富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「百人隊長の驚くべき信仰」 ルカによる福音書7章1~10節

2019-05-26 01:14:34 | キリスト教

             

    ↑ イエス、百人隊長の僕を癒す

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

      日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

    復活節第5主日  2019年5月26(日)   午後5時~5時50分

年間標語 「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により、力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

                               礼 拝 順 序

                                                司会 田中 恵子 姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 355(主をほめよ わが心)

交読詩編   34(どのようなときも、わたしは主をたたえ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者祈祷

聖 書(新共同訳)ルカによる福音書7章1~10節(新p.114)

説  教   「百人隊長の驚くべき信仰」  辺見宗邦牧師

祈 祷                                

讃美歌(21) 402(いともとうとき)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏

                                        次週礼拝 6月2日(日) 午後5時~5時50分 

                                        聖 書 マタイによる福音書28章16~20節

                                        説教題   「キリストの昇天」 

                                        讃美歌(21) 287 337 24 交読詩編105

                本日の聖書 ルカによる福音書7章1~10節

 7:1イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。 2ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。 3イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。 4長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。 5わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」 6そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。 7ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。 8わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」 9イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」 10使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。

                     本日の説教

 「イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。」(7:1)

 イエスは、祈るために山に行き、朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けました(ルカ6:12-13)。イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになりました。大勢の弟子とおびただしい民衆が、イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていました。イエスは目を上げ弟子たちを見て言われました。ルカ6章20節から始まるイエスの教えは、6章49節までとの続きます。これを、マタイの「山上の説教」に対して、ルカの場合は「平地(山麓(さんろく))の説教」と呼んでいます。

 「これらの言葉」とは、「平地の説教」のことで、このあとガリラヤ湖の北岸の町カファルナウムに、イエスは入られました。

 「ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。」(7:2)

 「百人隊長(百卒長)」には、百人の部下がいます。おそらく彼は、ガリラヤの領主であったヘロデ・アンティパスか、ユダヤの総督であり、ポンティオ・ピラトに仕える隊長と思われます。この百人隊長は、5節の言葉からも異邦人であることは明らかです。この百人隊長は、身分の高い人物です。彼は自分の僕(部下)が重い病気で死にかかって」いるのを心配しました。

 「イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。」(7:3)

イエスのことを聞いた百人隊長は、イエスが神の権威を持った方であり、彼の僕を治せるということを、確固とした信仰によって信じたのです。<ユダヤ人の長老たち>は、ユダヤ教の共同体の指導者たちです。異邦人の百人隊長は、彼らをイエスのもとに使いにやって、病気の部下を助けに来てくださるように頼みました。

 「長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。『あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。』」(7:4-5)

   長老たちは、イエスのもとに来て熱心に願いました。百人隊長はイエス様に願いをかなえてもらうのにふさわしい人です。彼はユダヤ人を愛しており、自らユダヤ人のためにユダヤ教の会堂を建ててくれたのです、と報告しました。

  「そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。」(7:6)

   「そこで」とありますが、「願いをかなえて」やるにふさわしい人物だから、出かけられのではありません。ただ異邦人の病気の部下を癒してやりたいために出かけられたのです。イエス様は平地の説教の中で、「いと高き方は、恩を知らない者にも、悪人にも情け深い」(6:35)と言われています。イエスは長老たちと出かけられました。ところが、その百人隊長の家からそれほど遠くない所まで来たとき、百人隊長は、おそらくは異邦人である友達を使いにやって言わせました。「主よ、家まで足をお運びになる必要はありません。わたしはあなたを自分の家にお迎えできるような価値ある人物ではありません。」と使いの友人に言わせました。異邦人である自分の家にユダヤ人である神の権威を持つイエス様を迎え入れて汚れを与えることをおそれたのです。イエス様を迎えるにふさわしい価値ある人間ではないという、まことに謙遜な謙虚な言葉です。

 「ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。」(7:7)

 「それで、わたしの方から伺うのさえふさわしくないと思い、使いの者に頼みました。一言癒しのことばを言ってください。そして、わたしの部下を癒してください。」長老たちはイエスに異邦人の隊長のことをお願いするとき、会堂を建ててくれたとか、ユダヤ人を愛してくれているとか、願いをかなえてくださるにに相応しい方だと言って、イエスを動かそうとしました。イエスは何も言われずに隊長の家に向いました。しかし、百人隊長は、少しも自分のしたことなどを語っていません。ただイエスの前に神の憐れみを懇願しています。彼は、イエスの言葉には神としての力があると信じているのです。彼の頼みは、自分のためではなく、部下のためなのです。

 「わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」(7:8)

 この<わたしも>は、「イエス自身も父な神の権威の下にあるが、わたしも上官の権威の下に置かれている。自分に与えられている権威によって、わたしも部下に対して命令できるように」ということです。わたしの下にいる兵隊の一人に「行け」と言えば彼は行き、「来い」と言えが彼は来ます。また部下に「これをしろ」と言えば、彼はそのとおりにします。」彼は軍隊の百人隊長に与えられている権威の下に、命令する力を知っていたのです。百人隊長の言葉は、イエスの「元気になれ」という言葉の力を信じたのです。

 「イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」(7:9)

 イエスはこれを聞いて、信仰の民イスラエルには見られないような信仰に感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われました。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と驚き褒められました。

 「使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。」(7:10)

 百人隊長はイエスに使者を通して頼むだけであり、百人隊長自らがイエスの前に現れることもなく、使者たちが隊長の家に戻ると、死にかかっていた病人は元気になり、癒されていました。癒された部下は自分の信仰によってではなく、隊長の信仰により、主イエスの言葉によって癒されました。とりなしの祈りと願いによって、部下は癒されたのです。

   この癒しは、平地の説教をするイエスの言葉の権威を具体的に表すだけでなく、貧しい人たち(ルカ6:20-21)に対する神の国が現実になっていることを示しています。しかもその貧しい人はここでは異邦人の病人でした。主イエスによってもたらされた神の国は異邦人の世界にまで及んでいくのです。

  聖霊降臨後、 宣教による福音を異邦人の世界にもたらす時がきます。この百人隊長の驚くべき信仰は、使徒言行録におけるコルネリウスという百人隊長の改心の先がけとなっています。両方とも、信仰心あつく、神を畏れる(使徒言行録10:1)だけでなく、異邦人なのにユダヤ人のために会堂を建て、コルネリウスは<ユダヤの民に多くの施しを>します。コルネリウスもペトロのもとへ使者を遣わしています。シモン・ペトロは異邦人の家に行くことを迷いつつ、聖霊によって後押しされて、百人隊長の家に入り、教え、洗礼を授け、異邦人と共にパンを裂くのです。ルカによる福音書のキリストの言葉による隊長の僕の癒しは、使徒言行録10章の物語では、ペトロに使徒としての権威を与えたのです。

 並列記事は、マタイ8章5-13にありますが、マタイの方では、百人隊長が自らイエスのもとに来て頼んでいます。マルコによる福音書7章10節には、シリア・フェニキアの女(異邦人)の強い信仰によって彼女の娘がイエスのもとに連れて来られなくとも、イエスの言葉によって治った奇跡が記されています。

 百人隊長はイエスに会いに来ませんでした。この物語の百人隊長は、やがて来るべき全ての信仰者を先取りした存在として重要です。現代のわたしたちは、イエスを見てはいないが、イエスの言葉は生きて働く力をもつのだと信じています。主は、百人隊長のような驚くべき信仰を私たちにも求めておられるのです。主を呼び求め、主を迎え入れるにはふさわしくない汚れた心に、主がお住まいくださるということは、なんとすばらしい、ありがたいことでしょう。主をほめたたえましょう。

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「新しい愛の戒め」 ヨハネによる福音書15章12~17節

2019-05-26 00:54:22 | キリスト教

             ↑ ルーベンス 「弟子の足を洗うキリスト」1632 ディジョン美術館.

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

        日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

     復活節第4主日  2019年5月19(日)     午後5時~5時50分

年間標語 「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体

          を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により、力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住

           まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるよ

            うに。」(エフェソ3・16-17)

                               礼 拝 順 序

                                                司会 田中 恵子 姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)   56(主よ、いのちのパンをさき)

交読詩編   27(主はわたしの光、わたしの救い)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者祈祷

聖 書(新共同訳)ヨハネによる福音書15章12~17節(新p.199)

説  教   「新しい愛の戒め」      辺見宗邦牧師

祈 祷                                

讃美歌(21) 512(主よ、捧げます)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏

                                          次週礼拝 5月26(日) 午後5時~5時50分 

                                           聖 書 ルカによる福音書7章1~10節

                                           説教題   「信仰に報いる主」 

                                           讃美歌(21)  408 24 交読詩編 34

                          本日の聖書 

 15:12わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。 13友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。 14わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。 15もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。 16あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。 17互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

                   本日の説教

 

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

 

日本福音教団 富 谷 教 会

週    報

 復活節第4主日         2019年5月19(日)   

  午後5時~5時50分

年間標語 「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて

働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」

(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により、力をもって、あなたがたの心の内に

キリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと

立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

 

礼 拝 順 序

司会 田中 恵子 姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)  56(主よ、いのちのパンをさき)

交読詩編   27(主はわたしの光、わたしの救い)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者祈祷

聖 書(新共同訳)ヨハネによる福音書15章12~17節(新p.199)

説  教   「新しい愛の戒め」      辺見宗邦牧師

祈 祷

聖餐式    78(わが主よ、ここに集い)                                

讃美歌(21) 512(主よ、捧げます)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏

次週礼拝 5月26(日) 午後5時~5時50分 

聖 書 ルカによる福音書7章1~10節

説教題   「信仰に報いる主」 

讃美歌(21)  408 24 交読詩編 34

本日の聖書 

 15:12わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。 13友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。 14わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。 15もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。 16あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。 17互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

                     本日の説教

 ヨハネによる福音書13章では、過越の食事の前日に夕食の席に着く前に、イエスが<弟子たちの足を洗う>、「洗足」の記事があります(1節~11節)。ヨハネによる福音書によると、イエスは翌日、すなわち過越の祭りの日に十字架に架かっています。この点共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)の記事と一日ずれています。教会歴では、洗足は受難週の木曜日の最後の晩餐の席で行われたものとしています。

   イエスは、逮捕と受難の直前に、あとに残される弟子たちを愛して、奉仕の模範を示します。そして、21節以下に最後の晩餐の場面が描かれます。夕食中に、<ユダの裏切りの予告>があり、ユダが出ていきます。

   13章31節~35節では、ユダが出て行くと、イエスは、地上に残される弟子たちに、新しい掟を与えます。

  「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13・34~35)

 「新しい戒め」とは、⑴「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛した」という、父なる神とイエスとの関係に基ずく愛であり、⑵「わたしの戒め」として与えられている「イエスの戒め」です。⑶弟子たちの足を洗うという行為を通して示された愛であり、⑷神に背きつづける人間の罪のために十字架で死んでくださったことによって示された愛です。⑷更にそれはイエスに始まる共同体における兄弟愛です。それはイエスの弟子であることを証する愛です。

     このあと、ペトロとの会話の中で、ペトロの離反を予告します。

    14章から16章までは別れの説教です。17章は後に残る弟子たちのためのとりなしの祈りです。今日の聖書の箇所は別れの説教中の言葉です。

   イエスは再び、愛の掟を弟子たちに命じます。イエスがこの掟に大きな重要性をおいたことは、イエスがこの掟について同じ夜にさらに二度繰り返したことによってわかります。

  「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15・12~13)

    イエス・キリストは私たちに互いに愛し合うように命じられました。イエスが私たちを愛されたと同様に愛しなさい、と命じています。隣人愛は、イエスの愛を知った者、主に従おうとする者がまず兄弟を愛するということから展開され実現されると言えます。ここに<互いに愛し合う>兄弟愛の交わり、<隣人への愛>も現実化されていくのです。

   13節の<友のために自分の命を捨てる>と言うこの言葉は、キリスト教以外の古代世界においても、他者のために死ぬことは愛の最高のしるしでした。しかし、福音記者は、<友のために自分の命を捨てること>という言葉によって、一般的に最大の愛について語っているのではなく、間接的にイエスの十字架の贖いの死を指し示す言葉として用いています。

  「自分の命を捨てる」とは、自爆テロのような自己放棄への奨めではありません。善良な市民をも無差別に殺生しようとする行為には、憎しみはあっても愛はありません。それは、イスラム教のアッラーの神に名のもとになされる自暴自棄的な自殺行為でしかありません。

    イエスの求める愛は、自己愛の延長としてではなく、価値のない者、背く者に注がれる「神の愛」を証しし、その愛にこたえて、「互いに愛し合う」ことを求めるものです。自分の健康に留意し、自分の成長を計り、自分に収入を確保するなど、自分を守る生活を放棄するのではなく、そのすべてを通して神に仕え、人に仕え、愛し合うことが求められているのです。

  「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」(ヨハネ15・14~15)

 旧約聖書ではアブラハムが、神から選ばれたという理由で「神の友」と呼ばれています(イザヤ書41・8)。ここでは、イエスと弟子たちの愛による一体性から、弟子がイエスの<友>と呼ばれるのです。

    続いて、弟子たちがなぜイエスの友と呼ばれるのか、その根拠が示されます。イエスと弟子たちは、もはや、主人と僕(奴隷)の関係ではありません。僕は、主人の意図も行動も知らないが、弟子たちはそのことを知っています。特に、ここでは、聖霊に導かれて、イエスの人格と言葉と業のすべてを知り、イエスの愛を共同体内に体現している弟子たちは、イエスと一体であり、その意味で、イエスの友なのです。

  「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」 (ヨハネ15・16~17)

   主イエスが弟子たちを使徒として任命し使命を与えています。主が選び任命し遣わされるゆえに、弟子たちは出かけて行って実を結ぶべきであり、実を結ぶことが約束されています。選びの主体は、常に、イエスの側にあるのであり、そこに、イエスの神的主権が示されています。<実を結ぶ>と言う比喩的表現で世界への伝道が述べられています。明らかに、ここでは、弟子たちの伝道の業と礼拝が言及されています。「たがいに愛し合いなさい」(12節)という<わたしの掟>は最後にもう一度繰り返され、「これがわたしの命令である」と結ばれます。

 しかし、わたしたちは、互いに愛し合うことができるでしょうか。主イエスの言葉を実行することは、人間に可能なのでしょうか。本来利己的、自己中心的な人間が、キリストのような献身的、自己犠牲的な愛を実践することは出来ません。では、どうしてそれが可能となるのでしょうか。それは人間の力では出来ないことが、「わたしがあなたがたを愛したように」というキリストの愛の事実に支えられ、励まされ、促され、愛を実践できない自分の罪を告白しつつ、出来る自分へと変えられることを祈ることによって、キリストへの信仰により、聖霊の働きにより、心の内にキリストを住まわせていただき、新しい人に造り変えられて、できるようになっていくのです。

 「わたし自身もかつては、無分別で、不従順で、道に迷い、種々の情欲と快楽のとりことなり、悪意とねたみを抱いて暮らし、忌み嫌われ、憎み合っていたのです。しかし、…神は、…わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かない注いでくださいました。」(テトス3:5-6)聖霊によって新しい人に造り変えられるのです。

  「御父が、その霊により、力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかり立つ者として」(エフェソ3:16-17)くださるのです。

   私たちは出かけて行って実を結ぶことを求められているのです。互いに愛し合う交わりを形作るということです。それは具体的に、夫婦、親子、友人、同僚、地域の人たちとの関係を、「互いに愛し合う」交わりにしていく責任が私共にはあるということです。そのために私共は選ばれたからです。すべての必要なものを父なる神が与えてくださることを信じるゆえに、私たちは祈りつつ、遣わされていくのです。

 

 

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