
↑ レンブラント(オランダの画家)「聖トマスの懐疑」1634年 プーシキン美術館 モスクワ (弟子たちが13人画面に描かれています。ユダを除く11人の弟子と、エマオから戻った二人の弟子を表しているようです)
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日本福音教団 富 谷 教 会 週 報
復活節第3主日 2019年5月5日(日) 午後5時~5時50分
礼 拝 順 序
司会 田中 恵子姉
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 204(よろこびの日よ)
交読詩編 16(神よ、守ってください)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
司会者祈祷
聖 書(新共同訳)ルカによる福音書24章36~43節(新p.161)
説 教 「弟子たちに現れた復活のイエス」 辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌(21) 325(キリスト・イェスは)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 24(たたえよ、主の民)
祝 祷
後 奏
次週礼拝 5月12日(日) 12時30分~1時20分
仙台青葉荘教会壮年会との合同礼拝
礼拝後、昼食・呈茶と懇親会(2時30分頃まで)
本日の聖書 ルカによる福音書24章36~43節
36こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。37彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。38そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。39わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」40こう言って、イエスは手と足をお見せになった。41彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。42そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、43イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
本日の説教
先週の礼拝では、エルサレムからエマオに向かって歩いていた二人の弟子に、復活したイエスが現れた話しをいたしました。泊まるために入った家で、一緒の食事の席についたとき、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになったイエスの御姿を見て、二人の目が開け、イエスだと分かりました。主イエスの復活を信じた二人の弟子は、直ちに夕食の席からエルサレムに戻って、他の弟子たちの所に行ってみると、十一人の弟子たちとその仲間たちが集まっていました。そして、「本当に主は復活して、シモン・ペトロに現れた」と話していました。エマオから戻った二人も道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かったことを皆に話しました。ここからが今日の聖書の個所です。
彼らがエマオで復活のイエスと出会った話をしていると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われました。
復活のイエスの出現は時間と空間の制限を超えたものでした。イエスがどこからどのようにして入ってこられたか分からず、しかも突然彼らの真ん中に現れたので、「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思いこんだ」のです。彼らはイエスの肉体を持たぬ亡霊つまり幽霊を見たと思たのです(マタイ14・26参照)。
そこで、イエスは言われました。「なぜ、うろたえているのか。」とたしなめられました。弟子たちが<うろたえた>のは、思いがけない出来事に出会って、慌てふためいたからです。「どうしてお前たちの心にそのような考えが起るのか」と、イエスは弟子たちをとがめました。弟子たちの目の前には、復活の主がお立ちになったのに、それがあまりにも自分たちの常識、分別というものを超えていたので、弟子たちは素直にイエスだと認めることができなかったのです。
「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」、こう言って、イエスは手と足をお見せになりました。
イエスは自分の手足を弟子たちに観察させ、それがイエス自身であることを了解するように弟子たちに求めたのです。また、イエスのは自分のからだを弟子たちに触れさせ、復活のイエスには亡霊にはない肉体が具わっていることを弟子たちに確認するように訴えたのです。
彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われました。そこで、弟子たちは焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らと共に食べました。イエスが自分の体にさわるようにと言ったり、皆がいる前で魚を食べたりして見せたことは、「霊には肉も骨もないが、私にはこのように手や足がある。つまり肉体があるのだ」と言っておられるのです。そのことを彼らにはっきりと分からせるために、40節で「こう言って、イエスは手と足をお見せになった」のです。そして41、42節には、弟子たちがなお信じられず、不思議がっているので、主イエスがそこにあった焼き魚を一切れ食べてみせたことが語られています。
それは、主イエスの復活は、霊のみにおける事柄ではなくて、肉体の復活だったのだ、ということです。キリストの復活が不死の魂という一般的な概念には適合しない、他にはないやり方で神はイエスを復活をさせたということなのです。。復活の主は手足に釘の傷痕があることを示したのは、復活のキリストが十字架で死んだイエスであるということです。復活の主は、十字架にかけられた、同一人のまさしくわたしだ、と言われたのです。
復活のイエスの顕現の目的は、イエスは単なる霊的な存在ではなく、霊的な体を持って復活されたことを示しています。神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら救われるのです(ローマ10・9)。イエス・キリストは霊において復活して弟子たちの前に現れた、ということならば、受け入れやすいことです。しかしそのような復活理解は人間の常識や知識の範囲を超えることができません。人間を超えた神様の力が働く余地はそこにはありません。
主の昇天後に生きる私たちは、聖霊の働きによって、この目で見ることなしに主イエスを信じ、復活して今も生きておられる主イエスと共に歩んでいきます。神の教会を迫害していたパウロも、主の昇天後に、「サウロ、サウロ」と天から呼び掛ける主に出会いました。そして、「最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました」(コリント一、15:5)と、キリストの復活を証言しています。
主イエスの弟子たちは、復活の主イエスに出会い、信じられない程の大きな喜びを知りました。この肉体の死によって終わらない命へと招かれていることを知りました。しかし、それは自分一人の中にとどめておくような喜びではありませんでした。罪と死にたいする主イエスの勝利は、地の果てにまで宣べ伝えねばなりません。全ての人々をそこに招き、罪を悔い改めさせ、神の国へ迎え入れていただく喜びです。彼らも、私たちもこの福音を伝える証人となるために、復活の主イエスとの出会いを与えられているのです。
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