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日本福音教団 富 谷 教 会 週 報
受難節第1主日 2022年3月6日(日) 午後5時~5時50分
年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)
聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」 (エフェソ3・16-17)
礼 拝 順 序
前 奏 奏楽 田中恵子姉
讃美歌(21) 298(ああ主は誰(た)がため)
交読詩編 22(わたしの神よ、わたしの神よ)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
司会者の祈り
聖 書(新共同訳)ローマの信徒への手紙5章1~11節(新p.279)
説 教 「神との和解とは」
祈 祷
讃美歌(21) 535(正義の主イェスに)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 27(父・子・聖霊の)
祝 祷
後 奏
〇オンラインで礼拝に参加できます。
申し込み先:Eメール munekuni-hemmi@vesta.ocn.ne.jp
次週礼拝 3月13日(日) 午後5時~5時50分
聖書 エフェソの信徒への手紙6章10~20節
説教題 「神の武具を身につけなさい」
讃美歌(21) 497 392 27 交読詩編 27
受難節は、 3月2日(水)~4月16日(土)
本日の聖書
5:1このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、 2このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。 3そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、 4忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。 5希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。 6実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。 7正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。 8しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。 9それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。 10敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。 11それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。
本日の説教
本日はローマの信徒への手紙5章の1節から11節までを学びます。
「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ている。」(ローマ5:1)
「このように」とは、4章で語ったことを受けています。パウロは4章でイスラエルの信仰の父祖であるアブラハムを例にあげ、繰り返し「信仰によって義とされる」ことを説きました。アブラハムは跡継ぎの子どもがありませんでした。年老いてもはやその望みもなくなったが、彼は神の約束を信
じました。その信仰によって義とされたのでした。
今日の箇所では、信仰によって義とされたものは、神に対して平和を得ている、と言います。平和を得ている、とはどういうことなのでそうか。
人間が神に対して罪人であるということは、人間が神に逆らっていることであり、そのことによって、神と人間の間には争いがあり、敵対関係が生じているのです。そのため人間はその罪のために絶えず死の不安におびやかされ、神の最後の審判を避けることができません。もちろん、この敵対関係は一方的に人間に責任があります。この敵対関係を克服し、神と人間との間に平和と和解がもたらされるためには、赦ししかないのです。それ故に神は一方的に、神にそむく人間を赦すのです。
ところで信仰によって義とされるとは、なんの行為も功績もなくとも、キリストにおいて示されている神の恵みを受けいれさえすれば、罪を赦されるということです。そのように
、義とされること、つまり義認の結果、平和ないし和解が成立するのです。
神は人間の罪に対する怒りをいいかげんに、あいまいには
しませんでした。ただ、神の赦しの愛の方が、神の怒りにまさっていたため、神の怒りを直接人間に向けずに、そのひとり子イエス・キリストに向けました。それが十字架の出来事です。十字架の出来事は,父なる神が人間の身代わりに、ひとり子キリストを十字架にわたし、神の怒りの対象としたということであって、そのことの故に、人間はその罪にもかかわらず、怒りの対象となることを免れ、罪を赦され、「神に対して平和を得」るのです。これが、「わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得」ていると喜びの声をあげるのです。神との平和を得たということは、生命の喜びに満たされ、真実な生きがいを知ったことを意味しています。
「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」
(5:2)
パウロは信仰によって義とされることは、神に対する平和をもたらすだけではなく、神の栄光にあずかるという終末の希望を与えられることだと言います。
「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」(5:3-4)
しかも希望を与えられるということと、患難を与えられることを共に喜びとして両者を結びつけています。人生には常にさまざまな問題をはらんでいます。苦しみは避けられません。しかし主にある希望を与えられています。それゆえ、苦しみの中でも、なお耐えることができ、それを受けとめ、乗
り越えることができます。キリスト者はさまざまな悩みや誘惑と戦って生きるのです。キリストのおかげで患難は忍耐することを教え、忍耐は練達―すなわち患難の中で耐え忍ぶ信仰ーを生み出し、練達はいよいよ希望を生み出すというのです。
「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(5:5)
そして希望は失望に終わることはない。なぜなら聖霊によって神の愛がそそぎ込まれたからであるというのです。聖霊によって神の愛が体験されるのです。それ故にこそ希望は失望に終わることはないというのです。
「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(5:6-8)
6節以下でパウロは愛について詳しく述べます。そのことを一言で言えば、キリストの死は、人間に対する神の愛を示
すものだということです。
まだ罪と死のとりこであったころ、キリストは神の定めた時に、この世に来て、不信仰者のために死んで下さった。「正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう」といます。みしかすると善人のためには進んで死ぬものもあるいはあるかもしれないと言います。そして結論的に、まだわれわれが罪人であった時に、キリストはわれわれのあめに死んで下さったのであって、そのことによって神はわれわれに対
する愛を示されたのだというのです。ここでパウロは、義人や善人のためではなく、キリストが神に反逆する罪人のために死んで下さったことに対する感動を表現しているのです。
「それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。」 (5:9-10)
パウロは9節以下で、人間は神のひとり子キリストの死によって義とされるだけではなく、終末の栄光にあずかることを語ります。
「キリストの血によって」とは、血は主の最後の晩餐における新しい契約のしるしであり、贖いの血を意味します。私たちはキリストの犠牲の血によって義とされたとなります。
ところで、パウロにとって義とされるのは「今」の状態です。しかし、パウロは同時に終末的「未来」について言及します。それが、「なおさら、キリストによって神の怒りから
救われるであろう」というのです。
「わたしたちが敵であったときでさえ」は、「今」ではなく、過去の問題です。キリストを知らず、キリストを信じなかった過去においても、すでにわれわれは御子の死によって和解を受けていたというのです。キリストの死は、神と人間との間の敵対関係に終止符を打ち、両者の間に和解をもたらしたというのです。
和解を受けている今は、「いのちによって救われるであろう」と表現していますが、もう少し詳しく言えば、「いのちによって」とは、「死人の中からよみがえらされた御子のいのちによって」ということであり、「救われるであろう」と
は、ここでも終末の審判においえてすくわれ、永遠の栄光に
あずかるということです。
「それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。」(5:11)
キリストの死は私たちの不義や罪をゆるし、すべての敵対関係を取り除きました。この贖いのゆえに、私たちは今や、神を喜び、神を誇る者とされたのです。パウロは、もう一度「和解を得させて下さった主イエス・キリスト」を喜び誇るのです。
神は神にそむく人間に対して、報復すると言うのではなく、赦しの愛をもってのぞむ方であるという事は大きな慰めにほかなりません。しかも人間の反逆に対する怒りをすてるのではなく、神の御子に向けることによって、愛と怒りを共に貫く神なのです。この神の赦しの愛を、人類も実践するなら、人類の平和の問題も解決されるでしょう。あらゆる平和への努力は、神と人間との平和から生み出されるのではないでしょうか。神が人間にもたらす和解は、罪を赦すことによって成り立つ和解です。このような、赦しに基ずく和解こそ、神と人間との関係を正常にすると同時に、人と人との関係をも正常にするものです。