↑ イスラエルのガリラヤ地方の春の野の花
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日本福音教団 富 谷 教 会 週 報
降誕節第5主日 2020年1月26日(日)
年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)
聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)
礼 拝 順 序
司会 辺見 順子姉
前 奏 奏楽 辺見トモ子
讃美歌(21) 361(この世はみな)
交読詩編 118(恵み深い主に感謝せよ)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
司会者の祈り
聖 書(新共同訳)マタイによる福音書6章19-34節(新p.10)
説 教 「明日のことまで思い悩むな」 辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌(21) 463(わが行くみち)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 27(父・子・聖霊の)
祝 祷
後 奏
次週礼拝 2月2日(日) 午後5時~5時50分
聖 書 マタイによる福音書7章1-12節
説教題「求めなさい。そうすれば与えられます。」
讃美歌(21) 214 446 交読詩編 119篇1-24
本日の聖書 マタイによる福音書6章19-34節
6:19「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。 20富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。 21あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」 22「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、 23濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」 24「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」 25「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。 26空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。 27あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。 28なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。 29しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 30今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。 31だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。 32それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。 33何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。 34だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
本日の説教
マタイ福音書によると、イエスは群衆を見て山に登られ腰を下ろすと、弟子たちが近くに寄って来たので口を開き、教えられた(マタイ5:1,2)、と記されているように群衆よりも主に弟子たちに語っています。山上の説教は祝福の言葉で始まっていることからも、単なる戒めや倫理ではなく、弟子たちが恵みとして与えられている神の国の生き方が勧められています。
主イエスは弟子たちに「あなたがたは地上に富を積んではならない」と教えます。理由は、「虫が食ったり、さび付いたりする」からです。害虫が衣服をたべたり、金属に腐食作用が進むからです。また「盗人が忍び込んで盗み出したりする」からです。地上の宝として、主に物質的なものが考えられているようです。それを「積む」と言う言葉で、宝への執着を示しているようです。しかし、この世の生活で終わってしまう名誉、地位、身分なども人間が執着する富です。ギリシヤ語の原語では、「あなたがたは宝をあなた方自身のために蓄えてはならない」とあります。宝を自分の欲望充足のために追い求めることを戒めているのです。
「宝は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない」と言われました。イエスのこの教えは、キリスト者が将来のために必要な資産を準備することを禁じたものではありません。生命保険に入ってはいけないとか、ビジネスに成功してはいけないとか、この世で名を残すような業績を上げてはいけない、ということでもありません。この地上において得たものは神から与えられたものであり、委ねられているものとして、神に認められ喜ばれるような使い方をすべきなのです。
地上の宝を神や人に仕えるため、愛の業にために用いるとき、天に宝を積むことになります。そして神が求めておられるような本当の自分になり、神から永遠の喜びをいただけるのです(詩篇16:11)。
「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」と主イエスは言われます。ここでは「宝」ではなく、「富」という言葉が使われています。原語は「マンモン」という「金銭」表わすアラム語です。マンモンは人間が信頼を寄せる財貨です。モンモンは金銭だけでなく地上で人を引きつけるあらゆるものが含まれます。このような富に心を寄せ、富に頼ると、地上の生活だけに関心を抱くようになり、神をないがしろにして、自己中心に生きる生きた方をするようになります。一方、天に宝を積む生き方は、天上で神からの栄誉を受けること目指し、神中心に、神の御意志に従って生活し、神や人への奉仕や愛の業に生きる生き方になります。そして、人との関係も争う関係ではなく、正しい愛の関係になり、平和をもたらします。
「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い」と主は言われます。目は体にとって灯火の役目を果たします。目が澄んでいれば、体のともし火の役目をする目が暗い室内を照らし出して明るくするので、人は明るいところで行動できます。このような状況を「全身が明るい」と言っています。目が病んで見えなければ、人は明るい室内にいでも暗闇にいるようで、その体は行動できません。このような状況を「全身が暗い」と表現しています。 「目が澄んでいれば」とか、反対に、「目が濁っていれば」とは、追い求める対象に向かって、混じりけのない心で対しているか、または、他のものにも心を向けて混じりけのある心で対しているかを表しています。
この目のたとえは、先の宝をどこに積むかのたとえと、この後に続く神と富のどちらを選ぶかの教えの間にあって、選び取った対象に向かって混じりけのない心で、全存在を傾けて対すべきことを説くたとえになっています。私たちは、主イエスを信じ、主イエスに従って歩むとき、物事を正しく見分ける澄んだ目を持ち、心も体も明るく輝くことができます。世の光となって、周囲の人々をも明るく照らすことができるのです。しかし、自己の欲望のままに、自己中心的に生きようとするなら、私たちの目は濁ってしまい、物事を正しく判断できず、間違った道を歩むことになります。
主イエスは、「だれも、二人の主人に仕えることはできない」と言われます。当時の奴隷は一人の主人に仕えて、全面的にその主人の意志に従わなければなりませんでした。神に仕えて永遠の命を得るか、富に仕えて滅びに陥るか、その何れかを選びなさい。「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」と主イエスは言われました。神を信じながら、富に仕えるということは出来ないのです。一方に親しんで他方を軽んじることになるからです。
主イエスは富の所有を全く否定しているのではありません。神の御栄のために富を正しく用いることを求めているのです。
金銭的な富への執着だけでなく、地上的ないろいろな欲望も、過度の欲望となると、その貪欲は「偶像礼拝」にほかならないものとなります(コロサイ3:5)。私たちを真に幸せにしてくれるのは過行く地上の富や欲望にあるのではなく、永遠の神にあることを忘れてはなりません。清い心と澄んだ目を与えられ、生涯誤ることのない正しい人生の選択ができるように、主のお導きをいただかなければなりません。
人生の拠り所を富に求め、それを自分の努力で確保しなければならないと考えるとき、人は思い悩みから免れることは出来ません。主イエスは富についての思い悩みを捨てて、神に全面的に信頼して生きるように勧めます。
「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」と主は言われます。「何を食べようか」と言って思い悩み、それらを切に求めているのは異邦人です。ここで言われている異邦人とは、悔い改めない不信仰な大衆を指しています。彼らはこの世に目を向け、生ける真の神を知らないので、食べる物、飲む物、着る物のことで思い悩みます。これらのものがみな私たちに必要であることは天の父なる神が知っておられ、これらのものを神は与えてくださるのです。
主イエスは、「空の鳥をよく見なさい」、「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい」と言われます。空の鳥も野の花も神の御手の中におかれています。ソロモンの豪華な衣装にも勝る美しい衣で、神は野の花は装ってくださっています。空の鳥も野の花も、神がなすままに身を委ねきっているではないか。あなたがたはそこから神に信頼することを学びなさい、と言われるのです。
神は必要とあれば、何でもくださることがおできになる方です。主イエスは無計画な空の鳥のような自然的生存に身を任せるようにと勧めておられるのではありません。私たち人間は知能と人格を与えられ、人間として良き業に励む生活をしなければなりません。
それゆえ、主イエスは、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と言われます。「神の国と神の義」の「と」は、二つのものを対等に並べる接続詞ではなく、「すなわち」の意味です。「神の国」を求めることは「神の義」を求めることに他なりません。「神の国」とは神のご支配を意味し、「神の義」とは神の正しさ意味します。「義」とは神様のご性質です。「神の義を求めよ」とは、神が「正しいと認めること」、「よしとされること」を求めなさい、ということです。
アブラハムが主を信じたとき、主はそれを彼の義(彼を正しい)と認められました(創世記15:6)「神の国は・・・聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」(ローマ14:17)と使徒パウロは語っています。義とは、聖霊によって与えられる正しさであり、神に良しとされ、迎え入れられることです。イエスの弟子たる者は、食物や衣服など地上の生活に必要なものについて、思い悩むことなく、ひたすらこのような神の義を追い求め、、神様の御心にかなった正しい行いを続けるように命じられているのです。
どのようにして、神様に正しいとされるのでしょうか。それは、なにか良いことをする、善行を積む、祈る、断食をするということではありません。ただイエス様の救いによって、その救いを信じる信仰によって、わたしたちは神様に正しいと認められるのです。わたしたちに、その救いの業、救いの恵みをこそ求めなさいと、イエス様は言われています。そして、その救いに既に与ったものは、その救いに感謝して生き、神様のみ心を求め、神様の正しさのなかを生きていくことが求められています。そうすれば、わたしたちに日々の糧や、魂に必要なもの、生きるに必要なすべてを整えてくださるのです。主イエスを信じる者は、復活の恵みにあずからせていただけるのです。死はもはやキリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできません(ローマ8:38-39)。
「だから、明日のことまで思い悩むな、明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」と主イエスは言われます。神の国と神の義を求めて生きることは、それなりの労苦があります。しかし、思い煩いからは解放されています。「その日の苦労は、その日だけで十分である」とイエス様はいたわってくだいます。今日を生きる苦労は、神様の恵みと支えによって乗り切きることができました。だから、明日も主が必ず支えてくださると信じて、明日を迎えましょう。一日一日を充実した日にしていただきましょう。
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