
H・エリクソンのスー族の研究のことを書き、アメリカインディアンのスー族に興味が出て、NHKカルチャーラジオ歴史再発見2011年10月~12月「アメリカ先住民から学ぶーその歴史と思想」(阿部珠理)を古本で求めました。
「筆者が長年フィールドワークを行うサウスダコタ州のラコタースー族は、典型的なその最貧部族であるが、調査を初めて以来約二〇年、冬は零下二〇度に達する保留地で、凍死者や餓死者の報告に接したことがない」と書いているように、互いに分け合う文化「貧しさの中の豊かさ」は、すごい。とても西洋文明に染まってしまった現代人では、マネすることはできないが、現代文明の価値を相対化するには、最勝の資料かも知れません。
特に、障碍者や性同一性障害、幼児や老人を受け入れる文化はすごい。1960年代のアメリカで、政治的にはベトナム戦争に反対し、文化的にはそれまでのアメリカ主流の社会の価値とライフスタイルにことごとく、反対し、絞り染めのTシャツにベルボトムのジーンズ、裸足に長髪の典型的なヒッピースタイルは、アメリカインデイアンのスタイルであったというが、わかる気もします。
現代人が言う性同一性障害の人を“ベルダーシュ”と呼ぶようです。少し、そのあたりを転載してみます。
アメリカ先住民社会には伝統的に、異性の衣服を着、異性のように振る舞い、異性の役割をする存在があった。こうした存在をベルダーシュという。ベルダーシュは男女両性にありうるが、先住民社会においては女の性役割をする男が一般的である。彼らは生物学的には「男性」のままであるが、女装をし、女性語を使い、女性に期待された社会的役割を果たした。
…同性愛に社会的認知を与えるための制度であるというものである。…共同体における「異物」を排除するのではなく、包摂しようとする意志が働いている。
…ベルダーシュとして社会的認定を受けた以降は、女装をし、女性特有の挨拶、感嘆詞、接尾詞を駆使して女性語を操った。長じては美術工芸品の制作など、女性特有の仕事に、優れた技量を発揮した…ベルダーシュは両性をもつことで、全き完全な存在、それゆえに男や女より優れた神に近い存在と見なされることもあった。ラコタースー族のウインクテの聖なる仕事の一つに「名付け」がある。男の子はウインクテから名前を貰うと、怪我や病気から守られると信じられた。戦いや狩りで男が命を落すことの多い平原部族の中にあって、長寿を全うすることが多かったウインクテにあやかろうと、付与された役割であろう。彼らが戦いに幸運をもたらすものとして戦場によく動員されたのも、同様の「命を落さない」連想によると思われる。
常ならざる者を簡単に排除せず、特定の役割を与えて、彼らを人間社会の輪の中に組み入れてゆくのは、「包摂の思想」の実践であり、ウインクテなどその好例であると思われる。
年寄り、子ども、障害者
先住民保留地で祭りや儀式にいくと、かならず一番いい席が、年寄りのために取ってある。地位や名誉に関わりなく、どんな年寄りでもそこに座ることができる。コミュニティの会介や食事会の始まりには、かならず祈りが捧げられるが、それは年寄りの役目である。ギブーアウェイ(与え尽くし)の儀式では、参加者のすべてに何らかのプレゼントが行き渡るよう配慮されているが、贈り物が最初に渡されるのは、年寄りと子どもである。ラコタ社会はこのように、彼らを大切に守っているというメッセージを常に発し、年寄りと子どもに対して社会的敬意を払っている。ラコタ語では、一生の始まりである赤ん坊を「ワカン・インシュヤン」と呼ぶが、これは、聖なる者という意味である。これに対して、年老いた者たちは「ウィチャクチェ」と呼ばれ、すべての能力に勝る者を意味する。つまり、人は、聖なる者として生まれ、聖なる者に戻ってくるということだ。このことも社会が年寄りや子どもをどう遇しているかのあらわれである。
これは、心身障害者に対しても同じである。ラコタの伝統では、彼らを社会から疎外することがない。障害のある子供が産まれても、そうした子供は劣っているのではないと考えるからだ。
宗教と生活が今より密接に繋がっていた昔、彼らは、むしろワカンタンカ(ラコタのグレートースピリット、大いなる精霊)に近い存在と考えられ、大切に育てられた。子供はもとより聖なる存在であるが、保護なしには生きられない点、社会的弱者である。その弱者の中でもことに弱者である心身障害者へのいたわりの心が、彼らを聖なるものと位置づけるシステムを作り上げたと考えられる。(以上)
