富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「この人たち以上にわたしを愛しているか」ヨハネによる福音書21章15-19節

2023-04-18 21:58:06 | キリスト教

  ガリラヤ湖畔の復活のイエスとペトロ

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

復活節第3主日 2023年4月23日(日)  午後5時~5時50分

                            礼 拝 順 序                    

                 司会 斎藤 美保姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 327(すべての民よ、よろこべ)

交読詩編    116(わたしは主を愛する)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳) ヨハネによる福音書21章15-19節(新p.211)

説  教 「この人たち以上にわたしを愛しているか」辺見宗邦牧師                                          

讃美歌(21) 483(わが主イェスよ、ひたすら)

献 金  

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇オン・ラインで礼拝に参加できます。090-3365-3019

 (辺見牧師)に、申し込み下さい。

 

      次週礼拝 4月30日(日)  午後5時~5時50分

      聖 書  ヨハネによる福音書6章34節~40節

      説教題 「わたしは命のパンである」  

      讃美歌(21) 56 411 27 交読詩編 24

  本日の聖書 

  21:15食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。 21:16二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。 21:17三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。 21:18はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」 21:19ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。

 本日の説教

 ヨハネによる福音書21章は、補遺として、後からつけ加えられた文書です。この追加の部分で復活された主イエスがガリラヤで七人の弟子たちに現れたことを伝えます。

 21章1節は、次のような書き出しになっています。「その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自分を現された。」「ティベリアス湖」とは、ガリラヤ湖の別名です。ガリラヤに戻ったペトロたち七人の弟子たちは、一晩漁をしたが何も獲れませんでした。

 弟子たちが宣教していくとき、自活するために仕事をしなければならないことがあります。その場合にも生活を支えてくださるのは主であることが、この出来事に示されています。同時に、宣教の業も使徒たちの人間的努力だけでは不可能であって、主イエスの命令と助けによってはじめて可能であることが示されています。

 弟子たちが夜通し漁をしても、不漁であったことを知っておられた主は、空腹の弟子たちが岸に帰るのを待って、朝食の準備をし、既に夜が明けた頃から、岸に立って弟子たちを待ったおられました。岸での主イエスと共に過ごした朝食は、日毎の糧としての食事であり、「命のパン」を与えられるときでもあり、最後の晩餐の席での聖餐の食卓をも思い起させる時でもありました。弟子たちは、復活の主の証言者と立てられ、宣教に遣わされる貴重な体験を与えられたのです。

 ガリラヤ湖畔での朝食が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われました。フィリポ・カイサリアで、シモンの信仰をほめて、主が与えた名であるペトロ(岩)という名を用いず、<ヨハネの子シモン>と実名で呼んだのです。生まれた時の名を用いることによって、ひとりの人間として問いかけたのです。

 最後の晩餐の席で、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません。・・・たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(マタイ26:33-35)と誓いながら、大祭司カイアファの中庭で、三度も「そんな人は知らない」(マタイ26:69-75)とイエスを否定したペトロです。しかし、そのペトロにイエスは自ら近づき、問いかけ、再び従うことを求められます。

 <この人たち以上に>ということばは、原語ではただ「これらのもの以上に」と記されています。この人たちが愛している以上にと、とることが出来ます。あるいは、人も物も含めて、これらのもの(世のすべてのもの)以上にと、とることのできる問かけです。このお言葉は他の弟子たちとの競争をあおるような問いかけではなく、「あなたはだれにもまさって、わたしを愛しているか」という問いであり、「わたしはあなたをだれにもまして愛している」という主の愛にもとづいた問いかけです。

 主イエスに誰よりも以上に愛され、多くの罪を赦された者は、誰よりも以上に主を愛する者とされます。神の愛は差別のない愛なので、特にペトロだけを優先して愛しているということではありません。神は、それぞれの人の特性に応じて、それぞれの人をだれにもまさって愛しておられるのです。

 主イエスのペトロへの問いは、ペトロの愛を確かめ、親密な愛の関係を結び、新たな任命をペトロに託すためでした。神であられるイエスを愛すということは、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(マタイ22・37)とあるように、心からなる愛が求められるのです。

 ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えると、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われました。この問答が二回も繰り返されました。

