だ。またこれまで行われてきた総主論争、ウナギ文論争、こんにゃく文論争は、すべて擬似論争であって、前提が間違っており、意味のない論争だったと喝破する。

第三章では、日本語と英語の違いを空間と人間としてとらえ、日本語は自然中心主義、英語は人間中心主義だという。日本語の助詞「てにをは」も「こそあど」もすべて空間を示すものであり、それが名前にも身体の言葉にも出ているという。たとえば目、歯、鼻、耳などは植物の芽、葉、花、実から来ているという。古来日本人は人間の身体も自然の一部だという認識があったことを示している。

第四章では、過去形「…した」や「do, did」などを取り上げて、日本語の過去形はすべて「ある」の変形であること、他方、英語では、doの機能が肥大化して、なんでもdoを使って表そうとする、つまり「する」が重要な機能をもつ言語であることを説明している。

第五章では、受け身と使役における同じ相違を説明しているが、私は、だんだん飽きてきて、すっ飛ばしてしまったので、興味ある人は読んでみるといい。

このような新しい日本語文法を提唱する人はまだまだ少数派らしいのだが、はやくきちんとした日本語文法を作って本にしてくれたら、まず日本語と英語やフランス語などの人間中心主義的言語との違いを認識することから始められるし、そうすれば、英語がなかなか理解できないという劣等感にさいなまれなくてすむことになるのではないだろうか。

それ以上に、私が興味を持っているのは、日本語は、明治以降の先人たちの努力によって、外来文化を輸入消化して、そうした高度な概念を日本語で表現することができる言語に鍛えられてきた。その結果、あらゆる分野で日本語で論文を書いて表現できる、あるいは小説や詩を書くことができる高度な言語になった。それは日本語が上のような、英語とはまったく異なった特徴をもつことと関係があるのか、ないのか、その点である。

明治以降の先人たちは日本語を豊かにしてきたのか、それとも西洋風に歪めてきたのか、興味深いところだ。

この著者の本は以前にも読んでブログで書いてきたので、リストをつくろうとしたら、なんとこの本を2007年にも読んで書いているではないか。再読だということにまったく気がつかなかった。なんといういい加減な記憶力!

以前のブログ
金谷武洋「主語を抹殺した男 評伝三上章』(講談社、2006年)
金谷武洋『日本語文法の謎を解く』(ちくま新書383、2003年)
金谷武洋『日本語に主語はいらない』(講談社選書メチエ230、2002年)

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