田舎に移住した人と、いつか移住したいと思っている人の座談会のようなものを、あるブログで見つけました。そこには、移住して何年も経った人のアドバイスが書かれていました。
「田舎の人は草刈りが好きです。草刈りをしないと一人前と認めてもらえない。だから田舎の人とうまくやっていくには草刈りは欠かせません」
私も、来たばかりのころは、近隣の人々が陰に陽に発する、「草刈りしろ!」攻撃にたじろいだものです。家の周辺の草を私たちがいつ刈るか、見張られているように思ったものです。
京都のアパートメントの一階に住んでいたとき、ある年からアパートの敷地内の空き地の手入れがされなくなりました。この空き地には、ビワやウメ、そのほかあまり大きくない木々が植えられ、芝生と雑草が混在していました。窓越しに、まず最初に緑が目に映るというのは都会ではかなり贅沢なことで、住居をここに定めた理由のひとつは、この緑地にありました。
手入れされなくなったときから、緑地の雑草はみるみるうちに伸び、すぐにベランダにまではびこりました。当時は名前を知らなかったのですが、たぶん、カナムグラや洋酒ヤマゴボウだったと思います。
私は、ベランダの手すりに絡みついたこれらのつる性植物を眺めるのも、また好きになりました。引越しするときまで、切らないでいたように思います。アスファルトの隙間で元気よく伸びるタンポポや桜草にも、心惹かれたものです。
そんな感覚のまま田舎に越してきたので、田舎の人の、「草すなわち、駆除するべき敵」という感覚には、違和感を覚えたものです。
下の林に家人が丸太でベンチを作り、地元で知り合った女性と座ってお茶しているときでした。私が「ああ、気持いい!」というと、彼女は目の前にある小川の向こう岸の崖を指差して、「あの雑草がなければね」と言い足しました。一瞬言葉に窮しましたが、私が、都会にいたときは雑草であっても大事な緑だったのだということをぼそぼそ話すと、彼女は怪訝そうな顔したきり、黙りました。
また聞きした話ですが、昔は崖(このあたりでは「ボタ」といいます)に豊富にあったワラビやゼンマイが減ってきているそうです。草をしょっちゅう刈るせいで、大事な山野草まで絶えてしまったのだそうですが、この話をしたのは地元のおばあさん。彼女は「刈り過ぎたらよくないと分かっているけれど、近所の手前、刈らずにいることができない」と付け加えたそうです。
こんな話もあります。このあたりは、草を家で刈れない場合はシルバー人材センターに頼んで刈ってもらうのが常です。広い敷地を持っているある人が、敷地内のあちこちの草をシルバーに頼んで刈ってもらいました。きれいに刈り取られた後を見た近所の人が、「あんな北側の、人が見もしない崖までお金を出して刈ることはなかったろうに」と言ったのというのです。
「雑草の種が、自分の畑だけでなく近所の畑にまで飛んでいくのは申しわけない」とか、「草を伸ばしっぱなしにしておくと、蛇やマムシが増えたり、イノシシなどが出没しやすい環境を作るからよくない」というなら、話はわかります。そうした、切実な理由があるから刈るのであろうと思っていた私は、この二つの話を聞いていささかあきれました。
雑草が勢いよく伸びだす季節になると、終日あちこちで刈り払い機の音が聞こえてきます。きれい好きの人は、いったん刈り出すと刈った後のすっきりした土地を見るのが気持ちよくて、やめられなくなるのかもしれません。
この地域の話ではありませんが、ある田舎にすむ知人が言っていました。「周りの人たちは草にも虫にも興味を持たない。虫は、ただ虫と呼び、草はただ草と呼んでいるだけ」と。確かに、刈り払い機を使ってなにもかも一緒に刈っていたら、虫の存在には気がつかないし、草の違いはわからなくなるでしょう。
江戸時代、幕府や藩は、農民に物を考えさせず、反抗などしないようにひたすら働かせることを考えていたといいます。そのひとつの方法として、草取りを奨励したと聞いたことがあります。もしかしたら、当時の習慣が今に続いているのかもしれません。
ただし、昔は草は大事な飼料であり、肥料でした。このあたりに多い棚田では、低い「ボタ」を境に、他人の田畑と接しています。その「ボタ」の草は、上下に分けて半分ずつ刈るのが昔からのしきたりだと聞きます。当時は、「半分しか刈ってはいけない大事な草」が、今は、「半分は刈らなければいけない邪魔もの」になっています。
8年たった今も、私の家とその周辺は、相変わらず雑草と雑木に囲まれています。ほんとういうと、以前より雑草は好きでなくなり、もっと除草に励んで、気に入った植物を育てたいと思ってはいるのですが、なかなか手が回らず、結局あまり変わらない風景のままです。
とくに、昨年の異常な暑さで草の伸びは例年以上でした。あっというまに伸びて、せっかく育てた野菜が消えてしまうことも。あたりまえのことですが、せめて野菜が生長するまでは、きちんと周りの草を刈ってやらないといけないのだなあ、と痛感しました。今年は、買っただけで使っていない電動刈り払い機を使うことにしようと思っています。
私の理想の畑(&庭)の姿は、草木染めできる雑草と野菜と花とハーブが共存していること。作物や花は草に負けないで、でも草も元気よく育つ理想の場所に、今年は一歩近づきたいと思っています。
