↑ 「忍耐強く走り抜こう」ヘブライ人への手紙12章1-2節
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日本キリスト教 富 谷 教 会
週 報
年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』
聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)
聖霊降臨節第22主日 2015年10月18日(日) 5時~5時50分
礼 拝 順 序
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 78(わが主よ、ここに集い)
交読詩篇 62(わたしの魂は沈黙して)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
聖 書 ヘブライ人への手紙11章32~12章2節(新p.416)
説 教 「信仰の完成者イエスを仰ぎ見つつ走ろう」 辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌(21) 528(あなたの道を)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 24(たたえよ、主の民)
祝 祷
後 奏
次週礼拝 10月25日(日)午後5時~5時50分
聖書 コロサイの信徒への手紙1章15~20節
説教 「御子キリストによる創造と和解」
賛美歌(21)6 281 24 交読詩篇 148
本日の聖書 ヘブライ人への手紙11章32~12章2節
11:32これ以上、何を話そう。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、また預言者たちのことを語るなら、時間が足りないでしょう。 33信仰によって、この人たちは国々を征服し、正義を行い、約束されたものを手に入れ、獅子の口をふさぎ、 34燃え盛る火を消し、剣の刃を逃れ、弱かったのに強い者とされ、戦いの勇者となり、敵軍を敗走させました。 35女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました。他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました。 36また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。 37彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、 38荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。世は彼らにふさわしくなかったのです。 39ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。 40神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです。
12:1こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、 2信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。
本日の説教
<ヘブライ人への手紙>という名称は、後になってから、その内容から察してつけられた名です。この書は、<ヘブライ人>に宛てられた手紙となっています。ヘブライ人とは、ユダヤ人を指す古い呼び名です。この書の終わりの部分にあたる13章22~25節の挨拶が、手紙の形式をとっているので、手紙という名称がつけられていますが、しかし手紙には欠かせない差出人の名や、宛先人を表す言葉はなく、差出人の挨拶もありません。13章22節に、「以上のような勧めの言葉を受け入れてください」とあるので、この手紙の実質は著者によって実際になされたいくつかの説教を、文書の形にまとめたものと思われます。
この書は、長い間パウロの書簡とされてきましたが、近代の研究では、バルナバやアポロを著者とする説がなされ、著者が誰であるかは明らかではありません。著者は旧約聖書に深い理解をもち、教養の高い、ギリシア語を用いる外国に住むユダヤ人であると思われます。著者はテモテを知っており(13・23)、パウロの信仰を継承しています。
手紙の受信者は、13・24に<イタリア出身の人たちが、あながたによろしく>とあるところから、イタリアのロ―マに宛てられたと推察されます。迫害に際しての忍耐をすすめている点などからローマのキリスト者の集会に宛てて書かれたもの見る見方が有力です。ローマではユダヤ人信徒と異邦人信徒が混在していました。
執筆年代は、ネロの迫害(64年)の経験が言及されています(10・32~34)。しかも新たな迫害[ドミティアヌ帝(在位81~96年)の迫害]が近づき、再臨の希望が失われ、聖霊の働きもあまり見られないところから、一世紀末が考えられ、80~90年頃と推定されます。執筆のの場所としては、エフェソあたりが最も可能性が高いとされています。
執筆の事情については、次のようなことが考えられます。宛先の教会の人たちが、信仰に入った初めの頃は<苦しい大きな戦いによく耐えた>(10・32)のですが、その後の信仰生活の中で、彼らの中には、集会から離れ(10・25)、異なった教えに迷わされ(13・9)、みだらな生活に陥る(13・4)者たちも出たので、このような危機的な状況を知った、かつてこの集会の指導者であった著者が、新たな迫害に備えて、この勧告の手紙を書き送ったと見られます。
<ヘブライ人への手紙>は、旧約聖書の引用が多く、特殊なキリスト論が展開されています。
キリストは神の子であって預言者、モーセ、天使以上の方であり、また創造に際してはその仲介者であられ、世界の支配者であられる。神の子であられたが、キリストは人間と等しくなられ、現実に人々の弱さを自らのものとされました。彼は神の子として最初から父なる神と共にいまし、時至って地上に来られ、歴史の中に生き、死後再び天に戻られた。キリストは人間の救いのために立てられた大祭司であって、その働きは地上から天の領域にまで連なっており、その死によって人々が天の聖所に至る道を開かれた。現在彼は天にあって、人々のためにとりなしておられる。
このキリスト論は救済論と密接に結びついています。神の子キリスト論は、2・5~3・6においては、子らの救いのテーマへと変わっており、4・14以下の大祭司キリスト論も最後には信仰者の救いの問題に移り、完全な者となられたキリストが信仰者にとって永遠の救いの源であるとされる(5・9)。キリストが新約の大祭司として天の至聖所に入り、自らを犠牲として献げられたことにより、われわれの罪がきよめられ、永遠の救いが完成したのです(7・27、9・12、14、28、10・12)。
