稲武の隣村設楽町には、駒ケ原、沖ノ平というふたつの開拓集落があります。国道153号線からそれてしばらくいったところに位置し、どちらも広々した畑や牧草地のある美しい集落です。
このふたつの集落は戦後、「愛知県段戸山麓戦後開拓集落」として拓かれた地域。昨年春、この集落に住むお年寄り達から取材した聞き書き集が、出版されました。

集落に住む知人からこの本をいただき、とても興味ぶかく読みました。戦後から今に至る彼らの暮らしぶりと生き方が、方言そのままの口調を残した文の随所にうかがえます。そして、戦後をたくましく生きてきた彼らの姿に、感嘆をおぼえます。
開拓がはじまったころは、満州からの引揚者が主でした。彼らは食べるために山でできることを次つぎにこなします。きこり、木ん馬ひき、土方仕事、炭焼き。そういう仕事をしながら、田畑を開墾し、広げていきます。
平地の荒地を耕すのとは違って、木を切り、切り株を掘り起こしてつくるのですから、相当の苦労です。
「えらいとこきちゃったなあと思って。はっはっは。ほんとっに話にならんな。山ん中だもんな。木ばっかだな。」
重労働に比して食べられる食物はわずかです。
「食べるときはみんな一緒。米のご飯じゃないわ。農協でコーリャンだか米の落いたやつをまた拾って持ってきたり、うどん屋のうどんの割れたような、ボロボロのやつ、そんなのを食べとった」
「マムシは(中略)生の骨がうまいんだ。皮むいたらまだポンポン跳ねとる。それを生で食ったよ。イボのあるヒキガエル(中略)割合白い肉でうまかった。そりゃあ何もないもん。今どきくう気せんよ。ウサギもわなで捕ってのう。何にも肉がねえもんだい。のら犬を叩いて焼いて食ってみたり。」
彼らは、さまざまの農産物の栽培を試み、失敗と成功を繰り返しながら、しだいに暮らしの基盤を築き、今に至ります。
「キャベツ作って、下の昔の農村の人を追いのこして、よそから来た開拓者が、こういういい農家になったということは、ちょっと大きな顔ができるわなあ。来たばっかの時は、あんな山の中へ入っても、生活ができんて、ほんとみんな言ったもんな。まあ今じゃあ下じゃあ暮らせんなあと思う。ここだでこれだけの事ができたなと。俺ぁ五○年足らずで、これだけやっただなと。」
駒が原、沖の平地区にも、離村した人もあり、耕作放棄地もあると聞きますが、和牛の牧場や花卉栽培農家、高原キャベツ専門の農家など、地の利を生かした農業にいそしんでいる方々がたくさんおられます。
一方、彼らの言う「下の村」にあたる稲武地区も設楽町も過疎化が急速にすすみ、専業農家はほとんどなく、兼業農家も、どんどん減っている現状だと聞きます。
最後に、もっとも印象に残った言葉を紹介します。、
「お金のない生活はものすごいあったわ。日銭なんてなくても暮していけるもん、ここなら。自分で穫ったもん食べて贅沢せにゃあね。何でも自分でつくりゃあいいんだからね。そうやって暮してきたからね」
つらい日々であっても、自分ががんばりさえすれば、食べるものも着るものもなんとか直接手に入る、とおもえるのは、とても心づよいことだろうとおもいます。
20数年前の話になりますが、当時20歳そこそこの若い女性が、結婚したら住みたい場所として、「歩いてすぐのところにコンビニのある場所」を挙げました。
彼女に言わせれば、コンビニは「大型冷蔵庫兼収納庫」。自宅が狭くてもコンビニがあれば便利で豊かな生活ができる、というのです。私は彼女に向かって、「それはほんとの豊かさではないわ」と反論しましたが、説得には至りませんでした。開拓者の妻として、夫と苦労を共にしてきたこの婦人の力強い言葉を、もしあのときの彼女がきいたら、彼女はどうこたえたかしら。
このふたつの集落は戦後、「愛知県段戸山麓戦後開拓集落」として拓かれた地域。昨年春、この集落に住むお年寄り達から取材した聞き書き集が、出版されました。

集落に住む知人からこの本をいただき、とても興味ぶかく読みました。戦後から今に至る彼らの暮らしぶりと生き方が、方言そのままの口調を残した文の随所にうかがえます。そして、戦後をたくましく生きてきた彼らの姿に、感嘆をおぼえます。
開拓がはじまったころは、満州からの引揚者が主でした。彼らは食べるために山でできることを次つぎにこなします。きこり、木ん馬ひき、土方仕事、炭焼き。そういう仕事をしながら、田畑を開墾し、広げていきます。
平地の荒地を耕すのとは違って、木を切り、切り株を掘り起こしてつくるのですから、相当の苦労です。
「えらいとこきちゃったなあと思って。はっはっは。ほんとっに話にならんな。山ん中だもんな。木ばっかだな。」
重労働に比して食べられる食物はわずかです。
「食べるときはみんな一緒。米のご飯じゃないわ。農協でコーリャンだか米の落いたやつをまた拾って持ってきたり、うどん屋のうどんの割れたような、ボロボロのやつ、そんなのを食べとった」
「マムシは(中略)生の骨がうまいんだ。皮むいたらまだポンポン跳ねとる。それを生で食ったよ。イボのあるヒキガエル(中略)割合白い肉でうまかった。そりゃあ何もないもん。今どきくう気せんよ。ウサギもわなで捕ってのう。何にも肉がねえもんだい。のら犬を叩いて焼いて食ってみたり。」
彼らは、さまざまの農産物の栽培を試み、失敗と成功を繰り返しながら、しだいに暮らしの基盤を築き、今に至ります。
「キャベツ作って、下の昔の農村の人を追いのこして、よそから来た開拓者が、こういういい農家になったということは、ちょっと大きな顔ができるわなあ。来たばっかの時は、あんな山の中へ入っても、生活ができんて、ほんとみんな言ったもんな。まあ今じゃあ下じゃあ暮らせんなあと思う。ここだでこれだけの事ができたなと。俺ぁ五○年足らずで、これだけやっただなと。」
駒が原、沖の平地区にも、離村した人もあり、耕作放棄地もあると聞きますが、和牛の牧場や花卉栽培農家、高原キャベツ専門の農家など、地の利を生かした農業にいそしんでいる方々がたくさんおられます。
一方、彼らの言う「下の村」にあたる稲武地区も設楽町も過疎化が急速にすすみ、専業農家はほとんどなく、兼業農家も、どんどん減っている現状だと聞きます。
最後に、もっとも印象に残った言葉を紹介します。、
「お金のない生活はものすごいあったわ。日銭なんてなくても暮していけるもん、ここなら。自分で穫ったもん食べて贅沢せにゃあね。何でも自分でつくりゃあいいんだからね。そうやって暮してきたからね」
つらい日々であっても、自分ががんばりさえすれば、食べるものも着るものもなんとか直接手に入る、とおもえるのは、とても心づよいことだろうとおもいます。
20数年前の話になりますが、当時20歳そこそこの若い女性が、結婚したら住みたい場所として、「歩いてすぐのところにコンビニのある場所」を挙げました。
彼女に言わせれば、コンビニは「大型冷蔵庫兼収納庫」。自宅が狭くてもコンビニがあれば便利で豊かな生活ができる、というのです。私は彼女に向かって、「それはほんとの豊かさではないわ」と反論しましたが、説得には至りませんでした。開拓者の妻として、夫と苦労を共にしてきたこの婦人の力強い言葉を、もしあのときの彼女がきいたら、彼女はどうこたえたかしら。