富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「キリストの復活」ヨハネによる福音書20章1-18節

2023-04-08 16:37:34 | キリスト教

  ↑ コレッジョ「ノーリー・メー・タンゲレ」(ラテン語: Noli me tangere, 「我に触れるな」の意)イタリア、盛期ルネサンス期の画家コレッジョが制作した絵画である。プラド美館マドリード1518-1524年頃 130×103cm

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

復活節第1主日(復活日)2023年4月9日(日)  午後5時~5時50分

      礼 拝 順 序                    

                司会 邉見 順子姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 325(キリスト・イェスは)

交読詩編     30(主よ、あなたをあがめます)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳) ヨハネによる福音書20章1-18節(新p.209)

説  教     「キリストの復活」   辺見宗邦牧師

祈 祷

聖餐式     72(まごころもて)                                          

讃美歌(21) 327(すべての民よ、よろこべ)

献 金  

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇オン・ラインで礼拝に参加できます。090-3365-3019(辺見牧師)に、

 申し込み下さい。

          次週礼拝 4月16日(日)  午後5時~5時50分

          聖 書 ヨハネによる福音書20章19-28節

          説教題 「イエス、弟子たちに現われれる」  

          讃美歌(21) 17 328 27 交読詩編 16

本日の聖書 ヨハネによる福音書20章1-18節

 20:1週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。 2そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」 3そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。 4二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。 5身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。 6続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。 7イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。 8それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。 9イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。 10それから、この弟子たちは家に帰って行った。 11マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、 12イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。 13天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」 14こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。 15イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」 16イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。 17イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」 18マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

本日の説教

  <マグダラのマリア>は、イエスに「七つの悪霊を追い出していただいた婦人」(ルカ8・2)です。彼女はガリラヤ湖西岸の町マグダラ出身の女性です。「七つの悪霊」とは神経系の病気と思われます。当時の人々は目に見えない悪霊が存在して、それが人の精神を乱したり、種々の病気を起こすと信じていました。彼女はひどい心霊的苦悩からイエスによって救い出されたのです。

 マリアは病気をいやしていただいたことに感謝し、イエスを慕い愛しました。イエスに付き従って行動を共にしたことは自然なことです。彼女のイエスに対する献身と奉仕が誰よりも熱く、イエスも彼女を愛して親しくされたことは、イエスの周囲の女性たちについて言われるときはいつも彼女の名が最初にあげられることからもうかがわれます。

 金曜日の日没前マグダラのマリアとヨセの母マリアは、アリマタヤ出身のヨセフが、岩を掘って作った新しい墓に、イエスの遺体を納めて、大きな石で入り口をふさいだ場所を、に確かめていました(マルコ15・47)。マリアは翌日(土曜日)の日没後、安息日が終わるのを待って、イエスに油を塗りに行くために香料を買っておきました(マルコ16・1)。

  週の初めの日、日曜日の朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは、「用意しておいた香料を携えて」(ルカ24・1)墓に行きました。他の福音書では、マリアは数人の女性と共に墓に行ったと記していますが、ヨハネ福音書はマグダラのマリアが一人で行ったように記し、マリア一人に焦点を当てています。マリアは墓の入り口から石が取りのけてあるのを見ました。マリアは誰かが墓に入って、イエスの遺体を運び去ったと思ってしまいます。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子(ヨハネ)のところへ走って行って彼らに告げました。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません」と伝えました。「わたしたちには」と複数形なのは、もともと伝承では複数の女性が見たので、それが残っていたためと思われます。13節では、「わたし」と単数になっています。 

 そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行きました。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着きました。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてありました。しかし、彼は中には入りませんでした。続いて、シモン・ペトロも着きました。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見ました。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所にはなく、離れた所に丸めてありました。遺体を盗むのであれば亜麻布で包んだままで運ぶはずです。丁重に亜麻布が解かれているのは、イエスの身体がこの場所から出て行ったことを物語っています。先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、遺体がないのを見て、イエスが復活されたことを信じます。しかしまだ浅い信仰です。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉と結びつけて理解することが、二人はまだ出来ていませんでした。まだ聖霊が与えられていなかったからです。それから、この弟子たちは「不思議に思いながら家に帰って行きました」(ルカ24・12)。

 マリアは二人の弟子が家に帰った後も、墓の外に残って立ち、泣いていました。マリアはその場を立ち去ることも出来ずにいました。彼女は遺体が見つからないことにあきらめきれず、泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えました。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていました。しかしマリアはそれが天使であるとは気付かなったようです。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」と言いました。マリアは、大切な主の遺体がどこかに移されて、無くなってしまった悲しみを訴えます。マリアがいかにイエスを慕い愛していたかが、この言葉に込められています。こう言いながら、人の気配を感じたのか、マリアは後ろを振り向くと、誰かが立っておられるのが見えました。しかし、それがイエスだとは分かりませんでした。イエスは「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」と言われました。マリアは、園丁(墓園の管理人)だと思って、「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」と言いました。マリアとしてはせめてもイエスの遺体にもう一度丁寧に油を塗って、正式に埋葬したいと願っていたのでしょう。

 イエスが、マリアと呼ぶと、彼女は振り向いて、自分の名を呼んだ方に、思わずヘブライ語で、「ラボニ」と呼びます。マリアは師であるイエスを呼ぶときにいつも用いていた呼び名です。このとき思わずその呼び名が口をついて出たのです。ラボニとは「先生」という意味です。これはマリアの素直な喜びの表現です。復活のキリストを目の当たりにしながらそれと気付かなかったマリアも、自分の名を呼ばれて、初めて霊の目が開かれたのです。マグダラのマリアが一番初めに復活の主を見たということは、マリアがキリストによって霊的苦悩から癒されたことを感謝し、キリストを救い主と信じて敬愛し、奉仕するためにガリラヤからキリストに従ってきた婦人であり、キリストの遺体を求めては墓に立ちつくし、悲しんでいたからです。

  マリアは嬉しさのあまり、思わずイエスにすがりつこうとしました。そのマリアに、イエスは「わたしにすがりつくのはよしなさい」と言われました。その理由として「まだ父のもとへ上っていないのだから」と言われました。生前のイエスが現れたのではありません。イエスは地上の体ではなく、天の父なる神のもとへ上る霊の体となっています。おそらくマリアは、生前のイエスに対するのと同じ思いでイエスにすがりつこうとしたのです。しかし、イエスのこの拒否の言葉を聞き、マリアは死の支配に打ち勝たれた復活の主を見ました。イエスはマリアに、「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」言いなさいと、伝言を託しました。

  キリストが弟子たちをさして<わたしの兄弟たち>と言い、神はわたしの父であって、またあなたがたの父でもあると言われたのです。イエスはこれから父のみもとに上られることによって、イエスと弟子たちとは、地上のイエスと弟子たちとの関係以上に、共通の絆によって深く結びつくことを告げたのです。

 マグダラのマリアは、弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げました。そして、主から言われたことを伝えました。マリアが「わたしは主を見ました」と言った場合にはイエスを神と等しい者、独り子なる神を見たと言っているのです。重大なことは十字架の死の三日後からイエスが弟子たちの礼拝の対象となったという事実です。

  マグダラのマリアは復活されたイエスの最初の証人とされました。女性の証言する能力を認めなかった当時としてはおどろくべきことでした。使徒パウロも女性たちの名を、復活の証言者の名の中にあげていません(コリント一、15:5-8)。主イエスが復活された。死んだ人間が復活する。どうしてそんなことが起こるのか。多くの人がこのことについて疑問を持つでしょう。ところが不思議なことに、これを信じ、キリスト者になる人たちが今日まで続いているのです。イエスの使徒とされたパウロも、以前はイエスの復活を信じませんでした。イエスを復活した救い主と信じ、宣べ伝えるキリスト者たちを迫害するため、シリアのダマスコ途上にいた時、復活したイエスが天上から、彼を呼ぶ声を聞き、彼は主の復活を信じました。パウロはこの時のことを、「キリストが、三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れ、・・すべての使徒に現れ、そして最後に、わたしにも現われました」(コリント一、15:3-9)と言っています。

  パウロだけではありません。すべての信徒は、復活のイエスとの出会いを通じて、主の復活を信じるようになったのです。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽せないすばらしい喜びに満ちあふれています(ペトロ一、1:8)」、「聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』とは言えないのです(コリント一、12:3)」、と聖書にしるされています。聖霊によって、主イエスとの出会いと交わりが与えられるのです。

 マグダラのマリアも弟子たちも、復活したイエスと出会うことによって、絶望から希望へ、悲しみから喜びへ、死と滅びの世界から生命の支配へ、愛と信頼へと変えられました。主イエス・キリストは復活しました。父なる神によって、陰府(よみ)の世界から復活させられました。主イエスは死に勝たれました。キリスト・イエスは、「死んだ方、否、むしろ、復活させられた方で」であり、「神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」(ローマ8:34)復活されたイエスは、目には見えませんが、今なお、いつも私たちと共にいてくださり、私たちを護り導いてくださる救い主です。私たちを罪と死の支配から解放してくださり、永遠の命を与え、神の子として下さる方です。復活されたイエスを信じ、共に、神の恵みに満たされようではありませんか。

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