読書な日々

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『フランス新・男と女』

2009年05月13日 | 評論
ミュリエル・ジョリヴェ『フランス新・男と女』(平凡新書、2001年)

前に書評を書いた浅野素女の『フランス家庭事情』(1995年)を読んだある大学の教員(たぶんフランス語などを教えている教員)がフランスの男女関係はこんなにも乱れているか、ショックだと話したことがきっかけの一つとなって書かれた本だということらしい。この著者は上智大学でフランス語教員をしているので、この本の中にも東京に住んでいるフランス人のインタビューなどが掲載されているのは、そういうわけである。

日本の若者たちが就職をして社会人となってから恋愛をしたら、一般的にどのような過程を経るかといえば、デートを重ねて相手が気に入ったら、何割かは同棲を始めるが、そうでなくても数年して結婚するというのが一般的だろう。もしまだ結婚する決心がついていなくても、妊娠したら、いわゆるできちゃった婚というかたちで結婚するのが普通だ。つまり日本の場合は、恋愛の最終的なゴールは結婚である。もちろん数十年前のように、結婚神話のようなものはなくなったとはいっても、やはり女性の幸せは結婚みたいな考えは根強い。

だがフランスでは恋愛から同棲という過程は同じでも、そこから結婚に進む割合は非常に少ない。そもそも結婚率が1970年から2000年のあいだに4分の3くらいに減っている。つまり結婚という法的形をとらない未婚のカップルが非常に多いということだ。2000年には1500万組のカップルのうち未婚のカップルは200万組あるそうだ。また子どもができたから結婚に進む割合も非常に少ないので、未婚のままで子どもを生む人が多い。2007年には新生児のうち未婚の母親から生まれた子どもが5割を超えたらしい。だからといってこの未婚の母親は不倫をしていたわけではなくて、たんに相手と結婚という法的な形をとっていないだけで、実質的な夫であることには変わりないのだ。ちなみに日本はわずかに2%である。

なぜこんなに法的な結婚という形をとらないカップルが多いのか。この本でもいろいろなことが書かれているが、二三まとめてみる。結婚というものを男女関係の理想形とはみなしていないということがある。とくに1975年に協議離婚法ができて、それまでは死別や行方不明などの特殊な場合でないと離婚が認められなかったのが、双方の協議で離婚できるようになったために、いまの若者たちの親の世代に離婚が増えたということがある。話し合いといってもやはり離婚というのはたいへんな心的エネルギーを使うし、精神的なダメージも大きい。両親のそうした姿を見てきたので、自分はそういうことをしたくないという反省があるからだ。ちなみに1970年から2000年にかけての離婚率は日本でも増えたとはいえ2倍であるのに、フランスでは3.27倍に増えた。

フランスではどうしてこんなに未婚の母親から生まれる子ども(けっして片親の子どもということではないので注意)が多いのか、離婚が多いのかということも疑問である。その一つに1998年にパックス法というものができて、結婚していないカップルでも、相続税・贈与税の控除が認められる、税の共同申告によって税が軽減される、転勤の不都合がないなど結婚しているカップルと同等の権利が認められるようになった(といっても実際には内縁関係のカップルの場合は以前からそうであった)上に、一方が解消したければすぐに解消できるし、離婚ほどの法的手続き、慰謝料などがいらないというメリットもある。

さらに子どものことでいえば、嫡出子であろうと非嫡出子であろうと同等の扱いがされるし、子育て支援の政策が充実しているので、未婚の母親が子どもを出産することに、ほとんど抵抗感がないようだ。そもそもフランスはカトリックの国で中絶がきびしく禁じられていたこともあり(このあたりの事情はアニー・エルノーの『出来事』が自分の体験を克明に描いている)、はやくからピルが普及し(女性の5割はピルを常用している)、幼稚園保育園も長時間充実しているし、二人目からは家族手当がでるし、育児休暇中も毎月7万円の手当てが3年間でる(日本はない)。

だからといって子どもを育てながら働く女性にとってバラ色の社会というわけではない。女性の就労率が80%(日本は60%)とヨーロッパ随一を誇っているが、北欧にくらべると社会における女性の地位は低く、家庭でも育児や家事の重要部分が母親の肩にかかっていることからくるストレスが強いそうである。だから、未婚という形で好きな男性と好きな期間一緒に暮らしたいが、子どもを作ることに抵抗感がある女性もいる。

結婚という形が永遠のものである必要はないとこの著者も書いている。たしかに愛情が何十年も続くというような人はまれだろう。もしそれが真実なら、それでも一緒に住んでいるのは、なぜ?と考えてみる必要がある。愛情からではなく、生活のため? 習慣のため? 老後のため? それらがすべて別の形で解消されたら、それでも一緒に暮らす必要があるのかどうか。社会とともに結婚という形も変わっていくのが当然だろう。

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