仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

直葬についてどう思うか

2015年12月12日 | セレモニー
新潟の研修会での質問に「直葬についてどう思うか」というものがありました。

2009年6月27日の、このブログに次のようにあります。(以下転載)

昨日、京都で読売新聞の朝刊を見ていると、葬儀社の広告で「直葬88.000円」を売りにした宣伝が紙面にすみ込まれていた。「えっ、京都で」という感慨でした。

直葬とは、葬儀の儀式をせずに直接、火葬場へ持ち込んで荼毘にすることです。葬儀社の業界用語では「棺一」(お棺一つだけの商い)ともいう。

都内では3割近くが直葬 新宿のある葬儀社では40%以上とも聴く。首都圏ならまだしも京都でも、おおっぴらに広告打つ。直葬が一般常識の範疇に入ってきている、安くて便利で快適もここまで来たかと思ったことです。

直葬の背景には、文化の変容がある。その1つが先祖という意識の希薄化です。

* 祖先を尊ぶ心は、少なくとも数世代にわたって継承する家族が定住者であること、都市型社会の家族形態は親子をはじめ兄弟、夫婦などの関係が、個別的・希薄的になってきた。(下宿的)、このような家族内事情を反映して、若者の「単身願望」が拡大した。核家族から単身願望による分解家族へ


また伝統的な土葬や火葬から、公営火葬場へ葬送の場が移ってゆくにつれ、葬送儀礼の著しい省略化が起こっている。

それと近年、葬送儀礼が従来の共同体的なものから、個々の家族を中心とした個人的・私的なものへと変容していること。さらに、公的な人生儀礼そのものに社会的意味づけが薄れてきていることなどが挙げられます。また

* 村八分に代表される(葬と火事)共同体の一員としての葬儀から、家の行事へ、そして家族たちの行事へ。地域が一体となって仲間を送り出す儀礼から、葬家の人々を外から弔問する儀礼へと変化し、こうした葬儀の個人化の動きは、特に高度経済成長以降になると、都市部では喪主を配偶者がつとめる例が多くなり、家というより個人の家族たちの行事になっていった。
* 葬儀はなくなっていった人の最後の自己表現とされ、個人(故人)の意志が尊重されるようになった。
* 現在、葬儀の問題点を聴くと、1990年くらいまでは葬儀費用が高いというのが一番多い理由であったが。近年は、葬儀が形式的で心がこもらないとか、義理で来てもらうのは申しわかないなどが費用以上の問題となっている。
* 社会の高齢化と会葬者の減少―親が90歳となると子どももリタイヤして社会との関係が希薄になっている。葬儀に呼ぶ関係者がほとんどいなくなる。
* 家庭から葬儀場への変更による省略化
* 死霊畏怖の観念が希薄化

などなどです。日本の精神文化にとってどんな形がいいのか。宗教家を交えて考える時が来ています。(以上)

上記から6年が経過して、より明確になってきたことは、先祖という意識の希薄化がより一層進んできた点です。先祖や子孫繁栄といった命のタテの関係、また社会への連帯という命の横関係、共につながり意識がより一層薄くなってきています。一人の方が生き易い社会。

以前、脳性まひの小児科医・東大准教授 熊谷晋一郎さんの言葉を紹介したことがあります。

「子供の発達は依存しなくなるという事ではなくて、依存先を増やすことだと思う、… 成長するに従って親だけではなく、他にも依存できる人が増えて行ったり、道具、乗り物にも依存してそれまでできなかったことができるようになって、依存先を増やして行くプロセスが発達、自立であったりする。…健常者の方が依存先が沢山ある、少数派は駒が少なくて、多数派は社会の中に依存する駒がたくさんある。公共交通機関なども同じ、依存先の数が健常者のほうが多い。一つの駒に対する依存度の深さは、依存先が少ない方が深くなる。(以上)


一人の生きていける社会は、それで依存度が大きいってことです。依存が大きいのに、依存して生きていると思っていないところに、現代の闇があるようです。その闇が、先祖という命の関係の中にも浸透してきている。それが直葬の核心なのかもしれません。



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