富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「キリストの昇天」 マタイによる福音書28章16~20節

2019-05-30 23:31:49 | キリスト教

            ↑ ジョン・シングルトン・コプリー(アメリカ、ボストン出身)      「キリストの昇天」1775年作

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

      日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

    復活節第7主日  2019年6月2(日)     午後5時~5時50分

年間標語 「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により、力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

                          礼 拝 順 序

                                                司会 田中 恵子 姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 287(ナザレの村里)

交読詩編  103(わたしの魂よ、主をたたえよ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者祈祷

聖 書(新共同訳)マタイによる福音書28章16~20節(新p.60)

説  教   「キリストの昇天」     辺見宗邦牧師

祈 祷                                

讃美歌(21) 337(たたえよ、この日)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏

                                次週礼拝 6月9日(日)聖霊降臨日  午後5時~5時50分 

                                聖 書 使徒言行録2章1~11節

                                説教題   「聖霊の賜物」 

                                讃美歌(21) 475 343 24 交読詩編146

              本日の聖書 マタイによる福音書28章16~20節

 28:16さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。 17そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。 18イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 19だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 20あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。

                    本日の説教

 復活したイエスが天に昇っていく<昇天>の場面を記しているのはルカによる福音書24:50~53と、福音書記者ルカが書いた使徒言行録1:9です。使徒言行録1:3には、復活したイエスが弟子たちに<四十日間にわたって現れた>後、昇天したと記されています。このルカの記述から、イエスが復活したイースターの日から数えて四十日目の木曜日を、昇天日と定めているのです、今年の教会暦では、5月30日(木)が昇天日です。日本の新教の教会では平日に礼拝を守ることが困難なので、次の週の日曜日ににあたる今日、昇天を記念して礼拝を守る教会が多いのです。その次の日曜日は復活日から50日目(使徒言行録2・1)の聖霊降臨日(ペンテコステ)になります。

    昇天した場所については、ルカは、「救いの宣教はエルサレムから始まらなければならない」とする観点から、イエスが復活して現れた場所も、昇天した場所も都エルサレム地域に限定しています(ルカ24:49)。昇天の場所とされている所は、エルサレム神殿の西にあるオリーブ山の頂上で、現在、昇天の塔と昇天教会が建っているところとされています。

   

7がオリーブ山の山頂で、ロシア正教の高い塔と昇天のチャペルとが建っています。1.ライオン門(ステパノ門) 2.ステパノ教会 3.ゲッセマネの教会(万国民教会) 4.マグダラのマリア教会 5.涙の教会 6.主の祈りの教会 7.昇天のチャペル 8.ラザロ教会 9.ラザロの墓 11.オリーブ山展望台 12.ベテファゲ修道院 13.ヘロデ門 14.糞門

  

   ロシア正教会の昇天の塔と、手前が昇天のチャペル(主イエスの昇天記念堂)

 オリーブ山の頂上には紀元4世紀に、イエスが昇天されたときの足跡が残っている岩を覆うようにたてられたものと、1870年代に建てられた高い塔をもつロシア正教のチャペルがあります。

 【ルカ福音書以外の、他の福音書は昇天についてどのように扱っているのでしょう。マタイによる福音書では、復活したイエスが現れた場所も、宣教を命じた所も、イエスが福音を説き始めたガリラヤの地となっています。昇天については記していませんが弟子たちに宣教を命じた後、、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という言葉が、昇天を暗示しています。

 マルコによる福音書では、イエスが復活後に弟子たちに現れたことは記していませんが、ガリラヤで弟子たちとの会うことが、14:28、16:7が天使たちによって語られています。マルコ福音書ではイエスの昇天は記していませんが、長い付録16:19~20の中で、「天に上げられ、神の右の座に着かれた」という言葉があります。

