仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

上から目線

2015年02月08日 | 日記
今日(27.1.8)の『読売新聞』「日曜の朝に」は“「寛容」に潜む「上から目線」”という題で赤池泰斗氏が、興味深いコラムを書いていました。転載して紹介します。

先日、性的少数者をテーマに取材をしていて、学生時代のことを思い返した。東京で4年間、寮生活を送ったのだが、そこに性的少数者が2人いたからだ。いずれもアメリカ人留学生だった。

 1人は、好きになる相手の性別を問わないバイセクシュアル。日本語が達者で音楽に詳しく、人気があった。ある時、「本物のゲイバーに連れて行ってあげる」と誘われてついていったら、洗練された普通のバー。拍子抜けしていると店員も客も皆ゲイだと教えられて、わけもなく感動したのを覚えている。

もう1人は、物静かでどこか哲学者のような雰囲気の持ち主だった。自然と周囲の尊敬を集めていた。 
自分は、彼らの性的指向を気にしていないし、友人でもある。だから、性的少数者に対し寛容である、と思っていた。だが、その場に彼らがいない時、同性愛をネタに冗談を飛ばすこともあった。「お前、彼とできてんじゃないの」という具合に。性的に自分たちが「多数派」にいるという安心感に乗っかって軽口をたたいていたのだ。

当時の自分には、性的少数者であることをカミングアウトしない人だっている、という想像力がすっぽり抜け落ちていた。もし、あの場にそのような人がいたら、どう感じただろうか。話を合わせるのは苦痛だったろうし、傷ついたに違いない。寛容だなんて悪い冗談だ。
今の時代、少数者や弱者に対して寛容であれ、と言われる。成熟した社会を目指すのならば当然のことだ。
 ただ、我々が「寛容」を口にする時、そこには「上から目線」が潜んでいないだろうか。多数派が少数者に対し「そこにいて別にいいですよ」と 許可を与えるような。そこには、ものごとを見た目でしか判断しようとしない、想像力の欠如が潜んでいる。多数派にあぐらをかいた「寛容」は、心もとない。学生時代の浅はかさを忘れずにいたい。
       (赤池泰斗)
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