仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

散骨と浄土真宗

2015年12月21日 | セレモニー
『月間住職』(2015.12月号)の連載ルポに、内藤理恵子さんが“散骨を商売とする者の出現で分かってきたこと”という記事を書いていました。

記事を読んだ感想は、「浄土真宗の説教もやりにくくなった」ということです。なにを言っているのかと言えば、妙好人讃岐の庄松さんの言葉です。

 生前からご法義が篤く、お同行に慕われていた庄松さんが臨終の床についたとき、 独り身の庄松さんのことを心配したお同行たちが「ひょっとして庄松さんが亡くなっても、我々が立派な墓を建てるので安心してくれ」と言うと、庄松さんは「おらぁ、墓の下にじっとしてはおらんでのぉ」と答えたとのこと。お墓は遺骨の安置所であって如来の働き場所ではないと、一面、お墓否定の説教がされてきました。

もちろんお墓を否定したのではないのですが、この説教ができにくくなったのは確かです。記事だけ紹介しておきます。

見逃せない散骨希望者の増加

この頃、「散骨」という言葉を頻繁に耳にするが、実際のところ、その上うな葬送を望む者はどれくらいいるのだろうか。最新のデータとして一般社団法人日本海洋散骨協会が2015年9月に発表したデータ(回答数1247件)を見ると、全体で散骨希望者は11%に留まっている。ただし、単身世帯に限ると、その割合は大幅に変わる。単身世帯で散骨を「希望する」は21%、「希望しな」は42%、「わからない」37%。また単身女性世帯になると、四人に一人(25%)が散骨を希望している。となると、今後単身世帯が増加することを考慮すると見過ごせない割合である。
また、散骨を 「自然葬」といい換える場合もあり、2013年の日本消費者協会の調査でも自らの死後に「自然葬を望む」と回答する者は20%あることから、国民の一割から二割は散骨を望んでいるといった現状が見えてくる。(以上)

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老年的超越

2015年12月20日 | 苦しみは成長のとびら
先日ある忘年会で、知人の大学院生が「老年的超越」というテーマで論文を書いているという会話から「老年的超越」という言葉を知りました。

「老年的超越」とは、どうもスウェーデン大学のラルス・トルンスタム教授らが提起した言葉らしい。

人間の加齢、特に老年期に入っていく過程は、老年的超越にいたる潜在的可能性を含んでいる。老年的超越とは、高次の視点への移行であり、物質的・合理的視点から、より神秘的・超越的な視点への移行である。また、通常はこの移行とともに、人生の満足感が増加する。

というものらしい。老人という言葉が、マイナスのイメージしかない現代において「老」のもつ豊かさを蘇らせる言葉だと思われます。「老年的超越」の言葉が、もっと日常着になればよいがと思いました。
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2015年12月19日 | 日記
風邪で一週間、難儀をしています。治りかけていたところに、一泊二日の京都で、少しひきづっています。婦人会総連盟の仕事でしたが、平成30年1月の御正忌定例法座(1月12~16日)の法話を受けました。本山もずいぶん先まで考えているのだなーと感心しました。

ポジティブ心理学,どこが浄土真宗と比べて不完全なのかを書いておきます。ポジティフとは、事象を正負二極で見立てた際の正の側。プラス思考ということです。言ってみれば聖道門と同
じ志向です。そしてたとえば「ありがとう」でくくります。

浄土真宗は「南無阿弥陀仏」です。私の上に一つの理想的あり方を見ずに、そのままを認めていくという如来の側の肯定の証が「南無阿弥陀仏」です。
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ポジティブ心理学

2015年12月18日 | 日記
16日(27.12)の深夜便「明日へのことば」、碓井真史(新潟青陵大学大学院教授)・“心理学のメッセージで幸せに”でした。

記憶に残っている分部は、下記の言葉です。

http://asuhenokotoba.blogspot.jp/search?updated-min=2015-01-01T00:00:00%2B09:00&updated-max=2016-01-01T00:00:00%2B09:00&max-results=50
より引用。

「ポジティブ心理学 幸福になるためには何が必要か、お金、知能、学歴等いろいろ考えられるが、それらはそう簡単に変えられないが、そういったものを全部ひっくるめても、幸福感に与える影響はたった10%しか与えていない。
一番は行動習慣、土台になるのは「有難う」なんです、「有難う」が言える人は幸福感が高い、人に親切行動をし続けている人、目標を持って一生懸命熱中する活動をしている人等は幸福感が高いというのが科学的事実なんです。これらは変化できることです。
幸せを願うなら、「有難う」を言うことは効果的です、科学的な事実です。(以上)