   ヨハネ福音書では、マタイとルカの記事を合わせるように、宣教命令の場面はエルサレム、、ペトロと他の六人の使徒たちへに復活したイエスが現れるのはガリラヤになっています(ヨハネ21章)。昇天については記していませんが、12:32の「わたしは地上から<上げられるとき>」という言葉で、復活と昇天をひとつにして表現しています。】

  「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。」(マタイ28:16、17)

   イエスの葬られた墓を詣でた女たちは、天使から、復活したイエスは弟子たちとガリラヤで会うと弟子たちに告げました。この言葉を受けて弟子たちはガリラヤの指定させた山に行き、そこで復活したイエスに会いました。<十一人の弟子>とは、ユダが死んだので(27:5)、十二人の弟子の一人が欠けたことになっています。<ガリラヤ>は、マタイ4:15では、ガリラヤから広く異邦世界への福音伝道が展開すると語られ、イエスが「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って伝道を始めたのもガリラヤの地です。マタイは、復活したイエスが弟子たちに会われる所を、ガリラヤの山としていますが、山は神が顕現する場所です。十一人の弟子たちが、復活したイエスに会うように指示されたガリラヤの山は、山上の説教がなされた山と推定されていますが確証はありません。

   イエスに会い、<ひれ伏し>て礼拝しつつも、疑った者もいました。マタイにはイエスが復活した体を示すことによって弟子たちの疑いを取り去っ記事はありません。弟子たちがイエスを本当に信じることができたのは、ペンテコステの日に聖霊が注がれて以降の ことです。

   「イエスは、近寄って来て言われた。『わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。』」(マタイ28:18~20)

  イエスは疑う弟子たちに近寄ってきて、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と宣言されました。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」という言葉は、マタイ福音書の中でも最も重要な言葉となっています。イエスは以前に、「すべてのことは、父からわたしに任されています」(11:27)と言われたことがあります。ここでは<天と地の一切の権能を授かっている>と宣言しています。復活によって主イエスは天地を支配する主となったのです。かつて悪魔は、荒れ野の誘惑で、悪魔にひれ伏すなら全世界の支配権を与えようと提案したことがあったが(マタイ4:8)、イエスはこれをきっぱりと拒否し、神のみに仕えることを選びました。その結果は十字架への道を歩むことになりましたが、十字架の死を通過することによって、復活して天地の支配権を、全能の父から委ねられたのです。メシアとしてのイエスは、死と復活を通して詩編110:1に預言されているように「神の右の座」に上げられたのです。こうして現在はイエスが天地を支配する時となったのです。しかし、それは決して、主イエスが、世界の人間の生活のあらゆる面において、直接に主となることではありません。主イエスが、十字架と復活によって、罪に勝ち、死を滅ぼしたことにより、神の支配が始まっているということです。

   イエスのもとへ行った弟子たちは、このイエスのもとから出発して全世界へ宣教するよう命じられました。この宣教命令の目標とするところは、「すべての民」であり、「すべての異邦人」です。生前のイエスの時代には、福音はイスラエルの民に限られて語られましたが、イスラエルが福音を拒否した今、異邦人へ伝えられる時代になりました。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」の言葉で、弟子たちがイエスの働きの継承者となって、世界に福音を伝える使命を与えられたのです。

  マタイの宣教命令は、異邦人たちを「わたしの弟子にしなさい」という命令です。弟子とはイエスの教えを聞き、信じ、イエスを主と仰いで歩む人のことです。

「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」なさいと命じています。<父と子と聖霊>という三位一体の言葉は新約聖書中ここにしかありません(似たような言葉は、コリント二、13:13にもあります)。すでに、イエスの洗礼記事(マタイ3:16-17)で、神と子と聖霊の三つのことが語られています。「父と子と聖霊の名によって洗礼を授ける」とは、三位一体の神の主権に服すと同時に、三位一体の神との交わりに入るのです。父と子と聖霊の中に浸され、御子が聖霊を与えるものとして働き、神自らがそこに働いて、救いを保証するのです。洗礼を受けることは、直ちに、キリストの体である教会につらなることであります。

