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富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「すべてを主イエスの名によって行い、神に感謝しなさい」コロサイの信徒への手紙、3章12~17節

2015-09-12 20:33:14 | 説教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

          日本キリスト教 富 谷 教 会

            週    報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)

     聖霊降臨節第17主日  2015年9月13日(日) 5時~5時50分 

          礼 拝 順 序

前 奏           奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21)  10(今こそ人みな) 

交読詩篇   33(主に従う人よ、主によって喜び歌え)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、

聖 書 コロサイの信徒への手紙、3章12~17節(新p.371)

説  教  「すべてを主イエスの名によって行いなさい」    辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 436(十字架の血に)

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷              

後 奏  

                       次週礼拝 9月20日(日)午後5時~5時50分。  

                        聖 書 テモテへの手紙一、6章1-12節

                        説 教    「世の富」

                        賛美歌(21)521 530 24

                        交読詩編  19篇

 本日の聖書 コロサイの信徒への手紙、3章12~17節

  12あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。 13互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。 14これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。 15また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。 16キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。 17そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。

          本日の説教

  コロサイの町(トルコ西部のホーナズ近郊)は、ローマ帝国のアジア州に属するフリギア地方にあり、リュコス川上流の南の小さな丘の上にあります。コロサイは未発掘の丘の下に眠っています。そこより17キロ下流に、黙示録に出てくる七つの教会のうちに数えられているラオディキア(現在のデニズリの近郊)と、さらに15キロほど下流にヒエラポリスがあります。ヒエラポリスの近郊に温泉の湯煙と石灰棚で有名な世界遺産のパムッカレ(綿の城の意)があります。

  コロサイは、トルコのエーゲ海に面した港湾都市イズミールの南およそ75キロに位置するエフェソ(現在名はエフェス)より東200キロほど内陸部にあり、東方に向かう主要道路に面していたことと、毛織物の産地であったことで栄えていましたが、パウロの時代は、小さな町になっていました。

    イエスの福音がコロサイを含むアジア州に広まったのはパウロの第三伝道旅行(紀元53~56年)の途中、エフェソに約2年滞在中のことです。(使徒言行録19章1、10節参照)。コロサイ出身の異邦人エパフラスがパウロの伝える福音をエフェソで聴いて信仰に入り、パウロの協力者となったエパフラスが、コロサイに福音を伝えました(コロサイ4・12以下)。コロサイの信徒たちはユダヤ人ではなく異邦人が多数を占めていました。

  このように、コロサイやラオディキア、ヒエラポリスなどへは、エフェソからパウロの仲間たちが出掛けて宣教したようです(コロサイ4・13)。また、おそらくエフェソ出身のティキコをパウロはコロサイに遣わし、教会の事情を報告させています(4・7以下、使徒言行録20・4)。パウロはコロサイには行ったことがないように思われるのは、次のような文面から予想されます。

 「わたしが、あなたがたとラオディキアにいる人々のために、また、わたしとまだ直接顔を合わせたことのないすべての人々のために、どれほど労苦して闘っているか、分かってほしい。」(2・1)

  コロサイの伝道は、エパフラスによってなされたことは、次の文面から読み取れます。

 「あなたがたの一人、キリスト・イエスの僕エパフラスが、あなたがたによろしくと言っています。彼はあなたがたのが完全な者となり、神の御心をすべて確信しているようにと、いつもあなたがたのために熱心に祈っています。わたしは証言しますが、彼はあなたがたのため、非常に労苦しています。」(コロサイ4・12~13)

  コロサイ書は、フィリピ、フィレモン、エフェソ書とともに、パウロの獄中書簡と呼ばれています(コロサイ4・3、10、18)。従来、投獄されていた場所として、ローマ、カイサリアが想定されてきましたが、エフェソで約二年いた間(53~54年の前後)に投獄されたとする説が有力です(コリント一、16・8)。

  しかし、手紙の文体や語彙や表現形式などと、思想がパウロの真正な手紙ではないとし、パウロの死後に弟子によって80年代に書かれたと推察する説があります。

  エパフラスは、おそらくエフェソで捕らわれの身となっているパウロを訪問し、コロサイのキリスト者たちのキリスト・イエスに対する信仰と、すべての信徒に対する愛を知らせたのでしょう。パウロはそれを聞いて神に感謝しています(1・3~8)。しかし同時に、この教会は異邦人が多かったので(1・27、2・13)、欲望を欲しいままにする異教の習慣に逆戻りする危険性がありました(3・5~11)。そこで、道徳的にすぐれたキリスト者の生活を具体的に教える必要がありました(3・12~4・1)。

  更に、コロサイの教会に、キリストの信仰を危うくするような異端的教えが入ってきたので、パウロは黙しきれず筆をとったのがコロサイ書です。パウロは、「あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません」、また、「人間の言い伝えに過ぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい」と警告しています。

   この異端はユダヤ教の律法遵守と関係があったらしく、割礼や食べ物についての禁止規定、祭り、安息日を強調する点ではユダヤ的です(2・11、16)。また「天使礼拝」や「幻を見る」といった神秘主義的傾向があり(2・18)、哲学的な議論をし(2・8)、「手をつけるな。味わうな。触れるな。」といった霊力としての律法的規定を神聖視して、その束縛の下に立っていたのです(2・21、23)。「汚れ」や「不完全さ」を克服しようとして、からだを敵視した不自然な生活や修行・禁欲を行い、それをもって天に至る準備とすることは、しばしば、底知れない傲慢と利己主義をはぐくむ霊性や宗教となる危険を手紙は警告しています(2・18、23)。 

   パウロはこうした霊力を信じる信仰の間違いであることを示すために、キリストは御使いも含めたあらゆる被造物の上に立つ方であって、創造に関与し、被造物を支えておられ(1・15~17)、キリストこそ宇宙の安定と調和の基礎であることを説き、彼こそ天への唯一の、神から遣わされた仲介者であることを信じて、高らかに歌い励ましています(1・15以下の賛歌)。 

  また御子・キリストは、その体である教会の頭であり(1・18)、初めの者、死者の中から最初に生まれた方であり、神は十字架の血によって、万物をただ御子によって和解させられたのであり、神はあなたがたと御子の死によってて和解し、聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました(1・22)、とパウロは説いたのです。そして、このキリストを信じて救われている信徒が、今更他の諸霊力を崇拝し、また律法の規定に従うべき理由がないことを教えています(1・13~3・4)。

  さらにパウロは、3章1~4章6節で、キリスト者の実際生活を論じています。

  「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい(3・1)」。このことは、わたしたちの古い習慣をぬぎ捨て、真の知識を語り、赦し合い、キリストにある家庭を築き、客をねんごろにもてなすことであると教えています(3・1~4・6)。

  今日の聖書の箇所3章12~17節を学びましょう。

  3章1~11節のところでは、十の悪徳が述べられ、それらを捨てなさい、命じています。「地上的なもの、すなわち、①みだらな行い、②不潔な行い、③情欲、④悪い欲望、および⑤貪欲を捨て去りなさい。……今は、そのすべてを、すなわち、⑥怒り、⑦憤り、⑧悪意、⑨そしり、口から出る⑩恥ずべき言葉を捨てなさい。」

   わたしたちは、イエス・キリストの死にあずかることによって、全く完全な者になったのでしょうか。わたしたちは現在「神の子です」。しかし、そのことはもう完成したというわけではなく、まだ完成していない面があります。「私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。」(ヨハネ一、3・2)このように、今与えられている約束には、やがてその成就があります。「このような望みをいだいている者は皆、彼がきよくあるように、自らをきよくします。」パウロは、「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです(フィリピ3・12)」、と言っています。目標をめざしてひたすら走るべきなのです。それぞれ、到達したところに基づいて進むべきです。「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣い新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。」わたしたちは、人間の力によるのではなく、救い主の力といのちにあずかる時、日々新たにされていくのです

  12節では、信徒たちは「神に選ばれ、聖なる、愛されただから」と呼びかけられ、五つの徳目が記されています。憐れみの心、②慈愛、③謙遜、④柔和、⑤寛容を身にまといましょう」と勧められています。

   パウロはコロサイの信徒が、神に選ばれ、罪を赦され、義とされ、聖なる神の子とされ、キリストに愛されている者であることの自覚をうながします。「わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めているのです(ローマ8・37)」ということを伝えたいのです。そして、キリストを模範とし、キリストに倣う者となりましょう、と五つの徳目を身につけるように勧めたのです。

  互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい(3・13)」。

   「主があなたがたを赦してくださったように」とあります。私たちは、主に罪をゆるされる者として、互いに隣人の罪をも赦し合う者へと変えられていくのです。

  「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです(3・14)」。

  なによりもすべてをはぐくむ「」を身につけるようにと命じられます。それはすべてを完成へと導く絆となると勧めています。「たとえ、完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい(コリント一、13・2)」のです。

 「また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい(3・15)。

  キリスト者が各自ばらばらでなく、一体となるように召されたのは、キリストの平和が実現するためです。主から与えられる赦しと愛の力によって問題を解決し、平和に到達することを、神はわたしたちに求めているのです。

  いつも感謝するようにと勧められています。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい(テサロニケ一、5・16~18)」、<これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに求めておられることです>とパウロは勧めています。 

  「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい3・16)」。

  キリストの言葉とは、聖書でイエスが語った言葉だけでなく、キリスト自身をわたしたしの内に宿し、霊的に生けるキリストの言葉を宿し、キリストから与えられる知恵を尽くして、互いに教え、諭すことが求められています。

  「詩編と賛歌と霊的な歌」は、当時の教会の讃美歌の分類だったのかも知れません。賛美の歌も感謝にあふれたものにするようにと勧めています。

  「そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい(3・17)」。

  パウロは、話すにも、行うにも、すべて主イエスの名によってなされ、イエスによって父なる神へ感謝するようと、勧めています。すべてはキリスト中心です。キリストという言葉が二度も使われています。感謝という言葉も二度も出ています。

   エフェソ5・19には、「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい」とあります。神の力といのちによって、日々新たに造りかえられ、すべてを主イエスの名によって行い、神に感謝する日々を送りましょう。

 

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「十字架の他に誇るものなし」ガラテヤの信徒への手紙、6章11~18節

2015-09-06 20:26:07 | 説教

        ↑ ピシディアのアンティオケ(アンティオキア)からガラテヤ地方のベッシヌス→アンキラ(アンカラ)→ドルライスへの矢印つき点線は、北ガラテヤ説のパウロの通った道をしめす。

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

      日本キリスト教 富 谷 教 会

        週    報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと

願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)

 聖霊降臨節第16主日  2015年9月6日(日) 5時~5時50分 

         礼 拝 順 序

前 奏           奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 141(主よ、わが助けよ) 

交読詩篇  103(わたしの魂よ、主をたたえよ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖餐式    78(わが主よ、ここに集い)

聖 書 ガラテヤの信徒への手紙、6章11~18節(新p.350)

説  教  「十字架の他に誇るものなし」 辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 297(栄の主イエスの)

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷              

後 奏

 

                                         次週礼拝 9月13日(日)午後5時~5時50分。  

                                      聖書 コロサイの信徒への手紙、3章12-17節

                                      説教  「新しい人間」

                                         賛美歌(21)10 436 24

                                         交読詩編 33篇

 本日の聖書 ガラテヤの信徒への手紙、6章11~18節

  11このとおり、わた しは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。12肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。13割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます。14しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。15割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。16このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。17これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。18兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。

       本日の説教

     パウロが「ガラテヤの信徒への手紙」を書き送った<ガラテヤの諸教会>については二つの説があります。

 一つは、パウロが第一回伝道旅行(紀元46~48年頃)で訪れ、第二回伝道旅行(紀元49~52年頃)で再び訪れたローマの属州であるガラテヤ州の南部のフリギア、ピシディア、リカオニア地方のアンティオキア、イコニオン、リストラ(使徒言行録13・3~14・27参照)の諸教会とする「南ガラテヤ説」があります。

   もう一つは、パウロが第二回と第三回伝道旅行(紀元53~58年頃)に訪れた可能性のあるガラテヤ州北部の本来のガラテヤ人定住地のアンキラ(現トルコの首都アンカラ)を中心とする地域一帯にできた諸教会とする「北ガラテヤ説」があります。

    このガラテヤ書が、どちらの教会に宛てられたのかは、学説が二つに分かれ、決定することは難しいのですが、「南ガラテヤ説」によれば、この手紙は第一回伝道旅行後のエルサレム使徒会議(紀元48年頃)の直前か直後に、シリアのアンテオキアか、エルサレムへ行く途上で書かれたとされています。

 「北ガラテヤ説」によれば、この手紙は、第三回伝道旅行中、おそらくエフェソに二年間滞在していた時(紀元53~54年頃)に書かれたと推定されています。今日の学会では北ガラテヤ説が有力視されています。使徒言行録18・23に「パウロは…ガラテヤやフリギアの地方を次々と巡回し」とあり、16・6にも、「彼らは…フリギア・ガラテヤ地方を通って行った」と、フリギアとガラテヤが併記されているからです。この場合のガラテヤは地方のガラテヤのことであり、北部ガラテヤを指すとしか考えられないからです。

   この手紙を書いた執筆の動機は、パウロがガラテヤの諸教会を立ち去った後にやって来たユダヤ人キリスト者に惑わされて、信徒たちが「真の福音」から離れて、ほかの福音に移っていく重大な事態が生じたからです(ガラテヤ1・6)。

  ユダヤ人キリスト者の教師たちは異邦人キリスト者に律法、ことに割礼の遵守を迫りました。彼らは教会を乱し、パウロの使徒職を疑問視し、パウロとパウロの教えを排除しようとしました。パウロにとって、彼らのそのような言動を放っておくことはできません。彼らの教えは福音が与える「律法からの自由」を失い、キリストの十字架の死によって成し遂げられた救いの業を無意味にし、「キリストの福音」そのものをユダヤ教に換えてしまうことに他なりません。

  そこでパウロは、福音とは何であるかを説明します。彼は先ず、自分が説く福音は、キリストの啓示にもとづくものであり、エルサレムの使徒から受けたのではなく、独自のものであることを、具体的な事実により主張します(1・11~2・21)。こうしてパウロは、自己の回心と召命の事実を語り、エルサレムの使徒たちと対等の立場にある、キリストによって選ばれた使徒であることを宣言します。次いで、すべての人は律法の行いによるのではなく、救い主キリストを信じる信仰によって救われるという「信仰義認」を説きます(2・15~21)。

  パウロはユダヤ人の父祖アブラハムを諸民族の「祝福の源」として神が選んだのは、神は初めから罪人を信仰によって義と認める計画を立てていたからだと説きます。神がユダヤ人にモーセを通して律法を授けたのは、アブラハムから430年後のことであり、それは人が律法を行おうとして罪の意識と自覚を与えるためであり、キリストの救いに導く養育係りの役目を果たすためである(3章6~25)。

  罪の支配されている人間は、神の律法を完全に守ることができません。(律法はキリストが山上の説教で教えたように、罪ある人間にとっては実行不可能な戒律です。)罪人が聖なる神との交わりを回復する救いの道は、キリストの十字架の死によるあがないと、罪と死に勝利した復活による救いを信じることによって開かれる。キリストを信じて神との交わりを回復した者は、神の子とされ、御子キリストの聖霊を受ける。人を律法の呪いから贖い出して、信じる者に御霊を与えて、神との生ける交わりのうちに歩む新しい生活へと導く入れることが出来るのは、十字架と復活のキリスト、この福音のみである。人はキリストを信じる信仰によってのみ、神によって義と認められ、神の子として受け入れられ聖なる神との交わるにあずかることが出来るのである。このようにパウロは福音について教え、説いたのです。

  パウロの反対者たちは、パウロの福音は律法の行いを無視し、無律法主義の危険を招くと批判しました。このような非難や疑問に答えたのがガラテヤの手紙5章以下です。

   御霊が創造する新しいいのちは、人間生活を道徳的にする原動力となる。信仰によってキリストに結ばれているとき、その人は御霊によって歩み、肉の欲望に打ち勝つ力を与えられ、御霊の実を結ぶ生活に導かれる(5・16~23)。それゆえ、キリスト者の自由は無律法主義の危険を克服し、愛をもって互いに仕え合う生活をすることによって、キリストの律法を全うするのです(5・13~14)。

  キリスト者の自由は、キリストと共に十字架につけられ、キリスト共に復活させられた者となり、キリストの御霊との親密な交わりのうちに歩むことにあります。肉の欲望と行いを聖霊の力をいただいて退け、霊の導きに従ってたゆまず善をを行い、愛の実践に励む信仰こそが大切なのです(5・25~6・10)。これがパウロの説いた福音に生きる者の生き方です。

   今日の6章11~18節は、手紙の結びの言葉です。

このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。

  当時の手紙は口述筆記です。パウロの語ったことを筆記者に書かせたのです(ローマ16・16)。筆記者による口述筆記は6章10節で終わり、手紙の結びはパウロが直筆で書くのです。他のパウロの書いた手紙では、結びは短い挨拶の言葉と祝祷だけパウロが親しみを込めて書いています(コリントの信徒への第一の手紙やテサロニケの信徒への第二の手紙参照)。だが、このガラテヤの信徒への手紙では、かなり長い結びの言葉になっています。<こんなに大きい字で、自分の手で書いています>と、通常の手紙には意外と思われる断り書きがあります。大きな字で書いたのは、パウロが眼病を患っていたからとする説がありますが、この強調は、重事を改めて、まとめて告げようとする意図がこめられたものと思われます。

 「肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。

  いつわりの福音を伝える敵対者たちを思い起させ、<肉において恰好よくみなされたい>と願って、あなたがたに割礼を強いるのは、ユダヤ教徒から背教者として迫害されることを恐れ、身の安全を守ろうとする自分たちのためを思ってのこと以外のなにものでもない。パウロは彼らの魂胆を暴いてみせます。<キリストの十字架>が原因である迫害を逃れようとすることは、パウロにとって福音の否定することであり、彼らの立場には同情の余地がありません。

 「割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます。

    彼らの考えと行動のあざむきを暴いたパウロは、今度はその矛盾を皮肉な調子で指摘します。あなたがたに割礼を望む彼らの意図は、<あなたがたの肉について誇るためであり>、それはユダヤ教徒の迫害を免れさせることになうからです。割礼を受けている彼ら自身は、実は律法を守ってはいないのですから、割礼を勧めるの彼ら身の動機はまったくの自己満足と形式主義に過ぎないのです。

 「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。

  パウロは彼らの誇りについて語ったので、今度は自分自身の誇りについて高らかに宣言します。その誇りとは、<主イエス・キリストの十字架>以外に<誇るものが決してあってはなりません>という断固とした調子で宣言しています。

 「この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。

  ここで言われている<世>とは、<律法>を生きるよりどころとするような人間の生の現実を表しているとみなされます。わたしと世とは互いに相手に対して十字架にはりつけにされている、つまり縁もゆかりもなくなってしまっているのです。

  「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されされることです。

  キリスト者の実存が、ではなくキリストをこそよりどころとするものであることが強調されています。<古い人>から<新しい人>への転換は、洗礼によって実現されるのですが、<新しく創造されること>とは、キリスト者がキリスト者であること、またそれにふさわしく生きることです。

 パウロはコリントの信徒への手紙二の5章17節で「キリトと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」と述べています。

  こうしてキリストを通して始められた新しい創造の御業に与ることこそが、救いにとって重要な事柄なのです。

  「このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。

  パウロは当時の書簡形式に従って終わりの挨拶に移ります。<平和と憐れみ>を、神とキリストに願い求める祝福が述べられています。<このような原理>とは、「キリストの十字架」と「新しい創造」のことです。すなわち、キリストを実存のよりどころとするキリスト者のことです。<神のイスラエル>は、<肉によるイスラエル>との対比が意識された表現です。真の意味で{アブラハムの子・イスラエルの民となっているキリスト者を指しています。

  「これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。

   <煩わす>とは、言うまでもなく、ユダヤ人キリスト者の<偽りの福音>に惑わされて、パウロの伝えた<真の福音>から離れ、偽りの神々に仕えるかつての「奴隷状態」へ逆戻りの道を歩むことであり、パウロの心を痛ませ、悩ませ、そしてこのような手紙を書かせることです。<焼き印>は奴隷が主人の所有物であることを表す入れ墨のようなしるしですが、パウロはこの語を用いることによって、自分が「主であるキリスト」に仕える奴隷となっており、またその保護下にあることを示そうとします。同時に、この「焼き印」は彼が宣教中キリストのゆえに被った迫害の傷痕であり、それもキリストの受難に参与する証しとして理解された傷痕を意味すると考えらえます。これはイエスに仕える真の使徒であるという主張に他なりません。

  「兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。

   パウロの手紙の末尾の祝福です。<兄弟たち>と呼びかけ、祝福が<あなたがた>に向けられています。祝福の語として、イエス・キリストから、したがって神から与えらえる恵み」があるように祈られています。<アーメン>は、アラム・ヘブライ語の音訳で、「まことに、確かに(そうであるるように)の意味があり、祈りの末尾に添えられるものです。

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「弱さの中で発揮される神の力」 コリントの信徒への手紙二、11章7~15節

2015-08-30 02:44:15 | 説教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

  日本キリスト教 富 谷 教 会

      週    報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)

    聖霊降臨節第15主日  2015年8月30日(日) 5時~5時50分 

          礼 拝 順 序

前 奏           奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 141(主よ、わが助けよ) 

交読詩篇  103(わたしの魂よ、主をたたえよ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書 コリントの信徒への手紙二、11章7~15節(新p.337)

説  教  「弱さの中で発揮される神の力」辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 536(み恵みを受けた今は)

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷              

後 奏

                             次週礼拝 9月6日(日)午後5時~5時50分。  

                              聖書 ガラテヤの信徒への手紙、6章14-18節

                              説教  「十字架を背負う」

                             賛美歌(21)141 411 24

                             交読詩編 103

  本日の聖書 コリントの信徒への手紙二、11章7~15節

  7それとも、あなたがたを高めるため、自分を低くし神の福音を無報酬で告げ知らせたからといって、わたしは罪を犯したことになるでしょうか。8わたしは、他の諸教会からかすめ取るようにしてまでも、あなたがたに奉仕するための生活費を手に入れました。9あなたたがたのもとで生活に不自由したとき、だれにも負担をかけませんでした。マケドニア州から来た兄弟たちが、わたしの必要を満たしてくれたからです。そして、わたしは何事においてもあなたがたに負担をかけないようにしてきたし、これからもそうするつもりです。10わたしの内にあるキリストの真実にかけて言います。このようにわたしが誇るのを、アカイア地方で妨げられることは決してありません。11なぜだろうか。わたしがあなたがたを愛していないからだろうか。神がご存じです。わたしは今していることを今後も続けるつもりです。それは、わたしたちと同様に誇れるようにと機会をねらっている者たちから、その機会を断ち切るためです。 13こういう者たちは偽使徒、ずる賢い働き手であって、キリストの使徒を装っているのです。14だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。15だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません。

    本日の説教

  コリントは古代ギリシャの都市でしたが、紀元前146年にローマ人によって破壊され、百年近く廃墟になってていました。ローマ共和制時代(B.C.509~44年)の最後の独裁官ユリウス・カエサルによってローマの都市として再建されました。ローマ帝国時代(B.C.27~)に、コリントはアカイア州(北部を除いた現在のギリシャ)の総督府が置かれました。コリントは、アドリア海とエーゲ海の二つの海に面した二つの港を持つ交通の要衝として重要な商業地であり、多種多様な人々が行き交う自由の空気の支配する文化的中心地でした。そこにはかなりのユダヤ人が住んでいました。しばしばコリントは放縦な町と言われますが、それは古代のギリシャの都市の時代のことのようです

      コリントの教会は、パウロが第二伝道旅行中、おそらく紀元49年から51年にかけて、一年六か月にわたり滞在して伝道してできた教会でした。コリントでユダヤ人夫婦、アキラとプリスカとの出会ったことは、彼らが皮テントを作る職人で、パウロと同業者であり、熱心なキリスト教徒になったことで、パウロの伝道活動の大きな支えとなりました(使徒言行録18章)。

     教会はまれにみる成長を遂げました。しかし、パウロが去った後、さまざまな問題が教会を襲いました。これらの問題について、パウロのもとに質問の手紙が届きました。コリントの手紙一は、パウロが種々の具体的問題の質問に答えた手紙で、第三伝道旅行中、エフェソに約二年滞在中54年春頃に書かれた推定されています。

    コリントの手紙二は、コリントの手紙一とは違って、コリントの教会の内部的な営みと深くかかわっており、使徒パウロが自分の使徒職を説明し、擁護し、弁明するために書かれた手紙です。この手紙は一度に書かれたものではなく、いくつかの手紙を、パウロの死後、コリントでだれかが保存するために、一緒に組み合わせた手紙と思われています。この手紙の中でパウロは、他のどんな手紙よりも、あからさまに自分をくわしく語っているので、パウロがどのような人物だったのかをよく知ることができます。この手紙は56年か57年頃、マケドニアか、トロアスで書かれたものと推定されています。

    コリントの教会には、自己推薦する者たちや、仲間どうしで批評し合い、比較し合う者がいました(10・12)。福音そのものに目を向けることせず、人間の方にのみ気を取られ、しかも、人間をただ表面的に見て判断し、ある人間を尊び、ある人間を軽んじたりしたのです。

     パウロは、外見は見栄えのしない、<実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない(10・10)>と人々から言われたようです。パウロの敵対者たちは、パウロの弱さ、欠点をとらえて攻撃し、パウロの使徒職を否定しようとしました。パウロは、<あなたがたはうわべのことだけ見ています>、<比較し合うことは愚かなことです>と戒めています。そして、<わたしたちの戦いの武器は肉のもではなく、神に由来する力>です、と語っています。

     パウロは12章で、自分にあたえられた<肉体のとげ>について語っています。この<肉体のとげ>は、パウロに非常な苦痛を与えました。パウロは何度も取り去ってくださるように神に祈ったのです。それは持病であったのかも知れません。パウロはこの<肉体のとげ>に苦しむ体験で、<神の力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ>(12・9)という主の御声を聞いたのです。パウロは弱い自分の内に働く神の力と強さとを身をもって体験したのです。

     そこでパウロは、<キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう>と言い、「わたしは弱いときにこそ強い」(12・10)という、すばらしい言葉を語ったのです。

    しかし、人間の外面的なことに重きをおく人々たちには、何かパウロを他の使徒たちとくらべて、一段と劣った人間のように思われて、パウロは使徒なのであろうかと、疑いを抱くようになったのです。

    パウロにとっては、彼らが非難の材料とし、攻撃のたねとしているパウロの人間としての弱さや欠点は、まさにそこにおいてこそ福音そのものの<計り知れない力>があらわされる場所だったのです。パウロは宣教のために受けた数々の苦難や無力さ、それにまさる神の恵みの力や喜びを伝え、使徒としての証しとします。

     11章1節から15節にかけて、パウロは偽使徒たちと自分とを比較して、自分の使徒職の本質を明らかにします。偽使徒たちは、コリントの教会で、パウロたちの宣べ伝えたのとは異なったキリストと福音とを宣べ伝え、パウロが与えようとしたのとは異なった霊を与えようとしていました。このにせの使徒たちの教えを識別できずに真(ま)に受けていた信徒たちを、パウロは皮肉な調子でとがめています。

     「あなたがたは、だれかがやって来て私たちが宣べ伝えたのとは異なったイエスを宣べ伝えても、あるいは、自分たちが受けたことのない違った霊や、受け入れたことのない違った福音を受けることになっても、よく我慢しているからです」(11・4)と言っています。

  福音の正統性を危うくすることに対しては、パウロは一歩も譲りません。5節の<大使徒>という語で、<キリストの使徒>を自称した偽使徒たちと対峙します。パウロは彼らに比べて、特に働きの点で決して遜色はないと言います。そして、活動や労苦の点だけではなく、知識の面でも彼らにひけはとらないと言っています。その「知識」とは、人間的な知識、学識、雄弁、話術を指すのではなく、神の霊から教えられる知識や言葉を指しています。

     11章7節からは、パウロの使徒職が、偽使徒たちのそれと異なるもう一つの点が取り上げます。それは、無報酬でパウロが福音を宣べ伝えるいることについて、反対者からの批判があったからです。

     パウロが最初にコリントを訪れ、一年半滞在して福音を宣べ伝えたとき、パウロはアキラ・プリスカ夫妻の家に住み込んで、一緒にテント造りの仕事をして収入を得ながら(使徒18・1~4)、安息日ごとに会堂で福音を伝えました。コリントの人々には金銭上の負担をかけませんでした。どのように生活が苦しくてもコリントの人たちには負担をかけず、「神の福音を無報酬で告げ知らせた」のです。しかし、マケドニア州からシラスとテモテがやって来ると、フィリピの教会からの自発的な支援金は受け取り、パウロは御言葉を語ることに専念しました(使徒言行録18・5)。

 コリントの教会からは、宣教の報酬を受けない、パウロのこの姿勢が、コリント教会の信徒たちに誤解を与えました。パウロの批判者たちは、パウロは使徒としての資格がないから、報酬を受け取ることができないのだとか、信徒たちへの愛と信頼とが欠如しているから(11節)、報酬を受け取らないのだとか、「他の諸教会からかすめ取っている」のだとか言って非難したのです。

    <あなたがたを高めるため、自分を低くし神の福音を無報酬で告げ知らせたからといって、わたしは罪を犯したことになるでしょうか。>とパウロは語りかけています。

   この問題については、コリントの手紙一の9章の3節から18節にかけて詳しく論じています。パウロは、<…主(イエス)は、福音を宣べ伝える人たちは福音によって生活の資を得るようにと、指示された(マタイ10・10)>と言って、福音を告知する者がそれによって生計を立てる権利を当然持っていることを認めています。しかしパウロ自身は決してこの権利を用いようとはしませんでした。<キリストの福音を少しでも妨げてはならないと、すべてを耐え忍ん>だのです。パウロの宣教は報酬が目当てでないことを示すものでした。また負担をかけたくなかったのです。

     11・10の、<わたしの内にあるキリストの真実にかけて言います。このようにわたしが誇るのを、アカイア地方で妨げられることは決してありません>というパウロの決意は、コリントの手紙一の9章の<それでは、わたしの報酬とは何でしょうか。そえは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです>(18節)という言葉に力強く表現されています。そして結局、この態度を貫き通すことが、「キリストの使徒を装い、義に仕える者を装う、偽使徒たち」から、自分の使徒職の正真性と正統性を擁護することになると判断したのです。パウロは報酬を受けとらないという点で、偽使徒たちとの違いを明瞭にし、彼らの誇りがいかに偽りであるかを暴露しようとしたのです。

  偽使徒たは明らかに収入目当ての仕事をしていたからです。彼らの教えは、イエス・キリストによる救いとは関係のない、単なる人間の思想でしかなかったのです。偽りの使徒たちの教えが結んだ実は、知識からくる高慢であり、高慢から来る対立と分派であり、そして高慢から神をも恐れない、また、他人のことも配慮しない、勝手なふるまいで教会を乱したのです。

     彼ら偽使徒たちは現実にはキリストの僕ではなく、サタンの僕でした。サタンは善良な人にもなりすまします。サタンは欺くために光の天使を装います。サタンに仕える者たちが義に仕える者を装うことなど、良くあることです。コリントの教会の人々が、サタンが<光の天使>を偽装しているのを見破ることが出来ず、偽りの使徒たちの教えに魂を譲り渡していました。この世の知恵や力によって飾りたいという肉の欲望にとらわれたからです。サタンとはそもそも神に敵対するもののことです。神から人間の心を離れさせようとするあらゆるものに対する戦いが、霊的な戦いです。

  サタンに打ち勝つためには、神の力、聖霊の力にたよる他はありません。自分を低くくし、弱いときに神の力が働くのです。弱い者になりきって、神の恵みと力をいただき、強い者とされて悪との戦いに勝利してまいりましょう。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりましょう(エフェソ6・10)。

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「正しい服従」<福音のためなら、わたしはどんなことでもします>

2015-08-23 06:27:10 | 説教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

日本キリスト教 富 谷 教 会

      週    報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)

       聖霊降臨節第14主日  2015年8月23日(日)    5時~5時50分 

          礼 拝 順 序                        

前 奏          奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21)   6(つくりぬしを賛美します) 

交読詩篇  130(深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます) 

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書 ローマの信徒への手紙14章1~9節(新p.293)

説  教    「正しい服従」   辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 506(すべては主のため)

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷              

後 奏

                                                   次週礼拝 8月30日(日)午後5時~5時50分。  

                                                   聖書 コリントの信徒への手紙二、11章7-15節

                                                   説教  「神からの誉れ」

                                                    賛美歌(21)141  536 24       交読詩編 103

            本日の聖書 ローマの信徒への手紙14章1~9節

  1信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。2何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。3食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。4他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです。5ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。 6特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。7わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。8わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。9キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。

                             本日の説教

     ローマの信徒へ宛てた使徒パウロの手紙は、第一章から八章で、神の力・神の義としての福音とは何かを述べ、第九章から十一章で、イスラエルと全人類の救いとしての福音とは何かを説いたパウロは、第十二章から十五章で、その福音にふさわしキリスト者の生き方はどのようにあるべきかを説きます。

  前半(1章~11章)では福音の本質を説き、後半(12章~15章)では福音に生きる道を説くのです。前半は福音についての教義を述べ、後半は福音の実践についての勧告です。

  後半の部分も二つに分けて書いています。十二章と十三章では、キリストに属する者がこの世でどのように歩むべきかを説く、一般的な勧告です。十四章一節から十五章十三節までは具体的問題に対する勧告です。

 今日は、14章1節から9節までの部分を中心に御言葉を学びます。

 パウロはローマ教会を指導するにあたって、飲食の問題での対立を取り上げ、何とか教会としてあるまとまりをもつことができるように苦心するのです。

 ローマ教会の中に肉食やぶどう酒を断ち、それを特定の日に行うという少数派がいたようです。このグループはユダヤ人キリスト者ではないか、一定の日は安息日やユダ教の祝祭日のことではないかと推測する説があります。その場合には、コリントへの手紙一、八章~十章にみられるように、偶像に供えた肉や、異教のお神酒(みき)を飲食することを避けたということになります。しかし、ここで問題になっている禁欲的グループは、そういう人たちとは異なる、禁欲主義的なグループで、ユダヤ人キリスト者からなるだけではなく、この禁欲的傾向に同調した人々もいたということが考えられるのです。

 「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。」(1節)

 パウロにとって、禁欲的傾向に同調しない人々は信仰の強い人々であり、それが多数派を占めています。それに対して、禁欲的傾向に同調している人々は信仰の弱い人々であって、少数派です。パウロは、多数派に対して、少数派を切り捨ててはいけないと説きます。パウロは信仰の強い者の立場に立って、<信仰の強い人たち>に対し、<信仰の弱い人>を受け入れるよう勧めます。ただあれこれと批判したり、批評することをやめなさい、と。

 パウロの異邦人伝道において、このような対立したグループの融和が最大の課題でした。ローマへの手紙ではこの問題が「弱い者と強い者」の問題として扱われているのです。

 「何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。」(2~3節)

 ある人は何を食べても差し支えないと信じ、ある人は野菜だけを食べる。その場合、食べる者は食べない者を軽んじてはならない。食べない者も食べる者をさばいてはならない。神はそれぞれを受け入れて下さったではないか、と説得します。神が受け入れておられる者を拒むことは、自分の判断を神の判断よりも上に置くことを意味します。これは、あってはならないことです。 

 「他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです。」(4節)

 「互いに裁き合わないように」という勧告が、主人と召使いの関係を比喩として、繰り返されます。他人の僕を主人顔してさばく権利はあなたにあるのか。あなたが批判しているその兄弟が立つのも倒れるのも、彼の主人である主キリストによるのだ。あなたは駄目だと断定しても、主は彼を恩恵の力で立たせることができるのだ、とパウロは論じています。

 「ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。」(5,6節)

  次に、弱い者と強い者の対立について、使徒は食べ物の問題に続いて、ある特定の日を重んじるかどうかというもう一つの日の問題を取り上げます。

  ある人は、この日がほかの日よりも大事だと考え、他の人はどの日も同じだと考えます。それに対するパウロの立場は、各自はそれぞれの心の中で確信をもっておるべきであるというのです。日を重んじるか、重んじないかということよりも、それを主のためにするかしないかが問題だという風に、一段高い所に立とうとします。日を重んじるのは主のために重んじるので、その点は、食べるのも同様であって、食べるのも主のために食べるのであり、食べないのも主のために食べないのでなければならない。つまり確信をもって、主のためにどちらかを選ぶことが大切なのだと教えています。ここには、パウロがローマ教会を、つまらない事で波風を立たせず、穏便に治め、教会の一致を守って行こうとする姿勢がよくあらわれています。キリスト教信仰には、絶対に他には譲れない信仰告白という中心があります。キリストの十字架と復活による救いや神の子を否定するような教えや、人は行いによって義とされ救われルと説く異端にたして、パウロは激しく論戦します。しかし、福音を生活に適用する実践の段階に至っては、互いに融和し合うように勧めるのです。

  「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」(7~9節)

  キリストの死と復活にあずかるバプテスマを受けた私たちは、キリスト・イエスにあって神に生きている者です(ローマ6・11)。信仰者の生も死も<主のためなのです>。こうして、信仰の強い人も弱い人もすべてが主のもである、いや、主が両方の者を支配してくださっているのであるから、互いに軽んじたり、裁き合ったりする理由のないことが明らかにされます。

  キリストは私たちを救うために、自分を無にして十字架への道を歩まれました。「キリストも、御自分の満足はお求めになりませんでした。」(15章3節)この模範にならって、私たちも自分の満足や自分だけを喜ばせる生き方はつつしまなければなりません。パウロは次のように言います。

 「あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。」(14・15)

  そして、パウロは次のような、予想外の勧めをします。

肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい。」(14・21)

 これは、神の霊によって肉の思いから自由にされている

パウロだからこそ言えることばです。パウロは次のようにコリントの信徒への手紙で語っています。

 「(わたしは)弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。」(コリント一、9・22~23)

  <福音のためなら、わたしはどんなことでもします>と言うパウロの姿勢に心を打たれます。パウロは、「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい」(フィリピ3・17)と勧めています。

  しかし、「あなたは自分で抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい」と肉食や飲酒をする者に対して寛容さを示しています。飲食の問題について、律法のように拘束することを避けているのです。

  最後にパウロは、抱いている確信の弱い者と強い者との両方のために結論的な指示をします。

こういうわけで、キリストもわたしたちを受け入れてくださったように、あなたがたも互に受けいれて、神の栄光あらわすべきである。」(15章7節)

  わたしたちが守るべきことはキリストによって救われるという福音であり、互いに愛し合うという新しい律法です。教会の交わりにおいて大切なのは、その自由さ、多様さを互いに尊ぶことです。

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「御言葉の実践」 ヤコブの手紙1章19~27節

2015-08-15 12:15:43 | 説教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

             日本キリスト教 富 谷 教 会

      週    報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)

              聖霊降臨節第13主日   2015年8月16日(日)    5時~5時50分 

       礼 拝 順 序                        

前 奏          奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 141(主よ、わが助けよ) 

交読詩篇  103(わたしの魂よ、主をたたえよ) 

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書 ヤコブの手紙1章19~27節(新p.422)

説  教    「御言葉の実践」  辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 536(み恵みを受けた今は)

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷              

後 奏

                         次週礼拝 8月23日(日)午後5時~5時50分。  

                         聖書 ローマの信徒への手紙14章1-9節

                         説教  「正しい服従」

                         賛美歌(21)6 506 24

                         交読詩編 130

       本日の聖書 ヤコブの手紙1章19-27節

19わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。 20人の怒りは神の義を実現しないからです。 21だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。 22御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。 23御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。 24鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。 25しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。 26自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。 27みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。

           本日の説教

  ヤコブの手紙は紀元二世紀の初めに書かれました。エスの兄弟ヤコブの名を借りた勧告の文書です。宛先は<離散している十二部族の人たち>と記されていますが、<十二部族>という伝統的な呼称を用いてキリスト者一般に送られたものと考えられています。執筆場所は、著者がはっきりしないので不明です。

 

 ヤコブ書では、<行い>が強調されています。<行いのない信仰は人を救うことができない>(2:14)という主張がなされています。<人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません>(2:24)というヤコブの主張は、<人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる>(ガラテヤ書2:16)と述べるパウロに反対しているように見えます。

 

 パウロは、「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による」(ローマ3:28)と教えています。<なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」(ローマ3:20、ガラテヤ2:16)とあります。

 

 パウロは、次のようにも語っています。「不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。」(ローマ4:7)

 

 神は、<信心深い者>、すなわち、神の前に立派いをしていると自負している者ではなく、<不信心な者>、すなわち、自分の行いなど不完全で、神に喜ばれる生活などできない、と思っている者を、義としてくださり、受け入れてくださり、愛してくださると信じる人を、義として救ってくださるのです。

 

   ヤコブ書を書いた著者は、パウロのこの教えに反対しているのではありません。救われた者の生活を問題にしているのです。

 

 パウロの教えを誤解した人たちが、救われた者にふさわしい生活をしないで、信仰者としての生活を軽視し、聖くない生活をしながら、自らをキリスト者として誇っていたので、ヤコブはそれを戒めるために、信仰者としてふさわしい行いをするように教えたのです。

 

   ヤコブ書の1章19節~27節は、御言を聞くこと、行うことの重大性が語られます。19節~21節は、御言葉を聞くことが信仰生活にとって大切であることを訴えます。

 

心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。」

 

 私たちの魂を救う聖書の御言葉を受け入れなさい、と勧めます。そのためには、<あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去る>ことが必要です。神の御言葉に対して、<聞くのに早く>、自分の主張を<話すのに遅く>、せっかちに判断して<怒るのに遅く>あるべきです。また誤りが自分の側にあることを知ったら、喜んで改めることです。

 

 すべてこのように、神の御言葉に応答することが、<神の義>・すなわち神が人に要求されることを満たしていくことになるのです。人の怒り>は感情に左右されて公正な思考や行動ができなくなります。それゆえに<神の義>の実現を妨げてしまうのです。しかし、神の怒りは、正く、忍耐や赦しに満ちています。

 

   わたしたちの御言葉に対する怒りをひき起こす<汚れや悪>を<素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい>とヤコブは勧めているのです。

 

    22節~25節は、<御言葉を行う人になりなさい>と勧めめます。

 

 <御言葉を聞くだけで終わる者>とは、ただ座って聞くことを良しとし、行動しないことです。こういう態度の人は自らを欺くものです。パウロもローマの信徒への手紙2:13で、「律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。」と語っています。

  そのような自己欺の人(誤った謙遜を行う人々)は、鏡でちょっと眺めて去って行き、自分がどんな姿であったかを忘れてしまう人になぞらえることができます(気づいたいた点があれば彼は何かをなすべきであるのに)。このようにうに、御言葉を聞くだけで行わない人を、鏡に映して眺める人にたとえています。御言葉の浅薄な受けとめ方をしている人たちです。<生まれつきの顔>とは、醜い人間の本能を指しています。

 

 これに対してキリスト者は鏡のように、<自由をもたらす完全な律法(すなわち「真理の言葉」または福音)を一心に見つめ、これを守る>人です。その光に自分を照らして彼は自分がどんな者かを忘れず、<行う>のです。パウロは、次のように言っています。

 

 「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。」(コリント二、3・18)

 

  <自由をもたらす完全な律法>を<守る人><行う人>は重んじられ、そのような人は<その行いによって幸せにな>るのです。<自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。

 

 26節~27節は、その使信のまとめであり、社会的・個人的倫理を教えています。

 

 それでは救われたキリスト者は何を行うべきなのでしょうか?

 

 ヤコブはさしあたり二つの範例を挙げます。第一は「みなしごや、やもめが困っているときに世話を」することです。初代教会がずっと配慮してきた切実な課題でした(使徒言行録6章)。

 

  第二は<世の汚れに染まらないように自分を守ることです。教会がその時代の放蕩なギリシャ・ローマ世界に進入する際に特に大事な教訓でした。

 

キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、ご自分をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。」(ガラテヤ1・4)

 

  ヤコブは、このように、社会的・個人的倫理として隣人愛と自己聖化という信仰者の徳を勧めているのです。預言者イザヤも同じような勧めをしています。

 

 「悪い行いをやめ、善を行うことを学び、搾取する者を凝らし、孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護せよ。」(イザヤ書1・16~17)

 

 キリスト・イエスに結ばれている者は、信仰によって義とされた自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに(自己聖化)、愛によって互いに仕えること(隣人愛)が求められているのです。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。(ガラテヤ5・13~14)

 

 ヤコブ書は、「愛の実践を伴う信仰こそ大切です」(ガラテヤ5・6)という教えを説き、わたしたちがおろそかにしがちな信仰の実践を強調しているのです。

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