読書な日々

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「日本語文法の謎を解く」

2007年02月05日 | 人文科学系
金谷武洋『日本語文法の謎を解く』(ちくま新書383、2003年)

日本語には主語が必要ないという刺激的な、同じ著者の日本語文法論を読んだので、ちょっと上さんに、「日本語って主語がいらないんだって話知っている?」と尋ねてみたところ、知らないという返事だったので、自慢そうにこの著者の書いていることを紹介した。するとさも感心したように、「それで○○ちゃんに上手く「は」と「が」の違いを説明できなかったのね」と言うのだ。

うちの上さんは障害児学級の担当なので、いろんな障害をもった子を見ているのだが、家族が全員(祖父母も両親も)聴覚に障害があって、言葉が話せない子に、助詞を教えるのが難しいというのだ。この子は全ての会話を手話でやっているのだが、手話には助詞がないらしい。「私」「家」「行く」という三つの単語を手話で示すことで、「私は家に行く」という意味を表すらしい。手話は母語のようなものなので、この子にはなんの問題もないのだが、問題はこの子に文章を書かせるときに、「て、に、を、は、が」の「は」と「が」を教えるのに難儀しているということなのだ。

この違いは、この本でも取り上げているように、通常の学校文法では初めての情報と既知の情報の違いだなどと説明されているのだが、もちろんそんな説明では説明できない文章がやまとある。それでうちの上さんなんかも上の学校文法式の説明をしているのだが、実際にこの子が書いている文章には上の説明とは違っていても、日本語として正しい場合があり、「こうも言えるよね」ということになってしまい、困っているらしい。

日本語には主語はいらないし、よく使う「は」は主語ではなくて主題を表すのだと、私がちょっと自慢げに話すと、「なるほど、そうか」といたく感心してくれたのであった。

この子は会話では手話ができるから問題なのだのだが、文章を書くときに、助詞の使い方が分かっていないと、適切な日本語の文章を書けるようにならない。それはちょうど日本語を勉強している外国人が助詞を習得しなければならないのと同じ状態だろうと思うのだ。

このあたりのことは前に読んだ本にも触れられていたことだが、この本で面白かったのは、自然の見方にたいする違いが苗字とか自然物の名前とかなどに現れてくることだ。日本人の苗字には自然物に由来するものが多いし、アメリカ人は出自、つまり職業などに由来するもの、だれそれの息子という意味からくるものなどが多いということだ。それは日本人が「ある」という言い方を好んですることにも現れているらしい。日本語では主語がいらないのは、○○が「ある」という言い方をするからだということだ。自然中心主義的な発想というわけだが、それに対して英語は人間中心主義的な発想だといういうことだ。

よく外国語を教えるのにテクニックだけでなく文化も教えるとかいうが、そんな簡単なことではないと常日頃思っていた。現に日本語のそうした文化的土台を教えるといったって、この人がこうやってこの本で紹介するまで知られていなかったのだから、そんなこと無理だよということだ。簡単にテクニックだけでなく...なんて言わないでほしいものだ。

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