「心理学化する社会」という本がありますが、心理学は科学なので、納得させる部分がありますが、人間の心理や存在が、薄っぺらな理解になっていくような不安を覚えます。

ウィキペディアで「ポジティブ心理学」検索すると、次のようなことが出ていました。

幸福感を増すための方法
以下のようなことを行えば、幸福感が増す。

週に1回、自分の幸福を数える時間を持つこと
不幸にとらわれるのではなく、自分の幸福に目を向ける。1日に1回行うと効果が少なくなるので、週に1回行うと良い。またこれにより、「幸福順応」を避けて、他の人への感謝の念を増やすことができる

他の人に親切にすること
同僚や通りすがりの人に支援の手を差し伸べる。こうした利他的行動を行うと幸福感が増す。

感謝の手紙を書くこと
これにより短期的には幸福感が増すが、あまり長続きしない。
自分の強みが何であるかを知って、それを生かすようにすること
自分の長所に注目する。自分の強みを知るための質問紙が作られている[13]。自分の強みを知るだけでなく、それを日常生活に生かす努力が必要である。

他の人に多くを与えること
人に親切にするとは、人に何かを与えることである。ボランティア活動など、自分の時間を与えることでも良い。情報でもよい。

他の人と一緒にいること
家族や友人と一緒にいる時間の長い人は、そうでない人に比べて幸福感が強い。家族や友人との人間関係を大切にして、長い時間を一緒に過ごして、それを心から楽しむと、幸福感が強くなる。

一日の終わりに、その日の良かったことを3つ書き出すこと
物事の印象は、ピーク時と終了時で決まる。1日の終了時に、その日の良い事に注目する。そして、この良い事はなぜ起きたかを考える。この方法により、持続する幸福感を得ることができる。セリグマン教授が勧める方法である。

他人と自分を比較しないこと
自分の給料に満足していても、知人が自分よりもっと多い給料をもらっていることを知ると、とたんに不幸になってしまう。人は自分が幸福であるほど、まわりの人との比較に関心を払わなくなる。自分が満足できる仕事を持ち、家族や友人と良好な関係にあれば、比較による不幸から逃れることができる[14]。

生涯にわたる目標や夢に全力を傾けること
人生の目標を追い求めることで、多くの満足感や喜びが得られる。「フロー」状態の時間が長いと、幸福感が増す。「フロー」状態が得られる活動を選んで取り組む[9]。

夜寝る前に今日良かったことを 3つ数えるとか、今までの人生でお世話になった人を思い
浮かべてありがとうをカードに書くとかポストに入れなくても、幸福感は高まる。

「有難う」を言葉や文字にすると幸福感は高まる。
幸福な人は幸福な人同士が集まって、お互いに相手を幸福にしあっている、お互いに親切にし、され、お互いにありがとうを言いあって、ドンドン幸福になってゆく。
不幸な人は不幸な人が集まってお互いに不幸にしあっている。
(以上)

思い通りになること イコール 幸せ この構図そのものしばれていることが「苦」であると説いているのが仏教ですが、ポジティブ心理学でいう幸福は、平面的な理解であるようです。
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文化としてのマナー②

2015年12月17日 | 日記
昨日の続きです。徳川 義親は次のように書いています。

人の家を訪ねる時、門を入ると玄関の外で、外套・襟巻を脱ぎ、或はコート∴月掛をとってから案内を乞ふ人が多いやうだが、これでは荷物を持ってゐるときなど困ってしまふ。コート類は玄関の外で脱がずに、着たま丶案内を乞ひ、「お上りなさい」と言はれて、よってから脱ぐのが正しいのである。もっとも玄関の構造によっては、「上りなさい」と言はれてから、上る前に脱ぐこともある。(以上)

マナー本に書いてあることが正しいマナーであると思ってしまってる現代人にとっては迷うところです。


さて次のことを書くことが目的です。徳川 義親は次のように書いています。


 履物は表向きの客として行った場合には、キチンと揃へて脱ぎ、其儘上ればよい。即ち家の中の方へ向いて脱いだままでよろしい。それを直すのは主人の側の礼である。普通の場合もそれでよいのであるが、家人になるべく世話をかけないといふ意味で、ことに婦人などは、よってから振り返って直すのはよいことである。よく玄関で後向きになって即ち家の中へ尻を向けて脱ぐ人かおるが、あれは一種の便法である。後向きに脱いで、足先でチョツチョツと靴を揃へるなどといふのは甚だ失礼である。直すならば、上ってから振り返って手で直すのが本当である。(以上)

この靴に脱ぎ方は、私も書きましたが、「それを直すのは主人の側の礼である」が理解されていないと、「無礼なやつ」となりそうです。私は使い分けて、月忌などは、後ろ向きに脱いで上がり、お寺に招かれた時は、そのまま脱いだまま上がることにしています。皆さんはどうですか。

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