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富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「信仰の完成者イエスを仰ぎ見つつ走ろう」ヘブライ人への手紙11章32~12章2節

2015-10-17 20:44:19 | 説教

       ↑ 「忍耐強く走り抜こう」ヘブライ人への手紙12章1-2節

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

    日本キリスト教 富 谷 教 会

      週    報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)

       聖霊降臨節第22主日  2015年10月18日(日)      5時~5時50分 

          礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21)  78(わが主よ、ここに集い) 

交読詩篇   62(わたしの魂は沈黙して)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書  ヘブライ人への手紙11章32~12章2節(新p.416)

説  教  「信仰の完成者イエスを仰ぎ見つつ走ろう」     辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 528(あなたの道を)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷              

後 奏  

 

                                         次週礼拝 10月25日(日)午後5時~5時50分

                                         聖書  コロサイの信徒への手紙1章15~20節

                                          説教  「御子キリストによる創造と和解」

                                          賛美歌(21)6 281  24 交読詩篇 148

    本日の聖書 ヘブライ人への手紙11章32~12章2節

  11:32これ以上、何を話そう。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、また預言者たちのことを語るなら、時間が足りないでしょう。 33信仰によって、この人たちは国々を征服し、正義を行い、約束されたものを手に入れ、獅子の口をふさぎ、 34燃え盛る火を消し、剣の刃を逃れ、弱かったのに強い者とされ、戦いの勇者となり、敵軍を敗走させました。 35女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました。他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました。 36また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。 37彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、 38荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。世は彼らにふさわしくなかったのです。 39ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。 40神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです。

     12:1こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、 2信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。 

           本日の説教

   <ヘブライ人への手紙>という名称は、後になってから、その内容から察してつけられた名です。この書は、<ヘブライ人>に宛てられた手紙となっています。ヘブライ人とは、ユダヤ人を指す古い呼び名です。この書の終わりの部分にあたる13章22~25節の挨拶が、手紙の形式をとっているので、手紙という名称がつけられていますが、しかし手紙には欠かせない差出人の名や、宛先人を表す言葉はなく、差出人の挨拶もありません。13章22節に、「以上のような勧めの言葉を受け入れてください」とあるので、この手紙の実質は著者によって実際になされたいくつかの説教を、文書の形にまとめたものと思われます。

  この書は、長い間パウロの書簡とされてきましたが、近代の研究では、バルナバやアポロを著者とする説がなされ、著者が誰であるかは明らかではありません。著者は旧約聖書に深い理解をもち、教養の高い、ギリシア語を用いる外国に住むユダヤ人であると思われます。著者はテモテを知っており(13・23)、パウロの信仰を継承しています。

   手紙の受信者は、13・24に<イタリア出身の人たちが、あながたによろしく>とあるところから、イタリアのロ―マに宛てられたと推察されます。迫害に際しての忍耐をすすめている点などからローマのキリスト者の集会に宛てて書かれたもの見る見方が有力です。ローマではユダヤ人信徒と異邦人信徒が混在していました。

    執筆年代は、ネロの迫害(64年)の経験が言及されています(10・32~34)。しかも新たな迫害[ドミティアヌ帝(在位81~96年)の迫害]が近づき、再臨の希望が失われ、聖霊の働きもあまり見られないところから、一世紀末が考えられ、80~90年頃と推定されます。執筆のの場所としては、エフェソあたりが最も可能性が高いとされています。

   執筆の事情については、次のようなことが考えられます。宛先の教会の人たちが、信仰に入った初めの頃は<苦しい大きな戦いによく耐えた>(10・32)のですが、その後の信仰生活の中で、彼らの中には、集会から離れ(10・25)、異なった教えに迷わされ(13・9)、みだらな生活に陥る(13・4)者たちも出たので、このような危機的な状況を知った、かつてこの集会の指導者であった著者が、新たな迫害に備えて、この勧告の手紙を書き送ったと見られます。

   <ヘブライ人への手紙>は、旧約聖書の引用が多く、特殊なキリスト論が展開されています。

  キリストは神の子であって預言者、モーセ、天使以上の方であり、また創造に際してはその仲介者であられ、世界の支配者であられる。神の子であられたが、キリストは人間と等しくなられ、現実に人々の弱さを自らのものとされました。彼は神の子として最初から父なる神と共にいまし、時至って地上に来られ、歴史の中に生き、死後再び天に戻られた。キリストは人間の救いのために立てられた大祭司であって、その働きは地上から天の領域にまで連なっており、その死によって人々が天の聖所に至る道を開かれた。現在彼は天にあって、人々のためにとりなしておられる。

   このキリスト論は救済論と密接に結びついています。神の子キリスト論は、2・5~3・6においては、子らの救いのテーマへと変わっており、4・14以下の大祭司キリスト論も最後には信仰者の救いの問題に移り、完全な者となられたキリストが信仰者にとって永遠の救いの源であるとされる(5・9)。キリストが新約の大祭司として天の至聖所に入り、自らを犠牲として献げられたことにより、われわれの罪がきよめられ、永遠の救いが完成したのです(7・27、9・12、14、28、10・12)。

   この手紙の終末論の性格は、迫害の中にあって苦しみつつあるキリスト者の信仰を励まし、強化するという手紙の著作の目的と密接に結びついています。キリストの再臨の待望(9・28)、天のエルサレムを目標としての前進(12・22~24)、来るべき都の探求(13・14)などについて、著者は情熱をこめて語ります。しかし同時に終末の時がすでにキリストと共に始まっているという、現在的終末論も見られます。

  それでは今日の聖書の箇所の御言葉に耳を傾けましょう。

  11章1節以下は、信仰生活を全うした旧約聖書の人物を列記して、その模範に倣うように勧めます。信仰の歴史を教えて、いっそうの励ましを与えるのです。

   11章30節以下では、イスラエルのカナン征服における二つの信仰的事件を述べます。32節からは、さらに士師、預言者たちの名を列記し、彼らの信仰のことが述べらます。

  <ギデオン、バラク、サムソン、エフタ>は、いずれも士師記に記されている士師たちです。<ダビデ>はイスラエルの代表的な王、<サムエル>は預言者の代表として挙げられています。

   33節の<信仰によって、この人たちは国々を征服し>た人々について、ヨシュアやダビデのような人を思い起させます。<正義を行い>は、イスラエルを治めることを意味し、ダビデやソロモンのような王のことでしょう、<獅子の口をふさぎ>とは、ダビデ(サムエル記上17・34以下)とダニエル(ダニエル書6・22)の例を指しています。

    34節の<燃え盛る火を消し>とは、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの出来事(ダニエル書3.25)を指しています。<剣の刃を逃れ>は、モーセ、ダビデ、エリヤ、エリシャのいずれの場合にも当てはまる経験です

   <弱かったのに強い者とされ>というのは、盲目にされたサムソンが最後の力を得て復讐したことを指します(士師記15・19、16・28)。<戦いの勇者となり>は、ゴリアトと戦ったダビデ(サムエル記上17章)を思わせます。

    <敵軍を敗走させました>は、ヒゼキヤが信仰によって、セナケリブとその軍隊を敗退させた(列王記下19・20~37)ことを指しているようです。

   35節の<女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました>は、エリヤにその子の命を生き返らせてもらったサレプタのやもめ(列王上17・22)や、エリシャに子生き返らせてもらったシュネムの女(列王下4・34)のことと関連しています。<他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために>は、預言者たちによって生き返った者たちも結局は死に至らざるを得なかったのに対して、<拷問にかけられ>た信仰の英雄たちは、死そのものの克服としての復活を確信して忍耐したことが強調されています。

   36節の<他の人たちはあざけられ>とは、預言者ミカヤ(列王上22・24)や、エレミヤ(エレミヤ記20・2)たちの屈辱的な経験を、<鞭打たれ>とは、苦難の僕の預言(イザヤ書50・6)を暗示します。<鎖につながれ、投獄される>は預言者エレミヤの運命を思わせます。

   37節の<石で打ち殺され>たのは、祭司ヨヤダの子ゼカルヤであり(歴代誌下24・20以下)、ある黙示文学(「イザヤの昇天」)によればイザヤは木製の<のこぎりで引かれ>ました。<剣で切り殺され>たのは、エリヤの時代のイスラエルの預言者たちであり(列王記上19・10)、預言者ウリヤ(エレミヤ記26・23)でした。<羊の皮や山羊の皮を着て放浪し>たのは、エリヤ、エリシャにあてはまります(列王記上18~19章)。

   38節の<世は彼らにふさわしくなかったのです>というのは、彼らは天国にふさわしい人々であって、世間の人々は彼らをそねみ憎みました。この世は神の国の民の永久の住居に値いしないのです。

  39節、40節は、11章全体の結論を述べています。<約束されたもの>とは、神がご自身を信じる人々に約束された最後的な救いであって、キリストの到来によって初めて明らかに示されました。40節の<更にまさったもの>とはキリストによってしめされた新しい約束、すなわち神の国です。神は、わたしたちのために、更にまさった神の国を計画してくださったので、わたしたちを除いては、旧約時代の信仰の英雄たちは、<完全な状態>に達しなかった、すなわち全き祝福にあずかることができなかったのです。ここには、旧約の信仰者も新約の信仰者も、忍耐と希望を持ち続け、信仰生活のたたかいに耐え、共に全き祝福にあずかる日を待とうではないか、という勧告です。

   12章の1節の<こういうわけで>とは、11章で信仰生活の模範を述べたが、再び次の勧告にうつるためのつなぎの言葉です。11章で挙げられた信仰の偉人たちは、すべて新約の時代に生きるキリスト者を支え導く人々であり、何よりも神の真実を証言した人々でした。

   <このようにおびただしい証人の群れに囲まれて>は、競技場の観衆にたとえて先輩の信者たちを指しています。旧約の信仰の証人たちのことが示された以上、これを模範としてキリスト者も信仰の馳せ場を走ることが求められています。そこでまず身を軽くするために、<すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨て>なければなりません。<自分に定められている競走>という言い方は、信仰生活を徒競走にたとえたものです。<忍耐強く走り抜こうではありませんか>とあるように、この競争は途中で止めてはならないのであって、最後まで、つまりこの地上の生を終える時まで走り続けることが求められているのです。

  2節では、これまで旧約時代の多くの信仰の英雄の実例を挙げることのよって読者を励ましたが、その究極的な存在としてのイエスを挙げます。<信仰の創始者>という語は、「先導者」という意味があります。この語が<完成者>と対をなしつつイエスの業を説明しています。

   イエスにおいて、わたしたちの信仰が開始し、イエスにおいて信仰が完成するのです。このようなイエスをひたすら<見つめながら>走る時、わたしたちは信仰の競争を走り抜くことができるのです。このイエスのみに注目することが大事なのです。

   イエスが、<御自身の前にある喜びを捨て>とは、天にある喜びであり、この世に来られ前に経験され、地上において放棄されたが、将来再び与えられるはずの祝福を指しています。それがイエスをして<恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍>ばせたのです。この喜び、祝福は<神の玉座の右に>座るここと関係しています。イエスの十字架も厭(いと)わない地上の歩み、死よりの復活と昇天、そして全能の父なる神の右に座られたことが、イエスを信じる信仰者の励ましの根拠なのです。

   わたしたちが<なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上ヘ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです>(コロサイ3・13、14)。

 

 

 

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「キリストの日に備えて」フィリピの信徒への手紙1章1~11節

2015-10-11 20:39:45 | 説教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

                   日本キリスト教 富 谷 教 会

          週    報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)

   聖霊降臨節第21主日  2015年10月11日(日) 5時~5時50分 

          礼 拝 順 序

               司会 永井 慎一兄

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21)  56(主よ、いのちのパンをさき) 

交読詩篇   84(万軍の主よ、あなたのいますところは)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書  フィリピの信徒への手紙1章1~11節(新p.361)

説  教    「キリストの日に備えて」   辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 361(この世はみな)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷              

後 奏  

                                                                                   次週礼拝 10月18日(日)午後5時~5時50分

                                                                                        聖書  ヘブライ人への手紙11章32~12章2節

                                                                                        説教   「天国に市民権を持つ者」

                                                                                       賛美歌(21)78 528  24 交読詩編62篇

本日の聖書 フィリピの信徒への手紙1章1~11節

  1キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから、フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たちへ。 2わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。3わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、4あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。5それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。6あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。7わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。8わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。9わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、10本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、11イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。

                         本日の説教

   本年7月19日の礼拝でも、「フィリピの信徒への手紙」を取り上げました。そのときは、4章1~3節を扱い、説教題は「女性の働き」でした。

    フィリピは、現在はギリシャ共和国の北東部、東マケドニア地方にある、フィリッポイという町(Filippoi)です。北はすぐブルガリア共和国との国境です。

   パウロが初めて、アジアから、エーゲ海を渡って、ヨーロッパに入り、最初に伝道した地がフィリピでした。フィリピは、当時マケドニア東部の都会で、東西交通の要所でした。

    パウロから福音を聞いて最初に洗礼を受けたのは、リディアという紫布を商う婦人とその家族でした。彼女が洗礼を受けたガギタス川は、現在も清流が流れ、そのほとりには教会が建っています。また、彼女の家で集会がもたれ、教会に成長しました。彼女が住んでいた土地はリディア村と呼ばれ、現在もフィリピの遺跡の西にリディア(Lydia)と呼ばれる町になっています。次に信徒となったのは、看守とその家族でした。(使徒言行録16・11~34)

    このようないきさつで使徒パウロから福音を伝えられたフィリピの教会は、以後、使徒とのきわめて親密な関係を保ちました。折にふれてパウロの宣教活動を援助していたフィリピの教会は、事情があって、一時援助を中断していました。

   しかし、もののやり取りの関係(4・15)が再開し、信徒たちはエパフロディトを代表に立て、贈り物を持たせて、パウロのもとに派遣しました。彼はしばらくパウロのとにとどまって奉仕していましたが、病をえて、フィリピに送り戻されることになりました。この機会に、贈物への感謝を表し、さらに自分の現在の生活と心境とを告げて、彼らに主にある信仰の一致を守り、互いに励んで困難に打ち勝ち、勝利の喜びに生きるように勧める手紙をエパフロディトに持たせました。これがフィリピの信徒への手紙です。

    フィリピ書は、4章からなる小さい手紙ですが、その中に、キリスト賛歌(2・6~11)や、自伝的要素を含んだキリスト信仰の奥義(3・4~14)を伝えています。

  それでは、今日の聖書の箇所の御言葉に耳を傾けましょう。

  「キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから、フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たちへ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの 恵みと平和が、あなたがたにあるように。(1・1,2節) 

     この手紙の執筆者はパウロ独りですが、若い弟子にして同労者であるテモテの名も、差し出し人として挙げています。テモテはフィリピ教会の設立に参加しました。手紙の宛先のフィリピの教会の信徒たちを、<キリスト・イエスに結ばれている聖なる者たち>と記しています。<聖なる者たち>とは、聖人という意味ではなく、キリストの血によって潔められ、神の御用をはたすために選びわかたれた者たちという意味です。フィリピの教会の信徒は、決してすべてが模範的な信仰生活を送っていたわけではありませんでした。しかしそれにもかかわらず、彼らはキリストに結ばれているゆえに、キリストの恵みによって新しい命を与えられていうゆえに、<聖なる者たち>と呼ばれているのです。

   手紙の受け取り人として、<監督たちと奉仕者たち>へとありますが、教会の指導者として実務的な仕事と指導に当たった人々を指すと考えられ、後代に確立された監督の職制をあらわす言葉ではありません。

     <わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和>を信徒たちの上に祈り求めています。その<恵みと平和>がなくては、キリスト者として生きることはできません。

 「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」(1・3~6)

   おそらくパウロは、エフェソの獄中にいると思われますが、いつものようにパウロはまず感謝を神にささげます。それは祈りの中でささげられた感謝です。そして、<いつも喜びをもって祈っています>と言っています。それは、信徒たちが福音に接した日から現在に至るまで、福音に生かされ、福音にあずかっているから感謝しているのです。このことは、フィリピの信徒たちが、キリストの福音にふさわしい生活を送り、福音宣教に協力しながら、キリストのために戦い、苦しむこと、もっと具体的には、<寄付>なども指しています(1・27-30、4・15などを参照)。この事実が<善い業>と呼ばれています<キリスト・イエスの日まで>とは、終末時における主の再臨の日を指します。パウロはその善い業を始められた神が、再臨の日までに、その業を完成させてくださることを確信しています。

     「わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。」(1・7)

  パウロは自分一人だけが福音に生かされ、福音を伝えているとは考えません。<監禁されているときも>、<法廷に出頭を命じられて、福音を弁明し立証するときも>、つねにフィリピの信徒一同のことを、自分の受けた恵み、すなわち、福音に生き、福音を伝える<恵み>に<共にあずかる者>とみなしているのです。

  「わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。」(1・8)

    パウロは、フィリピの信徒たちへ愛が、単なる人情ではないことを示すため、<キリスト・イエスの愛の心で>というただし書きを加えています。信徒たちに対してパウロが抱いている熱烈な愛情を伝えているのです。

  「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。」(1・9~11)

     パウロは信徒たちのために祈りをささげます。まず祈り求められるのは、<愛がますます豊かになる>ことです。キリストにおいて具体化した神の愛に生かされるキリスト者は、自らも愛に生きることを可能とされ、かつそのように生きることを求められます。彼らの全生活が愛によって貫かれるように、キリストの愛に生かされた者にふさわしく、彼らが生きるようにとの祈りです。

  しかし、パウロは単に愛が豊かになるようにとは祈っていません。愛が<知る力と見抜く力とを身に着けて>豊かになるように祈っています。これは神の意志を知り、その神の意志に従う生き方にかなう愛が豊かになるようにと祈っているのです。

   <本当に重要なことが見分けられるように>とは、キリスト者が個々の場面で、何が神の意志に即した行動であるかを、愛にもとづいて、絶えず吟味して生きることが可能となるようにという祈りです。パウロは<愛を豊かにしなさい>と、倫理的な命令として語ってはいません。キリスト者がキリストの愛に徹底的に貫かれて生ることは、最終的にはやはり神の恵み、聖霊の実としての出来事にほかならないからです。

    そして、<キリストの日>、つまりキリストの再臨とともに行われる裁きの日に備えて、信徒たちが<清い者>となり、<とがめられることのない者>とならなければなりません。

      <イエス・キリストによって与えられる義>とは、<律法による自分の義ではありません。それは<キリストへの信仰による義>です。キリストの出来事によって、神が信仰にもとずいて人間に賜物として与える義を意味します。それゆえ義の実は聖霊の実を指します。従って、ここではパウロは、恵みにより、イエス・キリストの出来事のゆえに神に義とされた者は、それに応えて種々の実を豊かに結ぶようにとフィリピの教会の人々に勧めている、ということになります。<清い者、とがめられるところのない者>となることも、この実の一端であるにすぎません。