 ルカ福音書では、最後の晩餐の席でペトロは、「主よ、御一緒なら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しています」(ルカ22:38)と言っています。復活のイエスとの出会いを経験する前のペトロの信仰は人間的な意気込みによるものであり、イエスとの間に永続的結合関係ができていませんでした。しかし、イエスを裏切り、捨てるという挫折と破綻を経験した後、復活の主と出会い、主イエスは、十字架の贖いにより、罪深い自分を赦し、支えて下さることを知ったのです。もはや復活のイエスを信ずることも、自分の側からの信仰によるものではなく、キリストの霊によって神から与えられる恵みによるものであることを知ったのです。

  ペトロはもう以前のように、他の人と比べるようなことをせず、心砕かれて「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です。」と答えるほかありませんでした。もはや自分の確信の力、自分の意志の強さに頼るのではなく、主イエスが知っていてくださればいいと、全てを主に委ねる告白へと、変えられたのです。<あなたがご存じです>という言葉は、すべてを知る神であられる復活のキリストの前にいるペトロの畏敬の念を感じさせます。そのようなペトロに主はご自分の大切な羊を任せようとされるのです。

 三度目にイエスは言われました。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」主イエスから三度も繰り返し問われたペトロは「悲しくなった」とあります。三度繰り返して念を押されることによって、ペトロは自らが三度イエスを知らないと言ったことを思い起して悲しくなったとも受け取られます。しかしそれだけではありません。罪を犯して、もう弟子とよばれるのにふさわしくないペトロに、主イエスの方から近づいて来てくださり、過去の罪を責めるのではなく、今も変わらずに愛してくださり、自分の大切な羊を任せようとしていてくださる、その愛、赦し、信任といった、主の大きな愛に触れて、主イエスがそれほどまで自分に心を傾けてくださることに感激したのです。

 更に、そのような罪深い自分のために、身代わりのいけにえとなってご自分の身を父なる神に献(ささ)げ、ご自分の血によって罪から解放してくださった神の子であられる方の苦しみを覚えて悲しくなったのだと思われます。その悲しみは、主の愛がペトロの心に満ちたことによって起こったのです。

 主イエスの三度にわたる「わたしを愛しているか」との問いは、主との固い愛で結ばれることを表しています。ペトロは、イエスの三度目の問いに答えて、「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と言いました。

 「何もかもご存じです」という言葉の中には、ペトロのこれまでのすべての罪を御存知である主に対して、ペトロの懺悔と悔い改めが言い表されています。

 主イエスはペトロの主に対する愛を確認したあと、「わたしの羊を飼いなさい」と言われました。そしてペトロに、「あなたは、・・・年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」と話されました。「両手を伸ばす」とは、十字架の死を意味しています。殉教の死を遂げることが示唆されています。それはペトロが「どんな死に方で、神の栄光をあらわすか」を示すために、お話しなったのです。

 主イエスは、御自身を「わたしは良い羊飼い」(ヨハネによる福音書10章11節)と言われました。良い羊飼いは、羊のために命を捨てると言っています。主イエスは、御自分の羊を、ペトロに託したのです。主イエスを三度知らないと言ったぺトロがその任に堪えることができるのでしょうか。

 主イエスは、まことのぶどうの木とその枝のたとえで、「人がわたしにつながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と話されています。主イエスは羊を飼う務めをペトロに託すに当たって、主に対する愛を問い、主と固く結びつくようにされたのです。この主イエスを愛するというところにおいて、すべての務めを果たすことが出来るようにされていくのです。

 私たちの場合も、どのようなところに連れていかれ、どのような生き方(死に方)をするかは、私たちが勝手に選ぶことではないのです。私たちの歩みは、イェスの愛に固く結ばれ、「わたしに従ってきなさい」との主イエスに信頼して歩んいくのです。

 「わたしを愛しているか。」この呼びかけは、今日も私たちひとり一人にも向けられているイエスの問いかけです。神がわたしたちに求められるのは、わたしたちが神を愛すことと、神が愛しておられる一人ひとりの隣人を、自分と同じように愛すことです。キリスト者であるとは、この世の何ものにもまさって、イエスを愛することです。わたしたちは、主の愛に生かされている中で、主を愛し、従うことが求められています。

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