「私的な財津和夫論」第27回は、「三島ニヒリズム」です。
27 三島ニヒリズム
作家、三島由紀夫は1970年11月に遺稿となった「豊饒の海」4部作の最終第4巻「天人五衰」を書き上げて出版社に送った後、三島の私的な右翼思想集団「楯の会」会員とともに楯の会仕様の軍服姿で市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部に赴き、総監室に総監を人質にして立て籠(こも)ったと言われている。
改憲論者の三島は、かねてから国際紛争を解決するための手段としての戦力を保持しないとした憲法前文、9条の精神と、実質軍隊機能維持の自衛隊とは法解釈上共存しえないと主張して、この日同総監室バルコニーから眼下の自衛隊員に演説でクーデターを促した。
この模様はそのままニュースでテレビ中継されて、演説のあと、自衛隊員の協力を得られないことを悟ると、三島は総監室に戻り自決をした大変ショッキングな事件だった。
遺稿の「豊饒の海」4部作は、「輪廻」つまり「生まれ変わり」をテーマにした長編小説で、まるで同事件の軌跡、結末を予感させるものであった。三島の遺言であったのかも知れない。
三島由紀夫は好きな作家のひとりだ。思想には協調できなかったが、三島ニヒリズム(nihilism)作品は表現力、描写力、展開力にすぐれて、読みだすと途中で終えることがむづかしいほどの文学的魅力はあった。
財津和夫さんは、92年発刊の当時の雑誌「KANBASE」の特集HEROISMでヒーロー像として「三島由紀夫」をあげている。
本文のインタビューで「精神的かつ個人的な人生観に影響を与えた人物」として「三島由紀夫なんかはかなり影響受けたほうかも知れない」と述べている。
ともに虚弱体質(本人談)の中、三島は「厳しくしかもストイックに生きて心身を鍛えた人で羨(うらや)ましかった」と言う。
音楽と文学と進む道は違っても、ともに芸術至上主義(art-for-art principle)に生きて、求道者(seeker after truth)としてすべてを一途に人生に賭けて自らの時代と価値観をきりひらいていったフロンティアな生き方が魅力的に共通する。
タイプは違うけれど、求道者としての目の輝きはだから同じだ。
三島の自決は、財津さんがチューリップとして東京に出る2年前のことだ。財津さんは「三島自身は、僕の中のビートルズに何も影響を及ぼしていない」と言う。
著名な日本人の究極(ultimate)の人生観、結末は、当時の日本社会に衝撃を与えたけれど、それ以上に三島アジテート(agitate)に対してこれを問題にしなかった自衛隊の統制、管理の徹底に感心したものだ。
三島はただ孤独だったのではないのか。「正論」から一途に目を背(そむ)けることができずに、当時の学生運動(全共闘)とも対峙して論争に挑み、反体制思想側からはその個性は受け入れられて、逆に体制思想の同じ思いを共有するはずの自衛隊からは拒絶されるという、三島ニヒリズムのパラドックス(paradox)な人生を生きた。
そういう三島の取り巻く人生観が財津さんにとっては音楽夜明け前の「支え」としてのヒーロー像であったのではないのかと思う。
同刊行誌のインタビューの最後に「どちらかと言えば人に影響は与えたくない。人知れず飄々と生きていたい」と財津さんは語っている。
〔転載禁止です〕
27 三島ニヒリズム
作家、三島由紀夫は1970年11月に遺稿となった「豊饒の海」4部作の最終第4巻「天人五衰」を書き上げて出版社に送った後、三島の私的な右翼思想集団「楯の会」会員とともに楯の会仕様の軍服姿で市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部に赴き、総監室に総監を人質にして立て籠(こも)ったと言われている。
改憲論者の三島は、かねてから国際紛争を解決するための手段としての戦力を保持しないとした憲法前文、9条の精神と、実質軍隊機能維持の自衛隊とは法解釈上共存しえないと主張して、この日同総監室バルコニーから眼下の自衛隊員に演説でクーデターを促した。
この模様はそのままニュースでテレビ中継されて、演説のあと、自衛隊員の協力を得られないことを悟ると、三島は総監室に戻り自決をした大変ショッキングな事件だった。
遺稿の「豊饒の海」4部作は、「輪廻」つまり「生まれ変わり」をテーマにした長編小説で、まるで同事件の軌跡、結末を予感させるものであった。三島の遺言であったのかも知れない。
三島由紀夫は好きな作家のひとりだ。思想には協調できなかったが、三島ニヒリズム(nihilism)作品は表現力、描写力、展開力にすぐれて、読みだすと途中で終えることがむづかしいほどの文学的魅力はあった。
財津和夫さんは、92年発刊の当時の雑誌「KANBASE」の特集HEROISMでヒーロー像として「三島由紀夫」をあげている。
本文のインタビューで「精神的かつ個人的な人生観に影響を与えた人物」として「三島由紀夫なんかはかなり影響受けたほうかも知れない」と述べている。
ともに虚弱体質(本人談)の中、三島は「厳しくしかもストイックに生きて心身を鍛えた人で羨(うらや)ましかった」と言う。
音楽と文学と進む道は違っても、ともに芸術至上主義(art-for-art principle)に生きて、求道者(seeker after truth)としてすべてを一途に人生に賭けて自らの時代と価値観をきりひらいていったフロンティアな生き方が魅力的に共通する。
タイプは違うけれど、求道者としての目の輝きはだから同じだ。
三島の自決は、財津さんがチューリップとして東京に出る2年前のことだ。財津さんは「三島自身は、僕の中のビートルズに何も影響を及ぼしていない」と言う。
著名な日本人の究極(ultimate)の人生観、結末は、当時の日本社会に衝撃を与えたけれど、それ以上に三島アジテート(agitate)に対してこれを問題にしなかった自衛隊の統制、管理の徹底に感心したものだ。
三島はただ孤独だったのではないのか。「正論」から一途に目を背(そむ)けることができずに、当時の学生運動(全共闘)とも対峙して論争に挑み、反体制思想側からはその個性は受け入れられて、逆に体制思想の同じ思いを共有するはずの自衛隊からは拒絶されるという、三島ニヒリズムのパラドックス(paradox)な人生を生きた。
そういう三島の取り巻く人生観が財津さんにとっては音楽夜明け前の「支え」としてのヒーロー像であったのではないのかと思う。
同刊行誌のインタビューの最後に「どちらかと言えば人に影響は与えたくない。人知れず飄々と生きていたい」と財津さんは語っている。
〔転載禁止です〕