富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「『主の祈り』とその他の祈り」 マタイによる福音書6章1~18節

2020-01-16 13:07:21 | キリスト教

                     ↑   A. デューラーの「祈りの手」  

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

     日本福音教団 富 谷 教 会     週 報

     降誕節第4主日  2020年1月19日    午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)                                                                                                                        聖 句 「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせあなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

                     礼 拝 順 序

                                                              司会 斎藤 美保姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 494(ガリラヤの風)

交読詩編    5(主よ、わたしの言葉に耳を傾け)                    

主の祈り    93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)マタイによる福音書6章1~18節(新p.9)

説  教  「『主の祈り』とその他の祈り」 辺見宗邦牧師

祈 祷                  

聖餐式    78(わが主よ、ここに集い)

讃美歌(21) 513(主は命を)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏

                                      次週礼拝 1月26日(日) 午後5時~5時50分  

                                      聖 書 マタイによる福音書6章19-34節

                                      説教題  「明日のことまで思い悩むな」

                                      讃美歌(21) 361 367 交読詩編 118   

      本日の聖書 マタイによる福音書6章1~18節

 6:1「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。 2だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。 3施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。 4あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」 5「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。 6だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。 7また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。 8彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。 9だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。 10御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。 11わたしたちに必要な糧を今日与えてください。 12わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。 13わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』 14もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。 15しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」 16「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。 17あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。 18それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」

                   本日の説教

山上の説教の聴衆は、マタイ福音書によると、イエスは群衆を見て山に登られ腰を下ろすと、弟子たちが近くに寄って来たので口を開き、教えられた(マタイ5:1,2)、と記されているように群衆よりも弟子たちです。そして祝福の言葉で始まっていることからも、山上の説教は単なる戒めや倫理ではなく、恵みとして与えられている神の国の生き方が勧められているのであり、弟子たちが神との恵みの関係を確立するための教えです。

マタイ6章の1節から18節までには、ユダヤ人の宗教的善行について三つの具体的な問題を取り上げています。施し(6:2-4)と祈り(6:5-15)、と断食(6:16-18)です。6章1節は、これらに共通する注意を述べています。

「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。」(6:1)

主イエスは、弟子たちに対して、「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」(マタイ5:20)と言われました。このことを前提にして、「人の前で見てもらおうとして善行をしないように」と注意したのです。

律法学者やファリサイ派の人々は、熱心に施し、祈り、断食などの宗教的な業に励んでいました。それらの業に励むこと自体は、すばらしいことでしたが、彼らは、それらの業を自らの敬虔さを誇るため、「人に見せるために」行っていたのです。「人に見せるため」の行為は、人間からの称賛を期待する行為であり、その業は神からいただくべき報いを、先に人から受けてしまうことになってしまいます。

この6章1節で言われたことが、施しについても、祈りや断食についても、繰り返し強調されるのです。「施し」というのは、貧しい者たちへのあわれみの心をもつ行為です。貧しい者への施しは、信仰からでてくる当然の行為です。ところが、その人を本当に同情する心からではなく、自分の名誉心から行われることが多かったのです。主イエスは、憐れみに動かされたとしても、自分の誉れのために施しを行う人を「偽善者」と呼んでいます。「ラッパを吹く」とは、自己顕示のたとえです。施しをするとき、人に見られるためにしてはいけない、ということを言っているのです。

「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」ということばは、事実上不可能です。施しは本来、信仰からでてくる当然の行為なので、世間の称賛を博するためになされるべきものではありません。そのような演技意識から全く自由に、自然になされなければなりません。その行為は隠れたものであるべきことを教えています。そしてそれを「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」という約束と結びつけています。

わたしたちは自己への関心によって支配され、自我意識のとりこになってしまいます。「施し」は、人間に宿る罪から解放され、聖霊に導かれているときにできる善行なのです。報いがあってもなくても、ただ相手の必要を満たすため、愛にもとずく行為こそが善行なのです。

