仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

文化としてのマナー

2015年12月16日 | 日記
このたび出版しました拙著『お坊さんの常識』は、主にお坊さんの手紙の書き方を書いています。

マナーというのは、時と共に移り変わるので、割り切ってマナー違反をすることがあります。『文化としてのマナーー日本の50年 日本の200年』(熊倉功夫著・岩波書店)という本があります。20年位前に出版され,
最近再販されているので、それなりに売れているのかも知れません。

その本の中に多く戦前の礼法書である『礼法要項』を取り上げています。礼法教育の 国家基準ともいえる書で『礼法要項』(文部. 時報第 720 号(昭和 16 年 4 月 )を、ネットのライブラリ―で公開されています。..
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1450195

また徳川 義親(とくがわ よしちか・1886年10月5日 - 1976年9月5日)という人は、は、『礼法要項』をより簡素化を計ろうとした人らしく、徳川 義親の言葉も紹介されています。

その中に次のような文章があります。(文化としてのマナーより転載)

 妻が他人に向って夫のことを話すには、普通には「主人」「たく」などが用ゐられてゐる。併し改った場合或は目上の人に対しては「山田がどう致しました」といふやうに姓を言ふのがよい。又舅・姑など目上の家族に対しては、「二郎」だとか「三郎」だとか名前を呼び捨てにするのが本当である。
 ところがこういふ例があった。お嫁さんがお舅さんに自分の夫のことを呼び捨てにして「太郎がこう申しました」といったところが、お舅さんが怒って「自分の大事な息子を嫁ともあらう者が呼捨てにするとは何事だ」とカンカンになったといふのである。この場合は、言葉遣ひからいへば、親に対して夫を呼捨てにしたお嫁さんに間違ひはないわけだが、たゞ手落が一つあった。それはお嫁さんが婚家の家風に気が付かなかったことである。お舅さんがものを知らないといふことに気ずかなかったのは、やはりお嫁さんの過ちである。
これはお舅さんの方がものを知らず、お嫁さんの方が正しい教育を受けたのだけれども、お男さんの物知らずに気付かなかったことは、お嫁さんの手落だといはねばならぬ。(以上)

私の感覚では、現在は姑に対して夫を「○○さん」というのが常識になっています。

また次のことは、現在まったくも逆です。

(続く)
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西本願寺の時間

2015年12月15日 | 都市開教
「西本願寺の時間」という西本願寺が提供しているラジオの宗教番組があります。関東では文化放送が日曜朝5時10分から放送しています。

昨日、来年2月4回分を。本願寺で収録しました。2014年8月からジャズボーカリスト徂徠真弓(そらいまゆみ)がパーソナリティーで、九条武子さんのことや都市開教のことを話してきました。

丁度、日曜から気管支をやられて、打ち合わせをしている間に、声がかれてきました。滑舌も悪く、放送は聴かないでおこうと思っています。

ジャズボーカリスト徂徠真弓のことは、2015年4月30日、京セラDOME大阪でオリックス・バファローズVS東北楽天ゴールデンイーグルスの始球式に【国歌独唱】しています。朝、その動画を見ていったので、出来栄えを聴いてみました。

「独特の緊張で、半分も実力が出瀬なかった」と言われました。先ほども
ネットで聴いてみましたが、何度も聴くのが心苦しく思いました。朝聴いた時は、そのようなことは思わなかったのですが、ご本にも「緊張して腹式呼吸がしっかりできていない」と言われました。

場数を踏み、どのような会場でもリラックスして声を出せつことが大事だとも言っておられました。

私は、これから医者に行って、気管支治療の薬をもらってきます。

写真は、スタジオで徂徠真弓とツーショット、私はこんなに太ってかと反省しました。いや風邪熱のせいで、体がむくんでいるのかも知れません。
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浄土真宗の水平思考

2015年12月14日 | 浄土真宗とは?
作家の藤本義一(ふじもと ぎいち・平成二十四年寂)さんの信仰は浄土真宗かどうか定かでありませんが『歎異抄に学ぶ人生の知恵』 (PHP文庫・2008/1/7)の執筆があり、浄土真宗に親しいようです。

その藤本さんは『大阪人と日本人』(PHP文庫)を執筆されており、その本の中に“浄土真宗の水平思考であり、これが大阪人の気質である”という文言があります。すこしその本から抜粋してみます。

神道とは本来素朴なもので、高い山、深い森、大きな岩、深山幽谷の滝、などの自然の神々しく感じられるものを、人間たちが氏神的に奉り扞んでいたのである。…何事も神さまのおぼしめし、神さまのご選択次第で、上意下達の一方通行的である。何しろ相手は神さまなのだから逆らうわけにはいかない。この垂直的ともいえる信仰型態は、日本人にとってすんなりと受け容れやすい。

… ところが、親鸞はこうした仏教界のあり方を真っ向から否定し、人間は誰しも平等であると説いた。そして、特別な修行をしたり出家しなくても、「南無阿弥陀仏」を唱え仏にすがれば、仏の方から済って下さると説いた。いわゆる他力本願である。
 彼は、自分の教えを信じてくれる者を御同朋と呼び、同じ位置に立つ仲間のようにみなした。この平等観は、一方で世俗的な絶対権力者や、それによる圧政をも否これによって多くの庶民が済われたから、ある意味での人間解放であった。…浄土真宗の教えは、科学的であるのと同時に合理的で、極めて近代性に富んでいた。この教えが様々に変型して大阪に根づくことになる。
 大阪人の特性である、形式主義や建て前論を嫌い、合理主義や本音を尊ぶこと。  他人に対して妙に慣れ慣れしく、ある種の同等観や平等観が強いこと。権力というものに反抗的で信頼しないこと。己の分をわきまえ勤勉であることを褒める気風、等々のルーツを辿って行くと、この浄土真宗の教えに至ることが多い。
 大阪人が浄土真宗的であるというのは、こうした面をさし、垂直思考的な神道に対し、水平的思考といってもよいのかも知れない。(以上)

『歎異抄に学ぶ人生の知恵』 (PHP文庫・2008/1/7)が、アマゾンで一円で出品されていたので購入しました。
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二重敬語

2015年12月13日 | 日記
9.10日の青年布教使研修会では、3名の若手布教使による布教実演がありました。私はまとめで、講評する役目でした。

その時も伝えたことですが、これからの伝道において、特に外部の人たちに向かって話す場合、「二重敬語」の良し悪しの問題があります。先般、友人から指摘されて意識するようになったことですが、宗門内では「ご門主さま」が当たり前で、何ら違和感がありません。

先の布教の折では「お正信偈様」という表現でしたが、一門徒として聴いていると、一つも違和感がないのですが、外部の人が聴けば、違和感があるのではないか。

真宗門徒の聴聞は「仰せのまま」です。そうした環境では、どこまでも有難く言葉を重ねて尊敬語を使います。そうした方が有難味が増します。

これが一般の人だと、「仰せのまま」ではなく、どこか一部に批判精神をもったところで話を聴くことになります。私自身、「日蓮大聖人様の研究」といった類の本は読みたくありません。無批判にのめり込んでしまうことの危険性を感じるからです。一般の人も、「仰せのまま」に開かれるまでは、自分を失わない辺りでの聴聞なのだと思われます。

ですから一般の人対象の講演会などでは、「二重敬語」があると、少し引いてしまうことになるのでしょう。これはこの度の研修会で感じたことの一つです。
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直葬についてどう思うか

2015年12月12日 | セレモニー
新潟の研修会での質問に「直葬についてどう思うか」というものがありました。

2009年6月27日の、このブログに次のようにあります。(以下転載)

昨日、京都で読売新聞の朝刊を見ていると、葬儀社の広告で「直葬88.000円」を売りにした宣伝が紙面にすみ込まれていた。「えっ、京都で」という感慨でした。

直葬とは、葬儀の儀式をせずに直接、火葬場へ持ち込んで荼毘にすることです。葬儀社の業界用語では「棺一」(お棺一つだけの商い)ともいう。

都内では3割近くが直葬 新宿のある葬儀社では40%以上とも聴く。首都圏ならまだしも京都でも、おおっぴらに広告打つ。直葬が一般常識の範疇に入ってきている、安くて便利で快適もここまで来たかと思ったことです。

直葬の背景には、文化の変容がある。その1つが先祖という意識の希薄化です。

* 祖先を尊ぶ心は、少なくとも数世代にわたって継承する家族が定住者であること、都市型社会の家族形態は親子をはじめ兄弟、夫婦などの関係が、個別的・希薄的になってきた。(下宿的)、このような家族内事情を反映して、若者の「単身願望」が拡大した。核家族から単身願望による分解家族へ


また伝統的な土葬や火葬から、公営火葬場へ葬送の場が移ってゆくにつれ、葬送儀礼の著しい省略化が起こっている。

それと近年、葬送儀礼が従来の共同体的なものから、個々の家族を中心とした個人的・私的なものへと変容していること。さらに、公的な人生儀礼そのものに社会的意味づけが薄れてきていることなどが挙げられます。また

* 村八分に代表される(葬と火事)共同体の一員としての葬儀から、家の行事へ、そして家族たちの行事へ。地域が一体となって仲間を送り出す儀礼から、葬家の人々を外から弔問する儀礼へと変化し、こうした葬儀の個人化の動きは、特に高度経済成長以降になると、都市部では喪主を配偶者がつとめる例が多くなり、家というより個人の家族たちの行事になっていった。
* 葬儀はなくなっていった人の最後の自己表現とされ、個人(故人)の意志が尊重されるようになった。
* 現在、葬儀の問題点を聴くと、1990年くらいまでは葬儀費用が高いというのが一番多い理由であったが。近年は、葬儀が形式的で心がこもらないとか、義理で来てもらうのは申しわかないなどが費用以上の問題となっている。
* 社会の高齢化と会葬者の減少―親が90歳となると子どももリタイヤして社会との関係が希薄になっている。葬儀に呼ぶ関係者がほとんどいなくなる。
* 家庭から葬儀場への変更による省略化
* 死霊畏怖の観念が希薄化

などなどです。日本の精神文化にとってどんな形がいいのか。宗教家を交えて考える時が来ています。(以上)

上記から6年が経過して、より明確になってきたことは、先祖という意識の希薄化がより一層進んできた点です。先祖や子孫繁栄といった命のタテの関係、また社会への連帯という命の横関係、共につながり意識がより一層薄くなってきています。一人の方が生き易い社会。

以前、脳性まひの小児科医・東大准教授 熊谷晋一郎さんの言葉を紹介したことがあります。

「子供の発達は依存しなくなるという事ではなくて、依存先を増やすことだと思う、… 成長するに従って親だけではなく、他にも依存できる人が増えて行ったり、道具、乗り物にも依存してそれまでできなかったことができるようになって、依存先を増やして行くプロセスが発達、自立であったりする。…健常者の方が依存先が沢山ある、少数派は駒が少なくて、多数派は社会の中に依存する駒がたくさんある。公共交通機関なども同じ、依存先の数が健常者のほうが多い。一つの駒に対する依存度の深さは、依存先が少ない方が深くなる。(以上)


一人の生きていける社会は、それで依存度が大きいってことです。依存が大きいのに、依存して生きていると思っていないところに、現代の闇があるようです。その闇が、先祖という命の関係の中にも浸透してきている。それが直葬の核心なのかもしれません。



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