アンティマキのいいかげん田舎暮らし

アンティマキは、愛知県北東部の山里にある、草木染めと焼き菓子の工房です。スローライフの忙しい日々を綴ります。

マンガ「あしたも着物日和」

2024-02-14 00:13:17 | 映画とドラマと本と絵画

  一昨年末ころから、友人に着付けを習い始めました。と言っても、習うのは月一回。普段の練習は皆無なので、全く上達しないまま一年たちました。でも、ごくたまに着物を着て出かけたり、それをSNSに投稿するようになったりするうちに、だんだん恥ずかしさは消え始め、下手でも着物を着るのが楽しいとおもうようなりました。

  先日、お若いころから着物が大好きで、上手に着こなしていらっしゃる知人から、漫画家の近藤ようこが書いた「明日も着物日和」をもらいました。

  私よりも少し若い彼女の着物遍歴が、あれこれの知識とともに描かれていて、ごくごく初心者のわたしには、興味深いものでした。

「絽は六月末から着てもいいけど 紗や麻はだめ? 単衣の時の半襟は絽ちりめん? 大島紬を真冬に着るのはいけないの?」

「誰が決めたルールなんだろ こういうルールを守らないとどうなるんだろ 街を歩いている時に笑われるのかなー でも誰に? なんのためのルールなんだろ  伝統ってなに?」

  私の子供のころまでは、女性たちはほぼ着物でした。母が庭先で洗い張りしていたことも覚えています。当時の映画やニュース映像を見ると、女性たちの着物の襟もとはやわやわっとしていて、今のようにピシッとなどしていないし、うなじはさほど開けていない。母も祖母も、なんでもなくササっと着ていました。当時は日常着ですものね、あたりまえ。

  ある時から一気に和服が高級なイメージにかわり、着付けをちゃんと習って、それなりの和服を持っていないと、そんじょそこらの人は着られないイメージにかわっていきました。着物を着たいと思ってもなかなか踏み切れなかったのは、そのせいもありました。着付け教室の隆盛が、かえって着物の敷居を高くして着物離れを助長した気がしていました。

  作者は80年代に、ある画期的な和装に関する本を読んで、得心します。

「この本で一番感銘をうけたのが 今の着物のルールは戦後作られたものが多いとか」

「そうかー 暑ければ四月から単衣でいいんだー 暑がりのわたしには助かるー」

  最近は、タートルネックのセーターにベレー帽、ブーツで和服を楽しむといった人も増えてきて、ずいぶん和服の門戸が広がりましたが、まだまだ、「ルール」なるものは厳然としてあるようです。着物を着るようになって、「着物警察」ということばも知りました。

  先日もらった古い着物のなかに単衣がたくさんあったので、4月頃から着たいなあ、と思っていたところでした。わたしも、ルールなるものを無視して、着物生活を楽しもう、とこの本を読んで決めました。

 

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映画「ひとにぎりの塩」

2024-02-05 22:32:42 | 映画とドラマと本と絵画

  能登半島で伝統的に行われている塩づくりのドキュメンタリーを見ました。制作年は2011年。正月の震災の後、この映画の監督の石井かほりさんが、復興支援を目的とした上映会の開催を推進していると知ったので、友人が催しているスローシネマカフェにて上映の運びとなりました。

