富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「日々自分の十字架を背負って」 ルカによる福音書9章18-27節

2022-03-26 02:54:59 | キリスト教

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

受難節第4主日     2022年3月27日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を

成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)

聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわ

せ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

                            礼 拝 順 序                    

                 司会 辺見 順子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 436(十字架の血に)

交読詩編   27(主はわたしの光、わたしの救い)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ルカによる福音書9章18-27節(新p.122)

説  教     「日々自分の十字架を背負って」

祈 祷                                           

讃美歌(21) 299(うつりゆく世にも)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇オンラインで礼拝に参加できす。申し込み先Eメール: munekuni-hemmi@vesta.ocn.ne.jp

                                                      次週礼拝 4月3日(日)  午後5時~5時50分

                                                      聖書 ローマの信徒への手紙12章1-8節

                                                     説教題  「なすべき礼拝」

                                                     讃美歌(21) 288 512 27 交読詩編 22

受難節 3月2日(水)~4月16日(土)

     本日の聖書

9:18イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。19弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」20イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」21イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、22次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」23それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。24自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。25人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。26わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。27確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる。

本日の説教

    ルカによる福音書では、<五千人に食べ物を与えた>出来事のあと、イエスがひとりで祈っておられるとき、共にいた弟子たちに「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とたずねました。

弟子たちは、「『洗礼者ヨハネだ』」と言っています。ほかに、『預言者エリヤの再来だ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』という人もいます」と答えました。
 エリヤ(列王記上17・1)は紀元前九世紀に活動した厳格な預言者です。ガリラヤの民衆はイエスを、神が終末の救済のために送られた預言者の一人と見なしたのです。
 イエスは弟子たちに、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われました。ペトロが弟子たちを代表して答えます。「神からのメシアです」。

キリストの復活前は、ペトロはイエスを<預言者の一人>としてではなく、預言者以上の神の人としての「メシア」という表現で答えました。<メシア>とは、「油を注がれた者」を意味する語です。油を注がれた者とは、神から特別の課題のために選ばれ、それを果たすための力を与えられた者で、終わりの日にイスラエルに遣わされる救済者の称号です。ペトロたちは、イエスこそイスラエルが待ち望んでいた<メシア>だと言い表したのです。これまでイエスの権威に満ちた教えを受け、力ある業や奇蹟を目撃してきた弟子が、イエスをメシアと信じたのです。
 ペトロの信仰表明は、イエスが選んだ弟子たちにだけ与えられた啓示(神が人間に明らかにする真理)でした。後に、イエスは祈りの中で、「父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません」(ルカ10・22)と言っています。
 イエスはペトロの告白を聞いたあと、このことはだれにも話さないようにと弟子たちに命じました。弟子たちは受難のメシア・イエスの理解が欠けていたからです。
 当時の人々が抱いていたメシア観は、ダビデ王国を再興し、ローマの属領から解放してくれるメシアを期待していました。そのようなメシアと誤解されると、過激なユダヤ人の政治的行為を誘発する危険性が多分にありました。
 イエスは次のように言われました。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」
 ここで初めてイエスはエルサレムで受けねばならない苦難の使命について述べ、自分の間近い死を弟子たちに予告しました。復活についてはこれまで全く話されていませんでした。苦難の予告は、受難が起こったときに弟子たちがつまずくことがないように、あらかじめ語られたのです。

イエスは、受難して復活する自分のことを<人の子>ということばで表しました。それは<メシア>という言葉が含む誤った政治的意味を全く持たない言葉でした。<人の子>は旧約聖書では、<人間>を表すのに用いられていますが(詩編8・5他)、そのほかにダニエル書7・13~14では、「見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り、…権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない」と、神の権威を受けた<人の子>を描いています。イエスは自らを、神の権威を持って終末的に現れることが期待されていた<人の子>であると同時に、旧約聖書のイザヤ書52、53章にある<主の僕の苦難と死>の預言を成就する、<人の子>であることを明らかにしたのです(イザヤ書52:13~53:12、詩編22篇118:22)。

<人の子>イエスは、罪ある人間のために彼らに代わって死ななければなりません。そのためエルサレムで受けねばならない苦難の使命について述べ、自分の間近い死と復活について弟子たちに初めて予告しました。イエスは、これから向かうエルサレムでは、弟子たちの予想とは全く異なって、最高法院を構成する、長老、祭司長、律法学者たちから排斥され、最高法院の判決で殺される運命にあることを打ち明けたのです。<殺され、三日の後に復活することになっている>とは、イエスの受難と死と復活は、究極的に神の意志を実現するために必然のことであることを、<…ことになっている>という言葉によって言い表わしています。<三日の後に復活することになっている>というとき、神のご計画に基づいて実現していくことが強調されています。イエスの死なれた金曜日と、復活した日の日曜日までを含めて三日になります。

「それから、イエスは皆に言われた。『わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(ルカ9:23)
 並行記事は、マルコ8:34-9:1、マタイ16:24-28にあります。イエスは皆に言われた、とあります。福音書記者ルカは、十二弟子たちだけでなく、すでにイエスが復活したことを知っている福音書の読者を含めて「皆」と語っていると思われます。受難予告を聞いた今、弟子たちや読者は新たにイエスに従う決断の前に立たされます。

イエスは、<わたしについて来たい者は>と語りかけます。各自の自発的な意志による決断を求めます。決して強制はしていません。

<自分を捨て>とは、自己中心的な古い自己を捨て、キリストの復活にあずかって、<神にかたどって造られた新しい人を着て>(エフェソ4・24)、生きることです

<日々、自分の十字架を背負って>とは、日々とあることから、具体的な十字架の死や殉教を目指すのではありません。イエスの教えた<福音にふさわしい生活を送る>(フィリピ1・27)ために、苦しむことも、恵みとして受けて、イエスに従うことです。

日毎に<試みにあわせないでください>と主の祈りを祈りつつ、古い自分に死に、キリストにある新しい命に生きることです。<わたしはキリストと共に十字架につけられた>(ガラテヤ2・20)とあるように、主に自分を明け渡すことによって、キリストがわたしの中で主となって生きていただくことです。

<わたしに従いなさい>は、「イエスの後について来なさい」と言うのではなく、弟子になれの意味です。イエス・キリストに対する忠誠を生涯貫くことが求められています。

イエスに従うとは、神のみ心に従うことです。これは人間の努力や熱心によって出来るものではありません。ただ人間以上の力を持たれる聖霊が一人一人に臨むとき初めて可能となるのです。

この世の人が受けるような病気や災いは十字架とは言いません。こういった人間のあらゆる痛みや苦しみは、神の子イエスが同情してくださり、時宜にかなった助けを与えてくださいます(ヘブライ4:15)。

「自分の十字架を負って」は、各人が自分に与えられた独自の、違った、自分の十字架を負うことが示されています。それは人によって違うものですが、しかし同じ主から与えられた一つの十字架なのです。十字架を負うことは、苦しみ・重荷を負うことですが、それは決して自分ひとりだけのことではなく、共に重荷を負い合うこと、分かち合うことが大切です(ガラテヤ6:2)。

「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。』」

<自分の命を救いたいと思う者>という表現は、元来は殉教の死の問題を扱ったものですが、ここでは一般化され、この世での生き方が問題とされています。イエスに従い、イエスと共に生きる生き方でなく、自分本位の生き方を続ける者は、永遠の命を失い、魂を失ってしまうという意味です。
 <わたしのために命を失う者>とは、キリストのために自分の生命をささげることです。主イエスが教えてくださった愛に生きること、そこにこそ、わたしたちは真実の自分を見出すのです。 

永遠の命とは、自然の死によって亡びてしまう命ではなく、また霊魂不滅というようなものでもなく、神によって与えられる命です。自分本位の生き方を続ける者は、死で終わり、永遠の命を失い、魂を失ってしまいます。キリストのために生きる者には、神から聖霊という永遠の命の賜物を与えられます。その命はすでにこの世において保証として与えられるものです。この世においてもキリストと共にあり、肉体の死に際しても、キリストと共にあり、キリストと共に復活の命に生きる者とされるのです。

自分のあらゆる精力をこの世の目標に集中させて生き、その富と財宝を得るのは人を豊かにするようですが、それはこの世の仮の一時のことであり、それによって神から遠ざかれば無益であると説いています。永遠の命は全世界の富・権力・名誉によっても得られるものではありません。ただイエスに従うことによって与えられるものです。
 「わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。」
 <わたしの言葉を恥じる>とは、イエスを否認することですが、ここではイエスとその言葉、福音への態度次第で、終末時にその人の運命が決定するという警告です。

<人の子も、その者を恥じる>とは、裁き主としての人の子が、その人を否認して自分の者として受け入れを拒否するということです。
 「確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる。」
 イエスの栄光に輝く再来は、彼の同時代の何人かがまだ生存中に起こるだろう。それほど「神の国」の到来は切迫している、ということです。 

ペトロをはじめ弟子たちは、イエスの苦難と死のことが分かるようになったのは、イエスの十字架の死と復活の後でした。イエスの十字架と復活に実際に接し、そしてそのあと聖霊の導きを受けることによって、あの受難のイエスこそ、神の御子、まことの救い主であることがわかったのです。弟子たちは復活の主に出会い、主の限りない赦しの愛を体験しました。
 わたしたちキリスト者も、みことばを通してわたしたちに語りかけるイエスの赦しの招きと愛にふれ、「わが主イエス」と呼び、主イエスを愛し、人々を愛し、聖霊を与えられ、導かれることによって、主イエスに従う者とされ、永遠の命に生きる者とされましょう。

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