「田舎の人は草刈りが好きです。草刈りをしないと一人前と認めてもらえない。だから田舎の人とうまくやっていくには草刈りは欠かせません」
私も、来たばかりのころは、近隣の人々が陰に陽に発する、「草刈りしろ!」攻撃にたじろいだものです。家の周辺の草を私たちがいつ刈るか、見張られているように思ったものです。
京都のアパートメントの一階に住んでいたとき、ある年からアパートの敷地内の空き地の手入れがされなくなりました。この空き地には、ビワやウメ、そのほかあまり大きくない木々が植えられ、芝生と雑草が混在していました。窓越しに、まず最初に緑が目に映るというのは都会ではかなり贅沢なことで、住居をここに定めた理由のひとつは、この緑地にありました。
手入れされなくなったときから、緑地の雑草はみるみるうちに伸び、すぐにベランダにまではびこりました。当時は名前を知らなかったのですが、たぶん、カナムグラや洋酒ヤマゴボウだったと思います。
私は、ベランダの手すりに絡みついたこれらのつる性植物を眺めるのも、また好きになりました。引越しするときまで、切らないでいたように思います。アスファルトの隙間で元気よく伸びるタンポポや桜草にも、心惹かれたものです。
そんな感覚のまま田舎に越してきたので、田舎の人の、「草すなわち、駆除するべき敵」という感覚には、違和感を覚えたものです。
下の林に家人が丸太でベンチを作り、地元で知り合った女性と座ってお茶しているときでした。私が「ああ、気持いい!」というと、彼女は目の前にある小川の向こう岸の崖を指差して、「あの雑草がなければね」と言い足しました。一瞬言葉に窮しましたが、私が、都会にいたときは雑草であっても大事な緑だったのだということをぼそぼそ話すと、彼女は怪訝そうな顔したきり、黙りました。
また聞きした話ですが、昔は崖(このあたりでは「ボタ」といいます)に豊富にあったワラビやゼンマイが減ってきているそうです。草をしょっちゅう刈るせいで、大事な山野草まで絶えてしまったのだそうですが、この話をしたのは地元のおばあさん。彼女は「刈り過ぎたらよくないと分かっているけれど、近所の手前、刈らずにいることができない」と付け加えたそうです。
こんな話もあります。このあたりは、草を家で刈れない場合はシルバー人材センターに頼んで刈ってもらうのが常です。広い敷地を持っているある人が、敷地内のあちこちの草をシルバーに頼んで刈ってもらいました。きれいに刈り取られた後を見た近所の人が、「あんな北側の、人が見もしない崖までお金を出して刈ることはなかったろうに」と言ったのというのです。
「雑草の種が、自分の畑だけでなく近所の畑にまで飛んでいくのは申しわけない」とか、「草を伸ばしっぱなしにしておくと、蛇やマムシが増えたり、イノシシなどが出没しやすい環境を作るからよくない」というなら、話はわかります。そうした、切実な理由があるから刈るのであろうと思っていた私は、この二つの話を聞いていささかあきれました。
雑草が勢いよく伸びだす季節になると、終日あちこちで刈り払い機の音が聞こえてきます。きれい好きの人は、いったん刈り出すと刈った後のすっきりした土地を見るのが気持ちよくて、やめられなくなるのかもしれません。
この地域の話ではありませんが、ある田舎にすむ知人が言っていました。「周りの人たちは草にも虫にも興味を持たない。虫は、ただ虫と呼び、草はただ草と呼んでいるだけ」と。確かに、刈り払い機を使ってなにもかも一緒に刈っていたら、虫の存在には気がつかないし、草の違いはわからなくなるでしょう。
江戸時代、幕府や藩は、農民に物を考えさせず、反抗などしないようにひたすら働かせることを考えていたといいます。そのひとつの方法として、草取りを奨励したと聞いたことがあります。もしかしたら、当時の習慣が今に続いているのかもしれません。
ただし、昔は草は大事な飼料であり、肥料でした。このあたりに多い棚田では、低い「ボタ」を境に、他人の田畑と接しています。その「ボタ」の草は、上下に分けて半分ずつ刈るのが昔からのしきたりだと聞きます。当時は、「半分しか刈ってはいけない大事な草」が、今は、「半分は刈らなければいけない邪魔もの」になっています。
8年たった今も、私の家とその周辺は、相変わらず雑草と雑木に囲まれています。ほんとういうと、以前より雑草は好きでなくなり、もっと除草に励んで、気に入った植物を育てたいと思ってはいるのですが、なかなか手が回らず、結局あまり変わらない風景のままです。
とくに、昨年の異常な暑さで草の伸びは例年以上でした。あっというまに伸びて、せっかく育てた野菜が消えてしまうことも。あたりまえのことですが、せめて野菜が生長するまでは、きちんと周りの草を刈ってやらないといけないのだなあ、と痛感しました。今年は、買っただけで使っていない電動刈り払い機を使うことにしようと思っています。
私の理想の畑(&庭)の姿は、草木染めできる雑草と野菜と花とハーブが共存していること。作物や花は草に負けないで、でも草も元気よく育つ理想の場所に、今年は一歩近づきたいと思っています。
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