ところで、人に認められること、人から認めてもらいたい気持ちは決して悪いことばかりではありません。むしろ、才能の開発や、仕事の進展にもつながるという利点を持っているというこは明らかです。逆に人から認められないと、張り合いをなくして、せっかくの才能もその芽を摘み取られたりすることがあります。人から認めてもらうことが、神も喜ばれることであれば、それは「神の報い」の対象となります。人からの承認や世間の評価を求める者は、ほんとうは神の承認、「神の報い」に目を向けるべきなのです。

フィリピの信徒への手紙3章14節に「目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである」とパウロは述べています。。「神の賞与」、神様からの誉れを、それは神様が喜んでくださる、そのことを望み見て、人生の馳せ場を走ることが、わたしたちに求められているのです。

次に主イエスは、「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない」と警告されました。当時の敬虔なユダヤ人は、午前9時、正午、午後3時に祈ることを習慣とし、どこにおいても祈りの姿勢を取ったようです。ところが、祈りの時間になると、町の広場や街角などにわざわざ出向いて祈りをささげる人々がいました。彼らは、自分がどれほど敬虔な者であるかを示しかったのです。イエスは、公の祈りを禁じられのでも、公の場所での個人の祈りを禁じたのでもありません。人に見られるためにささげられた祈り、偽善的な祈りを非難されたのです。

だから主イエスは、「祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」と勧めたのです。人々が集まっている礼拝や祈祷会などで祈ることを禁じているのではありません。「もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事で、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」(マタイ18:19-20)と主は言われています。

人前で祈ろうが密室で祈ろうが、ただ神にのみ向かって祈ることが大切なのです。正しい祈りは、父なる神に、子どものように求める信頼に基づいています。だから祈りは他の人々に対しても、自分自身に対しても、父なる神に対してすらも、決して人に見られるためにするものではありません。

主イエスは、「異邦人のようにくどくどと述べてはならない」と戒めています。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいるからです。「彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」と言われました。

「だからこう祈りなさい」と、主イエスは模範的な祈りを示されました。それが「主の祈り」(マタイ6:9-13、ルカ11:1-4)です。神を信頼して祈ることが求められています。主イエスは、長い祈りを戒められたのではりません。神に対する信頼のない祈り、確信のない祈りを戒められているのです。主イエスは、「だから、言っておく、祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい」(マルコ11:24)と言われました。

祈りは、美しく洗練された言葉で祈る必要はありません。「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執成してくださるからです。」(ローマ8:26)聖霊は、信仰者の祈りを支える働きをしてくれるのです。

神の子とする霊を受けた私たちは、まず神に全幅の信頼をよせて、「天におられるわたしたちの父よ」と呼び掛けて祈るように、主イエスは神を親しみ深い父親として示してくださいました。そして、私たち自身のことに先立って、真っ先に神のことを祈るよう求めています。「み名があがめられますように、み国が来ますように、御心が行われますように」と祈ることにより、まず神が神とされることを願い、神への讃美し、神のご支配の力にすべてを委ね、私たちの生活が神中心の生活とされるように願うのです。

その生活は、十字架と復活による救いの恵みに応える生活です。最も大切なことは、主日礼拝に連なって主の御名をほめたたえることです。ほかにもいろいろのことが考えられるが、キリストの体である教会を愛し、教会に奉仕し、教会を支えることが求められているのではないでしょうか。

つづいて私たち自身のことについて祈るのです。生活上の個々のことは省略され、神の前に生きる人間が祈らなければならないことを三つに凝縮して祈るように示してくださいました。「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」、「わたしたちの負い目を赦してください」、「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」の三つの祈りです。

「糧を与えてください」という祈りには、私たちが働いて糧を得るというよりも、神が糧を与えてくださるという神への感謝があるのです。私たちが、糧のために働くことが出来るのも、神が私たちに働く力や健康を与えてくださっているからです。この糧のための祈りをするとき、食べるものだけでなく、住むところ、着るものなど、生きていくために必要なものや、また、家族のこと、仕事のこと、健康ことなど、すべてのことがその中に凝縮して収められているのです。

