仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

言葉について⑧

2022年12月02日 | 日記

8.言葉は私の情念や存在を可視化する

 『言葉と脳と心 失語症とは何か』 (講談社現代新書・山鳥 重著)からです。以下転載。

言葉は心像に名前を与え、整理する
 さて、こうした心の中のイメージ(心像)を整理してくれるもの、それが言葉です。言葉はわれわれが気づきやすい対象(知覚心像)に名前をつけてくれるだけでなく、感情や観念(超知覚性心像)など、気づきにくい対象にも名前をつけて、気づきやすい状態に変えてくれるのです。
 名前というのは、それ自身、耳から聞こえる場合は聴覚心像として気づかれます。その名前を文字で表せば、目から見える視覚心像として気づかれます。しかも、それらの名前はすべて記号、すなわち社会全体の約束事として用いられているものです。つまり、はっきりしたカタチを持っています。ですから、あるモノが名前を持つと、それまで気づきにくかったものも、聴覚性や、視覚性の、気づきやすい感覚経験として自覚できるのです。 たとえば、感情の場合です。感情の中でも、情動性感情というのは、そもそもカタチを作っていないためになかなか自覚しにくいものです。ある人を見ると、いつも必ずなんとなくムシャクシャした気持ちが起こってくるとします。これだけだと自分に何か起こっているのかもうひとつわかりません。もしこの場合、テキイとか、シットとかいう名前が浮かびますと、その言葉、「シット」という聴覚性の言語音心像や、あるいは「嫉妬」という視覚性文字心像が、それまではっきりとは気づかなかった感情の感覚化を助けてくれるため、気づきやすくなるのです。
 観念(超知覚性心像)の場合も同じです。たとえば、「チカラ」という観念を考えてみてください。「力」は、誰かと相撲を取って投げ飛ばしたり、家具を持ち上げたり、動かない自動車を押したりするときに立ち上がる視覚心像、触覚心像、さらには身体感覚性心像(筋肉感覚)などが収斂(しゅうれん)して作り上げる、ひとつの感覚を超越した心像ですが、心像とは言うものの、具体的な姿(視覚心像)や、具体的な声音(聴覚心像)、具体的かからだの動き(身体覚心像)などの知覚心像に比べれば、心像としてのカタリ度は格段に低いのです。
しかし、この心像にチカラという音声記号が貼り付けられると、この気づきにくい心像(観念)は、聴覚性知覚という意識の明るみへ引き出せるようになります。つまり心の中でカタチ度が高まり、かなり気づきやすくなるのです。(以上)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする