仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

STAP問題に幕

2015年02月18日 | 現代の病理
「STAP問題に幕」―STAP細胞論文問題に理化学研究所(理研)が幕を引いた。調査委員会の最終報告を受けて、2月10日(2015年)、関係者の処分を発表したー。

ひと段落でしょうが、これで終わったのか定かでありません。科学者にとって「世界で最初の発見」という成果がどれだけ、発見者(組織)の興奮を誘うか計り知れない事実でしょう。それが人に酔わせ狂いを生じさせる原因ともなります。

その発見がSTAP細胞のように簡単に生じるとなれば、他者に出し抜かれないよう功を独占することに盲目的にもなります。

「世界で最初の発見」に、組織全体が狂わせる。「だから組織はどうあるべきか」が問題です。
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めぐみの参拝

2015年02月17日 | 日記
2月に仏教婦人会総連盟の会議が会った折、子どもの育成のために、もっと積極的に七五三等の節句を取り入れた方がよいのではないかという意見が出ました。

節句は本来「節句は邪気をはらったり、出世を願望したりなどの凡夫の情に即した行事」ですが、感謝の参拝等、浄土真宗的な意味づけをすればよいのではないかという意見もありました。

蓮如上人は1499年、3月25日に亡くなられています。それから一ヶ月して蓮如さんのお子さんたちが集まって、蓮如さんの誡めを残した「兄弟中申定条々」という文章をのこしています。「兄弟中申定条々」―「九月九日祝、,秋あわせの停止、すすはきの祝停止、年始御祝者餅二種、正月節大儀奔走者無益、五節供、朔日、名月、猪子等停止」とあります。

邪気を払ったり無益な祝賀行事にうつつを抜かすなということです。それぞれの人の考えによるところですが、地域性や時代性もあります。節句などは、病期で子どもが多く死ぬ昔のこと、本当に邪気を払うために行ったものだと思われます。現代はと言えば、バレンタインデー同様、遊びの部類です。だからいいと言うのではないのですが、人間関係の結びつきの中で、遊びの果たす役割は、昔に比べて大です。浄土真宗のみ教えをわきませて、感謝の集いとして行うのは、むべに避けるものでもないでしょう。

築地本願寺では「めぐみの参拝」として、奨励しています。
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「閉店セール」の実態

2015年02月16日 | 日記
今日の産経新聞(27.2.16)産経抄からです。(以下転載)


店先の垂れ幕に「閉店セール」の文字を見つけると、ついつい中へ入ってしまう。経済学者の真壁昭夫さんによると、これを「フレーミング効果」と呼ぶ。「フレーム」とは、枠や枠組みのこと。人間の心理にあてはめれば、思い込みを意味する。
 ▼閉店セールは、「いいものを安く買える」という意識に結びつきやすい。一度固定観念ができてしまうと、崩すのは容易ではないそうだ(『最新行動経済学入門』朝日新書)。なかには、フレーミング効果を狙って、閉店セールをいつまでも続けている店まである。
 ▼立教大法学部の学生6人が昨年7月から12月にかけて、東京都内の小売店を調査して確かめた。「閉店セール」と宣伝していた9店のうち実際に閉店したのは、4店だけだった。残る5店は、「本日まで」などとうたいながらセールを続けたという。(以下省略)

学生の調査をもう少し詳しくネットで見ると、学生らは消費者法を学ぶ細川幸一兼任講師のゼミに所属で、上野や秋葉原などで9店について閉店セール期間や商品の割引率などを調べたという。そして、「閉店セールをいつまでも続けている店が多く、今買わないと損だと思わせるのは景品表示法違反の有利誤認に当たる」として、消費者庁に対応を要望したとあります。
「閉店セール」調査の着眼点もおもしろいですが、、消費者庁に対応の要望を出したことによって話題がNHKでも報道する性格をもったのだと思われます。私は『最新行動経済学入門』朝日新書がおもしろそうだと、図書館にすぐリクエストしました。
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曽野綾子氏のコラムが

2015年02月15日 | 日記
今日(27.2.15)の産経新聞に、「(特活)アフリカ日本協議会から2月11日朝刊、曽野綾子氏のコラムに対して抗議文が来たという記事が出ていました。

下記抗議文は(特活)アフリカ日本協議会ホームページからの転載です。

AJFは、2015年2月13日、以下の抗議文を、曽野綾子さんおよび産経新聞社・飯塚常務取締役あてに、FAXおよび郵便で送りました。

曽野綾子様

産経新聞社常務取締役 飯塚浩彦様

 『産経新聞』2015年2月11日付朝刊7面に掲載された、曽野綾子氏のコラム「労働力不足と移民」は、南アフリカのアパルトヘイト問題や、日本社会における多様なルーツをもつ人々の共生に関心を寄せてきた私たちにとって、看過できない内容を含んでおり、著者の曽野綾子氏およびコラムを掲載した産経新聞社に対して、ここに強く抗議いたします。
 曽野氏はコラムのなかで、高齢者介護を担う労働力不足を緩和するための移民労働者受入れについて述べるなかで、「外国人を理解するために、居住を共にするということは至難の業」であり、「もう20~30年も前に南アフリカ共和国の実情を知って以来、私は、居住区だけは、白人、アジア人、黒人というふうに分けて住む方がいい、と思うようになった」との持論を展開しています。
 