  <神の栄光と誉れとをたたえることができるように>は、祈りをしめくくる賛美の定型句です。これによって、パウロは、フィリピの人々が」<義の実に満たされることにより、父なる神が栄光を受け、ほめたたえられるようにという願いをあらわしています。そしてこれは、<義の実>はフィリピの教会の人々が自力で結ぶものではなく、神の賜物としての聖霊の実であるゆえ、栄光と誉れは、神にこそささげられるべきである、という指示でもあります。神に栄光を帰し、神をほめたたえることは、自らの栄光を求め、自らを賛美しようとする人間本来の欲求とは厳しく対立します。信徒も、この世にある限り、この欲求から完全に自由ではありえません。キリストの日に、信徒が神に栄光を帰し、神をほめたたえることは、自己中心的な思いや自己本位の行動が、神の恵みによって完全に打ち破られ、神の完全な支配の下に彼らが置かれることをことを指し示しています。

     キリストの日に備えて、わたしたちも、キリストによって与えられる義の実をあふれるほど受けて、聖霊の賜物を満たされ、<清い者、とがめられるところのない者>とされ、父なる神の栄光と主イエスのキリストの恵みをほめたたえる者となることを、切に祈り求めたいと思います。

 

 

 

 

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「奴隷をも愛する兄弟とする福音」フィレモンへの手紙1~25節

2015-10-04 20:39:17 | 説教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

日本キリスト教 富 谷 教 会

      週    報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)

 聖霊降臨節第20主日  2015年10月4日(日)  5時~5時50分 

          礼 拝 順 序

前 奏           奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21)  78(わが主よ、ここに集い) 

交読詩篇   82(神は神聖な会議の中に立ち)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、

聖 書   フィレモンへの手紙1~25節(新p.399)

説  教  「奴隷をも愛する兄弟とする福音」  辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 449(千歳の岩よ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷              

後 奏  

                                                                      次週礼拝 10月11日(日)午後5時~5時50分。  

                                                                      聖書  フィリピの信徒への手紙1章1~11節

                                                                      説教   「審(さば)きの日」

                                                                      賛美歌(21)56 361 24  交読詩編 84篇

   本日の聖書 フィレモンへの手紙1~25節  
  1 キリスト・イエスの囚人パウロと兄弟テモテから、わたしたちの愛する協力者フィレモン、2 姉妹アフィア、わたしたちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ。3 わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。

  4 わたしは、祈りの度に、あなたのことを思い起こして、いつもわたしの神に感謝しています。5 というのは、主イエスに対するあなたの信仰と、聖なる者たち一同に対するあなたの愛とについて聞いているからです。6 わたしたちの間でキリストのためになされているすべての善いことを、あなたが知り、あなたの信仰の交わりが活発になるようにと祈っています。7 兄弟よ、わたしはあなたの愛から大きな喜びと慰めを得ました。聖なる者たちの心があなたのお陰で元気づけられたからです。
  8 それで、わたしは、あなたのなすべきことを、キリストの名によって遠慮なく命じてもよいのですが、9 むしろ愛に訴えてお願いします、年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、このパウロが。10 監禁中にもうけたわたしの子オネシモのことで、頼みがあるのです。11 彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています。12 わたしの心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します。

  13 本当は、わたしのもとに引き止めて、福音のゆえに監禁されている間、あなたの代わりに仕えてもらってもよいと思ったのですが、14 あなたの承諾なしには何もしたくありません。それは、あなたのせっかくの善い行いが、強いられたかたちでなく、自発的になされるようにと思うからです。15 恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません。16 その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。17 だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください。1

  8彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それはわたしの借りにしておいてください。19 わたしパウロが自筆で書いています。わたしが自分で支払いましょう。あなたがあなた自身を、わたしに負うていることは、よいとしましょう。20 そうです。兄弟よ、主によて、あなたから喜ばせてもらいたい。キリストによって、わたしの心を元気づけてください。21 あなたが聞き入れてくれると信じて、この手紙を書いています。わたしが言う以上のことさえもしてくれるでしょう。22 ついでに、わたしのため宿泊の用意を頼みます。あなたがたの祈りによって、そちらに行かせていただけるように希望しているからです。

  23 キリスト・イエスのゆえにわたしと共に捕らわれている、エパフラスがよろしくと言っています。24 わたしの協力者たち、マルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからもよろしくとのことです。25 主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように。

       本日の説教

   この手紙は、パウロがフィレモンという個人に宛てて書いたものです。パウロの書いた手紙の中で、わずか25節からなる最も短い手紙です。フィレモンに宛てて書いた手紙ですが、フィレモンの家にある教会の人たちにも公開される手紙になっています。この手紙は、奴隷制度という歴史的な環境の中で、キリスト者がどのように「愛」(アガぺー)を実践していくべきかということを、教会にもかかわる問題として記しています。

  手紙の本文が明らかにしているように、パウロは獄中にいます。監禁の場としては、ローマ、カイサリア、エフェソなどが考えられますが、そのうちで、可能性が高いのは、エフェソです。それはパウロのいる所と、フィレモンのいる所との距離が、それほど遠くないと思われるからです。フィレモンの家の教会はおそらくコロサイか、その近くの地域と思われています。「コロサイの信徒への手紙」にフィレモンの家の教会のアルキポとオネシモの名前がしるされているからです。(コロサイ書4・9、17)。

   奴隷であったオネシモは、フィレモンのもとから逃亡し、使徒パウロのところに向かい、そこで助けを求めたのです。そしてオネシモはパウロによって入信し、キリスト者となり、パウロの身のまわりの世話をしるようになりました。

  当時の社会は、奴隷制度を容認していたので、見つかった逃亡奴隷を主人のもとに送還することが義務づけられていました。パウロはオネシモを身近に置き続けることはできませんでした。そこでパウロは、オネシモを彼の主人のフィレモンのところに帰るように説得したのです。しかしパウロは、彼を主人フィレモンのもとに送り返すことに不安がありました。フィレモンがはたして福音の教えである「愛」の行動をオネシモにするか否かが疑問でした。そこで、オネシモの送還に当たって、パウロはフィレモンに書き送ったこの手紙は、オネシモを歓迎するよう主人を説得し、オネシモを<愛する兄弟>として迎えて、愛を実践するように訴えたのです。執筆年代は、紀元53~55年頃と思われます。

  1節には、手紙の受取人として、フィレモンの他に、<姉妹アフィア>と<戦友アルキポ>の名が記されていま。<アフィア>はフィレモンの妻であり、<アルキポ>は彼の息子ではないかとも思われています。フィレモンの家は、信徒が集まる家の教会でした。

  挨拶のあと、パウロは、キリスト者としてのフィレモンを称賛し、自分とオネシモとの関係、さらには自分とフィレモンとの関係に言及し、まず受け入れ態勢をととのえさせるよう言葉を尽くしてから、8節以下の本題に入り、オネシモの受け入れを主人フィレモンに願うのです。

 パウロは、福音のためにオネシモを信徒にすることに成功しました。そしてパウロは、オネシモの主人であるフィレモンに対して、この若きキリスト教徒の弁護をするのです。パウロの目的は、かつての逃亡者であり、そして今や帰る者となっているオネシモが、フィレモンと彼の教会で赦しを得、さらにキリストにある兄弟として認められるようにすることでした。そのことのために、パウロはまずオネシモに関する彼自身の願い、自分のところに引き止め置いて、仕えてもらいたいという希望を撤回し、さらにフィレモンが、その男の逃亡と盗み(?)によって被った経済的な損失を、補うつもりであると言っています。そのかわりにパウロは、フィレモンと彼のまわりに集まっている家の 教会の者たちに対して、苦痛に満ち失望をもたらした過去の経験にとどまることなく、オネシモに起こった変化を認め、主にある兄弟として迎え、キリストの愛に生きる者として、新しい関係で出発をして欲しいと、彼らに期待するのです。このことは実際には、フィレモンと彼の家の教会の者たちが、少なくともオネシモと今後信仰と希望と喜びを分かち合うように、さらに彼を主の晩餐を守っている者の群れの中に同等の権利を持った者として受け入れ、同時に彼を自分たちの同労者として新たに尊敬するようにと、パウロによって要請されていることを意味しています。

  パウロは同時に、オネシモがパウロ自身の伝道活動において奉仕するために開放されることが大いに望ましいということをも示唆しています。しかしパウロは、フィレモンがオネシモを現実に開放するか、それとも彼を引き続き彼の家で労働者として働かせるか否かについては、フィレモンの自由な決断にまかせています。そして使徒はそのどちらをも尊重することにしているのです。パウロはフィレモンに対して、フィレモンが彼自身正しいと思う仕方でオネシモに対応するようにと、自由を与えています。<善い行いが、強いられたかたちではなく、自発的になされるように(14)>という言葉に、そのことが表現されています。

  ただフィレモンが守ってもらいたいことは、神の意志としての愛が彼の行為の基準とならなければならないという要請です。オネシモを<愛する兄弟>として受け入れて欲しいという言葉のそのことを表現しています。

  コロサイ人への手紙4・7~9によると、フィレモンはオネシモを赦し、それによってパウロの主要な願いにこころよく応じたのみならず、さらにそれ以上のことをなしたことが読み取れます。彼はオネシモをパウロと伝道の奉仕のために開放しました。そしてオネシモはパウロの使者にふさわしい活動をしました。オネシモは後にエフェソの監督に登用されたと推定されています(アンティオキアの第2代教イグナティオス(35年頃 ~107年?)のエペソ人への手紙に記されている)。

  奴隷制度の時代にあって、パウロは、奴隷であったオネシモを、<わたしの子オネシモ>、<わたしの心であるオネシモ>と呼び、「一人の人間としても、主を信じる者としても、<愛する兄弟>であるはずです(16)」と語っています。さらに、オネシモを<わたしと思って>迎え入れてくださいとあるように、兄弟フィレモンに、パウロ自身と思って奴隷を歓迎するよう主人に命じています。

  偉大な使徒がひとりのただの奴隷にためにいかに力を尽くしているか、そしてその奴隷の解放ではなく、むしろ彼を再び受け入れ赦すように迫っていることは驚くべきことです。このように<愛する兄弟>としてオネシモと接することは、実質的には差別を解消させています。この短い手紙は福音がいかに社会制度に対して大きな影響を及ぼす力を持っていたかを示しています。

  キリストの福音はこのように、人と人との関係を新しくします。人間の社会に存在する身分や、様々な違いによって生じる壁を乗り越えさせ、様々な違いを持った人と人とを、共にキリストに結ばれた愛する兄弟姉妹とする力をイエス・キリストの福音は持っています。この手紙は、そのことを教える手紙でもあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「分け隔てをしない真実の愛」ヤコブへの手紙2章1~9節 

2015-09-27 12:35:00 | 説教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

           日本キリスト教 富 谷 教 会

      週    報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)

    聖霊降臨節第19主日  2015年9月27日(日)    5時~5時50分 

          礼 拝 順 序

前 奏           奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 219(夕日落ちて) 

交読詩篇   73(神はイスラエルに対して)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、

聖 書   ヤコブへの手紙2章1~9節(新p.422)

説  教    「分け隔てをしない真実の愛」   辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 483(わが主イエスよ、ひたすら)

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷              

後 奏  

                        次週礼拝 10月4日(日)午後5時~5時50分。  

                        聖書  フィレモンへの手紙1-25節

                        説教   「弱者をいたわる」

                        賛美歌(21)78 449 24  交読詩編 82篇

  本日の聖書 ヤコブへの手紙2章1~9節

  1わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。 2あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。 3その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、 4あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。 5わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。 6だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた。富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。 7また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒涜しているではないですか。 8もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。 9しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。

          本日の説教

  ヤコブの手紙の著者は、「神とイエス・キリストの僕であるヤコブ」(1:1)とありますが、使徒的権威のあるイエスの弟ヤコブ(パウロの殉教の数年後、紀元62年にエルサレムで殉教)とする説があります。しかし手紙で用いられている流暢なギリシャ語やその内容から、イエの弟ヤコブの名を借りた手紙とするのが最近の有力な学説です。著者はその思想内容(イエスの山上の説教と関連する)からみてユダヤ人キリスト者と思われています。

  宛先は<離散している十二部族の人たち>(1:1)と記されていますが、ユダヤ民族をさす<十二部族>という伝統的な呼称を用いてキリスト者一般に送られたものと考えられています。

  この手紙の中では、イエス・キリストの名は二回しか用いられておらず(1:1と2:1)、キリストの信仰との関係の薄いユダヤ教的色彩の濃厚な実践的教訓や宗教的格言で満たされています。執筆場所は不明です。

  パウロの信仰義認が、無律法的な信仰になっていることを戒めていることから、この手紙はパウロの死後(パウロは紀元60年頃ローマで殉教)、紀元100年頃(二世紀の初め)に書かれたと推定されてます。

  ヤコブ書では、<行い>が強調されています。<行いのない信仰は人を救うことができない>(2:14)という主張がなされています。神がアブラハムを義とされたのは、アブラハムの信仰が行いによって完成されたからであると大胆に主張しています(2:22)。<人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません>(2:24)というヤコブの主張は、<人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる>(ガラテヤ書2:16)と述べるパウロに反対の立場にあるように見えます。

  パウロは、「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による」(ローマ3:28)と教えています。<なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」(ローマーマ3:20、ガラテヤ2:16)とあります。パウロは、次のようにも語っています。「不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。」(ローマ4:7)神は、<信心深い者>、すなわち、神の前に立派行いをしていると自負している者ではなく、<不信心な者>、すなわち、自分の行いなど不完全で、神に喜ばれる生活などできない、と思っている者を、義としてくださり、受け入れてくださり、愛してくださると信じる人を、義として救ってくださると説いています。

  ヤコブ書を書いた著者は、パウロのこの教えに反対しているのではありません。救われた者の生活における行いの重要性について述べているのです。パウロの教えを誤解した人たちが、救われた者にふさわしい生活をしないで、信仰者としての生活を軽視し、聖くない生活をしながら、自らをキリスト者として誇っていたので、ヤコブはそれを戒めるために、信仰者としてふさわしい行いをするように教えたのです。人間に救いをもたらす信仰は、愛によっていきいきとしたものとされ、その愛によって必ずよい行いを伴うということを説いているのです。主イエスも、山上の説教の終わりで、「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」と語り、「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」(マタイ7:21、26)と言われています。使徒パウロも、「悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行いをするように」(使徒言行録26:20)とすべての人に伝えました。

  今日の聖書の箇所について学びましょう。

 「わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。」(2・1)

  この1節の文は、直訳すると「人の分け隔ての中で、わたしたちの栄光の主イエス・キリストの信仰をもつことがないように」となります。<人を分け隔て>するとは、えこひいきすることです。神は人をえこひきなさいません。「あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべく神、人を偏り見ず…」(申命記10・17)とあります。神はえこひいきなさらないのであるから、キリスト者もまた他人に対して、そうであらねばなりません。

  これは、わたしたちのキリストを信じる信仰は、それにふさわしい行動を伴わない場合は空しいものであるというヤコブ書の中心的な主張そのものであり、それを次の2~4節で、教会の中での人の分け隔て扱いという実際的な場面で具体的に説明することになります。

   「あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、『あなたは、こちらの席にお掛けください』と言い、貧しい人には、『あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい』と言うなら、あながたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。

   <あなたがたの集まりに>の「集まり」には《シュナゴゲー》という語が用いられています。これは本来ユダヤ教の会堂を表す語ですが、ここではキリスト教の教会を指しているのです。ヤコブにとっては、会堂も教会も共に礼拝のために人々が集まることが基本であると考えられたから、この語が用いられたものと思われます。

  <金の指輪をはめた立派な身なりの人>とは、パレスチナでよく見られた金持ちを指しています。しかしここでは必ずしもユダヤ人に限られず、むしろ異邦人の可能性の方が強いようです。ともかくもそのような人々が教会の集会に訪れた際の迎え方が問題とされています。これとは対照的に<汚らしい服装の貧しい人>も来ます。紀元一世紀後半頃のシリアや小アジアのキリスト教会のメンバーは、大体貧しい人が多かったのです。このような二種類の人々を迎える教会員の態度が示されます。

    最初の<立派な身なりの人>にたいする教会の態度は、確かに相手を丁重に扱い、尊重しているようですが、実際はその身なり によってそのような姿勢を示しているに過ぎません。次に<貧しい人たち>への態度ですが、相手を粗末に扱い、見下しています。このような差別は人間の利己的判断に基ずくものであり、この世の基準によったもので、教会的判断とは到底言えないものです。<誤った考えに基づいて判断を下>すとは、教会が教会であるための最後のよりどころである、キリストの福音に対する信仰告白を放棄してしまっていることになります。

  「わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた。富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒涜しているではないですか。」(2:5~7)

   <世の貧しい人たち>とは、物質的窮乏のゆえに様々な不利益を被っている人たちを指しています。たしかに彼らは社会的には不遇ですが、しかしそのことは信仰の面からは何らマイナスではなく、むしろ神によって選ばれ、<信仰に富>む者とされ、神を<愛する者に約束された国を、受け継ぐ者と>されたのです。貧しさそのものが称賛されているのではありません。ヤコブが貧しい人たちへの約束を語るのは、その貧しさに信仰が加わり、神への愛が伴われていることが条件になっています。

 だが、あなたがた(教会)は<貧しい人>に対して不当な態度を示したことを想定してこれを非難しています。このような態度は、ちょうど<富んでいる者たち>が貧しいキリスト者を告発し、<裁判所へ引っ張って行く>のと全く同じことだと、ヤコブは主張します。自分たちと同じ貧しい人に対しては、その人の側に立って援助しなければならないのに、これをはずかしめることによって自分たちを富んでいる者たちの立場においてしまったのです。

  <あなたがたに与えられたあの尊い名>とは、キリストの名のことです。貧しい者をはずかしめ、虐げることはとりもなおさずイエス・キリストの名を汚すことになります。<彼らこそ>は、直接には<富んでいる者たち>を指すが、あなたがたも同じ立場にあると言っているのです。

   「もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。」(2・8~9)

   <隣人を自分のように愛しなさい>という隣人愛の戒めが引用されます。この句はレビ記19・18によるもので、イエスもこの句を引用して、福音による律法として新しく生かしています(マタイ22・39)。ヤコブの場合は、旧約の忠実な継承者のようですが、この句を<最も尊い律法>と呼んでいます。この律法を実行しているなろよろしいいが、もし、この<尊い律法>に従わず、<人を分け隔てするなら>、<罪を犯すこと>であり、その結果<律法の違反者と断定され>るのです。

  神は、独り子を世にお遣わしになりました。この方によってわたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたしの内に示されました。イエスはわたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。イエス・キリストが十字架に架かられたのは、すべての人のためです。神にはえこひいきはありません。この混じりけのない愛を知った時、私たちは真実の愛が分かりました。

  「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。こうして、愛がわたしたちの内に全うされるのです」(ヨハネの手紙一、4・16)とあります。神様に愛されて、初めて愛を知った。その愛の神様のうちに留まることで、私たちのうちに愛が完全なものとなるのです。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。「これが、神から受けた掟です」とヨハネの手紙は勧めています。

