村上龍『半島を出よ』(幻冬舎、2005年)
こんなすごい小説があるとは知らなかった。村上春樹と比べるというのも変だけど、村上春樹のメタファーだらけのわけの分らない小説なんか、めじゃない。小説という表現媒体の最高傑作だろうと思う。
もちろん映画だって可能だろうが、現在の映画表現では、ここで描かれているような戦争による死の残酷で無残な姿は描けないだろう。スピルバーグの『プライベートライアン』もたしかにすごかったが、たぶん戦争における死のむごたらしさの半分も表現していないと思う。村上龍がこの小説で描いた戦争における死の実像は、映像で本当に表現したら、あまりにむごたらしすぎて、直視できないにちがいない。したがって映画館での上映という、どんな映像が映し出されるかということを何も知らないで足を運んできた不特定多数の人間に見せることができない。しかし小説なら、どんなにリアルな描写も文字という媒体を経るので、ストレートというわけにはいかない。逆に言えば、ストレートに書いてもいいわけだ。でもだれもそんなことを考えなかったにちがいない。こんなストレートな描写は読んだことがない。しかしここに描かれているものこそ、戦争における死の真の姿だろう。あるいはもっとむごたらしいかもしれない。
この小説のすごさは、これだけではなく、北朝鮮の自称反乱軍が福岡を制圧して、武力的に福岡を日本から独立させるが、日本政府をはじめとして、どの国の政府もそれを阻止できないという、現在の日本の現実に即して村上龍が作り上げた仮想現実のすごさでもある。よくまあこんなことを思いついたなと感心するだけではなく、それを小説によってリアルに描き出すために、怖ろしいまでの調査が行われ、現実にもとづいて構想されていることに驚く。たしかにありそうなことだし、もし現実に起きたとしたら、同じような経緯をたどるほかないだろうと思わせる。無能力な日本政府の右往左往が目に見える。しかもそれが2011年という近未来として描かれているのが不気味だ。
今年起きた金融恐慌を思わせる世界経済の失速によってドルの権威の失墜から一時期円高に続く円安によって起きた不況とインフレの同時進行によって預金封鎖がおこなわれるとか、それによって民主党と自民党の保守派の合同によってできた緑の党が政権をとるなんて、本当に今後起こりそうではないか。
多数の脱北者から聞き取りをしたというだけあって、福岡に乗り込んでくる北朝鮮の特殊戦部隊の人間たちの描き方もリアルで、その生い立ちとか生活をリアルに作り上げることで、北朝鮮の特殊戦部隊というのっぺらぼうな姿ではなく、一人の人間として描かれている。だからといって私は彼らに共感をもつことはなかったが、彼らも人間であることには違いないのだろう。食べるものが何もなくて子どもを死なせてしまったという女性兵士の話が今の北朝鮮の現実なのだろう。
まもなく12万人の反乱兵士たちが福岡にやってくるという直前にこの危機を回避させ、日本を救ったのは、社会から異常者として扱われてきた若者たちだったという造りも興味深い。彼らの多くは子ども時代に殺人を犯した「異常者」であり多数によって威嚇され強圧され排除されてきた少数者だったということをどんな風に理解したらいいのか、まだ私には分らない。彼らこそ日本を救った英雄だ、彼らのようになりなさい、とだれも子どもに教えるものはないだろう。だが、彼らが日本を救ったのはたしかなのだ。だからといって社会が彼らを受け入れるかというとそんなことはないだろう。日本存亡の危機にさいして、「英雄」とか「普通」の日本人の中からは日本を救う人間が出てこなかったということ、まさにこれこそ現代日本の矛盾の一つではないだろうか。
この小説こそ外国語に翻訳されて世界中の人々に読まれるべきだ。日本にはこんなすごい作家がいるのだということを知らしめてほしい。
こんなすごい小説があるとは知らなかった。村上春樹と比べるというのも変だけど、村上春樹のメタファーだらけのわけの分らない小説なんか、めじゃない。小説という表現媒体の最高傑作だろうと思う。
もちろん映画だって可能だろうが、現在の映画表現では、ここで描かれているような戦争による死の残酷で無残な姿は描けないだろう。スピルバーグの『プライベートライアン』もたしかにすごかったが、たぶん戦争における死のむごたらしさの半分も表現していないと思う。村上龍がこの小説で描いた戦争における死の実像は、映像で本当に表現したら、あまりにむごたらしすぎて、直視できないにちがいない。したがって映画館での上映という、どんな映像が映し出されるかということを何も知らないで足を運んできた不特定多数の人間に見せることができない。しかし小説なら、どんなにリアルな描写も文字という媒体を経るので、ストレートというわけにはいかない。逆に言えば、ストレートに書いてもいいわけだ。でもだれもそんなことを考えなかったにちがいない。こんなストレートな描写は読んだことがない。しかしここに描かれているものこそ、戦争における死の真の姿だろう。あるいはもっとむごたらしいかもしれない。
この小説のすごさは、これだけではなく、北朝鮮の自称反乱軍が福岡を制圧して、武力的に福岡を日本から独立させるが、日本政府をはじめとして、どの国の政府もそれを阻止できないという、現在の日本の現実に即して村上龍が作り上げた仮想現実のすごさでもある。よくまあこんなことを思いついたなと感心するだけではなく、それを小説によってリアルに描き出すために、怖ろしいまでの調査が行われ、現実にもとづいて構想されていることに驚く。たしかにありそうなことだし、もし現実に起きたとしたら、同じような経緯をたどるほかないだろうと思わせる。無能力な日本政府の右往左往が目に見える。しかもそれが2011年という近未来として描かれているのが不気味だ。
今年起きた金融恐慌を思わせる世界経済の失速によってドルの権威の失墜から一時期円高に続く円安によって起きた不況とインフレの同時進行によって預金封鎖がおこなわれるとか、それによって民主党と自民党の保守派の合同によってできた緑の党が政権をとるなんて、本当に今後起こりそうではないか。
多数の脱北者から聞き取りをしたというだけあって、福岡に乗り込んでくる北朝鮮の特殊戦部隊の人間たちの描き方もリアルで、その生い立ちとか生活をリアルに作り上げることで、北朝鮮の特殊戦部隊というのっぺらぼうな姿ではなく、一人の人間として描かれている。だからといって私は彼らに共感をもつことはなかったが、彼らも人間であることには違いないのだろう。食べるものが何もなくて子どもを死なせてしまったという女性兵士の話が今の北朝鮮の現実なのだろう。
まもなく12万人の反乱兵士たちが福岡にやってくるという直前にこの危機を回避させ、日本を救ったのは、社会から異常者として扱われてきた若者たちだったという造りも興味深い。彼らの多くは子ども時代に殺人を犯した「異常者」であり多数によって威嚇され強圧され排除されてきた少数者だったということをどんな風に理解したらいいのか、まだ私には分らない。彼らこそ日本を救った英雄だ、彼らのようになりなさい、とだれも子どもに教えるものはないだろう。だが、彼らが日本を救ったのはたしかなのだ。だからといって社会が彼らを受け入れるかというとそんなことはないだろう。日本存亡の危機にさいして、「英雄」とか「普通」の日本人の中からは日本を救う人間が出てこなかったということ、まさにこれこそ現代日本の矛盾の一つではないだろうか。
この小説こそ外国語に翻訳されて世界中の人々に読まれるべきだ。日本にはこんなすごい作家がいるのだということを知らしめてほしい。