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日本キリスト教 富谷教会 週報
年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』
聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」 (フィリピ4:6)
復活節第5主日 2015年5月3日(日) 5時~5時50分
礼 拝
司会 永井 慎一兄
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 475( あめなるよろこび)
交読詩編 27(主はわたしの光、わたしの救い)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
聖 書 ヨハネによる福音書15章12~17節
説 教 「イエスの新しい戒め・互いに愛し合いなさい」 辺見宗邦牧師
讃美歌(21) 529(主よ、わが身を)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 24(たたえよ、主の民)
祝 祷
後 奏
次週礼拝 5月10日(日) 午後1~3時
仙台青葉荘教会壮年会との合同礼拝と
茶席での懇談
聖 書 ルカによる福音書7章1~10節
説 教 「信仰に報いる主イエス」
辺見 宗邦
本日の聖書 ヨハネによる福音書15章12~17節
12わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。13友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。14わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。15もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。 16あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。17互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」
本日の説教
ヨハネによる福音書では、13章で、いわゆる最後の晩餐の場面が描かれます。しかし、ヨハネでは、聖餐が制定される過越の食事ではなく、過越の食事の前日のものであり、夕食の席に着く前に、イエスが<弟子たちの足を洗う>、「洗足」の記事があります。夕食中に、<ユダの裏切りの予告>があり、ユダが出ていくと、<新しい掟>を与えられ、そして、<ペトロの離反の予告>がなされます。
13章から17章で、イエスは、逮捕と受難の直前に、あとに残される弟子たちに対して、奉仕の模範を示し、さらに、訣別説教を語ります。
13章31節~35節から、イエスの訣別説教あるいは告別説教が始まります。この部分は訣別説教の重要な主題を呈示しています。一つは、イエスの栄光であり、今一つは、愛による共同体形成です。訣別説教は、14章以下で本格的に展開されていきます。
13章34節~35節で、イエスは、地上に残される弟子たちに、新しい掟を与えます。「互いに愛し合いなさい」という愛の掟です。ヨハネ福音書が説く愛は、<敵をも愛する愛>ではなく、共同体内における兄弟愛の実践です。
「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13・34~35)
この言葉を受けて、今日の聖書の言葉が続きます。イエスは再び、愛の掟を弟子たちに命じます。イエスがお与えになった新しい掟とは、互いに愛し合うことでした。イエスがこの掟に大きな重要性をおいたことは、イエスがこの掟について同じ夜にさらに二度繰り返したことによってわかります。
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15・12~13)
イエス・キリストは私たちに互いに愛し合うように命じられました。イエスが私たちを愛されたと同様に愛しなさい、と命じています。
< わたしがあなたがたを愛したように>の句は、この愛の根拠と現実性をあらわしています。隣人愛は、イエスの愛を知った者、主にならい、主に従おうとする者がまず兄弟を愛するということから展開され実現されると言えます。また<互いに愛し合う>兄弟愛の交わり、<隣人への愛>も現実化されていくのです。
13節の<友のために自分の命を捨てる>と言う言葉は、おそらく古代世界に流布していて、格言化したものであったと考えられます。「愛の最上のしるしは、友人のために命を捨てることである。」この言葉は、キリスト教以外の古代世界においても、他者のために死ぬことは愛の最高のしるしでした。しかし、福音記者は、<友のために自分の命を捨てること>という言葉によって、一般的に最大の愛について語っているのではなく、間接的にイエスの十字架の贖いの死を指し示す言葉として用いています。
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」と主イエスは告げられました。ギリシャ語原文に近い英語訳は、Greater love hath no man than this, that a man lay down his life for his friends.です。新改訳聖書では、「人がその友のためにいのちを捨てるという、これより大きな愛はだれも持っていません。」とあり、よりギリシャ語原文に近い訳となっています。ここでの主イエスの言い方は、これより大きな愛を持っている人はいないという言い方なのです。主イエスがここで告げられているのは、御自身の十字架を前提としているのです。私共の中に愛はない。とすれば、私共はこの愛を願い求めるしかないではないですか。それが16節後半の「わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」との御言葉につながるのです。愛のない私共が十字架の主イエスの前に立って「互いに愛し合いなさい。」との御言葉を聞く時、私共は「愛を与えてください。」と祈り願わざるを得ない。その願いを父なる神様は必ずかなえてくださるのです。そう主イエスが約束してくださったのです。そのようなイエスの愛にとどまり、愛の掟を守ることによって、弟子たちはイエスの<友>と呼ばれるのです。