   使徒パウロは、コリントへの手紙一の13章で、真実の愛について教えた後で、「愛を追い求めなさい」(14・1)と勧めています。神の霊的賜物としての愛を祈り求めなさいと勧めているのです。分け隔てのない愛に富む者に、日毎に造り替えていただきましょう。愛がなければ、たといどのような強い信仰があろうとも、また、全財産を貧しい人々に施そうと無に等しいのです。

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「富にではなく、神に望みを置くように」 

2015-09-20 02:30:10 | 説教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

     日本キリスト教 富 谷 教 会

      週    報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)

      聖霊降臨節第18主日  2015年9月20日(日)    5時~5時50分 

          礼 拝 順 序

                                      司会 永井 慎一兄

前 奏           奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 521(とらえたまえ、われらを) 

交読詩篇   19(天は神の栄光を物語り)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、

聖 書 テモテへの手紙一、6章1~12節(新p.389)

説  教  「富にではなく、神に望みを置くように」   辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 530(主よ、みこころ)

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷              

後 奏  

                    次週礼拝 9月27日(日)午後5時~5時50分。  

                     聖書  ヤコブへの手紙2章1-9節

                     説教  「金持ちと貧者」

                     賛美歌(21)  545 24

                     交読詩編  73 

   本日の聖書 テモテへの手紙一、6章1~12節

 1軛の下にある奴隷の身分の人は皆、自分の主人を十分尊敬すべきものと考えなければなりません。それは、神の御名とわたしたちの教えが冒涜されないようにするためです。 2主人が信者である場合は、自分の信仰上の兄弟であるからといって軽んぜず、むしろ、いっそう熱心に仕えるべきです。その奉仕から益を受ける主人は信者であり、神に愛されている者だからです。これらのことを教え、勧めなさい。 3異なる教えを説き、わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉にも、信心に基づく教えにも従わない者がいれば、 4その者は高慢で、何も分からず、議論や口論に病みつきになっています。そこから、ねたみ、争い、中傷、邪推、 5絶え間ない言い争いが生じるのです。これらは、精神が腐り、真理に背を向け、信心を利得の道と考える者の間で起こるものです。 6もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。 7なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。 8食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。 9金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。 10金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。 06:11しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。 06:12信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。

        本日の説教

    テモテへの手紙は、使徒パウロがテモテへ宛てて書いた手紙ですが、パウロとテモテの関係は、パウロがローマ帝国のガラテヤ州リカオニア地方の植民地リストラに最初の伝道旅行(紀元48年頃)を行ったときにはじまりました(使徒言行録14・8~23)。パウロがリストラを再訪問した第二伝道旅行(49年頃)のときには、信者のユダヤ婦人の子で、ギリシア人を父に持つ、テモテという弟子がいました。彼は、リストラやイコニオンのキリスト教信者たちの間で評判の良い人でした(使16・1~3)。

 

   テモテの母エウニケと祖母ロイスは、パウロの導きで回心した敬虔なユダヤ人キリスト者でした(テモテ二、1・5)。テモテは割礼を受けていなかったが、幼い日からヘブライ語聖書を良く学んでいました(テモテ二、3・15)。パウロはテモテを自分の伝道旅行の同行者に選び、連れていくことにしました。パウロはその地方に住むユダヤ人を配慮して彼に割礼を授けました。テモテとパウロは、伝道のためにヨーロッパの土を踏んだ最初のキリスト者でした(使16・9)。

 

   テモテはパウロの同行者として使徒言行録にはしばしば現れます。また、パウロの手紙の冒頭の挨拶にも、パウロの協力者として名をつらねています(コリント二、フィリピ、コロサイ、テサロニケ一、二、フィレモン)。テモテは<信仰によるまことの子>(テモテ一、1・2)、また<愛する子で、主において忠実な者>(コリント一、4・17)と言われているように、パウロの大事な同労者です。テモテは宣教と指導の務めを託されてパウロのもとから諸教会に派遣されています(テサロニケへ[テサロニケ一、3・2]、フィリピへ[フィリピ2・19~24]、コリントへ[コリント一、4・16~17])。パウロとテモテは二年以上もエフェソで働きを共にし、パウロは、将来、テモテをエフェソの教会の主任牧師にしようと考えていました。

 

  テモテの手紙一によると、パウロとテモテはエフェソで一緒に活動していましたが、パウロはやがてマケドニアに向けて出発し、テモテは異端から教会を守るためにエフェソに留まりました(1・3)。エフェソでは、内部の者たちが問題を起こしていました。教会は、按手した長老たちにより誤った道に導かれていました(テモテ一、3・2、5・17)。不品行な者たちが公然と教師に任命され、彼らはとくに若い女性たちの、中でもやもめの弱さを食い物にしていたのです(テモテ一、2・9~15、5・3~16)。彼らによる破壊的仕業がテモテへの手紙一の執筆を要する緊急事態でした。パウロはテモテに自分の重大な召命にふさわしく行動すうように勧めたのです

  しかし、このよう状況は、使徒言行録や他のパウロの手紙にも見出すことが出来ません。また、用語、文体、教会制度、などから判断すると、著者をパウロとする伝統的な立場には疑問が残ります。著者は、パウロ以後の教会に必要と思われる牧会上の勧告をパウロの名によって権威づけようとしたものと思われます。著作年代は二世紀初めと推定されています。テモテへの手紙一、二と、テトスへの手紙は、「牧会書簡と呼ばれ、牧会上の注意・勧告からなっています。

 

  テモテの手紙一の冒頭でパウロはテモテに偽預言者や偽の教理に騙されないようにと警告します。しかし手紙の大部分は牧師としての行動がどうあるべきなのかについて書かれています。パウロはテモテにどう礼拝すべきなのか(2章)、また教会の為に成熟した指導者達を送り出す為にはどうすればいいかを指導します(3章)。この手紙には個人的な生活習慣、偽教師達についての注意、罪に陥ってしまった教会員や、やもめ、長老や奴隷達に対する教会の責任についての教えが書かれています。手紙全体を通してパウロはテモテに堅く立ち、耐え忍び、召しに従って歩み続けるようにと励まします。

 

 今日の聖書の箇所である6章1節から12節までのパウロの教えを学びましょう。

 

