仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

未来のための江戸学①

2022年12月25日 | 現代の病理

『未来のための江戸学』(2009/10/1・田中優子著)を借りてきました。

本の紹介。

江戸学者による、過去と未来をつなぐ新講義

江戸文化の本質は江戸趣味として表面に現れるものだけでなく、「循環(めぐること)」の価値観であり、「因果(原因と結果)」を 検証しながら物事を決めてゆく方法である。これらを失ったことによって、近代日本人は勝ち負けを考えることに力をそそぎ、 欧米依存的となった。働くことを賃金でしか判断できなくなり、モノの価値を値段でしか理解できなくなった。自らが行った行為が 必ず自らに戻ってくる、という感覚を失ったとき、目の前の富のためなら、文化も自然も破壊することを厭わなくなる。(本文より)

競争原理主義の行き過ぎによる貧困や格差の拡大に対する怒り、未曾有の経済危機の前に立ちすくむ日本の経済、政治システムに対する挫折感、焦燥、将来への不安などが今の日本の社会に満ち満ちています。この本では江戸時代を知ることは、これからの日本にとってどのような意味で大事なのかを、複数の側面から明らかにしています。長年にわたる氏の江戸時代研究の成果を未来に向けて活用するための貴重な提言が満載です。(以上)

 

以下本からの転載です。

  1. 未来につなげたいこと㈠ 豊かさの本来の意味

 

縮小の時代であった江戸時代は、「配慮と節度」という倫理観を社会に打ち立てた。それを「質素倹約」と表現した。「もったいない」という、今日では有名な、しかしそのわりには実践されていない言葉も、人間関係を含めさまざま場面で使われていた。

 「分をわきまえる」という考え方もあった。これは身分制度を守るためだ、と否定的にとらえられるのだが、自然に対して人間の分をわきまえるのは、重要な姿勢ではないだろうか。分には「本分」という意味もあり、「けじめ」という意味もある。江戸時代は、力でのしあがる戦国時代までの競争社会、拡大主義の流れをやめ、秩序を持った縮小社会に収める時代であった。社会秩序を保とうとするとき、自分の「分」がどの程度であるのかの認識は、必要なのではないだろうか。「自分」という言葉自体が、他者と区別する自らの範囲を意味し、それはひとりの人間が自らを収めようとする倫理観を導き出す。「起きて半畳寝て一畳、飯を食っても五合半」というのは私か好きな言葉だ。人間生きてゆくために際限なく貪る必要はない。最低限、どの程度のことが必要なのか、自分の能力ではどこまでが暴力的にならず、他人を侵さず生きていけるか、それを考えるが「分」である。

 

未来につなげたいこと🉂 エコロジーの認識

江戸時代までの日本では、明らかに産業そのものがこのよな生命のつながりの中でとらえられ、それゆえ、徹底的な循環と育林が行なわれたのである。これは、今日の日本でこれから作り出そうとしている循環型社会のことであり、持続可能な自然利用の方法そのものである。今の私たちは未来を考えるとき、過去に行なってきた事柄を再び行なおうとしているだけなのだ。しかし時代が変わり、人口構成も科学技術も地球の状態も変わってしまった今日、まったく同じことを繰り返すわけにはいかない。自然との関係とその価値観を取り戻しながら、過去の失敗は繰り返さない。

そのために、過去を知ることが必要なのである。

 江戸時代の職人たちは、一〇〇年も二〇〇年ももつ道具や建築物や紙や布を作ることを誇りにしていたが、それは、物は1回使ったから終わりなのではなく、実際にさまざまなかたちに変化しながら、何百年も生きたからである。たとえば紙は幾度も漉(す)き返された。和紙は楮(こうぞ)、三椏(みつまた)のような一年草を使い、その製造過程では藁(わら)、木、草の灰を利用した。原料の植物の繊維に含まれる不溶性成分を灰で溶解、除去したのである。灰はこのようにさまざまなものを洗浄する際に使われ、布の染色にも陶器の釉薬(うわぐすり)にも酒造りにも農耕の土にも使われたのである。紙は何度も漉き返されて使われ、最後は燃やされるが、その灰は灰買いに買い取られていって、また使われたのである。「花咲かの翁」の話は架空の物語ではなく、実際の生活である。

 

未来につなげたいこと㈢ ボランティア精神

 

江戸時代では、今日の行政の仕事は、まさに旦那仕事たった。江戸では、奈良屋、樽屋、喜多村という三人の「町年寄」が、水道今町触れの伝達や住民令録や不動産付記や町人の紛争調停の全体を管理し、それを「町名圭」たちが実現していた。名士屋敷には簡易裁判所まで置かれていた。さらにその実務をT家主」たちが手伝っていた。彼らは捨て子や行き倒れの世話や道路掃除、道路修繕、防犯防火のための見回りを行なっており、番所という交番の前身にあたる所に、交代で詰めていた。一方、村には名士、年寄、百姓代などの「村方三役」かおり、寄り合い (議会)による決定亊瑣を実現していた。町も村も三人のリーダーが交渉役として存在していて、何事も時問をかけて決めていたようだ。これらの仕事は今の行政の仕事にあたるが、基本的に無給だった。家賃収入がある人々だからできたわけだが、それ以上に給料のようなものをもらおうとはしていない。社会貢献という概念がない社会のほうが、自分の生き方と社会に何かを与えることが一致している場合がある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする