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富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「信仰の働き・愛の労苦・希望の忍耐」

2015-08-13 23:42:55 | 説教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

    日本キリスト教 富 谷 教 会

      週    報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと

願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)

 

  聖霊降臨節第12主日 2015年8月9日(日)   5時~5時50分 

   礼 拝 順 序                        

前 奏          奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 475(あめなるよろこび) 

交読詩篇  121(目を上げて、わたしは山々を仰ぐ) 

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書 テサロニケの信徒への手紙1章1-10節(新p.374)

説  教   「主の来臨に備える」 辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 577(聞けよ、主の民)

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷              

後 奏

            次週礼拝 8月16日(日) 午後5時~5時50分

             聖書 ヤコブ書1章19~24節  

             説教  「信仰の証し」

             賛美歌(21)146 536 24

本日の聖書 テサロニケの信徒への手紙1章1-10節

  1パウロ、シルワノ、テモテから、父である神とイエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会へ。恵みと平和が、あなたがたにあるように。 2わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。 3あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。

  4神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています。 5わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉けによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。わたしたちがあなたがたのところで、どのよにあなたがたのために働いたかは、御承知のとおりです。 6そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、 7マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。 8主の言葉があなたがたのところから出て、マケドニア州やアカイア州に響き渡ったばかりでなく、神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられているので、何も付け加えて言う必要はないほどです。 9彼ら自身がわたしたちについて言い広めているからです。すなわち、どのように迎えられたか、また、あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか、 10更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです。 

   本日の説教

 <テサロニケの信徒への手紙一>は、新約聖書の中で、一番最初に書かれた書です。主イエスの十字架の死の後、二十年位い過ぎた紀元50年頃、パウロが第二伝道旅行中、コリントでテサロニケの教会宛に書いた手紙です。ちなみにマルコ福音書は70年頃、マタイ、ルカは80年頃、ヨハネ福音書は90年頃に書かれています。

  紀元50年頃、パウロはシラス(シラスはアラム語名、シルワノはラテン語名)を連れて、第一伝道旅行で設立したガラテヤ州の諸教会を訪ねました。リストラでテモテを同行させ、西のアジア州のエフェソに行こうとしたが聖霊によって禁じられ、北のビテニヤに入ることも禁じられ、聖霊に導かれてエーゲ海の港町トロアスに着きました。トロアスで、マケドニア人の招く幻を見たパウロは、海を渡ってヨーロッパへ伝道する決意を与えられました。使徒言行録を書いたルカも加わって、トロアスから船出し、サモトラケ島を目指し、次にフィリピの外港ネアポリスに上陸し、そこからフィリピに行きました。

 フィリピでは、リディアという婦人とその家族が洗礼を受け、リディアの家での集会が始まりました。

 次に訪れたのがテサロニケです。当時テサロニケはローマ帝国のマケドニア州の首都で、ローマの州総督府がおかれ、商業も盛んな港町でした。現在はギリシャ共和国のテッサロニケという都市です。テサロニケにはユダヤ人も多く住んでいたので、彼らの会堂でパウロたちは福音を語りました。キリスト者の群れが誕生し、改心者たちはユダヤ人のヤソンの家で集会するようになりました。しかし、ユダヤ人の迫害に会い、パウロたちは急遽立ち去らなければなりませんでした。使徒言行録17章1~10節によると、4週間ほどテサロニケで過ごしたように記されていますが、パウロの書いたテサロニケの手紙では、少なくとも数か月過ごしたようです。

 パウロはベレヤを経て、アカイヤ州のアテネに行きました。そこで、パウロは後に残したテサロニケ教会のことが気になり、事情を知るためにテモテをテサロニケに派遣しました(テサロニケ一、3:1~10)。パウロはその後、コリントに行きました。そこにテモテが帰ってきて、テサロニケ教会の事情を報告したのです。テサロニケの手紙一、3章6節から13節の部分に、その報告を聞いて喜びにあふれ、今なお艱難と迫害の中にある教会を励まし力づけるために手紙を書いたのです。

1章3節に、「あなたがたが信仰によって働き愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。」とあります。

 テサロニケの信徒たちの信仰生活を表現した、信仰、愛、希望という三つの具体的な行動が記されています。これはすべてのキリスト者にも共通する基本的な生活態度です。5章8節でも、<仰と愛を胸当としてつけ、救いの希望をかぶととして身をつつしんでいましょう>と勧められています。

 <信仰による働き>とは、どんなことを指すのでしょうか。信仰とは、神が下さったイエス・キリストによる救いを受け入れることであり、神に私たちが向ける信頼です。神の愛によって信仰が生まれ、信仰者には聖霊による新しい生命が与えられます。<信仰による働き>とは、信仰が聖い生活をさせる原動力となり、神に喜ばれる生活、良い業を行わせます。

  信仰は<愛の実践を伴う信仰>(ガラテヤ書5:6)が大切です。<愛のための労苦>とは、キリストを通して与えられる神の愛に満たさたキリスト者が、神を愛すとともに、隣人の兄弟姉妹に対して愛の労苦をする者となることです。

 信仰は希望を生み出します。救い主キリストが再び来たり給うこと、死で終わるのではなく、復活の恵みにあずかって、神との永遠の交わり入れられることが最終的な希望です。神の御国に迎えられるというという大きな希望があるからこそどんな試練にも耐え抜くことができるのです。愛の労苦、宣教活動の労苦は空しい労苦ではなくなるのです。こうして、信仰・希望・愛は三つそろって、わたしたちの信仰を完全なものとするのです。信仰・希望・愛はキリスト者に与えられる霊的な賜物です。

 1章5節・6節には、テサロニケの人々がみ言葉を受け入れたのは、パウロたちの人間の言葉や力をこえた神の働き、神の言葉と聖霊の力によるものであったと記されています。私たちの福音宣教に、心して聞くべき言葉です。

 テサロニケの信者たちは、神の御子イエスの死と復活による救いの福音を聞いて悔い改め、生ける真の神に立ち帰り、審判、刑罰の恐れから解放され、キリストの再来を待ち望むようになりました。

 しかし、初期の教会は、もうすぐ主イエス・キリストは来ると信じたのです。それで、キリストの来臨に会わないうちに死んだ者はどうなるのかという疑問に答えたのが、4章13節から5章11節までです。

 イエスが死んで復活されたように、神はイエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと同じように復活させてくださるというのが、パウロの解答です。来臨は必ず来るが、何時かは分からないので毎日謹み深く目ざめた生活をするようにと勧めています。

 

 

 

 

 

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「偽りのない愛」

2015-08-12 22:29:59 | 説教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

   日本キリスト教 富 谷 教 会

      週    報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)

 

 聖霊降臨節第11主日   2015年8月2日(日) 5時~5時50分 

    礼 拝 順 序                        

前 奏          奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 149(わがたまたたえよ) 

交読詩篇   84(万軍の主よ) 

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書 ローマの信徒への手紙12章9―21節(新p.292)

説  教   「偽りのない愛」  辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 540(主イエスにより)

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷              

後 奏

         次週礼拝 8月9日(日) 午後5時~5時50分

         聖書  テサロニケの信徒への手紙1章1-10節

         説教  「主の来臨に備える」

         賛美歌(21)475 577 24

   本日の聖書 ローマの信徒への手紙12章9―21節

  9愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、10兄弟愛をもって互いに愛し、尊 敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。 11怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。  12希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。 13聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。 14あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。 15喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。 16互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。 17だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。 18できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。 19愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。 20「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」 21悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。

   本日の説教

 パウロは、ローマの信徒への手紙の冒頭の挨拶で、「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから」(1:1)と書き始めています。そして、この神の福音を説明します。

 この福音は、聖書の中で約束されたもので、御子に関するものであり、御子はダビデの子孫から生まれ、死者の中から復活によって神の子と定められた、わたしたちの主イエス・キリストです(1:2,3)、と説明しています。

  この福音は、信ずる者すべてに救いをもたらすの力であり(1:16)、イエス・キリストを受け入れ信仰によって救われる(3:21)という信仰義認を

説いています。

 6章1節から7章6節にかけては、信仰によって義とされた者は、もはや罪の支配下にはいないのだから、罪を犯してはならない、と説きます。

 8章1節から39節にかけては、キリスト者は御霊の導きの下にあって、罪を克服し、神の子の特権を身につけ、今の苦難の中にあっても、希望をもって生き、キリストの勝利を確信することができると述べています。

 12章から15章にかけては、福音によって救われたキリスト者の生き方、実践に関する種々の教えがなされます。

  12章1節では、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそあなたがたのなすべき礼拝です」と勧めます。

  12章9節から16節にかけては、教会内での兄弟愛について、17節から21節にかけては、一般社会に対するキリスト者の態度を説きます。

  「愛には偽りがあってはなりません。」(12:9)

  ここでは、「愛」は<アガぺー>というギリシャ語が用いられています。神の愛を表す言葉としてパウロは、<エロース(精神的な愛)>や、<フィリア(友情)>、<エピスミア(男女の愛)>という言葉ではなく、それまでまれにしか使われていなかった<気にいる、満足する>という意味の<アガぺー>を、神の愛を表す言葉として用いたのです。

  <アガペー>は、対象そのものを愛する純粋な愛であり、自己犠牲的な、自己否定的な愛です。それに対し、<エロース>は対象の価値を追及する愛であり、自己追及的な愛です。

  <アガぺー>は、神が人間を愛してくださる愛であり、キリストの十字架において示されたような、無償の愛、報いを求めに愛、犠牲愛です。パウロは人間同士の愛に、この<アガぺーの愛>を求めました。この愛には偽りがあってはなりません。この愛は、赦しの愛であり、聖霊によって与えられる愛です。

 「兄弟愛をもって互いに愛し(なさい)」(12:10)と勧めています。「兄弟愛」は、<フィラデルフィア>というギリシャ語が用いられています。この語は親しい家族的な愛情を意味する言葉ですが、パウロはこの言葉をもって、キリスト者同士の主にある兄弟姉妹の愛、<兄弟愛のような相互的な愛>を表現したのです。イエスの十字架の愛を知ったわたしたちが、それに応えるところから、この相互愛は始まるのです。<アガぺーの愛>がなければ、本当の意味での相互愛<フィラデルフィアの愛>は成り立たないのです。

 「進んで互いに尊敬し合いなさい」と勧めていますが、「進んで」という言葉の中には、純粋に犠牲的な愛、計算しない愛が含まれているのです。

 10章18節に、「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」と勧めています。

 「できれば」とは、<可能であれば>、ということであり、「せめて」は<少なくとも>の意ですが、どうしてこのような言葉をつけ加えたのでしょうか。

  はなはだしい強力な悪の支配しているこの世の中で、相互愛に生きることは難しいことであり、平和に過ごすことも容易なことではないので、この言葉が使われていると思われます。

  平和憲法を守ることも、安全保障関連法などによらない平和維持も難しいことではありますが、「悪に負けることなく、善をもって悪に勝つ」道を選びとっていくことが求められているのではないでしょうか。

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 「苦難の中の喜び」 

2015-07-26 16:19:27 | 説教

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本キリスト教 富谷教会 週報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)

聖霊降臨節第10主日     2015年7月26日(日)  5時~5時50分 

         礼   拝   

前 奏            奏楽   辺見トモ子姉

讃美歌(21)  528(あなたの道を )

交読詩編    84(万軍の主よ)   

主の祈り    93-5、A

使徒信条    93-4、A

聖 書    ペトロの手紙一、3章13~22節 (共同訳[新]p.432)     

説 教        「苦難の中の喜び」   辺見宗邦牧師

讃美歌(21)  531(主イエスこそわが望み) 

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)     24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏

                                      次週礼拝 8月2日(日)午後5時~5時50分

                                      聖 書  ローマの信徒への手紙12章9~21節

                                      説 教   「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」  

                                      讃美歌(21) 149 540 24

本日の聖書 ペトロの手紙一、3章13~22節

 13もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。 14しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。 15心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。 16それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。 17神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。 18キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。 19そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。 20この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。 21この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。 22キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。

本日の説教

  ペトロの手紙一は、手紙の形式を備えた信仰者を激励する書です。紀元110年頃、ロ-マ帝国のトラヤヌス帝の時に小アジア(現在のトルコ共和国)のビティニアで大迫害が起こり、それが北部小アジア地方にも広がりました。ペトロの手紙は、ペトロの名で迫害の恐怖にあったその地方の信徒たちに宛てて書かれた牧会的な文書です。洗礼の恵みを思い起させ終末の希望を確信させることによって彼らを励まし、キリストの苦難に積極的に参与するキリスト者の生き方を勧めています。手紙全体を覆っているのは迫りくる迫害の苦難です。そして苦難に耐え抜くことによりキリストの苦難にあずかり、そしてキリストの栄光にあずかる励ましと慰めとが主題となっています。

  著者はペトロの感化のもとにあった一人のすぐれた指導者であり、書かれた場所はローマと推定されています。

   1章1節に記されている「ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地」とは、一~二世紀のローマ帝国の小アジアの四つの属州の名称であり、大体アナトリア全域(現在のトルコの大部分)にまたがっています。「離散して仮住まいをしている選ばれた人たち」とは、ユダヤ人ではなく、むしろキリスト者一般を指していると思われます。このアナトリア地域には多種多様な人間が住んでおり、多くの民族、文化、宗教が混在していました。この手紙の受け取り人たちは、キリスト者となる前にユダヤ人の会堂で「神を畏れるものたち」(使徒言行録10・2)と呼ばれて、旧約聖書の教えを受け、ユダヤ教の生き方に賛同していた異邦人であったと考えれています。彼らはキリスト教に改宗して間もない小さな共同体で、その多くは社会的地位も低く、奴隷や異邦人の夫を持つ婦人や若者たちがかなり多くいたようです(2・18~3・7、5・5)。

   迫害の攻撃にさらされている、この新しい改宗者たちに、義のために苦しむこと、<肉の欲>を避け、キリスト者としての「聖い生活」をし、<異教徒の間で立派な生活>をし、聖化を達成するようにと励ましています(2・11~12)。

   本書において特に際立っているのは、<苦難の中の喜び>という主題が展開され、それを現実の生活の中で実践すべきことが強調されている点です。冒頭から苦難を受ける決意が語られています。

    「あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが(1・5,6)」、と苦難に耐え、試練に打ち勝つことによって、栄光と喜びに至ることが語られています。

   3章13~22節では、苦難の中にある読者を励ますために、<正しいことのために苦しむ>ことの意義が語られます。

    「もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。「心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。」(3・13~15)

   熱心に善が実行されるとき、本来危害を加える者はあり得ないはずですが、しかし現実にはこのあり得ないはずの事が起こります。多くの場合、この時代の迫害は、伝統を固執するユダヤ教徒の敵意のこもった暴力的行為、利益にからむ異教徒の策動が主たる原因でした。

   信仰のゆえに受けなければならない迫害に直面しているキリスト者に対して、「義にために苦しみ受ける」ことと、「心の中でキリストを主とあがめること」を勧めています。この二つはイエスご自身の教えにまでその跡をたどることができます。

   義のために迫害される人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ5・10~12)

   彼らを「恐れたり、心を乱したりしてはいけません」。それゆえ、キリスト者は「抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備え」をしているべきです。

   それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。」(3・16)

    しかも弁明は穏やかであるべきで、ごうまんな自己主張であってはなりません。<穏やかに>という言葉は、どのような苦難の中にあっても、他人に愚痴をこぼしたり責任をなすりつけたりすることなく、謙遜にひたすら耐えて神に服従することであり、この語はイエス自身の人柄を表し、キリスト者の基本的な生き方の姿勢を示しています。<正しい良心>とは、聖霊を受け神と共に物事を判断するキリスト者の心の在り方が意味されています。この世からそしられたキリスト者にふさわしい武器は「キリストに結ばれた善い生活」です。

   神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです」(3・17、18)

   キリストの受難の意義の要約が記されています。ここではキリストの受難の<ただ一度>が強調され、そのいけにえが<あなたがたを神のもとへ導くため>であるとされています。<導く>は、ここでは祭司であるキリストが自分自身をいけにえとして<罪のために>ささげたことにより、人間が神に近づくことができるようになったという意味です。<霊では生きる者とされた>は、「神によって死からよみがえらされ、神の霊を与えられ、生きる者とされた」ということです。それはまさにキリストがわたしたちを「神のもとへ導くため」でした。

    「そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。」(3・19、20)

   <捕らわれていた霊たち>とは、神に服従しなかった者たちのことです。当時創世記6章の堕落の天使は、地下の獄に投獄されたとの一般的な信仰がありました。彼らの堕落は、ノアの洪水以前の罪悪に密接に関係していたので、ノアの時代に神が忍耐して待っておられてのに従わなかった人々に、彼らも含めて考えられています。また、ノアの箱舟のときに神様に従わなかった人々たちに、キリストの福音に従わなかった後の時代の人たちも含まれているのです。

