↑「あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。」(テモテⅡ、1:14)
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日本福音教団 富 谷 教 会
週 報
受難節第3主日 2022年3月20日(日) 午後5時~5時50分
年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を
成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)
聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわ
せ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」 (エフェソ3・16-17)
礼 拝 順 序
司会 辺見 順子姉
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 300(十字架のもとに)
交読詩編 31(主よ、御もとに身を寄せます)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
司会者の祈り
聖 書(新共同訳)テモテへの第二の手紙1章8-14節(p.391)
説 教 「委ねられた福音のために」
祈 祷
聖餐式 72(まごころもて)
讃美歌(21) 511(光と闇とが)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 27(父・子・聖霊の)
祝 祷
後 奏
〇オンラインで礼拝に参加できます。
申し込み先:Eメール munekuni-hemmi@vesta.ocn.ne.jp
次週礼拝 3月27日(日) 午後5時~5時50分
聖書 ルカによる福音書9章18-27節
説教題 「日々自分の十字架を背負って」
讃美歌(21) 436 299 27 交読詩編 27
受難節 3月2日(水)~4月16日(土)
本日の聖書
1:8だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。 9神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、10今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。 11この福音のために、わたしは宣教者、使徒、教師に任命されました。 12そのために、わたしはこのように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。 13キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。 14あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。
本日の説教
「テモテへの手紙一」、「テモテへの手紙二」と「テトスへの手紙」の三通は、「牧会書簡」と呼ばれています。他の手紙は教会宛てに書かれているのに対して、この三通は、個々の牧会者に宛てられており、牧会者としての働きを指導するために書かれたものだからです。牧会書簡はパウロの投獄、殉教以後の変化した状況、再臨への期待が薄らぎ、異端の脅威の増大の中におかれたパウロの伝統に立つ教会が、手紙の著者をパウロとして書いた文書です。牧会書簡は二世紀初期の著作で、エフェソを含む小アジアで成立したと推定されています。
「テモテへの手紙二」の宛先人のテモテは、パウロの弟子であり、パウロの伝道旅行の同行者であり、また宣教の同労者でもあります。パウロはテモテは宣教と指導の務めを託されてパウロのもとから諸教会に派遣されています。
「テモテへの手紙一」が書かれた時には、パウロは自由な身でした。彼はテモテを先にエフェソへつかわしていて、そこでじきに、テモテに会えると思っていました。しかし「テモテへの手紙二」はローマの獄中から書かれたものです。この入獄は、ローマ皇帝に上訴するため護送された入獄ではなく、パウロは、ネロ皇帝により迫害されたキリスト教の分派の指導者として有罪な人間としての第二の入獄であり、彼は予備裁判を終え、今は死刑の宣告を待つばかりの時です。この状況の中で、パウロはテモテへの最後の言葉を書き送ったのがこの手紙です。
この手紙で、パウロは迫害の時にそなえてテモテを励まそうとしています。そうすることによって、彼は忠実なキリスト教伝道者の姿を全時代のために描いているのです。信仰における自分の愛する子に当てたこの親密な使信の中で、パウロ生涯の道程の終わりに立ち、キリストの使徒としての自らの生涯を回顧し、また墓の彼方にあるキリストと共なる生をを楽しみに待ち望みつつ、自分の深い感情を明らかにしています(4:6-8)。
1章6-7節でパウロは、「わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を再び燃えたたせるように」とテモテに勧めています。「神の賜物」は、パウロによれば教会を建てるために各信徒にさまざまに与えられるが(ローマ12:6)、ここでは按手(頭に手を置く祈り)によって教会の職に任ぜられた者に特別に与えられるものと考えられています。神の賜物である聖霊を、再び燃えたたせるようにと、聖霊を火にたとえています。「神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛との思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです」とテモテを思い出させています。
「だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。」(1:8)
パウロは、自分の独房からテモテに「わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください」と訴えました。
パウロはローマ皇帝の国家の囚人ではなく、主イエス・キリストの囚人です。それゆえ「主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません」と訴えましたた。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試
練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(1コリント10:13)、とあります。
「神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ」(1:9)
「神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださった」の「聖なる招き」は、「わたしたちが聖徒となるための招き」(Ⅰコリント1:2)です。救いは神の賜物です。それは、わたしたちの行いによるのではなく、神御自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、世界が始まる以前からの神の意図によるもので、キリスト・イエスにおいてわたしたちに与えられるものです。
「聖なる招き」は、信徒が「善い業」に励むべきことをも含みます(Ⅰテモテ2:10参照)。神が招く時、神はその招きを完全なものにする力があります。神は目的に適って召し出した人々を聖化しようとするのです。
「今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。」(1:10)
この神の招きは、今、「キリスト・イエスの出現によって明らかにされた」といって、壮大な神の救済史の中に自分たちを位置づけています。始めから意図されていたことが、神御自身(神の御子)の到来によって、その受肉と復活、死にたいする勝利に現われています。イエスは死んで三日目によみがりました。彼は死のむこうにある神の復活の命をあかしされました。彼は弟子たちに、自分は彼らのために場所を備えに行くこと、またもう一度来て彼らが、御自分のいる所におられるように、彼らを迎えに来てくださることを語りました。彼はその弟子たちから死の恐怖を取り除かれました。彼らに天の住家に入る確かな希望をお与えになりました。このように、イエスは不滅の命と不死とを福音によって明らかにされたのです。
永遠において計画された神の救済目的は時間の中で明らかになりました。人類に対する死の力は打破されたのです。なぜなら、「死のとげは罪である」こと、その罪がいまイエスの贖いの死により、人間の罪は破棄されたからです。このことにより、死はもはや恐怖ではなくなり、むしろ、死は、そこを通過して、人がこの破れた世界から神に満たされた命に至る通過点であることが明らかになりました。復活により死を滅ぼしたイエス・キリストによって、世界が始まる以前の神の計画の意味、救済史の意味が明らかにされたのです。
「キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。」この文は、殉教の死を覚悟しているパウロにとって、深い慰めに満ちた言葉です。
「この福音のために、わたしは宣教者、使徒、教師に任命されました。そのために、わたしはこのように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。」(1:11-12)
パウロは、「宣教者、使徒、教師に任命された」のは、この福音(良い知らせ)、この不滅の命のためであると断言します。パウロはこのような重大な仕事、三つの職名が与えられたことは、彼の権威が神からの、特別のものであることを主張します。また、これらの職が同時に苦しみを伴うことを恥じてはいない、むしろ誇りにしていると言います。それは、自分が信頼する方を知っており、神が彼に委ねられてきたものを、神がかの日まで守ることができるのを確信しているからだ、と述べます。彼は、死んで甦られた生ける主を、これまでの主と共なる歩みの中で、個人的に親しく深く知っています。彼はその方にダマスコ(シリアの)の道の途上で出会いました。彼は牢獄においても主イエスを信頼しています。
「わたしにゆだねられているもの」は、教会の貴重な福音です。「かの日まで」は、神の裁きの前に立つ終末の日まで、神が守ることが出来ると確信しています。
「キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。」(1:13)
使徒たちは御子を通して神の愛と信仰を教会に与えます。聖書は福音の健全な言葉を与えます。テモテは、彼が使徒から聞いたこの「健全な言葉」を手本として神に従うように求められています。手本は、この場合は福音の真理を示しています。パウロは手紙によるだけでなく、口頭の指図でも教えたのです(Ⅱテサロニケ2:15)。
「あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。」(1:14)
パウロは、テモテの実力以上のことを彼に頼んではいません。なぜなら、もし彼が力不足であるとしても、聖霊が補い、助けてくれるからです。「あなたにゆだねられている良いもの」、すなわち福音を、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい」と勧めます。信頼されて委ねられた人に聖霊による権限が与えられるのです。なぜなら、非常に重大なことを教えられる時、それらのことを守るのに人間の魂の力では十分ではないからです。
今日の1章の中で、「わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません」(8節)、「わたしはこのように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません」(12節)、そして、「オネシフォロ・・は・・わたしが囚人の身であることを恥とは思わず」(16節)と三度も「恥じ」についてふれています。1章16節に、「あなたも知っているように、アジア州の人々は皆、わたしから離れ去りました」とパウロは言っています。小アジアからの指導者たちがローマに来たものの、パウロに会わなかったことを指しているようです。彼らはパウロの牢獄にいるのを恥じて見捨てたのでしょう。おそらくテモテも、パウロを恥じる誘惑にさらされていたのでしょう(8節)。実際、パウロを支持する者は誰もなく、皆に見捨てられていた状況にあったのです(4:16)。そこで、パウロは自分の投獄を恥じてはなりません、と訴え、自分は主の囚人として福音のために苦しんでいることを告げ、「神の力によって」、「聖霊によって」委ねられている福音を証しするための苦しみも共にし、それを誇りとするように告げたのです。