富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「分け隔てをしない真実の愛」ヤコブへの手紙2章1~9節 

2015-09-27 12:35:00 | 説教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

           日本キリスト教 富 谷 教 会

      週    報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)

    聖霊降臨節第19主日  2015年9月27日(日)    5時~5時50分 

          礼 拝 順 序

前 奏           奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 219(夕日落ちて) 

交読詩篇   73(神はイスラエルに対して)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、

聖 書   ヤコブへの手紙2章1~9節(新p.422)

説  教    「分け隔てをしない真実の愛」   辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 483(わが主イエスよ、ひたすら)

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷              

後 奏  

                        次週礼拝 10月4日(日)午後5時~5時50分。  

                        聖書  フィレモンへの手紙1-25節

                        説教   「弱者をいたわる」

                        賛美歌(21)78 449 24  交読詩編 82篇

  本日の聖書 ヤコブへの手紙2章1~9節

  1わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。 2あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。 3その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、 4あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。 5わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。 6だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた。富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。 7また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒涜しているではないですか。 8もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。 9しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。

          本日の説教

  ヤコブの手紙の著者は、「神とイエス・キリストの僕であるヤコブ」(1:1)とありますが、使徒的権威のあるイエスの弟ヤコブ(パウロの殉教の数年後、紀元62年にエルサレムで殉教)とする説があります。しかし手紙で用いられている流暢なギリシャ語やその内容から、イエの弟ヤコブの名を借りた手紙とするのが最近の有力な学説です。著者はその思想内容(イエスの山上の説教と関連する)からみてユダヤ人キリスト者と思われています。

  宛先は<離散している十二部族の人たち>(1:1)と記されていますが、ユダヤ民族をさす<十二部族>という伝統的な呼称を用いてキリスト者一般に送られたものと考えられています。

  この手紙の中では、イエス・キリストの名は二回しか用いられておらず(1:1と2:1)、キリストの信仰との関係の薄いユダヤ教的色彩の濃厚な実践的教訓や宗教的格言で満たされています。執筆場所は不明です。

  パウロの信仰義認が、無律法的な信仰になっていることを戒めていることから、この手紙はパウロの死後(パウロは紀元60年頃ローマで殉教)、紀元100年頃(二世紀の初め)に書かれたと推定されてます。

  ヤコブ書では、<行い>が強調されています。<行いのない信仰は人を救うことができない>(2:14)という主張がなされています。神がアブラハムを義とされたのは、アブラハムの信仰が行いによって完成されたからであると大胆に主張しています(2:22)。<人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません>(2:24)というヤコブの主張は、<人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる>(ガラテヤ書2:16)と述べるパウロに反対の立場にあるように見えます。

  パウロは、「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による」(ローマ3:28)と教えています。<なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」(ローマーマ3:20、ガラテヤ2:16)とあります。パウロは、次のようにも語っています。「不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。」(ローマ4:7)神は、<信心深い者>、すなわち、神の前に立派行いをしていると自負している者ではなく、<不信心な者>、すなわち、自分の行いなど不完全で、神に喜ばれる生活などできない、と思っている者を、義としてくださり、受け入れてくださり、愛してくださると信じる人を、義として救ってくださると説いています。

  ヤコブ書を書いた著者は、パウロのこの教えに反対しているのではありません。救われた者の生活における行いの重要性について述べているのです。パウロの教えを誤解した人たちが、救われた者にふさわしい生活をしないで、信仰者としての生活を軽視し、聖くない生活をしながら、自らをキリスト者として誇っていたので、ヤコブはそれを戒めるために、信仰者としてふさわしい行いをするように教えたのです。人間に救いをもたらす信仰は、愛によっていきいきとしたものとされ、その愛によって必ずよい行いを伴うということを説いているのです。主イエスも、山上の説教の終わりで、「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」と語り、「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」(マタイ7:21、26)と言われています。使徒パウロも、「悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行いをするように」(使徒言行録26:20)とすべての人に伝えました。

  今日の聖書の箇所について学びましょう。

 「わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。」(2・1)

  この1節の文は、直訳すると「人の分け隔ての中で、わたしたちの栄光の主イエス・キリストの信仰をもつことがないように」となります。<人を分け隔て>するとは、えこひいきすることです。神は人をえこひきなさいません。「あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべく神、人を偏り見ず…」(申命記10・17)とあります。神はえこひいきなさらないのであるから、キリスト者もまた他人に対して、そうであらねばなりません。

  これは、わたしたちのキリストを信じる信仰は、それにふさわしい行動を伴わない場合は空しいものであるというヤコブ書の中心的な主張そのものであり、それを次の2~4節で、教会の中での人の分け隔て扱いという実際的な場面で具体的に説明することになります。

   「あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、『あなたは、こちらの席にお掛けください』と言い、貧しい人には、『あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい』と言うなら、あながたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。

   <あなたがたの集まりに>の「集まり」には《シュナゴゲー》という語が用いられています。これは本来ユダヤ教の会堂を表す語ですが、ここではキリスト教の教会を指しているのです。ヤコブにとっては、会堂も教会も共に礼拝のために人々が集まることが基本であると考えられたから、この語が用いられたものと思われます。

  <金の指輪をはめた立派な身なりの人>とは、パレスチナでよく見られた金持ちを指しています。しかしここでは必ずしもユダヤ人に限られず、むしろ異邦人の可能性の方が強いようです。ともかくもそのような人々が教会の集会に訪れた際の迎え方が問題とされています。これとは対照的に<汚らしい服装の貧しい人>も来ます。紀元一世紀後半頃のシリアや小アジアのキリスト教会のメンバーは、大体貧しい人が多かったのです。このような二種類の人々を迎える教会員の態度が示されます。

    最初の<立派な身なりの人>にたいする教会の態度は、確かに相手を丁重に扱い、尊重しているようですが、実際はその身なり によってそのような姿勢を示しているに過ぎません。次に<貧しい人たち>への態度ですが、相手を粗末に扱い、見下しています。このような差別は人間の利己的判断に基ずくものであり、この世の基準によったもので、教会的判断とは到底言えないものです。<誤った考えに基づいて判断を下>すとは、教会が教会であるための最後のよりどころである、キリストの福音に対する信仰告白を放棄してしまっていることになります。

  「わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた。富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒涜しているではないですか。」(2:5~7)

   <世の貧しい人たち>とは、物質的窮乏のゆえに様々な不利益を被っている人たちを指しています。たしかに彼らは社会的には不遇ですが、しかしそのことは信仰の面からは何らマイナスではなく、むしろ神によって選ばれ、<信仰に富>む者とされ、神を<愛する者に約束された国を、受け継ぐ者と>されたのです。貧しさそのものが称賛されているのではありません。ヤコブが貧しい人たちへの約束を語るのは、その貧しさに信仰が加わり、神への愛が伴われていることが条件になっています。

 だが、あなたがた(教会)は<貧しい人>に対して不当な態度を示したことを想定してこれを非難しています。このような態度は、ちょうど<富んでいる者たち>が貧しいキリスト者を告発し、<裁判所へ引っ張って行く>のと全く同じことだと、ヤコブは主張します。自分たちと同じ貧しい人に対しては、その人の側に立って援助しなければならないのに、これをはずかしめることによって自分たちを富んでいる者たちの立場においてしまったのです。

  <あなたがたに与えられたあの尊い名>とは、キリストの名のことです。貧しい者をはずかしめ、虐げることはとりもなおさずイエス・キリストの名を汚すことになります。<彼らこそ>は、直接には<富んでいる者たち>を指すが、あなたがたも同じ立場にあると言っているのです。

   「もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。」(2・8~9)

   <隣人を自分のように愛しなさい>という隣人愛の戒めが引用されます。この句はレビ記19・18によるもので、イエスもこの句を引用して、福音による律法として新しく生かしています(マタイ22・39)。ヤコブの場合は、旧約の忠実な継承者のようですが、この句を<最も尊い律法>と呼んでいます。この律法を実行しているなろよろしいいが、もし、この<尊い律法>に従わず、<人を分け隔てするなら>、<罪を犯すこと>であり、その結果<律法の違反者と断定され>るのです。

  神は、独り子を世にお遣わしになりました。この方によってわたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたしの内に示されました。イエスはわたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。イエス・キリストが十字架に架かられたのは、すべての人のためです。神にはえこひいきはありません。この混じりけのない愛を知った時、私たちは真実の愛が分かりました。

  「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。こうして、愛がわたしたちの内に全うされるのです」(ヨハネの手紙一、4・16)とあります。神様に愛されて、初めて愛を知った。その愛の神様のうちに留まることで、私たちのうちに愛が完全なものとなるのです。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。「これが、神から受けた掟です」とヨハネの手紙は勧めています。

   使徒パウロは、コリントへの手紙一の13章で、真実の愛について教えた後で、「愛を追い求めなさい」(14・1)と勧めています。神の霊的賜物としての愛を祈り求めなさいと勧めているのです。分け隔てのない愛に富む者に、日毎に造り替えていただきましょう。愛がなければ、たといどのような強い信仰があろうとも、また、全財産を貧しい人々に施そうと無に等しいのです。

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