富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「キリストの昇天の意義/現在のキリスト教徒に欠けているもの」 

2015-05-16 00:46:30 | 説教

           レンブラント・ファン・レイン作の「キリストの昇天」

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

               日本キリスト教 富谷教会 週報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」   (フィリピ4:6)

    復活節第7主日  2015年5月17日(日)   5時~5時50分 

礼   拝   

前 奏            奏楽   辺見トモ子姉

讃美歌(21)  287(ナザレの村里 )

交読詩編     110(わが主に賜った主の御言葉)

主の祈り    93-5、A

使徒信条    93-4、A

聖 書    マタイによる福音書28章16~20節       

説 教   「キリストの昇天の意義」    辺見宗邦牧師

讃美歌(21)  327(すべての民よ、よろこべ)

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)     24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏

                                   次週礼拝 5月24日(日)聖霊降臨日 午後5時~5時50分

                                     聖 書  使徒言行録2章1~11節

                                     説 教   「聖霊の賜物」  

                                     讃美歌(21) 343  514  24

本日の聖書 マタイによる福音書28章16~20節

 16さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。 28:17そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。 28:18イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 28:19だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 28:20あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

   本日の説教

  復活したイエスが天に昇っていく<昇天>の場面を記しているのはルカによる福音書24・50~53と、福音書記者ルカが書いた使徒言行録1・9です。使徒言行録1・3には、復活したイエスが弟子たちに<四十日間にわたって現れた>後、昇天したと記されています。このルカの記述から、イエスが復活したイースターの日から数えて四十日目の木曜日を、昇天日と定めているのです、今年の教会暦では、5月14日(木)が昇天日です。日本の新教の教会では平日に礼拝を守ることが困難なので、次の週の日曜日ににあたる今日、昇天を記念して礼拝を守る教会が多いのです。次の日曜日は復活日から50日目(使徒言行録2・1)の聖霊降臨日(ペンテコステ)になります。

  昇天した場所については、ルカは、「救いの宣教はエルサレムから始まらなければならない」とする観点から、イエスが復活して現れた場所も、昇天した場所もエルサレム地域に限定しています(ルカ24・49)。昇天の場所とされている所は、エルサレム神殿の西にあるオリーブ山の頂上で、現在、昇天の塔と昇天教会が建っているところとされています。

 

       7がオリーブ山の山頂で、ロシア正教の高い塔と昇天教会とが建っています。1.ライオン門(ステパノ門) 2.ステパノ教会 3.ゲッセマネの教会(万国民教会) 
4.マグダラのマリア教会 5.涙の教会 6.主の祈りの教会 7.昇天教会 8.ラザロ教会 9.ラザロの墓 11.オリーブ山展望台 12.ベテファゲ修道院 13.ヘロデ門 14.糞門 。

    

ロシア正教会の昇天の塔(オリーブ山頂上)      昇天教会

                            (南東の山麓ベタニヤ側から見る。)

 【ルカ福音書以外の、他の福音書は昇天についてどのように扱っているのでしょう。マタイによる福音書では、復活したイエスが現れた場所も、宣教を命じた所も、イエスが福音を説き始めたガリラヤの地となっています。昇天の場所は宣教を命じたガリラヤの山が暗示されています。

 マルコによる福音書では、イエスが復活後に弟子たちに現れたことは記していませんが、ガリラヤで弟子たちとの会うことが、14・28、16・7が天使たちによって語られています。マルコ福音書ではイエスの昇天は記していませんが、長い付録16・9~20の中で、「天に上げられ、神の右の座に着かれた」という言葉があります。

 ヨハネ福音書では、マタイとルカの記事を合わせるように、宣教命令の場面はエルサレム、、ペトロと他の六人の使徒たちへに復活したイエスが現れるのはガリラヤになっています(ヨハネ21章)。昇天については記していませんが、12・32の「わたしは地上から<上げられるとき>」という言葉で、復活と昇天をひつにして表現しています。】

  「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。」(マタイ28・16、17)

  イエスの葬られた墓を詣でた女たちは、天使から、復活したイエスは弟子たちとガリラヤで会うと弟子たちに告げました。この言葉を受けて弟子たちはガリラヤの指定させた山に行き、そこで復活したイエスに会いました。<十一人の弟子>とは、ユダが死んだので(27・5)、十二人の弟子の一人が欠けたことになっています。<ガリラヤ>は、マタイ4・15では、ガリラヤから広く異邦世界への福音伝道が展開すると語られ、イエスが「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って伝道を始めたのもガリラヤの地です。マタイは、復活したイエスが弟子たちに会われ所を、ガリラヤの山としていますが、山は日常の世界から離れた重要な役割を果たしてきました。荒れ野の最後の誘惑(4・8)も、イエスが栄光の姿に変わった(17・1)のも、山上の説教(5・1)も、山で起こっています。十一人の弟子たちが、復活したイエスに会うように指示されたガリラヤの山は、山上の説教がなされた山と推定されています。

    

 1935年に建立された山上の説教教会。      眼下向こうに見えるのはガリラヤ湖。

   イエスに会い、疑ったのは十一人の中の数人ではなく、十一人すべてがイエスに<ひれ伏し>て礼拝しつつも疑ったと思われます。イエスの与える言葉とそれへの服従こそが「疑い」を克服するのです。イエスが今なお<あなたがたと共にいる>という言葉で、臨在しているのです。

 イエスは、近寄って来て言われた。『わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。』」(マタイ28・18~20)

 この宣教命令の、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」という言葉は、マタイ福音書の中でも最も重要な言葉となっています。イエスは以前に、「すべてのことは、父からわたしに任されています」(11・27)と言われたことがあります。ここでは<天と地の一切の権能を授かっている>と宣言しています。天地を支配する権威を持つイエスとは「神の子」です。かつて悪魔は、荒れ野の誘惑で、悪魔にひれ伏すなら全世界の支配権を与えようと提案したことがあったが(マタイ4・8)、イエスはこれをきっぱりと拒否し、神のみに仕えることを選びました。その結果は十字架への道を歩むことになりましたが、十字架の死を通過することによって天地の支配権を、全能の父から委ねられたのです。メシアとしてのイエスは、死と復活を通して詩編110・1に預言されているように「神の右の座」に上げられたのです。こうして現在はイエスが天地を支配する時となったのです。

 イエスのもとへ行った弟子たちは、このイエスのもとから出発して全世界へ宣教するよう命じられました。この宣教命令の目標とするところは、「すべての民」であり、「すべての異邦人」です。

 生前のイエスの時代には、福音はイスラエルの民に限られて語られましたが、イスラエルが福音を拒否した今、異邦人へ伝えられる時代になりました。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」の言葉で、弟子たちがイエスの働きの継承者となって、世界に福音を伝える使命を与えられたのです。

 マタイの宣教命令で、強調されているのは、異邦人たちを、イエスの教えられた倫理的命令に従う弟子としなければならないということです。「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」とは、異邦人を、イエスが山上の説教で教えられたことを行う弟子としなさい、ということです。

 「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」なさいという、<父と子と聖霊>という三位一体の言葉は新約聖書中ここにしかありません(似たような言葉は、コリント二、13・13にもあります)。すでに、イエスの洗礼記事(マタイ3・16-17)で、神と子と聖霊の三つのことが語られています。弟子たちがこれから施す洗礼は、イエス自身の受けた洗礼を一つの根拠にして、授けることになります。 

わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28・17)