「アパルトヘイト」は現地の言葉で「隔離」を意味し、人種ごとに居住区を分けることがすべてのアパルトヘイト政策の根幹にありました。また、アパルトヘイトは、特権をもつ一部の集団が、権利を剥奪された他の集団を、必要なぶんだけ労働力として利用しつつ、居住区は別に指定して自分たちの生活空間から排除するという、労働力管理システムでもありました。移民労働者の導入にからめて「居住区を分ける」ことを提案する曽野氏の主張は、アパルトヘイトの労働力管理システムと同じです。国際社会から「人道に対する罪」と強く非難されてきたアパルトヘイトを擁護し、さらにそれを日本でも導入せよとの曽野氏の主張は言語道断であり、強く抗議いたします。このような考え方は国際社会の一員としても恥ずべきものです。
 
おりしも、このコラムが掲載された2015年2月11日は、故ネルソン・マンデラ氏が釈放されて、ちょうど25年目にあたる日でした。その記念すべき日に、南アフリカの人びとが命をかけて勝ち取ったアパルトヘイトの終焉と人種差別のない社会の価値を否定するような文章が社会の公器たる新聞紙上に掲載されたことを、私たちはとても残念に思います。
 
曽野綾子氏と産経新聞社には、当該コラムの撤回と、南アフリカの人々への謝罪を求めます。また、このような内容のコラムが掲載されるに至った経緯、および人権や人種差別問題に関する見解を明らかにすることを求めます。以上について、2015年2月28日までに文書でアフリカ日本協議会(AJF)へお知らせくださるようお願いいたします。また、貴社のご対応内容については他の市民団体、在日南アフリカ共和国大使館、国際機関、報道機関などへ公開するつもりであることを申し添えます。

2015年2月13日
(特活)アフリカ日本協議会
代表理事 津山直子

(以上)

問題のコラム主要部分は下記の通りです。

「適度な距離」保ち受け入れを

(前略)
ここまで書いてきたことと矛盾するようだが、外国人を理解するために、居住を共にするということは至難の業だ。
 もう20~30年も前に南アフリカ共和国の実情を知って以来、私は、居住区だけは、白人、アジア人、黒人というふうに分けて住む方がいい、と思うようになった。 南アのヨ(ネスブルクに一軒のマンションがあった。以前それは白人だけが住んでいた集合住宅だったが、人種差別の廃止以来、黒人も住むようになった。ところがこの共同生活は間もなく破綻した。
 黒人は基本的に大家族主義だ。だから彼らは買ったマンションに、どんどん一族を呼び寄せた。白人やアジア人なら常識として夫婦と子供2人くらいが住むはずの工区画に、20~30人が住みだしたのである。
 住人がベッドではなく、床に寝てもそれは自由である。しかしマンションの水は、上戸あたり常識的な人数の使う水量しか確保されていない。
 間もなくそのマンションはいつでも水栓から水のでない建物になった。それと同時に白人は逃げ出し、住み続けているのは黒人だけになった。
 爾来、私は言っている。
  「人間は事業も研究も運動も何もかも一緒にやれる。しかし居住だけは別にした方がいい」(以上)


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努力したら報われる?

2015年02月14日 | 現代の病理
報道番組(27.1.13)をつけると安部首相が施政演説(27.2.12)「努力が必ず報われる社会を…」という場面が映っていました。

首相の言葉と、前日、図書館で借りてきて読んだ『こどもに「ホームレス」をどう伝えるかーいじめ・襲撃をなくすたまに』(ホームレス問題授業づくり全国ネット編)の一節がダブりました。以下、まずは本より転載。

なぜホームレス問題だけが、いままで教育現場でタブーであったのか。そこには「あの人たちは、努力して、がんばらなかったから」という、自業自得論、自己責任論が根強くありました。

 わたしは、この「カンバリズム」と「自己責任」論が、日本の子どもたち若者たちの自殺問題に直結している、と感じています。期待どおりの進路にすすめない自分、就職できない自分を、それほど責めて抹殺するほどの意識。いじめられても死ぬほど苦しくても学校に通いつづけ、生きるためなら逃げてめてもいい、不登校になってもいい。と思えない。「やらなくち、がんばらなくっちゃ、かたなくっちゃ、いじめてないか、自分で自分を」。これは10歳の男の子が、書いた詩の言葉です。

 まさに、そのなかで、「がんばらなかった人生の落伍者」の象徴のようにあつかわれてきた「野宿者」の問題、その人たちの権利・人権について真剣に取りあげ教えるということは、努力し、がんばることこそ大事で価値あるものと教えてきた学校社会、日本社会のなかでは、長い長い間、認められることのないタブーだったわけです。(以上)

格差の固定化を防ぐ意味でも、社会システムとしては「努力が必ず報われる社会」であるべきです。逆に「努力が必ず報われる社会」という考え方そのものは、社会の落伍者と思われる人を「努力しなかった人」という烙印となって行くという矛盾を持っています。

問題は「努力したら報われる」という社会システムと共に「努力しても報われないこともある」という事実を許容できるおおらかの精神風土をつくっていくことではないでしょうか。
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