合理主義や科学的客観主義の没物語性の欠点を知らされます。
「筆者が長年フィールドワークを行うサウスダコタ州のラコタースー族は、典型的なその最貧部族であるが、調査を初めて以来約二〇年、冬は零下二〇度に達する保留地で、凍死者や餓死者の報告に接したことがない」と書いているように、互いに分け合う文化「貧しさの中の豊かさ」は、すごい。とても西洋文明に染まってしまった現代人では、マネすることはできないが、現代文明の価値を相対化するには、最勝の資料かも知れません。
特に、障碍者や性同一性障害、幼児や老人を受け入れる文化はすごい。1960年代のアメリカで、政治的にはベトナム戦争に反対し、文化的にはそれまでのアメリカ主流の社会の価値とライフスタイルにことごとく、反対し、絞り染めのTシャツにベルボトムのジーンズ、裸足に長髪の典型的なヒッピースタイルは、アメリカインデイアンのスタイルであったというが、わかる気もします。
現代人が言う性同一性障害の人を“ベルダーシュ”と呼ぶようです。少し、そのあたりを転載してみます。
アメリカ先住民社会には伝統的に、異性の衣服を着、異性のように振る舞い、異性の役割をする存在があった。こうした存在をベルダーシュという。ベルダーシュは男女両性にありうるが、先住民社会においては女の性役割をする男が一般的である。彼らは生物学的には「男性」のままであるが、女装をし、女性語を使い、女性に期待された社会的役割を果たした。
…同性愛に社会的認知を与えるための制度であるというものである。…共同体における「異物」を排除するのではなく、包摂しようとする意志が働いている。
…ベルダーシュとして社会的認定を受けた以降は、女装をし、女性特有の挨拶、感嘆詞、接尾詞を駆使して女性語を操った。長じては美術工芸品の制作など、女性特有の仕事に、優れた技量を発揮した…ベルダーシュは両性をもつことで、全き完全な存在、それゆえに男や女より優れた神に近い存在と見なされることもあった。ラコタースー族のウインクテの聖なる仕事の一つに「名付け」がある。男の子はウインクテから名前を貰うと、怪我や病気から守られると信じられた。戦いや狩りで男が命を落すことの多い平原部族の中にあって、長寿を全うすることが多かったウインクテにあやかろうと、付与された役割であろう。彼らが戦いに幸運をもたらすものとして戦場によく動員されたのも、同様の「命を落さない」連想によると思われる。
常ならざる者を簡単に排除せず、特定の役割を与えて、彼らを人間社会の輪の中に組み入れてゆくのは、「包摂の思想」の実践であり、ウインクテなどその好例であると思われる。
年寄り、子ども、障害者
先住民保留地で祭りや儀式にいくと、かならず一番いい席が、年寄りのために取ってある。地位や名誉に関わりなく、どんな年寄りでもそこに座ることができる。コミュニティの会介や食事会の始まりには、かならず祈りが捧げられるが、それは年寄りの役目である。ギブーアウェイ(与え尽くし)の儀式では、参加者のすべてに何らかのプレゼントが行き渡るよう配慮されているが、贈り物が最初に渡されるのは、年寄りと子どもである。ラコタ社会はこのように、彼らを大切に守っているというメッセージを常に発し、年寄りと子どもに対して社会的敬意を払っている。ラコタ語では、一生の始まりである赤ん坊を「ワカン・インシュヤン」と呼ぶが、これは、聖なる者という意味である。これに対して、年老いた者たちは「ウィチャクチェ」と呼ばれ、すべての能力に勝る者を意味する。つまり、人は、聖なる者として生まれ、聖なる者に戻ってくるということだ。このことも社会が年寄りや子どもをどう遇しているかのあらわれである。
これは、心身障害者に対しても同じである。ラコタの伝統では、彼らを社会から疎外することがない。障害のある子供が産まれても、そうした子供は劣っているのではないと考えるからだ。
宗教と生活が今より密接に繋がっていた昔、彼らは、むしろワカンタンカ(ラコタのグレートースピリット、大いなる精霊)に近い存在と考えられ、大切に育てられた。子供はもとより聖なる存在であるが、保護なしには生きられない点、社会的弱者である。その弱者の中でもことに弱者である心身障害者へのいたわりの心が、彼らを聖なるものと位置づけるシステムを作り上げたと考えられる。(以上)
合理主義や科学的客観主義の没物語性の欠点を知らされます。
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