仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

五輪の塔

2019年10月21日 | 親鸞聖人
法事の合間、車の中で『バッシング論』を開くと、以前読んだことのある内容。検索で「仏教を楽しむ バッシング論」を入れると、案の定、以前、2回にわたって、この本を紹介していました。こうしたことは、半年に一度くらいあります。

明日、車で上越市に行く予定でしたが、本日、長岡まで新幹線で行って、明日、レンタカーで上越に入ることになりました。員弁(いなべ)組で仏婦結成50周年記念で、明日、恵信尼の里で法話、明後日、お朝事と午前の記念法要(国府別院)での法話を依頼されているからです。上越まで新幹線で往けば簡単なのですが、長野ー上越間の新幹線が不通で、上信高速道も長野の手前あたりが不通。長野駅でレンタカーと思いましたが、だれも考えることは同じで満車。それで新潟県長岡周りとなったわけです。

恵信尼の里の恵信尼公の五輪の塔の前での法話の最初の部分です。

大正10年に京都西本願寺から恵信の手紙が10通発見され、恵信尼没が87歳の3月12日付書状が最後。83歳のお手紙に「生きている間にと思って、七尺(しちしゃく)の五重の石塔を造るように頼んでいたところ、まもなくできあがるというしらせがありました。」とあります。

1956(昭和31)年、板倉町の水田の中に「比丘尼墓」と呼び伝えられる五輪塔が発見され、翌年、本願寺の勧学であり梅原真隆師が、富山大学の学長としての赴任したのを機会に調査し、恵信尼消息第8通「五重に候う塔」とある恵信尼公の墓に違いないと、恵信尼公由来の寿塔と断定しました。
 昭和38年に西本願寺がこの五輪の塔を恵信尼の寿塔と認め現在に至っているのが、この五輪の塔です。以下省略
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私の趣味

2019年10月20日 | 日記
勉強会で「西原さんは、何を基準に本を選んでいるのですか」と訊ねられました。私のブログを見ていての興味です。これといった基準にはないんですが、毎月柏市の図書館が購入した本を大方検索して、面白そうな本があればリクエストして落掌する。それと仏教関係の本は、図書館の検索に「仏教」「法蔵館」「親鸞」などの文字を打ち込んで、出てきた一覧の中から興味深い本をリクエストします。また、『自尊心という病』『「健康」という病』『一億総ガキ社会 「成熟拒否」という病』『許せないという病』『「健康」という病』といった社会が持っている闇を啓発した本や、新聞に掲載されたコラムや評論で興味深い人がいれば、その人の名を図書館の検索にかけてリクエストします。

ちなみに一昨日借りてきた本は、『暴走する能力主義 ―教育と現代社会の病理』(ちくま新書・2018/6/6・中村 高康著) 、『現代の自殺―追いつめられた死:社会病理学的研究』(2017/11/23・ 石濱 照子著)、『バッシング論』 (新潮新書・2019/6/14・先崎 彰容著) 、『あなたの葬送は誰がしてくれるのか―激変する供養のカタチ』(2017/3・内藤 理恵子著) 『母という病』『十万人が愛した言葉』『人口減少寺院の底力―地方紙記者のインパクトルポ』(桜井 邦彦著)です。

その中の『十万人が愛した言葉』は、「致知出版」で検索をかけて、その中から選んだ本です。順次紹介します。
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仏力―生活仏教のダイナミズム

2019年10月19日 | セレモニー
古い本(2004/10)ですが『仏力―生活仏教のダイナミズム』(佐々木 宏幹著)を図書館から借りてきました。著者は、駒沢大学名誉教授で曹洞宗の方で、宗教人類学・宗教文化論の研究者です。
目次は下記の如くですが、多岐に亘っています。

第1章 日本人と仏教―「教理」と「民俗」のはざまで
第2章 本山・本尊・先祖信仰
第3章 「仏」と「ほとけ」と「ホトケ」
第4章 盂蘭盆会と彼岸会
第5章 日本人の宗教意識
第6章 仏教僧侶とその役割
第7章 生活仏教とは
第8章 宗教的ダイナミズム考
おわりに 日本人が「無宗教」というのは本当か

「第7章 生活仏教とは」に「2葬祭と生活仏教」とあり、平成11年(1999)4月から、曹洞宗総合研究センターで「葬祭問題」について4年をかけて研究・調査を行い、平成15年3月末に『葬祭-現代的意義と課題-』としてまとめた記事が掲載されていました。抜粋して紹介します。

「序文」において奈良康明総研所長が述べているとおりである。
 
その要点を私なりに整理して示すと、⑴仏教各教団共通の問題の一つは、葬祭が宗学のなかに位置づけられていないことである、⑵葬祭は元来民俗信仰としてあったものを仏教が取りあげて仏教的世界観の上に独自の儀礼を構築したものだ、⑶したがって両者の間に種々の融合、並列、重層化などの「文化変容」が生じた、⑷葬祭には仏教と民俗双方の要素が分かちがたく混融しており、これを宗学、仏教学だけで理解し、意味づけようとしても難しい、⑸葬祭は仏教と民俗の多種多様な諸観念や慣行が複合して成立しているのであるから、「仏教教理」としてではなく、「仏教文化」として理解し、研究すべきである、ということになろう。
  
⑴ 葬祭を仏教の教義・理念と民俗・慣行との「宗教複合(体)」として理解することを意味する。応用宗教(仏教)学的なアプローチが要請されているのである。
⑵ 「民俗から宗旨へ」あるいは「宗教複合(体)を踏まえて教義・理念へ」という方向性が重視されることになった。宗学も現場も葬祭を「民俗(現実)から宗旨(理念)へ」という方向において捉えていなかったからではないか。
 
「今後解決されるべき課題」は、①宗門の葬祭は死者を出家者として葬送する「没後作僧」として意味づけられ、「授戒」が儀礼の中心になっている。この授戒は死者にとってのみ意味があるのではなく、生者にとってことさらに大きな意味をもつ。現代において「戒」とは何か。この問題は僧俗双方にとって解決を迫られている。② 日本各地には地域特有の葬祭習俗・慣行かおる。それらは近代化により変化を示しているとはいえ、なお民俗文化として生きている。中央で研究する際には、この「地域牲」を十分に考慮しないとその成果は役立たないものとなる怖れがある。
 ③葬祭は死者にたいする儀礼的働きかけである。死者は「霊」、「魂」、「ほとけ(仏)」、「先祖」などと呼ばれてきた。ところが今日、死者の意味づけが明確にできなくなってきている。
このため最近では、葬祭は死者のためにではなく、生者のために行うのだという説明が宗教者(僧侶)を含めて増えてきた。はたしてこういう知的・合理的な説明でよいのだろうか。現代において「死者のイメージ」(意味づけ)をいかに構築するか、急がれる課題である。
 ④全国規模の都市化現象のなかで、葬祭は家・同族の行事から家族の行事へ、さらに個人の行事へと変化している。都市においては伝統的な「家-先祖」型の死者の扱いが困難になってきている。こうした社会状況をよく踏まえて葬祭の議論をして欲しい。
⑤終末期医療(ターミナルーケア)が大きな問題になっている。死を間近かにした患者にたいして安心を与えるにはどうすべきか。(以下省略)

葬儀以外の内容は多岐に亘っており、寺院活動では、各寺からでている寺報を解析して、寺院の活動内容の分析をしています。

 医療の現場からは、死の準備教育・悲嘆のケア、心のケアが不足しているので、宗教家に
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宗教の本質

2019年10月18日 | 浄土真宗とは?
数日前に引用した『宗教の授業』に「宗教の本質」という章があり、そこからの転載です。


問われているのは、自分の身体や心理や性格のことではない。知性とか意志とか感情といった精神的なものでさえ、なお本当の自己ではない。そういうものはなお、自己にとって外なるもの、自己とは別ものである。そういう種々のものを衣のように身につけている当の自己そのものの正体は何か。それは、われわれに対して最も深く隠されているものである。そういう裸の自己は、われわれの自力によっては決して知ることのできないものだとも言える。
それにもかかわらず、そういう自己の正体を見つけないことには、われわれの自己は決着しないのである。
 宗教とは人間を超えた神もしくは仏に人間が救われる途だと言ってもよいが、その救済とは自己が本当の自己に出遇うことに他ならない。そういう意味での宗教なしには、われわれはこの宇宙の中を空しくさ迷うはかないのである。(以上)

「救済とは自己が本当の自己に出遇うこと」納得です。
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私たちのちかい

2019年10月17日 | 都市開教
昨16日(2019.10)は、年に三回開催していている成 照星師の勉強会。朝9時30分から17時30分まで。『阿弥陀経』と『仏説観無量寿経』を終えて、現在は『無量寿経』を学習しています。講義の中で、本願寺のご門主が御親教で示された「私たちのちかい」が話題となりました。結論は「仏さまのように」が宗義に合わないということです。ご門主がご教示されると、だれも物が言えないという宗門の体質も問題があります。

布教団で「私たちのちかい」をテーマにした法話会を開催して、どのような法話が可能か。実践してみることも興味深い、などなどの話でした。

実際に私はまだ依頼を受けたことがありませんが、浄土真宗は「仏さまの様になれない人の救い」の話と「私たちのちかい」とをどう整合性を取って法話が出来るか、可能性としても興味深いものがあります。

私たちのちかい

一、自分の殻(から)に閉じこもることなく
  穏(おだ)やかな顔と優しい言葉を大切にします
  微笑(ほほえ)み語りかける仏さまのように

一、むさぼり、いかり、おろかさに流されず
  しなやかな心と振る舞いを心がけます
  心安らかな仏さまのように

一、自分だけを大事にすることなく
  人と喜びや悲しみを分かち合います
  慈悲(じひ)に満ちみちた仏さまのように

一、生かされていることに気づき
  日々に精一杯(せいいっぱい)つとめます
  人びとの救いに尽くす仏さまのように
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