
↑ フリッツ・フォン・ウーデの作品(ドイツ印象派の画家)「キリストとニコデモ」(1886年頃)
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日本福音教団 富 谷 教 会 週 報
聖霊降臨節第7主日 2023年7月9日(日) 午後5時~5時50分
礼 拝 順 序
司会 邉見 順子姉
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 67(貴きイェスよ)
交読詩編 27(主はわたしの光、わたしの救い)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
司会者の祈り
聖 書(新共同訳) ヨハネによる福音書3章1~15節(新p.167)
説 教 「人は、新たに生まれなければ」辺見宗邦牧師
祈 り
讃美歌(21) 475(あめなるよろこび)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 27(父・子・聖霊の)
祝 祷
後 奏
〇オン・ラインで礼拝に参加できます。090-3365-3019
もしくは、メール:munekuni-hemmi@vesta.ocn.ne.jp
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次週礼拝 7月16日(日) 午後5時~5時50分
聖 書 ガラテヤの信徒への手紙6章1~10節
説教題 「キリストの心」
讃美歌(21)481 81 442 27 交読詩編 38:10-23
本日の聖書 ヨハネによる福音書3章1~15節
3:1さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。 2ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」 3イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」 4ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」 5イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。 6肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。 7『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。 8風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」 9するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。 10イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。 11はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。 12わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。 13天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。 14そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。 15それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
本日の説教
ヨハネによる福音書2章23節に、「多くの人々は、その行われたしるし(奇跡)を見て、イエスの名を信じた」とあります。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった、と記しています。しるしを見て信じる信仰は、十分でない信仰として、イエスによって斥けられています。しるしを見て信じた表面的信仰の代表者としてニコデモが登場します。
ニコデモは「ファリサイ派に属する、律法を守ることに熱心な人で、ユダヤ人たちの議会の議員」でした。サンヘドリンというエルサレムの最高議会の議員です。71人の議員から構成されていました。
ニコデモは、ある夜、イエスのもとに来て「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです」と言いました。ニコデモが「夜」来たことは、彼が闇につける勢力を代表する人物として描いていると思われます。ニコデモはイエスを「ラビ」(先生の意)と呼んでいることから、イエスを尊敬していることが分かります。イエスとの対話が重ねられるに従って、イエスのことを全く知らず、信じていないことが暴露され、「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか」(10節)と、非常に皮肉にイエスにあしらわれています。
イエスは彼に対して「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3節)と語ります。このイエスの言葉は、奇跡(しるし)を正しく受けとめるためにどうしても必要なことを語っています。それは「新しく生まれること」だというのです。新しく生れること、それが神の国を見るための前提条件だ、とイエスは言われるのです。新しく生れた者、新しい人間だけが、イエスの奇跡をしるしとして見ることができるのだ、と言われるのです。
この全く予想しなかったイエスの答えにろうばいしたニコデモは、このイエスの言葉の真意を理解することができず、全くピントのずれた返事をします。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」(4節)と愚問を発します。イエスはここでニコデモの無理解を根気よく解きほぐすように、「はっきり言っておく、だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(5節)と言われました。
「神の国」の内容が、神の霊によって「新しく生れ」るということと置き換えられます。つまり「永遠の命」を与えるということが、重要なメッセージとして語られています。
イエスがここで二度もくり返して語られた「新しく生れる」とは、どのようなことを意味しているのでしょうか。
「生まれる」ということは、人間の自由な意志的な選択の事柄ではなく、生れようと意志してできることではなく、それは本来的に、生れてくる人の力を超えた運命的なできごとです。人間の生の出発点は、自分で自由に選び取ることのできないものです。しかも私たちの生は一回限りのもので、二度とくり返すことはできません。それは私たちの自由にならないものです。
そこでニコデモにとって、「新しく生れる」ということは、まったく不可能な、バカげた要求であるように思われたのはもっともなことです。
しかしイエスの考え語ることは、それとは違っていました。イエスは、「新しく生れる」ということで、人間の生き方、考え方の根本的な変革のことを言われたのです。今までの人生は、自分のための人生であった。自分のために役立つこと、益になることを求めて来た。そういう人生が終わて、これからは、他者のための、主のために生きる人生が始まる。それが「新しく生れる」ということです。人間は、「新しく生れる」ことによって初めて真に人間となるのです。
「新しく生れる」(3節)という言い方が、「水と霊とから生まれる」(5節)と言い換えられます。「水」とは洗礼の水を意味し、「霊」とは「上から」与えられる「新しいいのち」を意味します。「洗礼」は、新しい人間の誕生、いわば「第二の誕生」のできごとのしるしです。
「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である(6節)は、肉のままでは救われない、霊によって新しく生れ変わる必要がある、ということです。
「『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない」(7節)は、十字架の贖罪と復活によって、永遠の命が与えられることを意味しています。
8節の風と訳されているプニーマというギリシア語は、霊とも訳すことができ ます。だから8節は、「霊は思いのままに動く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」と訳すことが出来ます。表面的には、風が出所も行く先も分からず自由に吹くことを言っているが、霊も自由に働き、霊から生まれたものも自由であるということが隠されています。するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言いました(9節)。
イエスは「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか」と答えて言われました(10節)。
イエスとニコデモの二人の一対一の対話は10節まで続いて終わります。
11節からは対話ではなく、独白へと移ります。「わたしたちは知っていることを語り」、「あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない」になっています。「わたしたち」とは、イエスと福音書記者ヨハネを含む教会の人々です。これはイエスの言葉がヨハネの教会の宣教の言葉となっていることを示します。「あなたがた」とは、ニコデモによって代表されるユダヤ教の会堂の人々とこの世の人々、すなわち不信仰の世界です。
12節で再び「わたし」に戻り、「わたしが地上のことを話しても信じないとすれば・・・とイエスが語り出します。天から下ってきた人の子の他に、天に上った者はだれもいないと話し、14節で、イエスは「モーセが荒れ野で蛇を上げた」という旧約の故事(民数記21:4-9)を引き合いに出します。それは出エジプトを果して荒れ野を放浪するイスラエルの先祖たちが神の恵みを忘れてつぶやき、神の怒りが蛇となって人々を死に至らしめ、後悔したイスラエルの先祖たちがモーセに願って許しを乞い、旗竿の先に掲げた蛇を仰ぐことにより死の手から免れたという故事です。へびに人を救う力があったのではなく、へびを仰ぎ見ることが大切だったのです。モーセが青銅の蛇を上げたと同じように、人の子も上げられなければならないと話し、イエスも十字架につくことが父のみこころであると、その必然性が語られます。
15節は福音書記者による14節の解説です。それを信じる者は永遠の命を得るためである、と語ります。それは荒野で死をまぬがれたような一時的な命ではなく、永遠の命です。永遠の命とは、命が永遠に続くという未来のことよりも、現在「キリストによって与えられる」永遠の命に生きることであり、永遠なる神との交わりを与えられることです。
先月の6月17日、歌舞伎界の人気俳優、市川猿之助(47歳)が両親と一家心中を図りました。その自殺のきっかけは、「週間女性セブン」の記者から取材を受けたことにより、猿之助の弟子や俳優に対する性的ハラスメント(いやがらせ)が報道されることを知らされたことだった、と本人が説明したそうです。このスキャンダルが世に知らされたら、自分の役者生命は終わりだと思ったのでしょう。心中を図った理由に、「家族三人で次の世界へ行こうとなった」と猿之助は語ったそうです。現実世界からの逃避です。気の毒なことに、これ以外の取るべき生き方はなかったのでしょうか。「死んで生まれ変わろうと家族で話した」とも報道されています。
「死んでも生まれ変わる」ことはできません。「生まれ変わり」は自己中心的な生き方が変えられた時に真の人間に変えられるのです。人はいろいろな事情から死んでしまいたいと思う弱い者です。昨年日本では21,881人が自死しています。これを防ぐためには、教会の果たすべき役割が大きいと思います。私たちを救ってくださる神の子イエス様がいることを布教しなければなりません。イエス様に助けを求めるなら、イエス様は必ず助けてくださり、聖霊なる神が私たちを新しい人に生まれ変わらせてくださるからです。
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