  「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と命じています。「命じておいたこと」とは、イエスが語られたすべての教えが含まれます。「守る」とは、それを実行することです。それは主によって生きることであり、主と共に生活することなのです。主が共におられなければ、主の教えによって歩むことはできません。 

   「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:17)

   ルカによる福音書では、イエスについての最後の言葉は、「彼は、祝福しながら彼らを離れて、天に引き上げられた」(ルカ24:51)とあるように、イエスと弟子たちが離れてしまうことを語っています。ところがマタイではそれと対照的に、最後の言葉は、イエスがこれからも、いつも共にいることを約束しています。マタイによればイエスは常に信仰者と共にいるので、昇天という形で離れ去ることを語っていません。イエスがなおもインマヌエル、すなわち「神は我々と共におられる」お方であるということを思い起させます。マタイ1:23で、インマヌエル預言の成就が、天使によって語られる場面では、誕生するイエスにおいて「神」が共にいるのですが、ここでは「イエス」が我々と共にいるのです。つまり神は、神の新しい民を導き、また保護するということの責任をまさにイエスに委任されたのです。

 「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」この約束は、前後の言葉から、福音を伝える弟子たちに向けられていますが、伝道者だけに限定されたものではなく、教会全体とそれを構成するすべての会衆のためのものでもあります。ここで約束されている「共にいる」という臨在は、イエスの権能を教会に委ねて、世界の宣教を命じているのです。主イエスは、「世の終わりまで、いつも」教会と共におられるのです。「世の終わり」、それは単なる終末ではなく、地上における神の国の完成であり、救いの完成です。キリストは世の救いのために伝道する者と常に共にいてくださり、伝道する者の業を助けると約束されているのです。神の国は、すでにキリストがこの世に来られた時から、近づき、始まっているのです。

   使徒信条では、「天に昇り神の右に座したまえり」と、天に上ったキリストが神の右の座につくということが告白されています。天とは見えざる神のおられるところです。神の右の座とは、神に一番近い場所を意味します。

 1.昇天とは天への帰還を意味します。永遠の昔から父なる神と共におられた主イエスが、罪と死に支配されている人間を救うため、人間となってこの世に来られ、罪と死に打ち勝ち、全てのわざを成し遂げられて、再び、元おられた所に上げられ、帰えられたということです。

 2.「天に昇り、神の右の座に」つかれたとは、全能の父より委任されて主イエスは天地を支配されていることを意味します(マタイ28:18)。また主は教会の頭として全教会に君臨されます。今も主キリストは生きて働き、人を救い、守り、教会と世界を導いておられるのです。

 3.主の昇天は私たちに聖霊がつかわされるために必要なことでした(ヨハネ16:7)。聖霊により、父なる神と御子キリストがわたしたちのところに来て共に住んでくださるのです(ヨハネ14:23)。聖霊の力を受けて教会はこの世にあって宣教の使命を果していくのです。

 4.主イエスは、また、「神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださる(ローマ人への手紙8:34)」方です。私たちを罪ありと訴える者から弁護して下さり、また私たちの祈りを天の父に取り次いでくださるのです(ヨハネ16:23)。

 5.キリストの昇天は、わたしたちのために住む場所を天に用意するためでした。私たちのために天への入口が開かれたのです。私たちもいずれその時が来たならば、天の主の御許に迎えられるのです。

 6.キリストの昇天後、天を見つめていた弟子たちのそばに天の御使いが現れて、彼らにキリストが再びこの地上に来られることを約束します(使徒1:10~11)。それは地上における神の国(神の支配)の完成であり、救いの完成を意味するのです。

 主が共にいまし、共に働いてくださっていると言うことほど、力強いことはありません。主が共にいますことを信じて、自らの信仰生活と教会の成長のために共に励もうではありませんか。

コメント
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