「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」(ヨハネ15・14~15)
旧約聖書ではアブラハムが、神から選ばれたという理由で「神の友」と呼ばれています(イザヤ書41・8)。ここでは、イエスと弟子たちの愛による一体性から、弟子がイエスの<友>と呼ばれるのです。続いて、弟子たちがなぜイエスの友と呼ばれるのか、その根拠が示されます。イエスと弟子たちは、もはや、主人と僕(奴隷)の関係ではあり得ません。僕は、主人の意図も行動も知らないが、弟子たちはそのことを知っています。特に、ここでは、聖霊に導かれて、イエスの人格と言葉と業のすべてを知り、イエスの愛を共同体内に体現している弟子たちは、イエスと一体であり、その意味で、イエスの友なのです。
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」 (ヨハネ15・16~17)
主イエスが弟子たちを使徒として任命し使命を与えています。主が選び任命し遣わされるゆえに、弟子たちは出かけて行って実を結ぶべきであり、実を結ぶことが約束されています。選びの主体は、常に、イエスの側にあるのであり、そこにおいて、イエスの主権と神聖が啓示されます。<実を結ぶ>と言う比喩的表現で世界への伝道が述べられています。明らかに、ここでは、弟子たちの伝道の業と礼拝が言及されています。
使命を与えたもう主によって弟子たちはイエスの名によって祈ることができます。その祈りは父が必ずかなえてくださるのです。イエスの名によって祈るとき、父なる神はその業を継続し達成するのに必要なすべての祝福を与えてくださるのです。
「互いに愛し合いなさい」という兄弟愛はイエスの愛に根拠づけられています。「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい」と、エフェソの信徒への手紙第5章2節にあります。
私たちがこのことを奴隷のようにではなく選ばれた友、任命され遣わされゆく使徒として受けとめる時、これはまことに重いけえども喜ばしい主の命令となります。「たがいに愛し合いなさい」(12節)という<わたしの掟>は最後にもう一度繰り返され、「これがわたしの命令である」と結ばれます。
ヨハネによる福音書第13章34節で、イエスは互いに愛することを新しい掟とみなしました。イエスはなぜそれを新しい掟としたのか、ということです。互いに愛することは、それより何千年も前に、レビ記に愛についての掟が書かれています。「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」レビ記第19章18節
なぜイエスは新しい掟としたのでしょうか。その理由は、愛することは律法で命じられていましたが、それまでは守ることは不可能だったからでした。愛は新しい性質が結ぶ実であるからです(ガラテヤの信徒への手紙第5章22節)。つまり、新しい性質とは、新しく生まれていただいたもの、また聖書の言う「新しい人」(エフェソの信徒への手紙第4章24節)であり、また、「霊」です(ガラテヤの信徒への手紙第5章5節から25節)。愛には新しく生み出された新しい性質が必要で、その性質がなければ、愛することはできませんでした。ですから、人々は隣人を愛するように命じられましたが、実際にはそれを守ることはできませんでした。しかしながら、聖霊の降った五旬祭の日から後、イエスが主であることを告白し、神がイエスを死からよみがえらせたことを心から信じるなら、その人は新しい性質を得ることができるのです。それで、愛することもできるようになります。こういう理由で、イエスは互いに愛し合うことを新しい掟だと言ったのです。互いを愛することは、以前にも命じられていたのですから、新しいことではないのですが、しかし後に(五旬祭の日から)、新しい性質によってそれを守ることが可能となったのです。
実は、互いを愛するということ以外にも、新しい性質が欠けているために、守ることができなかった律法がありました。ローマの信徒への手紙第8章3節では、肉の弱さ[古い性質]のために律法がなしえないことがあると述べています。律法そのものに問題があるのではありません。ローマの信徒への手紙第7章12節は、律法は「聖であり、正しく、そして善いもの」と述べています。しかしながら、律法を守る術がなく、守れない理由は新しい性質がなかったからです。ローマの信徒への手紙第7章14節は、「律法が霊的なもの」であるが、その対象は「肉の人、罪に売り渡されている」と語っています。ですから、人々は律法を守れませんでした。しかしながら、新しい性質を得ることが可能になってからは、その性質を持っていれば愛することが出来るようになりました。そして、愛することで自動的に律法を全うしていることになります。ローマの信徒への手紙第13章8節から10節はこう語ります。
「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』、そのほかどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです」
またガラテヤの信徒への手紙第5章13節から14節には、「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです」、とあります。
私たちは出かけて行って実を結ぶことを求められているのです。互いに愛し合う交わりを形作るということです。それは具体的に、夫婦、親子、友人、同僚、地域の人たちとの関係を、「互いに愛し合う」交わりにしていく責任が私共にはあるということです。そのために私共は選ばれたからです。すべての必要なものを父なる神が与えてくださることを信じるゆえに、私たちは祈りつつ、遣わされていくのです。「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。」(ヨハネの手紙一、5・14)