****

<映画の解説>

“奥能登”と呼ばれる能登半島の最北端で、日本最古の「揚げ浜式」という方法でつくり続けられる「揚げ浜塩」の職人たちの姿を追ったドキュメンタリー。監督は「めぐる」の石井かほり。ナレーションを「インスタント沼」のはなが担当する。かつて日本各地で生産されていた塩は“より安価で安定した塩を自国で供給すること”を目指し、1905年、国による専売制が始まった。以後、戦争や戦後の高度成長で大量需要を満たすための技術開発が繰り返された結果、古来より続く製塩技法「揚げ浜式」はあえなく姿を消す。ところが、日本で唯一「揚げ浜式」で作り続けられていたのが雄大な日本海を臨む“奥能登” 珠洲であった。石川県珠洲市仁江海岸。ここでは、海水を汲み上げて、天日と風の力を借りて乾燥させ、平釜で昼夜焚き上げるという途方もなく手間のかかる製法で塩づくりが行われている。塩づくりの家に生まれ5代目として唯一、珠洲で一家相伝で揚げ浜塩を守ってきた角花豊さんと、息子で6代目の洋さん。二人にとって伝統の技を守るとはどういうことなのか……。
<石井監督からのメッセージ>
『塩は今や大量生産できる状態にあり、そこでなぜ手間暇かかる「揚げ浜式」による塩づくりが行われているのか、作り手の想いを記録しました。
そして、この度の能登半島の震災では、その塩田が津波により浸水してしまったこと、まだ連絡が取れずにいる方がいらっしゃることに胸が詰まる思いです。
どうぞご無事でありますように。そして、再びこの美しい精神性による塩づくりが再開される日が来ますように、と願っています。』
能登半島地震チャリティー自主上映グループ↓
*****
  能登半島先端の珠洲市は、米作りの難しい土地。そこで古くから塩田が作られ、江戸時代には、米の代わりに塩で年貢を納めていたそう。
  
  日本で岩塩は取れません。それで、塩はもっぱら海から採取するしかない。海岸近くでは、各地で昔から塩づくりが行われてきました。森鴎外の「山椒大夫」では、安寿が潮汲みをさせられますが、山椒大夫の屋敷があるのは丹後。能登の西です。稲武の幹線道路国道153号線、別名中馬街道は、「塩の道」とも呼ばれ、海で採った塩を内陸部に運ぶ重要な道でもありました。
 
  しかし、明治時代に専売制が敷かれ、その後、化学的な製法で塩が作られるようになって安い塩が出回り、ミネラル豊富な本来の塩の需要はどんどんなくなりました。専売制のため、製造にも販売にも厳しい制限が加わったこともあって、海辺の人々の生活のタツキであった昔ながらの塩づくりはどんどん姿を消していきました。
 
  90年代、ようやく専売制がなくなり、塩は自由に製造販売できるようになりました。
 
  能登半島で唯一伝統的な塩づくりを続けてきた角花さん一家。お父さんの遺志を継いだ角花豊さんが、窯で海水を煮詰めながらインタビューに答えた言葉が、印象的でした。
  
  「伝統を受け継ぐとかなんとか、そういったことを思ったことはないね。ただ、いい塩を作る。それだけしか思わん」といった意味のことを、淡々と語りました。
 
  珠洲市にはこの映画の撮影当時、浜士と呼ばれる塩づくりに携わる人が次第に増え、観光の担い手にもなっていました。昔ながらの製法のほかに、一気に効率よくミネラル豊富な塩を作る流下式と呼ばれる加工場も稼働を始めました。彼らがこのたびの震災でどのような被害を受け、何より塩田や塩づくりの加工場がどのような壊滅的な状況になったかと思うと、胸がつぶれる思いです。
 
  ところで私は、80年代中頃、伊豆大島でミネラル分豊富な、公社塩とは全く違う塩づくりに挑む人たちがいることを知りました。
 
  彼らは、手間暇のかかる塩づくりを近代的なシステムで効率よく生み出す方法を考え出し、「日本食用塩研究会」として活動していました。仕組みは忘れましたが「タワー塩」という名で知られ、彼らの活動が、日本の塩事情を変えていきました。けれども専売制のもとでは、この塩は販売できず、試作品として会員に頒布するという形しかとれませんでした。私は当時、こちらの塩を舐め、塩がおいしいのだということに初めて気が付きました。現在この塩は、「海の精」という名前で、自然食品などで普通に取り扱われています。
  
  この塩に関する事柄は、こちらでごらんください。
  
  
 
  
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映画「新しき土」

2024-01-18 23:00:12 | 映画とドラマと本と絵画

  1936年の日本映画。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%8D%E5%9C%9F   全く聞いたことのない映画だったのですが、ひょんなことからタイトルと内容を知り、ダメもとでツタヤレンタルで調べてみたら、なんと貸し出し可能の映画になっていました。

  主演は小杉勇と原節子。ヒロインは良家の娘で、小杉勇は農家の出。親同士の約束で、彼は幼い時にヒロインの家に養子として迎えられ、ゆくゆくはヒロインと結婚して家督を継ぐことになっていました。

  昔はご大家によくあったパターン。親戚筋かあるいは血縁でなくても、優秀な婿を確保するため、幼い時に養子としてまず縁組してしまう。本人たちの意志やお互いの好悪よりなにより、家の存続が大事だった時代の慣習です。

  小杉は養家の出資でヨーロッパ留学を果たし、帰国。ヨーロッパの個人主義や自由主義の影響を受けた彼は、自分の意志とは関係なく果たさねばならない婚姻に、難色を示すようになっています。

  原節子の方は、小杉を兄のように慕い、彼の帰国を心待ちにしています。彼女は、婿のいない日本で花嫁修業にいそしみます。

  小杉とともにドイツから同行したジャーナリストの女性に小杉は好意を持っているようなのですが、その女性は原節子や早川雪州扮する彼女の父親と接するうちに、ヨーロッパの個人主義や自由主義とは異なる日本独特の「思想」に関心を持ち、彼らの生き方に理解を示し始めます。

  しかし、原節子は、小杉の心変わりにショックを受け、家出。着物に草履といういでたちで噴火口を目指します。彼女の後を追う、小杉。噴煙を上げる火口付近でほんとうに撮影したのかどうか不明ですが、このあたりの撮影はかなり力を入れた様子で、時間も長い。ドイツの山岳カメラマンとして有名な人が撮ったそうで、当時としてはかなりの迫力だっと思われます。

  「新しき土」とは、満州の大地のこと。結局結ばれた二人は古いしがらみから逃れて、新天地満州で再出発、というところで映画は終了。当時の国策映画だと思うのですが、若き日の原節子のお相手が武骨な小杉勇、と言うところがどうもいただけません。展開も強引。でも、当時の人たちには、かなりインパクトのある映画だったのだろうな、とおもわれました。

  この映画は、ある旧家を見学させてもらったときに見つけたチラシで知りました。

   このチラシは、古い針箱の中に丁寧に折りたたまれてはいっていました。チラシには「常盤座」とあったので、多分映画館の名前なのでしょう。針箱の持ち主は、この旧家の現在の持ち主のおばあさま。大正初年くらいの生まれだということなので、映画のできたころは、多分25,6歳。嫁入りしたての頃にご覧になったのか。あの丁寧な畳み方から察するに、映画にずいぶん感銘を受けたのではないかしら。

  親同士が決めた婚約をいったん破棄したあと、新たな気持ちで再び出会って結ばれた二人。当時の人たちには共感するところがあったのかもしれません。

  個人の部屋などない昔の日本のこと。嫁の居場所は大家と言えどもなかったはず。大事なチラシをしまう場所は、針箱しかなかった。などなど、勝手にいろいろ想像をふくらませたことでした。

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本「跳べない蛙」~北朝鮮「洗脳文学」の実体

2024-01-02 23:29:12 | 映画とドラマと本と絵画

  本書「跳べない蛙」の著者金柱聖は、在日韓国人。中学生の時、祖父母とともに北朝鮮に帰国して30数年を北朝鮮で過ごし、その後脱北して韓国にわたり、2018年に本書を刊行しました。

   彼は大学卒業後、大学の教員になったが、辞職後、「作家」になります。

「(北朝鮮の)‘三代にわたる世襲を可能にしたものは何か。それは、かの国が重要視する``宣伝扇動``効果に他ならない。それによって独裁者は‘‘神様‘‘と崇め奉られ、悪行も善行と思わせる。そして、その宣伝扇動効果を高めるもっとも有効な手段こそ、‘‘文学芸術‘‘なのである」

「北朝鮮では群衆を``扇動する‘‘手段として、文学芸術作品が利用されている。そして、宣伝扇動のために作品を創作するのが、‘北国の作家‘‘たちだ」

  「三権分立」は名ばかりで、朝鮮労働党委員長の金正恩のもとにすべての国の組織があり、朝鮮労働党もその支配下にあるのですが、その労働党の中にある「宣伝扇動部」に、新聞も放送局も文学芸術の組織(朝鮮文学芸術総同盟)も組み込まれています。

  「作家」は、この総同盟の一員としての正式な同盟員である「現役作家(本業作家)」と、候補同盟員である「現職作家(兼業作家)」、さらにその下の、「群衆文学通信員(アマチュア作家)」に分かれて、活動します。筆者の、作家としての最終的なポジションは、「現職作家」でした。

  執筆するジャンルはいくつかに分かれ、変更も選択も自由なのですが、唯一、金氏一族の物語を創作することは、特別に選ばれた作家だけなのだそうです。

  筆者たちは、こうした創作家たちの作品を「おべんちゃら文学」と陰で評しますが、国内では高く評価され、一流作家の名をほしいままにし、裕福な生活が可能になります。

  国内ですら移動の自由も居住の自由も認められていない北朝鮮ですが、作家になれば国内を通行手形なしに自由に動き回れて、有給休暇がとれる。ほかにもメリットはいくつもあるということで筆者は現役作家を目指したのですが、種々の理由で、実力は認められても目的の地位を獲得するための受賞は果たせず、結局筆を折ることになります。

 それにしても、90年代には政策の失敗のせいで餓死者が300万人以上も出し、冬の暖房や煮炊きのための薪すら手に入らないほど困窮を極めている北朝鮮で、なぜクーデターも暴動も起きないのか。とにかく物凄い監視体制があるせいなのだろうとは思っていましたが、学校教育のみならず、あらゆるジャンルや場面で宣伝扇動工作を怠らないからなのだと、本書を読んで改めて知りました。

「あれは、韓国の「北韓大学院大学」という大学院で修士課程に通っている時だった。韓国人の若い(といっても30代)女性たちに“在日帰国者”について話をしたことがあった。彼女たちが興味があるのは“洗脳教育”だというので、私は冗談半分に「北朝鮮式の宣伝扇動であなたたちを泣かせてみせましょうか?」と言った。

「金さん、それは無理でしょう。私達は北韓問題の専門家なんですよ? もし泣かすことができたら、夕ご飯は私たちが奢(おご)りますよ」

そして先述の奇跡の物語、つまり金日成氏が送った“初の教育援助費と奨学金”ストーリーをより壮大に語った。話し始めて30分ほどが過ぎた時だった。2人の女性がハンカチで目じりを押さえ、しくしくと泣き始めた。残りのひとりに至っては、ほぼ嗚咽に近い鳴き声をあげていた。彼女が一番たかをくくっていた人だった。

「金さん、もうやめてください。金日成さんて、本当に温かくて人間味のあるお父さんのような方だったんですね。私、感激しました」

冗談で話していた私ですら、驚くほどの効果だった。話を聞くまで、彼女は金日成氏を呼び捨てにしていたのに、そこまで簡単に“洗脳”されてくれるとは思わなかった。おかげで私は、高級料理を奢ってもうらことができたのだが――。

人様の感性をくすぐる、そしてその感性を論理化していく過程が、いわゆる“洗脳”ではないだろうか。」

(『跳べない蛙』「第2章 祖国」)」

彼女たちは北朝鮮について一般市民より深く学んでいる人たちなのに、簡単に筆者の語る嘘に騙されました。甘すぎる。ぞっとする話です。

「地上の楽園」と宣伝され、戦後の1960年くらいから始まった北朝鮮への帰還事業。筆者は70年に、朝鮮総連の幹部だった祖父の強い勧めで、祖母とともに同行します。でも、北朝鮮についた直後から、楽園とは程遠い北朝鮮の現実に嫌でもさらされることになります。

筆者が帰還したときより数年前ころ、高校生だった私は、同じ中学校で同年だった在日の青年と知り合いになりました。家が近かったので、訪ねたこともありました。彼の父親は済州島出身で、戦中に強制連行で連れてこられ、岐阜県御嵩町の亜炭鉱で採掘に従事していたとのことです。その後、私のすんでいた町に移住。彼の姉は朝鮮大学校に通っていて、私と別の男友達と彼の三人が、彼女のおごりで会食したこともありました。

その彼が当時つぶやいた言葉。

「寂しい時、つらい時、深夜にひとりで平壌放送を聞いている」

口調はなんとなく自嘲的で、暗かった。その時私が何と返事したかは覚えていません。

その後しばらくして、彼とは音信が途絶え、私は大学入学のため京都に引っ越し、そのままに。何年かたった頃、彼と親しかった男友達に消息を尋ねましたが、一家は町からいなくなり、その男友達も既に彼とは付き合いがなくなっていました。のちに、二度ほど出席した同級会や同年会でも、だれに尋ねても行方は分からなくなっていました。

もしかしたら、彼は帰国したのかもしれない。この本を読んで、私は想像が確信に変わり始めています。

本書によれば、帰還事業で北朝鮮に渡った人の90%は、韓国の出身者だったそうです。つまり、ほんとの「故郷」に帰ったのではなく、北朝鮮や朝鮮総連が「宣伝扇動」した結果、在日の人たちのあこがれの地となった「地上の楽園」である「祖国朝鮮」に渡ったのでした。

書いていて思い出しましたが、彼は「本を書くなら、タイトルが決めてある」というようなことを言っていました。そのタイトル、うろ覚えですが、たしか「悪党」だったような記憶が。頭のよかった彼は、もしかしたら、北朝鮮で、本書の作者のような道を歩んだのかもしれません。

北朝鮮の内実は、近年様々な報道で少しずつ明らかになりつつありますが、本書にはこれまであまり知られていなかったと思われることが、多々描かれています。階層をとっぱらった「社会主義国」のはずの北朝鮮は、あらたな身分制度を作り、世襲制を敷いてるそうです。知れば知るほど、驚くようなことがまかりとおっていて、もしかしたら古今東西こんなひどい国はなかったのではないだろうかとおもうほど。そんな国が生きながらえたのは、米中ソの三つの大国に挟まれて、そのバランスの中にいたからなのでしょう。

ともあれ、北朝鮮には、まだまだ暴露されていない事実はやまとあると思いますが、その一端を覗くことができました。

 

 

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映画「アルジェの戦い」

2023-12-23 23:12:18 | 映画とドラマと本と絵画

   70年代に京都で見た、と思い込んでいましたが、どうも見ていなかったらしいので借りました。https://mihocinema.com/algeri-tatakai-81090

   アルジェとはアルジェリア。50年代から60年代初頭にかけての、フランスからの独立運動を描いた作品です。映画の中で、「フランスとアルジェは130年続いた仲」と言っていたので、植民地時代が長い。モスクを取り壊してキリスト教の教会に建て直したりしていたそうで、抑圧の歴史も長かったろうと想像されます。

   ヨーロッパ人の居住区と現地のアラブ人たちの居住区は分かれていて、ヨーロッパ人は圧倒的に裕福な暮らしをし、アラブ人は差別され、貧しい暮らしを余儀なくされています。

   主人公は青年アリ。ヨーロッパ人からひどい屈辱を受け、仕返ししたために投獄されます。その後、地下組織であるアルジェリア人民解放軍に入ります。解放軍は、フランス政府との間での平和的な交渉を望みますが、応じない政府に対して、活動は過激化。アリはテロリストとして、解放軍の重要人物になっていきます。

   頻発するテロに危機感を持ったフランスは、軍人に強い権限を与えて制圧に乗り出します。テロが起き、死者が出ると、軍はアラブ人を大量に検挙し、その中のめぼしい人物を拷問にかけては、反政府勢力の組織の実態とアジトをつかんでいきます。

   組織はいったん壊滅状態に。しかし60年代初め、突如起きた民衆の運動がきっかけで、独立を勝ち取ります。

   映画はモノクロ。カスバの階段と白壁が、印象的です。軍隊に追われるテロリストや活動家たちは、カスバの細い階段を駆け抜け、白い壁の向こうへ。そこで、彼らはかくまわれ、生き延びます。

   銃撃シーンやモブシーンはニュース映像なのかと思うくらい緊迫感がありました。映画を作ったのは、イタリアとアルジェリア。イタリア映画もフランス映画も力があって面白かった時代の映画の一つなのだろうなと思いました。

   

   

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映画「無言歌」

2023-08-15 16:30:50 | 映画とドラマと本と絵画

   監督は王兵。中国のドキュメンタリー映画の監督ですが、彼にとっては初の長編劇映画だそう。舞台は、文化大革命直前、反右派闘争によって捕まった人たちの収容所です。

   ゴビ砂漠にある収容所は、穴倉。草も木も生えていない土地で労働に従事する人たちは、さまざまな理由によって投獄されている。ついこの間まで反右派闘争の先陣を切っていた人もいる。若い人だけではない。老人も病人も穴倉に置かれたベッドだけが自分の場所。わずかな食べ物だけで生き延びるために熾烈な争いも起きる。人肉嗜食の疑いをかけられた受刑者もいる。見渡す限り薄茶色の砂漠の風景の中で、黙々と働く人たち。党の方針は突然変わることもあり、看守たちも翻弄される。

「1960年、中華人民共和国の反右派闘争によって、多数の人間が甘粛省の砂漠にある政治犯収容所に送られ、強制労働についていた。董建義(ヤン・ハオユー)は、自分の死体を妻が持ち帰ることのできるように手配してほしい、と李民漢(ルウ・イエ)に言い残して命を落とす。その後、董顧(シュー・ツェンツー)が夫を探して上海からやって来る。彼女は夫の死を知らされ、泣き崩れる。数えきれない人間が葬られている砂漠で夫の死体を見つけることは不可能だと周囲の誰もが考えたが、彼女だけは決して諦めることなく、夫の死体を探し続ける。」(無言歌 (映画) - Wikipedia

   セリフは少なく、音楽はない。文字通り「無言」歌。「歌」は彼らの心の中だけにあるということなのだろうか。暗く、単調なのに、つい見続けてしまいました。遣る瀬無い。

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「懐かしい未来~ラダックから学ぶこと」「地域から始まる未来~グローバル経済を超えて」

2023-08-07 16:24:00 | 映画とドラマと本と絵画

  20年ほど前に作られた映画を見る機会を得ました。

  この映画は、ヘレナ・ノーバーグ=ホッジさんの「懐かしい未来の本」の映画版。

「ヒマラヤの辺境ラダックにおけるつつましくも豊かな暮らしと、そこに襲い掛かった近代化と開発の嵐。貨幣経済に頼らずに、ほとんどすべての生活を自給自足によってまかなっていた理想郷に突然入り込んだグローバリゼーションの弊害。わたしたちの中に貧困はありませんと胸を張っていた人々が、わずか数年で貧困にあえぎながら援助を懇願する。ここには近代化、西欧化の根本的な問題点が、まるでむき出しになった地層のようにあらわにされています。貨幣経済が貧富の差をもたらし、グローバル経済が本来不要なものへの欲求を生み出し、人々から時間と幸福を奪う。
 著者は失われた幸福を惜しむだけではなく、グローバリゼーションの本質と、それを超える道を実証的に明らかにすることを決意。ラダックに息づく深い伝統的な智恵が、その新たな道を進む鍵であることを示唆しています。 (NPO法人懐かしい未来ウェブサイトより) 」

   映画は、「近代化と開発の嵐」に見舞われるラダックの現在(21世紀当初のころ)と、ラダックの人々の暮らしの様子を紹介しながら、例えば日本では160年かかって変化したところを、ラダックではたった20年で暮らし方を変えざるを得なくなった人々の戸惑いを描いています。

   標高3000m以上の乾燥地帯なのに、ヒマラヤの雪が数か月の間だけ溶けて流れるのを利用して灌漑水路を作り、豊かな農地を保ってきたラダックの人々。貧富の差はなく、お互いに労働力を提供しながら暮らしを支えてきました。貨幣の介在はほぼなくて、時給自足が基本。村の決め事は男がつかさどるのですが、女たちの発言は大事にされていました。忙しくても、余暇の楽しみは多く、満足の日々が続いていた、と、映画は語ります。農村の人たちの笑顔は屈託なく明るい。女たちはみな美しく、子供たちはかわいい。

   しかし、1980年代、ラダックにも西欧化の波が押し寄せ、安い小麦が流入。道が作られ、街からの物資が運ばれるようになりました。そして同時に、街は汚くなり、人々はけんかをするようになり、地域のつながりは薄れます。貧乏人も生まれ、人々は自分の暮らしに誇りを持てなくなります。たぶん、世界中どこの村でも過去に起きたことが、ラダックでは短い期間に急速に起きたのです。

   学校で教えられるのは、英語。近代化をよしとする考え。ワーズワースの詩。西欧世界で流通する言葉と思想と教養を子供たちは学びます。ラダックの伝統は古臭くて役に立たないものとして、追いやられます。

   「人々は専門的な知識を得ることに懸命になり、幅の広い体験を大事にしない」映画の中で、ラダックの仏教者だったか誰かの語った言葉です。

   頭でっかちで、生きるための知恵に欠ける現代人。このままでは、環境も人間性もぼろぼろになりそう。そう考えた著者が始めた活動がIsec。その活動の様子を30分ほどの映像にまとめたのが後半の「地域から始まる未来~グローバル経済を超えて」です。「環境問題も貧困の問題も差別の問題も、どれも、大きな問題の別の現れ方に過ぎない」と語った、登場人物の誰かの言葉が、まさに的を射ていると思いました。

   

   

 

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映画「魂の行方」

2023-07-12 00:15:26 | 映画とドラマと本と絵画

  2017年のアメリカ映画。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%82%E3%81%AE%E3%82%86%E3%81%8F%E3%81%88_(%E6%98%A0%E7%94%BB)舞台はアメリカ北部と南部の境のあたりにあるらしい田舎町。その町にある古い教会の牧師が、イーサン・ホーク扮する主人公です。彼は息子をイラク戦争で亡くし、妻に去られた孤独な男。アルコール依存症になっています。

  その彼のもとへ、一人の女性信者から、夫に会ってくれと頼まれます。彼女の夫は環境活動家。精力的に各国の調査や反対活動に携わっているのですが、妊娠した妻に、「子を産むな」と強く迫っているというのです。理由は、急激な異常気象に対しての不安。将来子供が成人した時に、彼はきっとひどい世界で生きざるを得ず、そんな世界に送り込んだ父母を恨むだろう。子供にそんな思いをさせたくない。彼の懸念には十分現実味があることを、牧師は理解します。

  妻の要望は、絶望の底に沈んでいる夫を助けること。でも、牧師は、地球と人類の未来に絶望しか見いだせない夫を説得するすべを持ちません。

  舞台は、田舎の教会と彼の部屋、主人公の属する大きな教会、若い夫婦の家、あとは周辺の公園などだけ。登場人物は少なく、お金はたいしてかかっていない。でも映像がすばらしい。色調をおさえ、撮られるものはなんてことないのに、センスがいい。一つのショットを映す時間も、よくよく計算されているように思う。

  激しくなる一方の気候変動と、大企業による環境汚染。子供たちに豊かな地球を残す、なんてほぼ不可能としか思えなくなりました。世界を造った神に対する冒とくと言った文言も出てきました。一方、人間がここまで追い詰められているのに、神は救いの手を差し伸べないとの嘆きも。ノアの箱舟の話も出てきます。

  最後は、この不安な時代を生きる私たちに、「あなたたちはこれからどうするのだ」との問いを突き付けているように感じました。重い映画でした。

  

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映画「ラストレター」

2023-02-27 22:09:58 | 映画とドラマと本と絵画

  「チイファの手紙」の日本版。ラストレター (映画) - Wikipedia 岩井俊二監督が、中国、日本、韓国の三つの国で、同じ題材の映画を撮りたいと考えてできた、その二つ目。筋はほぼ同じ。出だしはちょっと違います。中国では葬式、日本版は初七日か忌明けらしい。

  中国版だけを見ていた時は気が付かなかったのですが、日本版の方は不要の部分がそぎ落とされていて、見やすくなっていました。不要だったな、ということが日本版を見てわかりました。

  ヒロインは妹役の松たか子なのですが、中国版に比べると人物造形が明瞭で、わかりやすい。その分、神秘的な部分が消え、ヒロインというより、広瀬すず扮する彼女の死んだ姉の娘(姪)のわき役に思えました。中国版はこの娘とヒロイン(チイファ)の娘(従妹同士)とがぼんやり重なるかのような印象でしたが、日本版はきちんと描き分けていて、広瀬すずの美しさ、けなげさを全面的に前に出している感じでした。

  中国版と違っているのはもう一つ。松たか子の死んだ姉と暮らしていた得体のしれない男(豊川悦司)と、小説家(福山雅治)とのシーン。中国版では、男の方は、小説家や死んだ妻に対するコンプレックスをあらわにして応酬し、挙句の果て殴り合いになったのですが、日本版にそのシーンはありませんでした。国の事情を考慮したのかな。

  つぎは、韓国で撮るとの話。どんな映画になるかに興味はありますが、監督がなぜ、同じあらすじの映画を三か国と撮りたいと思ったのかは、推測できません。

  

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映画「チイファの手紙」

2023-02-07 23:44:07 | 映画とドラマと本と絵画

 岩井俊二監督の2018年公開の映画。中国が舞台で、役者もすべて中国人。https://www.bing.com/search?q=チイファの手紙

 映画は葬式から始まります。喪主は中学生か高校生くらいの女の子と小学生くらいの男の子。死んだのは彼らの母親。その母親の妹・チイファがヒロインです。彼女は姉のところに届いた通知で中学の同級会が開かれるのを知り、会に出席します。そこで出会ったのは、姉を好いていた男子同級生。彼から声をかけられた彼女は逃げるようにしてその場を去ります。

 ところが帰宅後、チイファは彼にもらった名刺の住所あてに、姉に偽装して手紙を書きます。それから始まる二人の文通。

 実は、チイファは、中学校時代、彼のことが好きで告白するのですが、一途に姉を想う彼に一蹴されたことがあります。だから、姉に扮して彼に手紙を書くことは、彼女にとっては果たせなかった恋が実ったかのような錯覚を持たせてくれるひとときだったのです。夫と不仲というわけではなく、家庭はほぼ円満なのに、ひそかな楽しみにのめりこんでいきます。

   纏綿とした情緒が漂ういい映画でした。岩井俊二の映画は「Love Letter」しか見ていませんが、あのせつない雰囲気によく似ていました。子供たちもかわいい。街の様子もいい。監督は、この映画を、日本、韓国、中国でそれぞれ撮りたい、といっているそうで、その第一弾がこちら。第二弾の「ラストレター」は、「チイファの手紙」公開の2年後の2020年にできています。検索したら、あらすじは同じ。三つの国でそれぞれ撮ることにどんな意味があるのか、ちょっと想像できません。でも、近々見ます。

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