  「軛の下にある奴隷の身分の人は皆、自分の主人を十分尊敬すべきものと考えなければなりません。それは、神の御名とわたしたちの教えが冒涜されないようにするためです。主人が信者である場合は、自分の信仰上の兄弟であるからといって軽んぜず、むしろ、いっそう熱心に仕えるべきです。その奉仕から益を受ける主人は信者であり、神に愛されている者だからです。」(6・1、2a)

 

  初期のキリスト教会の信徒の中で奴隷の占める割合は大きく、パウロの手紙には奴隷に関する勧めがしばしば見られます(エフェソ6・5~、コロサイ3・22~、テトス2・9~)。ここでは主人がキリスト教徒でない場合(1節)とキリスト教徒の場合(2節)について指示が与えられています。<軛の下にある>は、低い身分で、やむを得ず力を奪われた人々の休息のない労働を意味しています。

 

  ここではキリスト教徒の奴隷が考えられています。<主人を十分尊敬すべきものと考え>るとは、模範的な奴隷として主人に服従し、仕えなさいということで、それは教会の外の者たちの間でキリスト教の評判を悪くしないためであると言われています。

 

  2節の奴隷と主人の両方がキリスト教徒である場合には特別な問題が生じます。<軽んじる>は軽蔑するというよりもむしろ相手の立場に対する当然の考慮を怠って振る舞うことです。そいうことのないように、いっそう熱心に仕えるべきであると教えています。なぜなら、その良い奉仕から益を受けるのは信者であり、神に愛されている人だからです。あなたは、これらのことを教え、また勧めなさい。

 

  「これらのことを教え、勧めなさい。異なる教えを説き、わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉にも、信心に基づく教えにも従わない者がいれば、その者は高慢で、何も分からず、議論や口論に病みつきになっています。そこから、ねたみ、争い、中傷、邪推、絶え間ない言い争いが生じるのです。これらは、精神が腐り、真理に背を向け、信心を利得の道と考える者の間で起こるものです。」(6・2b~5)

  <異なることを教え>とは、異端の教えです。もし、だれかが別の教えを選択させようとして、違うように教ようとするならば、彼らはそれにより、<わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉>や、信心に基ずく教えから離れようとしているのです。<信心>は神への畏敬とそれにふさわしい生活態度のことです。イエスの健全な言葉を図々しく拒否する者たちは、高慢になって何も見えず、自ぼれで得意満面になっていました。彼らは最高の知識を持つかのように人を欺いていたが、実は何も分からずにいました。自己の教えを主張し、人々にあえて、議論や口論を引き起こすようなことを語ることに病みつきなっています。彼らの道は、「精神の腐っいる人々の間にねたみ、争い、中傷、邪推、言い争いを生じさせます。これらのことは<信心を利得の道と考える者>の間で起こるものです。異端教師は、自分たちの教えを聞く者たちから多額の謝礼を要求していたようです。テモテは「年が若いということで、だれからも軽んじられてはならず(4・11)、これらのことを教え、勧めなければならないのです。

 

  「もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。」(6・6~10)

 

  信心は、<この世と来るべき世で命を約束するので>(4・8)、すべての点で益となり、<満ち足りる>ことの平静さをもたらし、さらに永遠の命を約束するゆえに大いに益があります。<なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。>この言葉はヨブ記1:21や、コヘレト5・15でも用いられており、当時の世界でよく知られていたようです。次の<食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです>も、申命記10・8やイザヤ書3・7で用いられおり、当時生きるための最小限の言葉として知られていたようです。

 

  <金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。>金持ちになりたいという欲望は現代社会に浸透しています。お金さえあれば、人は、幸せになれると思い込んでいる人たちも多いと思います。「無分別で有害なさまざまな欲望」と言われているように、人の欲望は限りないものです。人は、無分別にも、すなわち、愚かにも、いろいろな欲望に支配されてしまうものです。例えば、金銭欲、所有欲、権力欲、名誉欲、また、性的な欲望もあるでしょう。そして、それらに支配されてしまえば、人は「滅亡や破滅に」陥るでしょう。

 

  <金銭の欲は、すべての悪の根です>も当時一般に知られていた諺です。「貪欲は偶像礼拝にほかならない」(コロサイ3・5)とあるように、富に対するあくなき欲望は偶像礼拝です。生ける神に望みを置くのでなく(6・17b)、富に望みを置くからです。これが「金銭の欲は、すべての悪の根」である理由です。金銭欲のゆえに信仰から脱落し、さまざまの精神的苦痛に悩まされた者たちのことを想い起こさせます。

  法外な金銭欲が、ユダにイエスを裏切るように仕向け、アナニアとサフィラに偽りの報告をさせ(使5・1~11)、して愚かな金持ちがすべて安泰であると思い込むようにそそのかしたのです(ルカ12・13~21)。同じような多くのことが社会には絶えることなく起っています。それゆえ金銭欲を捨てなさい、と言っています。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもともできないからである(ルカ12・15)」と主イエスは教えています。

 

  「しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。」(6・11~12)

 

 「神の人」という表現は、<神の人モーセ>(申命記33・1)というようにも用いられました。パウロは、テモテを「神の人」と呼んでいます。教職者としてのテモテを神の僕と意味で用いているものと思われます(テモテ二、3・17に<神に仕える人>とあります>)。あなたは<これらのこと>を避けなさい。<これらのこと>とは、金銭欲だけではなく、これまで警告されたすべてのことを指しています。これらのことを<避けなさい>と命じています。実りのない、つまらない口論を避けなさい。できるだけ、人々を傷つける貪欲で、わけのわからない話をして災いの元をつくる人々との間に距離を置くように、と勧めています。

 

 次に攻撃です。神自身の性質を正確に反映する特質、つまり、正義を追い求めなさい。<正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい>と勧めています。六つの徳目があげていますが、これらは聖霊が結ばせてくださる実です。これらの善をもって、悪に立ち向かい、信仰の戦いを立派に戦い抜きなさい、と勧めます。同時に、パウロは、テモテに<、永遠の命を手に入れなさい。命を得るため、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです>と記しています。<多くの証人の前での信仰の立派な表明をしたのは、洗礼任職式(按手礼)の両方を指しています。このことは多くの証人の面前でなされたテモテの信仰告白を指しています。その召命に忠実でありなさい、とパウロは勧めているのです。

 

  このテモテへの手紙の最後の部分でも、パウロは次のようにテモテに勧告します。

 

「この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのでなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。善を行い、良い行いに富み、物惜しみせず、喜んで分け与えるように。真の命を得るために、未来に備えて自分のために堅固な基礎を築くようにと。」(6・17~19)

 

 

 

 

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