次に「罪の赦し」ですが、神の子としていただいた私たちは、その時以来、全く罪がなくなった生活を始めたわけではありません。そこで主イエスは、毎日神に対する罪の赦しを求める祈りをするように教えるのです。

「わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」は、神から赦しを受けるには、自分に対してなされた罪を赦すことが不可欠だということを強調しています。罪の赦しを願うための条件としてではなく、人と人との関係の中でも和解が実現することが前提になっている言葉です。神の赦しを願い求めることと人間同士の関係において和解を成り立たしめることとは不可分離に結びついているからです。主イエスは兄弟を赦すことの重要性を、「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」(6:14-15)と教えられ、さらに7度の70倍まで赦すように(18:22)言われています。主イエスに赦していただいて、神の子とされた喜びに比べたら、他の人の罪を赦すことは何でもないことであるはずです。

わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」この祈りは、たえず私たちを襲う悪の力、罪の支配があるからです。神の恵みの力に挑戦し、聖霊を否定しようとするこの力を侮ることができません。自分の決心や力では打ち勝つことができません。私たちは謙虚に神の力により頼むべきであることを主イエスは教えておられるのです。

私たちが献げている「主の祈り」には、結びとして、「国と力と栄えとは限りなくなんじのものなればなり。アーメン」という頌栄があります。これはイエスの後の時代、おそらく二世紀頃に、歴代誌上29:11の祈りが付け加えられ、そして今のかたちになったのです。

主イエスは、「求めなさい。そうすれば与えられる。……あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるに違いない」と教えています(マタイ7:7-11)。ルカ福音書には、「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(ルカ11:13)と記しています。これは祈りにおいて求めるべきものは、最終的には聖霊であることを示しています。

「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しい確かな霊を授けてください。」(詩篇51:3-4、12)とダビデ王は、罪の告白の後で、聖霊を求める祈りをささげています。このように、祈りには、神への讃美と感謝や、罪の告白があります。祈れないときは、「祈れない私をあわれんで下さい」と祈るのです。神の恵みが感じられない時は、自分の現実を正直に神に申しあげ、「あなたの僕に光を注ぎ、慈しみ深く、わたしをお救いください」(詩篇31:17)と詩篇にあるように祈りましょう。

自分の種々の願いの他に、自分以外の他の人々のためにとりなす祈りも大切です。使徒パウロは自分のために祈って欲しいと、執り成しの祈りを求めています。体が不自由になっても、執り成しの祈りをすることで、多くの人達のために役立つことが出来るのです。

「主の祈り」以外の祈りをするとき、「わたしの名によって祈り願うことは、何でもかなえてあげよう」(ヨハネ14:13)と主イエスは教えています。そこから、祈りの最後に、「イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします」と唱(とな)えるのです。

祈りは、「天の父なる神」に向かって祈るように、主イエスは教えられました。「イエス様」に向かって祈っても良いのでしょうか。最初の殉教者となったステファノは、神の御子イエスに向かって祈っています。「主イエスよ、わたしの霊をお受けください。」そして「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と祈って眠りにつきました(使徒言行録7:59-60)。時には、イエス様に直接祈ることがあっても、良いのです。「聖霊様」、「み霊(たま)よ」と祈るのもかまいません。神様は三位一体の神だからです。

「アーメン」という祈りの最後に言う言葉の意味は、「まことに」「本当に」「確かに」「そのとおり」「そのようになるように」といった意味です。「アーメン」はヘブライ語・アラム語の「真実に」「確かに」、などの意味のことばで、祈ったことの実現を願うことばです。だれかが祈った祈りに「アーメン」と唱和するのは、祈られたその祈りに心を合わせ、心からその実現を祈願するためです。

イエス様に教えていただいた「主の祈り」を日々祈りながら、神の子とされている恵みに感謝し、その証しをしつつ過ごしてまいりましょう。

 

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