   イエスは死んで陰府(よみ)にまでくだりました。しかし、復活させられ、神の霊によって生きる者とされました。イエスは死の支配下にある捕らわれていた霊たちのところへ行き伝道され、彼らを死の支配から解放し、御自分の支配下におきました。4章6節にこうあります。「死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。」とあります。霊において生きるようになるためにイエス・キリストは死者たちに伝道をされたのです。イエスの贖罪はすでに死んだ者に対しても救いとなったのです。

   ノアは、聖書では、義人の代表者の一人とみなされています。<箱舟>は、後に十字架の型、教会の型と考えられるようになったが、ここでは洗礼との関連で取り上げられています。<八人>とは、ノアとその妻、そして三人の子セム、ハム、ヤフェトとその妻たち(創世記7・7)ですが、彼らは神の言葉に服従し破滅から救われたという点で、キリスト者の象徴でもありました。<水の中を通って>は、ノアたちが水を渡って箱舟に入り、洪水の中を通って安全な場所へ導かれたように、キリスト者は洗礼の水の中を通り、その水によって救われるという意味の両方をこの語句にもたせています。

   この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。」(3・21)

   ノアの洪水の水は、審判と救いをもたらすゆえに、バプテスマの象徴です。救いは、キリストの復活にもとずく死の中よりの救いです。洪水は、不服従者にとっては破滅ですが、服従したノアたちには彼らの箱舟を浮かせ安全地へ運んだという意味で救いでした。<肉の汚れを取り除くことではなくて>には割礼が暗示されています。キリスト教の洗礼は不浄を除去する儀式的行為ではなく、神に正しい生活態度をとることを約束し誓うことにあります。イエス・キリストが正しい方でありながらも正しくない罪人である人間のために死んで下さり、復活なさいました。そのイエス・キリストの救いの出来事を信じ、洗礼を受けるのです。私たちが洗礼を受けるのは、それまでの罪に死に、新しい命に生きるためです。それは主イエスにおいて起きた復活に、わたしたちもあずからせていただき、主イエスと共に、神に生きる新しい歩みを始めるのです。

   キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。 」(4・22)

    復活のキリストが現在、神の主権をもって、人間だけでなく<天使><権威><勢力>と呼ばれる超自然的存在を含むすべての支配者であることを告げます。

    「復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです…わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」(ローマ8・34、37)

   キリストは「見よ。 わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたと共にいる(マタイ28:20)」と約束されました。キリストがどのような時も共にいて下さることを信じて、キリストにある勝利を確信して、この世の悪と戦いながら歩んでまいりましょう。

  今年は、高山右近が徳川幕府による迫害でマニラに追放され、亡くなってから、450年になります。ようやく、日本のカトリック教会の方々の念願であった、右近を殉教者の福者とする申請がバチカンに了承され、遅くとも来年一月までには認定される見通しとなりました(毎日新聞6月21日東京朝刊発表)。右近が亡くなる数日前、自分の死期の近づいていることを知って、モレホン神父に語った言葉を紹介いたします。

 「パ―ドレ(「神父さま」の意)。私はまもなく召されると思いますが、神がそれを希望し給うのですから私は喜び慰められています今ほど幸せな時が、これまであったでしょうか。私は妻や娘・孫たちについては、何も心配していません。彼らと私は、キリストのために追放されてここに来ましたが、彼らが私について、この土地まで来てくれた愛情に、深く感謝しています。神のためにこのような境遇になったのですから、神は、彼らにとって真実の父となり給うでしょう。」

  まさに右近は、最後まで「苦難の中でも喜び」を与えられて生きた人でした。

 

 

 

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「高山右近の生涯と信仰」 「右近が福者に」バチカン審査委了承

2015-07-23 22:14:47 | 説教

        ↑ 大坂カテドラル聖マリア大聖堂にある堂本印章画伯作

          「栄光の聖母マリアを仰ぎ見るガラシア夫人と右近」

    聖書マタイ6・19~21「天に富を積みなさい」

          高山右近の生涯と信仰    辺見 宗邦

   高山右近はキリシタン大名であり、茶人でもあり、最後まで信仰を貫き通した武士です。

   山右近は、今から463年前、1552年(天文21年)、摂津の国高山(現在の大阪府豊能(とよの)郡豊能町高山)の領主であった高山飛騨守(ひだのかみ)の長子として生まれました。幼名を「彦五郎」と言い、高山では5歳の時まで過ごしました。右近は63歳で天に召されるまで、戦国時代、安土桃山時代、そして、江戸時代のはじめの頃まで、天を想いながら、最後まで「キリストの兵卒」として、生涯を送りました。

   右近が6歳の頃、父は京都に近い畿内(山城、河内(かわち)・泉・摂津、大和)で大きな勢力を握った三好長慶(ながよし)[高槻の芥川城主、その後、飯盛山城主(大阪府大東市)]の重臣である松永久秀(奈良市多聞山(たもんやま)城主)に仕え、大和の国の沢城(奈良県宇陀市榛原町(はいばらちょう))の城主となりました。右近は16歳頃まで沢城で過ごしました。

      

  父の飛騨守は、奈良で目の不自由な琵琶法師であった日本人修道士ロレンソ了斎の話に感銘を受け、ヴィレラ神父より洗礼(洗礼名ダリオ)を受けました。その翌年、右近が12歳の時、父はロレンソを沢城に招き、キリシタンの教えを説かせ、家族、家臣全員が洗礼を受けました。右近の洗礼名は「義人」を意味する「ジュスト(ユスト)」でした。母の洗礼名は「マリア」でした。右近は男3人女3人の6人兄弟の長男でした。

   1568年、右近16歳の時、織田信長が足利義昭を十五代将軍に据えるために上洛すると、室町幕府の幕臣だった和田惟正(これまさ)が摂津の高槻城主に任じられました。高山家はその下で仕えることになり、高槻城にほど近い芥川(あくたがわ)城(高槻市内の標高182mの山城)の城を任される役目に任ぜられます。18歳のとき、右近は黒田氏の娘ジュスタと結婚。その後、三男、一女が授かります。

   惟正(これまさ)はキリスト教の協力者でしたが、その三年後、荒木村重(むらしげ)[有岡城主(兵庫県伊丹市)]に敗れて討ち死します。摂津は村重のものとして信長に認められます。年若くして父の後を継いだ和田惟長(これなが)は家臣にそそのかされ、高山父子暗殺を企てます。そのことを知った右近たちは村重と相談のうえ惟長を討ち、右近の父・飛騨守は高槻城主(大阪府高槻市)になります。しかしすぐ隠居して家督を右近にゆずります。

  1573年(元亀4年)、右近は21歳のとき、名を友祥(ともなが)と改め、禄高二万石の高槻城主となります。

   右近は高槻に天主堂を建設し、家臣をはじめ、領民を多数入信させ、キリスト教の普及に貢献しました。1581年(天正9年)には、領民2万5千人のうち1万8千人、72%の領民がキリシタンであった、と宣教師たちが報告書に書いています。この時期、領内には20以上の教会がありました。

   1578年(天正6年)右近の直接の主君である有岡城主の荒木村重が山口の毛利輝元と結んで、織田信長に謀反(むほん)を起し、黒田官兵衛が有岡城に捕らわれる事件が起きました。これに対して危機感を抱いた信長が高槻城攻めを開始しました。右近26歳の時です。右近の妹と4歳の長男ジョアンは人質として村重のもとにあり、そのうえ自分が信長の味方をすれば、村重に忠実であろうとする父は切腹するであろうし、人質の妹や長男の生命も奪われてしまう。信長は、右近父子に、五畿内の布教長オルガンチノ神父を送り、信長の味方に付くように、敵対するならキリシタンの滅亡をまねくことになると、二者択一を迫りました。城内の意見は、村重に就くか、信長に付くかで、真っ二つに割れてしまいます。右近は悩み苦しみ、祈りに祈った末、城主をやめることにし、ひそかに城から離れ、頭髪を剃り落とし、神に従う僕になることを決意しました。信長の前に紙衣一枚になり、死を覚悟して、投降しました。こうすれば、荒木は人質をゆるすであろうし、神父や信徒も破滅の悲運からまぬがれると考えたのです。この右近の英雄的降伏は、全五畿内を驚かせました。

  この結果、右近の父は有岡城に走り、城主を失った高槻城の家来たちは開城して信長に従いました。村重は孤立無援となり、やがて有岡城は落ち、人質だった息子たちも無事に助かりました。信長は以後、右近を再び高槻城主とし、キリスト教に対しても優遇するようになりました。

   高山右近の人物について、宣教師ルイス・フロイスは、「明晰(せき)な知性を持ち、稀に見る天賦(てんぷ)の才能ある青年で、都(京都)地方全キリシタンの柱石である。」と言っています。

  1582年(天正10年)、本能寺の変の後、山崎の合戦で右近は先陣をつとめ、明智光秀と戦い、勝利します。戦後、戦いで功績をあげた右近は、二万石から四万石に加増されました。

  1585年(天正13年)、右近(33歳)は、信長のあとを継いだ秀吉によって、12年間過ごした高槻の地から、播州(はりま)の国・明石(あかし)(兵庫県明石市)明石船上(ふなげ)城に移されます。家禄六万石の明石の城主として過ごす間、右近は明石教会を建設しました。

   1587年、右近が明石の城主なって二年後のことです。九州を平定した秀吉は博多(福岡市博多区)で突然、「吉利支丹伴天連(きりしたんばてれん)追放令」を発布しました。九州の現状をみて、日本が外国の植民地にされてしまうことを恐れたのです。宣教師たちの布教は、その手先だと思ったのです。右近は九州平定のとき、秀吉軍に加わって従軍し、箱崎(福岡市東区)の陣中にいました。博多に陣をとっていた秀吉は使者を遣わし、右近にキリスト教の信仰をやめるように命じ、棄教しない時は所領を没収すると迫ったのです。この時が右近にとって、人生生涯の最大の試練の時ではなかったと思います。

   右近は、「たとい人、全世界をもうくとも、おのがアニマ(魂(たましい))を失わば、何の益かあらん。」とある、聖書の言葉通りに、デウス(神)のみことばに従って歩む決意を伝え、棄教することを拒絶しました。

   秀吉は、第二の使者として右近の茶の湯の師である千利休が遣わしました。利休のとりなしであれば、右近がきいてくれるという思惑があったものと思われます。秀吉の条件は「熊本に転封となる佐々(さっさ)成政(居城は富山城)に仕えることを許す、もし右近が棄教を拒否するならば他の宣教師と共に中国へ放逐する」という条件の説得でした。しかし右近はこの案も、師である利休の説得もことわり、「キリシタン信仰(宗門)が、師(茶道の師利休)、君(秀吉)の命(棄教令)よりも重いかどうかは今は分からないが、いったん志したことを簡単には変えず、志操堅固であることが武士の心意気ではござるまいか」と言ったのです。利休も、彼の心を察したのか、あえて意見を加えず、そのままを秀吉に報告しました。彼をこの決断に至らせたのは、右近のキリストへの熱愛と、キリストに対する武士道的忠誠(キリストの兵卒として)でした。右近は、棄教することを断り、信仰の道を選びました。右近は城主の地位も六万石の領地も捨て、明石を脱出しました。 

  「伴天連追放令」から一年余り、山右近とその家族は、小西行長の庇護のもとに小豆島に匿(かくま)われました。小西行長が熊本へ転封になると、右近家族も熊本の宇土へと流浪の旅を続けました。 

   加賀百万石の前田利家は右近の能力を高く評価し、その才能を惜しみ、右近を召し抱えるために、右近に金沢へ来るように招きました。

   右近は、利家からの誘いに対して、「禄は軽くとも苦しからず。耶蘇寺(やそでら)の一か寺、建立(こんりゅう)下さらば参(まい)るべし。」と答えて、1588年(天正16年)の秋、右近と家族は金沢に身を寄せました。右近が三十六歳の時でした。

   旧暦9月22日(新暦11月14日)に、千利休(せんのりきゅう)は蒲生氏郷(がもううじさと)宛てに書状を送り、右近が金沢に行ったことを伝えます。

   「高山右近殿が、昨日正午に都を出立いたしました。浅 野長政殿の書状で知りました。目出たく、金沢に下られて、望みがかない本当に良かったと思います。氏郷殿も同じ思いであろうとお察しいたします。芝山監物(けんもつ)殿も、望みがかなったと喜んでいます。」(現代語訳文筆者)

   利休は右近が金沢の前田利家のもとに身を寄せたことを心から喜び安堵したのです。

   築城の名手であった右近の才能は金沢城の修築や、金沢城の東西の内惣構堀(うちそうかまえほり)などを造るのに、いかんなく発揮されていきました。前田利家のあとを継いだ利長の隠居後の城としての高岡城の築城のために、右近は縄張り(設計)の役目を果たしました。

   右近は、金沢の地で茶道にも精進しました。南坊(みなみのぼう)と号し、「利休七哲」の一人であり、「利休極上一の弟子也」と言われ、また、篤い信仰心をもって、蒲生氏郷、牧村利貞、小西行長、黒田孝高(官兵衛)、などの大名をキリシタンに入信させ、加賀の国、金沢藩の茶の湯の宗匠として多くの武士、商人たちと交友を深め、茶道とキリスト教の布教に励み、お茶の世界に大きな影響を与えました。

  1605年(慶長10年)右近は、宣教師が一度も踏み込むことが出来なかった北陸の金沢に宣教師を招き、三つの教会を建設しました。右近は、加賀の地で26年間過ごしました。

   1614年(慶長19年)、今度は家康が、徳川秀忠の名で、全国に「キリシタン禁教令」を発布しました。宣教師や、高山右近は国外追放の身になりました。厳寒の2月金沢を後にした右近と家族の一行は、坂元、大阪へ、大阪から舟で長崎へ送られました。長崎に着いたのは4月中旬でした。右近は日本を離れるに際し、長崎から船出する一か月前、豊前(ぶぜん)(福岡県東部)の藩主で小倉城主だった、利休七哲の一人である茶友・細川三斎忠(ただ)興(おき)(妻はガラシア)に書状を送り、その心境を吐露しています。

   「楠木正行(まさつら)は戦場に向かい四条畷(なわて)で戦死し、天下に名を挙げました。そして私は今南海の呂(る)宋(そん)に赴(おもむ)き、命を天に任せて、名を流すばかりです。(この生き方は)いかがなものでしょうか。六十年来の苦もなんのその(たちまちの内に散り、消えていきます)、いまこそ、ここにお別れがやって参りました。」と述べています。

   

    右近書状 細川忠興(羽柴越中守)宛   (永青文庫蔵)

      近日舟が出ます。よってこの筆の一軸進上致します。

   「誠誰にかと存候志に、帰らじと思えば兼ねて梓弓なき数にいる名をぞ留る。

   (楠木正行辞世)彼は向こうの戦場で命を落とし、名を天下に挙げています。

    私は南海に赴き、命を天に捧げ、流罪となります。如何。六十年の苦しみが

    忽ち散りました。これまでのお礼は中々申し上げられません。

           恐惶敬白                 南坊 等伯(花押) 

       九月十日  

      羽越中様 参人々御中

   伴天連(ばてれん)国外追放令発布の翌年、マニラに追放されることになった右近とその家族は長崎を出帆。小型の老朽船に100名以上がつめこまれて、暴風・逆風に悩まされながら、普通の船で、順風ならば10日ほどで行けるところを、実に34 日もかかって、フィリピンのマニラに到着します。右近と同行した家族は、妻と娘ルチアと5人の孫たちでした。

   右近たちが、信仰ゆえに、祖国を追放されてくるという話は、すでにフィリピンに伝えられていましたので、フィリピンの総督のファン・デ・シルバをはじめ、市民たちは、一行 を敬意をもって、大歓迎しました。右近たち一行は、上陸後、総督官邸に入り、丁重な歓迎を受けます。旧日本人居留地であるパコ駅前のディラオ広場「比(ひ)日(にち)友好公園」に、高槻の城跡公園にある「山右近像」と同じものが建てられています。   

       

   彫刻家西村方昭作の銅像 高槻公園の右近像

     

     マニラ、パコ駅前広場(Plaza Dilao)にある高山右近像と記念碑

   マニラに到着後、40日ほどで、ひどい熱病にかかります。右近は自分の死期の近づいていることを知って、モレホン神父にこう語っています。

  「パードレ(神父様の意)。私はまもなく召されると思いますが、神がそれを希望し給うのですから私は喜び慰められています。今ほど幸せな時が、これまでにあったでしょうか。私は妻や娘・孫たちについては、何も心配してはいません。彼らと私は、キリストのために追放されてここに来ましたが、彼らが私について、この土地まで来てくれた愛情に、深く感謝しています。神のためにこのような境遇になったのですから、神は、彼らにとって真実の父となり給うでしょう。」

   数日後、病状は悪化し、「わが魂(アニマ)は、天地万物の御(ご)作者なる御(おん)主を、ひたすら慕い奉る。」と、繰り返し、主イエス・キリストの御(み)名をとなえながら、1615年2月3日の未明、静かに天に召されました。享年63歳でした。右近の死後、家族は帰国を許されました。

   1615年(元和元年)、1月8日(1615年2月4日)マニラで病没。享年63歳。マニラ市で十日間にわたる葬儀が執行され、遺体は聖アンナ聖堂に安置された。後に、右近の遺体は新築のイグナチオ聖堂に移管された。1945年、イエズス会は遺骨をケソン市北ノバリチェスにあるイエズス会の女子聖心修道院の墓地に、二つの骨壺に分け(1864~1927、1864~1936)、「人々に知られざりしも、神に知られし者」の墓として、57柱と30柱に分けて納められました。

  戦国時代の大名にとっての目標は、功名を得ることであり、禄高(ろくだか)を増やすことであり、誇り高き家名を誇示することでした。しかし、右近は「人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。」(マルコ8:36)のキリストの言葉に従ってその生涯を全うしたのです。

   高山右近の列福を願う運動の最初は1946年(昭和21年)にカトリック高槻教会大阪司教田口芳五郎神父が列聖を請願しました。正式には1960年(昭和35)頃から始まり、1971年(昭和41年)には53680人の署名をバチカンに送りました。2009年(平成21年)から司教総会で事由を「証聖者」から「殉教者」に切り替えての請願になりました。高山右近没後400年にあたる平成27年(2015年)、日本のカトリック中央協議会は右近が地位を捨てて信仰を貫いた殉教者として、右近を福者に認定するようローマ教皇庁に申請しました。同年6月18日、教皇庁の神学調査委員会は高山右近の手続きを始めることを了承し、遅くても、2016年1月までには認定される予定になりました。(毎日新聞6月21日発表)

     

   スペインのバルセロナのマンレーサにある聖イグナシオ教会にある壁画。中央右側にいるのがJUSTO UCANDONOと書かれているユスト右近殿である

                                

                                    

  堂本印章画伯(1891~1975)  イタリア人ニコラ・アルギイニ作の大理石像(1946年作)

                                  カトリック高槻教会前の右近像

 

        

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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フィリピの信徒への手紙4章1節~3節「女性たちの働き」

2015-07-17 22:51:53 | 説教

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

    日本キリスト教 富谷教会 週報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」  (フィリピ4:6)

    聖霊降臨節第9主日 2015年7月19日(日)  5時~5時50分 

           礼   拝   

前 奏            奏楽   辺見トモ子姉

讃美歌(21)  355(主をほめよ、わが心 )

交読詩編   133(神はわたしたちの避けどころ )   

主の祈り    93-5、A

使徒信条    93-4、A

聖 書    フィリピの信徒への手紙4章1~3節    (共同訳[新]p.365)     

説 教         「女性の働き」    辺見宗邦牧師

讃美歌(21)  535(正義の主イエスに) 

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)     24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏

                                  次週礼拝 7月26日(日)午後5時~5時50分

                                       聖 書  ペトロの手紙一3章13~22節

                                       説 教   「苦難の共同体」  

                                       讃美歌(21) 528  531  24

     本日の聖書 フィリピの信徒への手紙4章1~3節

 1だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。 2わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。 3なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。

     本日の説教

   パウロのニ回目の旅の随行者はシラスです。途中リストラ(地図12)でテモテを旅行に加えたパウロ一行の三人は、聖霊に導かれてアジア州のトロアス(地図19)に行きました。このトロアスで一行はマケドニヤ伝道の幻を与えられたのです。初めてヨーロッパに渡り、マケドニア州フィリピ(地図20)の町に行って宣教するようになった経緯(いきさつ)が次のように書かれています。 《その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と言ってパウロに願った。》トロアスで医者ルカがパウロの一行に加わりました。

    《 わたしたちは(ルカとパウロの一行3人)トロアスから船出してサモトラケ島に直航し、翌日ネアポリス(現在名はカバラ)の港に着き、そこから、マケドニア州第一区の都市で、ローマの植民都市であるフィリピに行った。そして、この町に数日間滞在した。……ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人も話を聞いていたが、主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。そして、彼女も家族の者も洗礼を受けた……》(使徒言行録16・9~15)

 

                              フィリピの遺跡

    フィリピは、現在はギリシャ共和国の北東部、ブルガリアの国境に近い、東マケドニア地方にある、ピリッポイという町(Filippoi)です。

   マケドニヤ王国のアレキサンダー大王の父親フィリッポス二世がこの町を占領し、自分の名にちなんでフィリッピ(ピリピ)命名した町です。近くの山から金が産出したので金鉱開発が進められ、ヨーロッパに通じるエグナティア街道の重要な場所としてこの町は発展しました。パウロが訪れた時は、この地方最大のローマの植民都市でした。

  リディアはエフェス=エペソ(地図18)の北東約80キロにあるティアティラ市(現在名はアクヒサール)出身の紫布を商う商人でした。彼女は家族や使用人と共に、パウロから洗礼を受けたヨーロッパで最初の信徒でした。彼女の家で集会がもたれ、教会に成長しました。彼女が住んでいた土地はリディア村と呼ばれ、現在もフィリピの遺跡の西にリディア(Lydia)と呼ばれる町になっています。

        

                            リディアが洗礼を受けたガギタス川と教会

    このようないきさつで使徒パウロから福音を伝えられてフィリピの教会は、以後、パウロと親密な関係を保ちました。パウロはフィリピの信徒への手紙で、最初の挨拶の後、<わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。>(1・3) と述べています。この4章からなる短い手紙で、<喜び>という言葉が16回も用いられ、手紙の内容も<イエス・キリストにある喜び>で満ちているところから、「喜びの書簡(手紙)」とも呼ばれています。