  ルカによる福音書では、イエスについての最後の言葉は、「彼は、祝福しながら彼らを離れて、天に引き上げられた」(ルカ24:51)とあるように、イエスと弟子たちが離れてしまうことを語っています。ところがマタイではそれと対照的に、最後の言葉は、イエスがこれからも、いつも共にいることを約束しています。マタイによればイエスは常に信仰者と共にいるので、昇天という形で離れ去ることを語っていません。イエスがなおもインマヌエル、すなわち「神は我々と共におられる」お方であるということを思い起させます。マタイ1・23で、インマヌエル預言の成就が、天使によって語られる場面では、誕生するイエスにおいて「神」が共にいるのですが、ここでは「イエス」が我々と共にいるのです。つまり神は、神の新しい民を導き、また保護するということの責任をまさにイエスに委任されたのです。

 「神であるイエス」の臨在する場所は、<あなたがた>の中であり、洗礼活動を通して伝道に励む信仰者の場(教会)が重視されています。

  「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。

  この約束は、前後の言葉から、福音を伝える弟子たち(宣教師)に向けられていますが、宣教師だけに限定されたものではなく、教会全体とそれを構成するすべての会衆のためのものでもあります。

  マタイ18・20の「二人または三人がわたしの名によって集まるところにには、わたしもその中にいるのである」というイエスのご臨在は、教会の中で、兄弟を忠告するときの審判と願いごとの時に約束されたものです。しかしここで約束されている臨在は、「教会に」イエスの権能を委ねて、世界の宣教を命じているのです。主イエスは、「世の終わりまで、いつも」教会と共におられるのです。

 「いつもあなたがたと共にいる」という約束は、聖霊が降ることによって現実のものとなりました。主の昇天は私たちに聖霊が遣わされるために必要なことでした(ヨハネ16・7)。

  聖霊降臨は、昇天の10日後に起こりますが、それは昇天に際してのキリストが弟子たちに約束したことが実現したのです(使徒言行録1・5)。この聖霊の力を受けることによって、弟子たち(教会)は、世界宣教を命じられたことが明確になりました。キリストの昇天は、このように、教会が世界への宣教の使命を自覚させられたことであり、それは聖霊降臨と結びつく出来事でした。

  使徒信条では、「天に昇り神の右に座したまえり」と、天に上ったキリストが神の右の座につくということが告白されています。天とは見えざる神のおられるところです。神の右の座とは、神に一番近い場所を意味します。永遠の昔から父なる神と共におられた主イエスは、罪と死に支配されている人間を救うため、人間となってこの世に来られ、全てのわざを成し遂げられ、再び、元おられた所に上げられ、帰えられたのです。キリストの昇天は、「私たちのために天への入口が開かれる」ためでした。私たちもいずれその時が来たならば、天の主の御許に迎えられるのです。

 主イエスは、また、「神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださる(ローマ人への手紙8・34)」方です。私を罪ありと訴える者から弁護して下さり、また私たしの祈りを天の父に取り次いでくださるのです(ヨハネ16・23)。

  キリストの昇天後、天を見つめていた弟子たちのそばに天の御使いが現れて、彼らにキリストが再びこの地上に来られることを約束します(使徒1:10~11)。それは地上における神の国(神の支配)の完成であり、すなわち救いの完成を意味するのです。

 キリストの昇天は、罪のために死んでいたわたしたちを、キリストによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださるためでした(エフェソ2・6)。神は私たちを神の子とし、聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者(コロサイ1・22)にしてくださったのです。

 今日のキリスト教徒は、単に信仰者というだけで、その行動において信仰が現実化されていないことです。生まれながらの性質では、主イエスの説いた山上の説教を実行することは出来ません。しかし、キリストの救いにあずかり、神にかたどって造られた新しい人とされ、聖霊に従って生きる者とされたキリスト教徒は、イエスの教えを守ることができるようにされています。上にあるものに心を留め、地上的なものに心を引かれず、真理に基づいた正しく清い生活を送り(エフェソ4・24)、日毎に新しくされて歩むことこそが、信仰者としての証しになるのです。このことが、現在のキリスト教徒に最も欠けているのではないでしょうか。

 

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