今日の(2022.12.11)『産経新聞』に「」正義をふりかざす日本人―藤原正彦」の寄稿文が掲載されていた。最後の部分だけ転載します。
戦後、アメリカニズムが我が国に導入され、幸せを最大にするには自由を最大にすること、自由を最大にするには選択肢を最大にすること、という考えが主流となった。この中で人々は途方もない数の選択肢を前に、絶えず決断を迫られている、選択するには土台となる知識や教養が必要だし、自分でよく考えることも必要だ。しかも選択した結果には責任が伴う。選択とは苦痛なのである。独裁者がなくならない一因だ。私だってコーヒー豆を買うときにはモカ、コロンビア、ブルーマウンテン、キリマンジャロなどと面倒だから、「この店で一番売れている豆を下さい」と言うことにしている。
人々は選択が辛いからすぐにメディアやSNSなど手近な情報や見解に頼り、それらに流されてしまう。流されないためには、自分の頭でじっくり考える習慣や考えの土台となる正しい知識と教養、そして惻隠など豊かな情緒が必要である。国のリーダーたる政官財学やメディアにはこれに加えて大局観や歴史観も要求される。これらはすべて読書を通して得られる。世界で進行中の活字離れがこれらに対する致命的打撃となっている。にも拘わらず、読書文化の衰退が人々の知的衰退につながることを憂える声すら、正義をふりかざす声にかき消され聞こえてこない。
欧米や日本など民主主義先進国は、人権抑圧で彩られる権威主義国を見て。
「民主主義こそ」と勝ち誇っているようだが、民主主義は「国民一人一人が成熟した判断を下せる」という、どの国にとっても達成困難な前提の上に成立している。
大半の学生が新聞さえ読まないというほど活字文化が衰えた昨今、民主主義は急速にポピュリスムに接近してきている。年数をかけず同義となるだろう。そうなった日にち、かつてやれグローバリズム、やれATI、やれデジタルと浮き足立ち、PCや正義をふりかざすばかりで、活字離れのもたらす深刻な災禍に無自覚でいた罪を反省する人はいないのだろう。(以上)