富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「不信のトマスに現われた復活の主」ヨハネによる福音書20章19-31節

2023-04-15 10:53:57 | キリスト教

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ヘンドリック・テル・ブルッヘン 『聖トマスの懐疑』(1621-1623年)     アムステルダム国立美術館

 十二使徒の1人であったトマスが、深い信仰と信念に欠けていたためにキリストの復活に疑念を抱き、それを確かめるためにキリストの脇腹の傷に指を差し入れているところである。背中を向けた聖トマスの不自然な姿勢、重苦しい空気によって、奇跡の一瞬がリアルに表現され、時が止まったかのような印象を与える

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

復活節第2主日 2023年4月16日(日)  午後5時~5時50分

                            礼 拝 順 序                    

                 司会 邉見 順子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)  17(聖なる主の美しさと)

交読詩編     16(神よ、守ってください)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳) ヨハネによる福音書20章19-31節(新p.211)

説  教 「復活のイエス、弟子たちに現われる」辺見宗邦牧師                                          

讃美歌(21) 325(キリスト・イェスは)

献 金  

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇オン・ラインで礼拝に参加できます。090-3365-3019

 (辺見牧師)に、申し込み下さい。

         次週礼拝 4月23日(日)  午後5時~5時50分

         聖 書  ヨハネによる福音書21章15-19節

         説教題 「この人たち以上にわたしを愛しているか」  

         讃美歌(21) 327 483 27 交読詩編 116

本日の聖書 ヨハネによる福音書20章19-31節

 20:19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。 21イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」 24十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。 25そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 

26さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 27それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 28トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。 29イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」 30このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。 31これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

本日の説教

 先週の復活日の礼拝では、マグダラ出身のマリアに復活された主イエスが現れ、イエスは天の父のもとへ上っていくことを弟子たちに知らせなさいと命じたこと、マリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主をみました」と告げ、主から言われたことを伝えたことを学びました。

 その日の夕方のことから、今日の聖書の箇所は始まります。弟子たちはユダヤ人を恐れ、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていました。逮捕され、処刑されることを恐れていたのです。一緒に集まっていた弟子たちのところへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われました。イエスの与える平和は、日常的な挨拶の言葉としての平和ではなく、神が共にいてくださることによって与えられる特別な平安です。最後の晩餐の席で、「わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る」(14・28)と言われた約束が、ここで実現しました。

 イエスは弟子たちに、手とわき腹とをお見せになりました。手には釘の跡があり、わき腹には槍で刺された傷跡がありました。十字架の上で人々の罪のために身代わりとなって死んでくださったイエスが復活されて現れたのです。弟子たちは、イエスが死によって奪い去られたのではなく、新しい復活の命をもって彼らの前に現れたことを喜びました。もはや彼らはユダヤ人を恐れて、隠れている必要がなくなったのです。イエスが、「あなたがたにも今は不安がある。しかし、わたしは再びあながたと会うであろう。そして、あなたがたの心は喜びに満たされるであろう。その喜びをあなたがたから取り去る者はいない」(16・23)と約束された言葉が実現しました。

 イエスは重ねて言われました。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」主は弟子たちに、この世への宣教の派遣を命ぜられました。父なる神が、御子イエス・キリストに託された宣教の業が、今度は、復活の主によって弟子たちに託されたのです。そう言ってから、イエスは彼らに息を吹きかけて言われました。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」イエスの弟子たちは、復活の主イエスにより、聖霊が与えられることを通して、罪と死の支配から解放され、神の子である身分と永遠の命に生きる新しい人間に再創造されるのです。

 イエスは弟子たちに聖霊によって執行される罪の赦しの権威を与えます。この権威は父なる神が子なるイエスに託しておられる権威です(5・19)。聖霊の導きと、聖霊の力により弟子たちは、確信をもって、罪の赦しを告げ知らせ福音を宣べ伝えることができる者とされたのです。ヨハネによる福音書では、甦りの主イエスが最初に弟子たちに出会った場所で聖霊降臨が起こっています。

 十二人の弟子の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいませんでした。<ディディモ>とは双子のことです。彼が双子の兄弟の一人であることから呼ばれた通称です。イエスが病気で死んだと思われるラザロのところへ行こうと言ったとき、トマスは、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」(11・16)と言った人物です。また、イエスの訣別の説教の時、「主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません」(14・5)と言っています。トマスは主イエスと共に死ぬ覚悟であり、死がすべての終わりであるという人生観を持っていたようです。

 ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言いました。トマスは弟子たちの証言にもかかわらずイエスが現れたことを信ずることが出来ませんでした。イエスが弟子たちに現れたとき、イエスは手とわき腹とをお見せになったことを聞いたからでしょうか、トマスは自分の目でイエスの手に釘の跡を見、わき腹に槍の跡を見て、自分の指をその跡に入れてみなければ決して信じない、と言ったのです。トマスは実証的な証明を求めたのです。このトマスの態度と言葉から、疑い深いトマスとか、不信のトマスと非難する呼び名が生まれました。しかし、直接自分の目で見て、確かめなければ信じられない、というトマスの態度を、一概に懐疑的とすることはできないのではないでしょうか。この疑い深いトマスの中に私たち自身がいます。しかもトマスは死がすべての終わりだという考えを持っていたので、なおさらイエスの復活を信じることができなかったはずです。

 この八日の後、ちょうど一週間後の日曜日、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいました。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て、弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われました。トマスは復活されたイエスを信じられない心のまま、弟子たちの群れの中にとどまっていました。そのトマスに、イエスは「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と呼びかけられました。

 マグダラのマリアの場合は、「すがりつくのはよしなさい」とイエスは言われました。マリアが信じていたのは、手で触ることが出来る主イエスだったので、それは間違いだ、とイエスは教えたのです。しかし、釘跡に手を入れてみなければ信じられないと語ったトマスには、その要求をそのまま主イエスは受け入れられたのです。両方とも同じ愛から出た恵みの言葉であり、信じる者になって欲しいからです。

 聖書の記述では、トマスは主イエスの言葉を聞いて、「わが主、わが神よ」と信仰を告白しています。自分の前に立たれるイエスの臨在にトマスは圧倒され、驚き、感謝したのです。トマスは、自分のために現れてくださった復活のイエスを見て、この方は神だと直感したのです。

 トマスは、最初自分は師であるイエスのために死ぬことのできる人間でありたいと志していました。ところが、その師が十字架に付けられた時、師を捨てて逃げた人間であり、そのような罪深い自分のために、主の十字架は、自分の罪の赦しであることに気付かされました。トマスはイエスの復活を信じただけではなく、もっと深く、イエスが生きておられる神であり、自分の罪を赦してくださっている主であることを告白したのです。このとき「死ですべてが終わる」という固定観念からトマスは解放されました。

イエスはトマスに「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と言われました。<見ないで信じる者>、それはキリストの言葉を聞いて信じる者のことです。

 イエスの弟子であったトマスは、復活されたイエスが現れてくださったことによって、イエスに対する信仰を告白することができました。しかし、彼以後の人々は、イエスの弟子たちの証言を通し、宣教の言葉を通し、キリストの言葉を聞いて信じなければなりません。イエスは、そういう人々こそ、トマス以上に幸いなのだと、祝福を約束されたのです。

 主イエスは、トマスのようなイエスの復活を信じることが出来ない者のために御自分を示してくださる方です。復活した体で現れるのではなく、聖霊により、御声を持って語りかけてくださるのです。イエスの復活を信じることが出来ず、キリスト教徒を迫害しようとしていたサウロ(後のパウロ)にも、天からの御声によって語りかけてくださいました。

 パウロはダマスコ途上で彼に顕れた啓示の出来事を、神が<御子をわたしの内に啓示して下さった>(ガラテヤ1:16)と言っています。<わたしの内に>というのは肉の眼や耳を以て見聞きしたものでなく、聖霊によって与えられた霊的な認識です。パウロはこの経験を、キリストが復活したことは・・<最後にわたしにも現われました>(コリント一、15:8)と言っています。パウロに現われたように、主イエスは私たちにも現われ、語りかけて下さる方であります。主イエスの復活というのは、私たちに現れた主イエス御自身によって納得させられることなのです。

  今も生きておられるイエスに向かって「わが主、わが神」と信じる者は、「キリストを見たことがないのに愛し、今見なくとも信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれ」(ペトロ一、1・8)、キリストとの霊的交わりを与えられ、信仰の実りと魂の救いを受けているのです。

 イエスの復活を信じる信仰は、福音の御言葉を聞くことから始まります(ローマ人への手紙 10・17)。そこに神からの聖霊の働きがあり、今も生きておられる主イエスを「わが主よ、わが神よ」と呼びかける信仰が与えられるのです。31節には、この福音書の執筆の目的が明らかにされています。それは、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名による罪の赦しを受け入れ、永遠の命を受けるためなのです。

   聖書の記述では、トマスはイエスの傷跡に手で触れることなく、イェスを見て、「わが主、わが神よ」と信仰を告白しています。

 しかし多くの西洋画家たちが、イエスの傷跡にトマスが指を差し入れる絵を描くのはなぜでしょう。それはイエスがトマスに「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と言われたからです。イエスの復活を疑う者たちを信仰に導いて、永遠の救いにあずからせるためなのでしょう。

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