↑ 「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」コリント一、12:26
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日本福音教団 富 谷 教 会 週 報
聖霊降臨節第10主日 2022年8月7日(日) 午後5時~5時50分
年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)
聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)
礼 拝 順 序
司会 斎藤 美保姉
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 149(わがたまたたえよ)
交読詩編 13(いつまで、主よ)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
司会者の祈り
聖 書(新共同訳)コリントの信徒への手紙一、12章14-26節(新p.316)
説 教 「キリストの体である教会」 辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌(21) 395(建ちては崩るる)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 27(父・子・聖霊の)
祝 祷
後 奏
〇オンラインで礼拝に参加できます。090-3365-3019の
辺見牧師の電話に、申し込みください。
次週礼拝 8月14日(日) 午後5時~5時50分
聖 書 ヘブライ人への手紙12章3~13節
説教題 「主に従う道」
讃美歌 351 531 27 交読詩編 94
本日の聖書 コリントの信徒への手紙一、12章14~26節
14体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。15足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。16耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。17もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。18そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。19すべてが、一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。20だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。21目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。22それどころか、体の中でほかより弱く見える部分が、かえって必要なのです。23わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと見栄えよくしようとします。24見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。25それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。26一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。27あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。
本日の説教
パウロは、12章1節から11節にかけて、<一つの霊といろいろな賜物>という、教会にはいろいろな賜物が与えれていることを語りました。いろいろな賜物をお与えになるのは「同じ神」であり、一人一人に霊の働きが現われるのは、全体の益になるためです、と教えています。
ある人には霊によって「知恵の言葉」、ある人には、同じ霊によって「信仰」というように、「病気を癒す力」、「奇跡を行う力」、「預言をする力」、「霊を見分ける力」、「異言を解釈する力」、これらすべては「一つの、同じ霊の働き」であり、霊が望むままに教会の一人一人に分け与えられているのです。
従ってどんな霊でも、それを与えられていることは、個人的な美点や価値に関わりなく、まったく自由な神の恵みによるものです。コリントの人々がどんな霊を与えられていても、「霊的」であることに誇る理由はまったくありません。全ての霊の現れは、神の目的に仕えるためであり、教会全体の益のためです、とパウロは説きました。
12章12節から13節にかけて、パウロは、人間の体を例にして、体は一つでも、多くの部分から出来ており、また体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、「キリストの場合も同様です」と説明します。パウロは、コリントの人々に、一つの体になったことを思い起させます。すべての人は、教会に入会した時に、「一つの霊によって、……一つの体となるために洗礼を受け」ました。そして、「皆一つの霊をのませてもらったのです」。そして教会の全員に一つの霊があふれるばかりに豊かに与えられたことを思い起させます。
皆ユダヤ人、ギリシア人、奴隷、自由人といった違う民族の人も、身分や社会的背景の違う人も、皆が一つの霊によって一つの体に結びつけられたのです。
「体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。」(12章14節)
14節では、再び、体は、多くの部分から出来ていることを語り、教会も同じであることを伝えます。
「足が、『わたしは手ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、 『わたしは目ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。」(12章1-16節)
足と手、耳と目は恐らく弱い人と強い人の関係を言っているのでしょう。したがってここでは、弱い者が強い者に向かって語っているのでしょう。体のすべての部分が、体には必要であり、教会も、強い人も、弱い人も、すべての人が大切な構成員であることを説いています。
「もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。」(12章17-18節)
体は、神の計画に従って、体に一つ一つに部分を置かれ、それぞれがその機能をはたしているのです。全てが目であったり、耳であったなら、体ではなくなります。同じように神は、教会の一人一人に、それぞれの役割を与えられているのです。それゆえ体(教会)の成員は、決して自分が価値がないとか、重要でないと考えるべきではありません。それぞれの構成部分は、全体が機能するためにそれ自身に特有の目的があります。教会の中でお互いを比べて優劣を決めたがるのは人間的思いによるのであって、個々人をそれぞれ教会の中に位置づけるのは神であることを知るべきです。
「すべてが、一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。」(12章19―20節)
皆が優れていると思われる働きに殺到した場合、有機体としての体は成立しません。<すべてが、一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう>とパウロは問うことによって、自ら弱いと考える教会内の不満分子にその考え方の変換を求めています。
「目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません 。」(12章21節)
目が手に、頭が足に、<『お前は要らない』>と言うことは強い者が弱い者に対する態度を語っています。「強い」と思われる成員(目や頭)は、手や足を蔑むことはできません。それらがなければ体を動かす働きが出来ないからです。同じように教会のそれぞれの会員は他を必要とするのです。
「それどころか、体の中でほかより弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。」(12章22―24節節)
<体の中でほかより弱く見える部分が、かえって必要なのです>。コリントの教会で自分たちを強く、知識があると思って、自分たちを「弱い人」と見なす人々に対して、高ぶっている人々がいました。ここでパウロは率直に弱い人は、「絶対不可欠」な役割を教会の生活の中で持っており、強い人は自分の判断で弱い人を軽んじてはならないと断言します。パウロは弱い人の存在の必要性を、体の比喩を継続して用いながら、新しい観点から説得しようとしています。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと見栄えよくしようとします。<恰好が悪い><見苦しい>と見なされている成員が、それだけに最も丁重に扱わなければなりません。コリントの地位の高い人々は、低い階層の信仰の兄弟姉妹たちを何かきまりの悪いもののように、軽蔑の目で見ていたのでしょう。しかしパウロは彼らを、恰好よく、見映えよく「覆って」いなければならないと主張します。強い人は自分たちの行いを弱い人の必要にあわせなければなりません。神が体をそのように配置したのだから、より大きな敬意を払わなければなりません。
「それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」(12章25-27節)
神は体のそれぞれの器官を相互に依存する有機体として作られました。そこでは多様性が必要なので、器官の違いは分裂の原因になってはなりません。お互いの配慮を促すようにならねばなりません。「分裂」とここで言及されるのは、実際にコリントの人々が霊的賜物の現れをめぐって論争していたことを示します。パウロは教会内の違う人に対して寛容であるだけでなく、全ての会員が他の人と悲しみと喜びを分かち合うという恵みにあふれる、同情的なあり方を心に描いています。誰でも足首や指の痛みがいかに体全体の力と注意を奪うかを知っています。これが教会におけるあり方だとパウロは論じます。会員の誰かが苦しめば、他の会員も衰え、痛みます。会員の誰かが、尊ばれると、他の会員も喜ぶのです。
パウロはコリントの教会のすべての人々に、自分たちをお互いの平和と健全さに関心を払う一つの体の成員として理解するように呼び掛けています。このメッセージは、力ある者は、キリストの体である自分たちの仲間として弱い人をうけいれ、尊び、「配慮し合い」、喜びも悲しみも分かち合うように説いているのです。
イザヤ書61章1-2節に、「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」とあります。主イエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とナザレの会堂で話し始められました(ルカ4章18-21節)。霊はイエスが貧しい人々に福音を宣教する権限を与えただけでなく、キリストの体を形成するための権限を与えます。そこでは奴隷と自由人、特権階級と貧しい者と隔ての壁は壊されたのです。キリストの体である教会の使命がここに示されています。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」悩みを共にし、喜びを共にする、それが教会のあり方であり、愛に生きる姿にほかなりません。
「なたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」、とパウロは述べています。言い換えれば、わたしたちはキリストの御心を具体的に実現する手足とされている、教会を構成する一員なのです。教会の一人一人にはキリストの霊と愛とが注がれているのです。
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