富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「神による完全な武器」コリントの信徒への手紙二、6章1~10節

2022-07-25 16:11:20 | キリスト教

           バチカンの聖ピエトロ大聖堂前広場に立つパウロの像                              パウロは右手に霊の剣を持っています。剣はパウロの宣べ伝えた御言葉を表します。左手には御言葉を記した羊皮紙(書物)を持っています。

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

聖霊降臨節第9主日  2022年7月31日(日)   午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)

聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」 (エフェソ3・16-17)

                            礼 拝 順 序                    

                 司会 辺見 順子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 433(あるがままわれを)

交読詩編   18(主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)コリントの信徒への手紙二、6章1~10節(新p.331)

説  教    「神による完全な武器」 辺見宗邦牧師

祈 祷                                       

讃美歌(21) 463(わが行くみち)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇オンラインで礼拝に参加できます。申し込みください。

         次週礼拝 8月7日(日)  午後5時~5時50分

         聖 書 コリントの信徒への手紙一、12章14~26節

         説教題  「キリストの体」

         讃美歌(21) 141 395 27 交読詩編 13 

本日の聖書 コリントの信徒への手紙二、6章1~10節

6:1わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。 2なぜなら、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。 3わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、 4あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、 5鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、 6純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、 7真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、 8栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、 9人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、 10悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。

本日の説教

 この手紙は、第三伝道旅行中、エフェソに約二年滞在中、おそらく53年から55年にかけて書かれました。テトスの報告を聞いて書き送ったのがコリントの手紙二です。第一の手紙を送ってから約一年半位い後のことです。この手紙は、コリントの手紙一とは違って、コリントの教会の内部的な営みと深くかかわっています。この手紙では、パウロが経験した苦しみと喜びを中心として、教会に対し自分の使徒職を弁明し、その権威を説き、信仰の奥義を示しています。パウロは、他のどんな手紙よりも、自分の経験と告白をあからさまに語っているので、パウロがどのような人物だったのかをよく知ることができます。

この手紙二の1章1節にあるように、この手紙の著者は、「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロ」です。「使徒」とは、「使者、特別な使命を帯びて派遣され者」という意味です。

1章12節から6章までは、自分に与えられた使徒職の崇高さと偉大さとを論じ、自分が受けた神秘体験を語ります。

5章18節では、「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解ささせ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです」と述べます。そして、「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」(5章20b、21節)と、罪のない神の御子の死によって、わたしたちが罪なき正しい者と認められ、父なる神との交わりが回復される救いについて説き、神と和解させる任務を果たしていることを告げます。そして6章に入ります。

「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、『恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた』と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」(6章1、2節)

パウロは神の救いの計画の中で、協力者としての役割を果たしているので、今彼らに訴えます。<神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません>。この勧告が必要となるわけは、人間の側の受け入れ態勢の不備で、恵みが実際に無駄になりうるからです。パウロは、イザヤ書49章8節を引用したあと、<今や、恵みの時、今こそ、救いの日>と言っています。神と和解させていただく必要が絶えずあるように、「今こそ、救いの日」であり、日ごとに救いを受け入れる必要が絶えずあります。「救いの日」とは、今日のことであり、それはキリストの再臨の日まで続くのです。

 「わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。」(6章3.4節a)。

3節以下は、引き続いてパウロの務めに対する弁護が語られています。伝道にとって大切なことは、伝える者の姿勢です。外の人々に対しては非難されないようにすること、内部の人にはつまずきを与えないように罪に敏感になることです。パウロは伝道者としてどのように生きたのでしょうか。四節から十節までは、大まかに四つに分かれます。

「大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、」(6章4b、5節)

第一の部分は、「大いなる忍耐をもって」という言葉が一種の見出しとなっています。それに続く九つの言葉は(三つずつ三組に分けられる)、パウロが何を忍耐したのかを、簡単に説明しています。その中には、「苦難、欠乏、行き詰まり」という外面的な逆境もあれば、「鞭打ち、監禁、暴動」という同胞からの虐待もありました。また、自分で耐え忍んだこともありました。「労苦」、すなわちぜいたくをすることができずに旅をしたことによって、あるいは自分で経済的な支えを得るためにしばしば働いたことによって、苦難と疲労があり、「不眠」、すなわち町から町へと休みなく歩きまわり、昼は生活のために働いて、機会があれば説教するので睡眠不足になり、「飢餓」、すなわち食することもこと欠き、持っているものを食する時間にもこと欠いていました。

「純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によってそうしています。」(6、7節a)

第二の部分では、パウロは自分の動機を内面的に見つめています。「純真」とは、動機の純真さのことです。「知識」とは、神がパウロにさせたいと願っておられることに対する深い理解のことです。「寛容」とは、喜んで愚かになり、他者に対する忍耐を失わないことです。神の正しいさばきに委ねる態度です。「親切」は寛容と共に聖霊の実とされています。他者へのいつくしみです。「聖霊」は、神の霊の働きによる、聖なる人間の霊のことです。「偽りのない愛」は、自分の欲望や利己心を覆うための、外見的な見せかけの愛ではなく、兄弟たちへの真実の愛です。「真理の言葉」は信頼できる成実な言葉です。パウロはたくみなうそをつくことはありませんでした。最後に、パウロが日々示す資質から、その中で彼を支える「神の力」をあげています。人徳や努力の結果ではなく、神の力によってそうしてきたと証しをしています。

「左右の手に義の武器を持ち、栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。」(6章7b、8a節)

第三の部分は、パウロは武器の比喩を用いています。「右」「左」という言葉によって、自分に訪れる幸と不幸にたいして、備えていることを示唆しています。「左右の手に義の武器を持ち」は、「神との正しい関係を攻撃や防御の武器とし」という意味です。「栄誉、恥辱、好評、悪評、何が起ころうとも、人が自分のことをどのように評価しようとも、神は自分を受け入れて下さっているという「神との正しい関係」です。この信仰によって聖霊による神の力が与えられ、パウロは、人々のほめる言葉や謗(そし)る言葉から自由に生きることができたのです。神の義であるキリストの和解の福音に、自分を委ねる生き方が、パウロの義の武器でした。これを攻撃の武器(右手の剣)とし、防御の武器(左手の盾)としたのです。「順境にあっても逆境にあっても」、どんな境遇にあっても」、同じ不屈の態度で身を処することができる秘訣は、ひとえに「神の力」でした。

「わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。」(6章8b、9、10節)

最後の部分では、もう一つの対立した組み合わせが示されています。ここには、世間の人々がパウロに対して抱く見方と、神の見方の違いが述べられています。8節後半では、使徒職を主張するパウロを詐欺師と見なす、コリントの信徒に、誠実であることを述べ、世間の人々に「知られていな」かったが、神に見方からは「よく知られ」、ユダヤ人からもローマ人からも罰せられたが、それでも死にませんでした。

「悲しんでいるようで、常に喜び」という表現では、パウロがしばしば陥った、二つの違った感情が、対比的に示されています。パウロはメシアを拒み続けるユダヤ人によって悲しませられてきました。しかし、パウロは喜ぶことができました。宣教の結果、回心者が起こされ、迷っていた回心者が信仰に立ち戻り、とりわけ神が自分のために、また自分を通してなしてくださったことを思い出すたびに、喜ぶのでした。

パウロはこの世の基準では貧しくとも、神の恵みにおいては豊かでした。キリストの僕は、自分の持ち物で人を富ませるのではありません。自分が神から受けた恵みによって人を慰め励ますのです。わたしたちが神と結びついている限り、この世界のものはすべてわたしたちのものであります。神は必ず、働き人のために必要なすべてのものを与えてくださるのです。

 パウロは武器の比喩をよく用いました。コリント二、10:4には、「わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力」である。

テサロニケ一、5:8には、「信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜(かぶと)としてかぶり、身をつつしんでいましょう。」とあります。

   これら六つの武具と「祈り」が、神の全ての武具です。

エフェソ6:10-18には、「主により頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことがえきるように、神の武具を身につけなさい。・・立って、真理の帯として腰に締め、正義の胸当として着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。・・また救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神のことばを受け取りなさい。どのような時にも、霊に助けられて祈り、願い求め」なさい」とあります。

わたしたちも、どのような時にも、「神による完全な武器」を身につけ、悪の諸霊に対して、神の力によって信仰の戦いを続けていきましょう。

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