この手紙の終末論の性格は、迫害の中にあって苦しみつつあるキリスト者の信仰を励まし、強化するという手紙の著作の目的と密接に結びついています。キリストの再臨の待望(9・28)、天のエルサレムを目標としての前進(12・22~24)、来るべき都の探求(13・14)などについて、著者は情熱をこめて語ります。しかし同時に終末の時がすでにキリストと共に始まっているという、現在的終末論も見られます。
それでは今日の聖書の箇所の御言葉に耳を傾けましょう。
11章1節以下は、信仰生活を全うした旧約聖書の人物を列記して、その模範に倣うように勧めます。信仰の歴史を教えて、いっそうの励ましを与えるのです。
11章30節以下では、イスラエルのカナン征服における二つの信仰的事件を述べます。32節からは、さらに士師、預言者たちの名を列記し、彼らの信仰のことが述べらます。
<ギデオン、バラク、サムソン、エフタ>は、いずれも士師記に記されている士師たちです。<ダビデ>はイスラエルの代表的な王、<サムエル>は預言者の代表として挙げられています。
33節の<信仰によって、この人たちは国々を征服し>た人々について、ヨシュアやダビデのような人を思い起させます。<正義を行い>は、イスラエルを治めることを意味し、ダビデやソロモンのような王のことでしょう、<獅子の口をふさぎ>とは、ダビデ(サムエル記上17・34以下)とダニエル(ダニエル書6・22)の例を指しています。
34節の<燃え盛る火を消し>とは、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの出来事(ダニエル書3.25)を指しています。<剣の刃を逃れ>は、モーセ、ダビデ、エリヤ、エリシャのいずれの場合にも当てはまる経験です。
<弱かったのに強い者とされ>というのは、盲目にされたサムソンが最後の力を得て復讐したことを指します(士師記15・19、16・28)。<戦いの勇者となり>は、ゴリアトと戦ったダビデ(サムエル記上17章)を思わせます。
<敵軍を敗走させました>は、ヒゼキヤが信仰によって、セナケリブとその軍隊を敗退させた(列王記下19・20~37)ことを指しているようです。
35節の<女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました>は、エリヤにその子の命を生き返らせてもらったサレプタのやもめ(列王上17・22)や、エリシャに子生き返らせてもらったシュネムの女(列王下4・34)のことと関連しています。<他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために>は、預言者たちによって生き返った者たちも結局は死に至らざるを得なかったのに対して、<拷問にかけられ>た信仰の英雄たちは、死そのものの克服としての復活を確信して忍耐したことが強調されています。
36節の<他の人たちはあざけられ>とは、預言者ミカヤ(列王上22・24)や、エレミヤ(エレミヤ記20・2)たちの屈辱的な経験を、<鞭打たれ>とは、苦難の僕の預言(イザヤ書50・6)を暗示します。<鎖につながれ、投獄される>は預言者エレミヤの運命を思わせます。
37節の<石で打ち殺され>たのは、祭司ヨヤダの子ゼカルヤであり(歴代誌下24・20以下)、ある黙示文学(「イザヤの昇天」)によればイザヤは木製の<のこぎりで引かれ>ました。<剣で切り殺され>たのは、エリヤの時代のイスラエルの預言者たちであり(列王記上19・10)、預言者ウリヤ(エレミヤ記26・23)でした。<羊の皮や山羊の皮を着て放浪し>たのは、エリヤ、エリシャにあてはまります(列王記上18~19章)。
38節の<世は彼らにふさわしくなかったのです>というのは、彼らは天国にふさわしい人々であって、世間の人々は彼らをそねみ憎みました。この世は神の国の民の永久の住居に値いしないのです。
39節、40節は、11章全体の結論を述べています。<約束されたもの>とは、神がご自身を信じる人々に約束された最後的な救いであって、キリストの到来によって初めて明らかに示されました。40節の<更にまさったもの>とはキリストによってしめされた新しい約束、すなわち神の国です。神は、わたしたちのために、更にまさった神の国を計画してくださったので、わたしたちを除いては、旧約時代の信仰の英雄たちは、<完全な状態>に達しなかった、すなわち全き祝福にあずかることができなかったのです。ここには、旧約の信仰者も新約の信仰者も、忍耐と希望を持ち続け、信仰生活のたたかいに耐え、共に全き祝福にあずかる日を待とうではないか、という勧告です。
12章の1節の<こういうわけで>とは、11章で信仰生活の模範を述べたが、再び次の勧告にうつるためのつなぎの言葉です。11章で挙げられた信仰の偉人たちは、すべて新約の時代に生きるキリスト者を支え導く人々であり、何よりも神の真実を証言した人々でした。
<このようにおびただしい証人の群れに囲まれて>は、競技場の観衆にたとえて先輩の信者たちを指しています。旧約の信仰の証人たちのことが示された以上、これを模範としてキリスト者も信仰の馳せ場を走ることが求められています。そこでまず身を軽くするために、<すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨て>なければなりません。<自分に定められている競走>という言い方は、信仰生活を徒競走にたとえたものです。<忍耐強く走り抜こうではありませんか>とあるように、この競争は途中で止めてはならないのであって、最後まで、つまりこの地上の生を終える時まで走り続けることが求められているのです。
2節では、これまで旧約時代の多くの信仰の英雄の実例を挙げることのよって読者を励ましたが、その究極的な存在としてのイエスを挙げます。<信仰の創始者>という語は、「先導者」という意味があります。この語が<完成者>と対をなしつつイエスの業を説明しています。
イエスにおいて、わたしたちの信仰が開始し、イエスにおいて信仰が完成するのです。このようなイエスをひたすら<見つめながら>走る時、わたしたちは信仰の競争を走り抜くことができるのです。このイエスのみに注目することが大事なのです。
イエスが、<御自身の前にある喜びを捨て>とは、天にある喜びであり、この世に来られ前に経験され、地上において放棄されたが、将来再び与えられるはずの祝福を指しています。それがイエスをして<恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍>ばせたのです。この喜び、祝福は<神の玉座の右に>座るここと関係しています。イエスの十字架も厭(いと)わない地上の歩み、死よりの復活と昇天、そして全能の父なる神の右に座られたことが、イエスを信じる信仰者の励ましの根拠なのです。
わたしたちが<なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上ヘ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです>(コロサイ3・13、14)。