仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

別の次元の意識

2022年12月07日 | 苦しみは成長のとびら

二ヶ月くらい前から、わたしの中で「認識の主体は認識出来ない」ということが、ひかっかっています。ネットで検索しても、その意見が大半です。人間のメタ認知機能には、「認識の主体が認識される」と言うことがあって良いのではないか。

 

浄土真宗で語る悪の自覚の、認識に主体が悪として洞察されることなのでという思いを持っていました。

 

図書館で借りてきた『ニュー・アース』(2008/10/16・エックハルト・トール著)、著者は、2008年にはニューヨーク・タイムズが「アメリカで最も人気のある精神世界分野の著者」と評した。2009年までに、北米だけで三百万部売れた本です。アメリカ屈指のスピリチュアルマスターと言われている。その本の中に、次の様にあります。

 

 

デカルトの誤りからサルトルの洞察へ

 

 近代哲学の祖とみなされている17世紀の哲学者デカルトは、この第一義的な誤りを(第一義的真実と考えて)「われ思う、ゆえにわれ在り」という有名な言葉で表現した。これは「自分が絶対的な確実性をもって知り得ることがあるだろうか?」という問いにデカルトが出した答えだった。彼は自分がつねに考えているという事実は疑いようがないと考え、思考と存在を同一視した。つまりアイデンテイティーー私は在るーをいう問いにデカルトが出した答えだった。彼は究極の真実を発見する代わりにエゴの根源を発見したのだが、自分ではそれに気づいていなかった。

 別の著名な哲学者の先の言葉にはデカルトがー同時に他の誰もがー見すごしていた部分があると気づくまでに、それから三百年近くした。その哲学者はジャンーポール・サルトルである。彼はデカルトの「われ思う、ゆえにわれ在り」という言葉を吟味しているうちに、ふいに、彼自身の言葉によれば「『われ在り』と言っている意識は、考えている意識とは別だ」ということに気づいた。これはいったいどういう意味か? 自分が考えていることに気づいたとき、気づいている意識はその思考の一部ではない。別の次元の意識だ。その別の次元の意識が「われ在り」と言う。あなたが思考しかなければ、思考しているなんてことはわからないだろう。自分か夢を見ているのに気づかない夢中歩行者のようなものだ。夢を見ている人が夢のなかののすべてのイメージに自分を同一化するように、すべての思考に自分を同一化する。多くの人々はいまもそんな夢中歩行者のように生き、古い機能不全の心の癖に囚われ、同じ悪夢のような現実をいつまでも再創遣し続けている。しかし自分か夢を見ていると気づけば、夢のなかで目覚める。別の次元の意識が入り込む。

 サルトルの洞察は深かったが、しかし彼は依然とし自分を思考と同一化していたために、自分の発見の真の意味に、つまり新しい次元の意識が生まれたことに気づかなかった。(以上)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする