↑ 「盲人の目を癒すキリスト」エル・グレコ(ギリシャ人)1567年作 メトロポリタン美術館(ニューヨーク)所蔵
絵画の解説 新約聖書の福音書で描かれた、キリストが盲人の目を癒す場面を描いたのが、この『盲人を癒すキリスト』である。「生まれつき目の見えない人を癒す」というエピソードは、マタイの福音書(9・27-31)とヨハネの福音書で伝えられているが、この絵はそれらの福音書で描かれている3つのエピソードを合成したものである。神殿の外観はマタイ伝における伝承に近いといわれている。絵画の中心では、キリストが跪く盲人の目元に手を伸ばし、聖油を塗っている。左で空を指さしている背を向けている人物は、先に視力を取り戻したもう一人の盲人です。興奮した様子で空を仰いでいる場面が描かれています。右側の集団は隣人たちとファリサイ派の人たちで、キリストが生まれながらにして視力がなかった者を安息日に癒すことに反対をしています。また、手前の上半身だけ描かれている男女は盲人の両親だといわれています。絵の左上のかすれたような部分は未完成なのだと思われます。
〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403
日本福音教団 富 谷 教 会 週 報
聖霊降臨節第十七主日 2020年10月4日(日) 午後5時~5時50分
年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)
礼 拝 順 序
司会 齋藤 美保姉
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 449(千歳の岩よ)
交読詩編 16(神よ、守ってください)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
司会者の祈り
聖 書(新共同訳)ヨハネによる福音書9章1-7、35-41節(新p.145)
説 教 「心の目を開くキリスト」 辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌(21) 311(血しおしたたる)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 27(父・子・聖霊の)
祝 祷
後 奏
次週礼拝 10月11日(日)午後5時~5時50分
聖 書 ヨハネによる福音書16章25-24節
説教題 「世の苦難に打ち勝つために」
讃美歌(21) 531 528 27 交読詩篇 8
本日の聖書 ヨハネによる福音書9章1-7、35-41節
9:1さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。 2弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」 3イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。 4わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。 5わたしは、世にいる間、世の光である。」 6こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。 7そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。・・・・・・・
35イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。 36彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」 37イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」 38彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、 39イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」 40イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。 41イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。
本日の説教
ヨハネによる福音書9章には、イエスが生まれつきの盲人の目を見えるようにされたという奇跡物語と、それに続く長い論争と対話とが記されています。
主イエスは、通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられました。その時、主イエスの弟子達が、「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」とイエスに尋ねました。弟子達は道ばたで物乞いをしている目の見ない人を見て、この人が何故、目が見えないのかというその苦難の原因を尋ねたのです。理由の分からない苦しみの理由、原因をたずねることは、人間にとって昔からの深刻な問題でした。
それに対して、主イエスは、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と、お答えになったのです。「だれの罪か」という弟子たちの問いに対して、イエスは、「本人の罪によるのでも、両親の罪によるのでもない」と言われた後、「それはただ神の業がこの人に現れるためである」と言われたのです。この人が生まれながら盲目になったのは、彼の上に神のみ業が現れるためであり、彼によって神の栄光を表わされるためであり、神のためなのであるとイエスは答えられたのです。弟子たちは、生まれつきの盲目という苦しみの原因とだれの罪かという責任を問うたのですが、イエスはそれに対して、その苦しみの意味と目的を明らかにしたのです。
更にイエスは、この人の目に唾でこねた泥を塗り、「シロアムの池に行って洗いなさい」と、言われました。この人が言われた通りにすると、目が見えるようになって帰ってきたのです。
イエスのこの「だれの罪でもない。神の業が現れるためである」とのお言葉は、その後今日まで、どんなに多くの人々を救いに導いたかは計り知れません。
2016年1月2日に、八十五歳で亡くなられた、私の母教会(宮城県大崎市の日本基督教団陸前古川教会)の2年年上の主にある兄弟のことを思い起します。彼は生来、身体が弱く、次々と大病を患い、なかでも弱視は彼の勉強に非常に支障をもたらしました。樺太で生まれた彼は、中学生の時に終戦を迎え、一家は彼の親の郷里に引き揚げてきました。高校時代、友達が将来の夢に向かってはばたいている時期、彼の視力は次第にかすんで行き、一番前の席に座っても黒板の字もかすむほどになり、「何故自分だけがこんな目に会わなければならにのか」の思いが募り、親を恨み、親を責めたい気持ちだけが膨れていったそうです。その頃、友人に誘われて教会に行ったとき、牧師に「愛の神がいるのなら、何故こんなひどい目に遭わせるのか」と問いただしたそうです。牧師の答えは「今に分かる」でした。しかし、ちっとも分からず不平不満でいっぱいでしたが、それが分かったのは数年後でした。
当時、教会の長老をしていた全盲の方から、ヨハネによる福音書9章1節から12節まで読むように薦められました。彼はイエス様の言葉を知って、自分の思いもつかない別の次元があることを初めて知りました。彼は不幸と思われる病気、貧乏、苦難なども、愛の神の御計画の中にあることを知りました。そして愛の神が常に彼を見守っていることをを知りました。彼の心の目が開かれたのです。十八歳の春の復活祭に、彼は教会で洗礼を受けました。その後の彼は立派なクリスチャンになり、若い人たちからも敬愛され、教会の長老に選ばれ、長い間活躍しました。その後も病気にもなり、目も不自由になられましたが、老舗の商店の社員の仕事にも恵まれ、良き妻と頼もしい息子様や娘様やお孫様にも恵まれ、神の大いなる恵みに支えられた生涯を送られました。彼は亡くなる10年前頃から全盲になりましたが、人生の大切な時期に見えることを許されたことを感謝し、いろいろな不便はあっても不平を言うことはありませんでした。彼の目が不自由だったことが、彼を教会に導き、彼に信仰を与え、彼を救い、永遠の命に生きる希望を与えました。彼に神の業が現れたことを彼は証しし、神に栄光を帰す生涯を送りました。
マタイ15章29節以下に、主イエスが、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他、様々な病気に悩む大勢の人々が癒されたことが記されています。「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。」(イザヤ書35章5~6節)というイザヤの預言が実現したのです。マタイ8章17節には、「それは預言者イザヤを通して言われたいたことが実現するためであった」とあり、「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。」(イザヤ書53:4)とあります。神の子イエスは、苦難の僕として、わたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担って、それを癒してくださったのです。
エリコの近くで盲人がイエスの通るのを聞いたとき、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けました。イエスは何をしてほしいのか」とたずねました。盲人は「目が見えるようになりたいのです」と答えました。すると、イエスは、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」と言われると、盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従ったという出来事が記されています(ルカ18章35-43節)。「あなたの信仰があなたを救った」という言葉は、出血の止まらない女(マタイ5・34)や、罪深い女(ルカ7・50)の癒しの場面でも主イエスは言われています。これは、病んでいる人が自分の信仰で、キリストの救いとかかわりなく、自分を救ったといのではなく、病んでいる人がイエスを救い主と信じて、主イエスの憐れみを切に求めた信仰のことを「あなたの信仰があなたを救った」と言って主イエスが癒してくださったのです。また、男たちが重い皮膚病を患っている人を床の乗せて運び、屋根の瓦をはがし、イエスの前に病人を床ごとつり降ろしたときは、主イエスは「その人たちの信仰を見て」、病人の罪を赦し、病を癒しています(ルカ5・17-25)。イエス様のなさった病の癒しは、罪の赦しをともなうもであり、神の憐れみによる癒しでした。それは医者による治療を否定するものでないことは、「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ2・36)と言われたお言葉からも分かります。
ヨハネの9章の8節以下には、イエスによって癒された盲目だった男のその後の人生の歩みが記されています。シロアムの池で目が見えるようになった人が、もとの場所に帰ると、そこで彼を待っていたのは、目が開かれたことを共に喜ぶのではなく、むしろ、彼を質問責めにする人々がいたことを記しています。ユダヤ人たちは、盲人であった人を二度も呼び出しました。この癒された男は、イエスが「神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」と答えました。この言葉はファリサイ派の人々を憤慨させました。そこで彼は会堂から追放されました。それは社会的にもユダヤ人としての市民権を失う致命的なことでした。
イエスは彼が追放されたことを聞き、彼に出会って言いました。「あなたは人の子を信じるか」と言われました。「人の子」とは、救い主を意味する呼び名です。彼は「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが」と答えました。イエスは、「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」と言われました。彼は目が見えるようになってから今まで、イエスを肉眼で見たことはなかったのです。しかし、今、自分の前にいる方がメシアであることを知り、「主よ、信じます」と言ってひざまずきました。この盲人だった人は、目が癒されて見えるようになっただけでなく、それ以上にもっと大事なことに目が開かれ、メシア・救い主に出会い、信じることが出来たのです。
イエスは言われました。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」「裁くために来た」とは、イエスが来た主なる目的が人の罪を裁くために来たという意味ではなく、むしろ、イエスが人を救うために来た結果、振るい分けが生じ、裁きが起こったという意味です。この方こそ、真に善悪を判断し、裁きをなさることが出来る方でありますが、裁くために来られたのではありません。イエス様がこの世に来たのは、罪人を招いて救うためです。
「こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」見える者とはだれのことでしょう。また、見えない者とはだれのことでしょう。私たち、生まれながらの人は皆見えない者たちです。神に頼らなくても生きていけるという自信の故に、真の光に至る道を、自分たち自ら拒否しているのです。自己を神の前に正しい者とする心が罪の本体なのです。自分の不完全さ、弱さ、病や罪や死の恐怖を認め、真の光として世に来たイエスの光を受け、イエスの愛と憐れみを受け入れ、イエスのみ言葉を信じて受け入れることによって初めて目を開かれ、見える者とされ、救われるのです。わたしたちは、聖霊によってわたしたちの「心の目を開いてくださるように」に、祈り求めましょう。そのとき、更なる大いなる祝福にあずかる者とされるでしょう。
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