   フィリピ書、フィレモン書、エフェソ書、コロサイ書は「獄中書簡」と呼ばれています。フィリピ書とフィレモン書はパウロがエフェソで監禁中に書いたものと思われています。監禁の場所とフィリピとの往来(フィリピ2・19~30に四回の行き来が考えられます。1テモテを遣わす、2わたし自身も行く、3・4エバフロディトが来て、帰る)があったことから、フィリピに近いエフェソと思われているのです。パウロは第三伝道旅行中の紀元53~55年頃エフェソに二年三か月滞在しました。エフェソの投獄については、ルカは書いていません。しかし、パウロ自身は、アカイア、マケドニア、アジアの諸教会との文通の中で、繰り返しその受難について言及しています。

「兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。」(コリント二,1・8~10)

 一方、エフェソ書とコロサイ書はパウロがローマで監禁中に書いたとする説が有力です。

   フィリピの教会の信徒たちは、監禁中のパウロのもとに、エパフロディトを代表に立て、贈り物を持たさせて派遣しました。彼はしばらくパウロのもとにとどまって奉仕をしていたが、病を得て、フィリピに送り戻されることになりました。パウロは贈り物への感謝を表し、使徒としての配慮から種々の勧告を記したこのフィリピ書をエパフロディトの持たせて送ったのです。

   今日の聖書の個所、4章1節には、「だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。」とあります。<だから>とは、3章に記された主イエス・キリストが救い主として来られるの待ち望みつつ進むキリスト者の生き方を指しています。パウロは愛するフィリピの信徒たちに、さらに勧告を続けるのです。<わたしが愛し、慕っている兄弟たち>と呼びかけ、もう一度、<わたしの喜びであり、冠である愛する人たち>と呼びかけています。 

「わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。」

  二章の始めから、信徒間の一致を勧めてきたパウロは、<エボディア>と<シンティケ>という二人の婦人の個人に対して、<主において同じ思いを抱きなさい>と勧告しています。このような個人に対する勧告が、パウロの手紙には他にないので、この二人の婦人の問題が単なる個人的な争いではなく、何らかの形で教会全体に関わる問題であったと思われます。この二人が互いに抗争関係にあるので、仲直りするようにと勧告しているのではなく、パウロの意図は、信徒の交わりとしての教会全体の形成に向けられています。そうすると、<主において同じ思いを抱きなさい>は、彼女たちが他の信徒たちと同じ行動をとり、教会生活を送ることを勧める言葉となります。おそらく彼女たちは、フィリピの教会にとって影響力の大きい人物だったと思われます。

   彼女たちは、4章3節にあるように、かつて<福音のために>、<共に戦った>とあります。これは、単に過去の業績を指摘するだけの言葉ではなく、今また再びそのようなことの行われるを期待する言葉です。

  パウロは、「あなたがたは一つの霊によってしっかりと立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており」(フィリピ1・27)と語りました。パウロは、エボディアとシンティケに語りかける前に、<主によってしっかり立ちなさい>と勧告しています。パウロは、何らかの事情で教会の活動に協力的でなくなっているエボディアとシンティケに<主によってしっかり立つ>ことを求めたのです。おそらく彼女たちは教会建設に際して努力を惜しまなかった婦人たちだったのでしょう。

   「なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。」

  教会の指導的な立場にあった協力者に、二人の婦人を助けるように頼んでいます。彼女たちの間の仲介の労をとってほしいともとれるが、むしろ、彼女たちの信仰の戦線復帰に努力してほしいという依頼です。

 「二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。」

   クレメンスは教会の創立時の指導者だったのでしょう。<命の書>に名を記されているとは、神の民の天にある登録簿に名前が記されているということであり、神の救いの計画に入れられている、という終末的約束です。罪人の名がそこから<消し去る>と言う表現が詩編69・28にあります。命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと同じように、彼女たち二人も救いの計画に入れられており、彼女たちはみんなと力を合わせて、福音のためにわたし(パウロ)と共にと戦ってくれた人達なのです、とパウロは彼女たちのかつての業績をたたえているのです。彼女たちのことを多くの人が忘れても、神はその忠実な僕を覚え、ご自身の民として祝福してくださっていることをパウロはフィリピの教会の人たちに伝え、彼女たちを復帰させるように依頼しているのです。

   フィリピの教会は、先に述べたように、紫の布を商うリディアが信者になり、彼女が自宅を開放して、パウロの宣教を助け、彼女の家が基礎となって出来た教会です。             エボディアとシンティケは、このリディアの信仰を受け継いだ有力な信徒と思われます。リディアたちを中心として出来たフィリピの教会は、その後長くパウロに対する親愛の情を保ち、彼に必要な経済的援助を送ってパウロを助けました。

   パウロがコリントで出会ったプリスキラと夫のアキラもパウロを助けました。パウロは彼女の家に住み込んでコリントで伝道したのです(使徒言行録18・1~4)。この夫妻は、その後、パウロに同行してエフェソに行き、エフェソでも活躍したのです。

   コリントの東にケンクレアイ港がありますが、ケンクレアイの教会の奉仕者の女性フェベもパウロの援助者でした(ローマ16・1~2)。このように、キリスト教の発展の陰にはこのような女性信徒や女性指導者がいたことを覚えたいと思います。

   「正義の君なる神の御子の」で始まる賛美歌376番の4節に「老い人、若うど、おとこ、おみな(女性のこと)、新手となりつつ 敵にあたり、み国をのぞみて いさみ進む、 つづかせ給えや 主よ、我をも」とあります。福音の信仰のために、共に戦いましう。

 

   

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