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富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「キリストの降誕」ルカによる福音書2章1~20節

2015-12-19 22:56:11 | 説教

      ↑ オランダの画家アブラハム・ホンディウス(Abraham Hondius/1625–1691)による作品「羊飼いへの告知」。

 

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

  日本キリスト教 富 谷 教 会

      週    報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)

 待降節第4主日(クリスマス礼拝) 2015年12月20日(日) 5時~5時50分 

         礼 拝 順 

前 奏            奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 260(いざ歌え、いざ祝え) 

交読詩篇    2(なにゆえ、国々は騒ぎ立ち)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書  ルカによる福音書2章1~20節(新p.102)

説  教   「キリストの降誕」     辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 268(朝日は昇りて)

聖餐式    78(わが主よ、ここに集い)  

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷              

後 奏 

   愛餐会 礼拝後、別室でクリスマスの愛餐会を開きます。ご参加ください。

         次週礼拝 12月27日(日) 年末礼拝

               午後5時~5時50分

         聖書  マタイによる福音書2章1~12節  

         説教   「東方の学者たち」

                賛美歌(21)260 278 24    

   本日の聖書 ルカによる福音書2章1~20節

  1そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。 2これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。 3人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。 4ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。5身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。 6ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、 7初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

  8その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。 9すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。 10天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。 11今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。 12あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」 13すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。

 14「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」

 15天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。 16そしてて急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。 17その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。 18聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。 19しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。 20羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

  本日の説教

 イエス・キリストが誕生したのは、ローマ帝国の初代の皇帝となったアウグストゥス(B.C.27~A.D.14)の時代です。ローマ帝国は、帝政前の共和政の時代から地中海世界の全域を支配しました。ローマは、B.C.37年にエルサレムを占領し、ヘロデ大王をユダヤの王とし、ユダヤを属領としてシリアに編入しました。

 主イエスはユダヤのヘロデ王(B.C.37~B.C.4年)の時代にユダヤのベツレヘムで生まれました(ルカ1・5、マタイ2・1)。

 皇帝アウグストゥスの治世中には、彼の統治する世界の住民登録はなかったし、キリニウスがシリアの総督だったのは紀元6~7年のことです。キリニウスがユダヤの住民登録を行ったのは紀元7年のことです。ルカ福音書の記す記録は正確ではありません。

 イエスの誕生を、皇帝アウグストゥスの治世の全世界の住民登録と、そしてキリニウスのシリア州の総督だった時として、この政治の世界に取り入れた理由は、イエスはこの現実の歴史の中に生まれたのであり、すべての人のため、全世界のために生まれたということを表現するためであったと思われます。また、皇帝アウグストゥスも住民登録もすべて、神の目的に奉仕するものであることを示しています。

 メシア(救世主)はダビデの出生地であるべツレヘムで生まれると、700年も前からイザヤやミカによって預言されていました。

「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さい者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る(ミカ書5・1、イザヤ11・1~5)。

  そのベツレヘムにヨセフは住民登録をするために上って行きました。「身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するため」でした。マリアが身ごもったのは聖霊によるものであると、すでにルカ1・35に記されています。生まれてくるイエスとヨセフとの間には、直接親子としての血縁関係がありません。しかし、<ダビデの家系の子>であるヨセフがイエスをわが子として受け入れ、その名を親として命名すると、法的な親権者となり、イエスもダビデの子孫となり、<ダビデの子>として生まれることになるのです。

 彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせました。宿屋には彼らの泊まる客室がなかったからです。おそらく、宿屋の付属の横穴の厩(うまや)が仮の宿となり、家畜に餌を与える飼い葉桶が赤子の寝台となりました。イエスはこの世のかたすみで、この世に歓迎されないかのように誕生しました。

 その地方の<羊飼いの野>で、羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていました。ベツレヘムには、<羊飼いの野>という所があります。そこが羊飼いたちが天使から御子キリストの誕生を告げられた所だと言われています。

 天使が近づき、神の栄光が野原にいる彼らの周りを照らしたので、彼らは非常に驚きました。

 天使は、<恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる>、と言いました。<今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった>と言ったのです。

  ベツレヘムはエルサレムから10キロほど南西にある小さな町です。このベツレヘムでモアブ族出身のルツはボアズに出会い結婚し、オベデが生まれ、その子エッサイにダビデが生まれました。ダビデはベツレヘムで父の羊を飼っていました。(サムエル記上16・17)。そのためにベツレヘムはダビデの町と呼ばれました。

 <この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。>

 <布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子>とあります。神はその子を極貧の中で、最も卑しい者として生まれさせました。イエスは生まれたときから、十字架への道を歩むことになるのです。ここに神の恵みが表されています。

 天使は、<ダビデの町で生まれた赤子>が、ダビデ家の出であり、救い主であるというのです。そして、<この方こそが主メシアである>というのです。その<しるし>は、なんと<布にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子>あるというのです。飼い葉桶で眠る御子は、十字架の上で死なれる御子だということなのです。

 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、<いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ>と神を賛美したのです。天においては神に栄光、地においては人々に平和と歌うこの賛美は、主イエス・キリストによって実現する神様の救いをほめたたえています。

 皇帝になる者の誕生に際しては、詩人や託宣者が平和と繁栄を述べることは、ローマ帝国では慣例となっていまました。尊厳者を意味する<アウグストゥス>は、元老院からオクタヴィアヌスに与えられた尊称で、皇帝を神としてあがめる皇帝崇拝が、皇帝アウグストゥスから始まります。平和を帝国内に確立したとされるアウグストゥス皇帝は、当時<救い主>と呼ばれていました。

 しかしイエスの誕生は、皇帝の誕生ではなく、救い主キリスト、主と呼ばれる者の誕生でした。ここでは皇帝アウグストゥスとイエスを比較しているのです。それは皇帝アウグストゥスの治世下で生まれたイエスこそが真の平和の救い主であること示すためです。主の天使が、羊飼いたちにダビデの町で生まれた「この方こそ主メシアである」と告げます。武力で支配するローマ皇帝がメシアではなく、イエスこそ真の救い主であり、<平和の君>として誕生した方であると告げているのです。

 イエス誕生は旧約の預言の成就です。

「ひとりのみどりごがわたしたちにために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。…平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」(イザヤ9・5~6)この知らせは、宮殿の広間ではなく、野原で、貧しく身分の低い者に対して、一番最初に届けられました。それは、主イエスの救いが、全ての民に与えられるものであることを表しています。

 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合いました。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てました。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせました。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思いました。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行きました。

 預言者イザヤは、「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエル(神は我々と共におられる)と呼ぶ(イザヤ書7:14)と予言しました。イエスの誕生は、神がわたしたちと共にいてくださることを表しています。独り子の命を与えて下さった神様の愛と赦しによって、私たちは「御心に適う人」とされ、神様との間に平和を与えられているのです。わたしたちに永遠の命を与えるために、死と罪に打ち勝ち、復活され、天に上られたイエスは、聖霊の主として、わたしたちの内に宿り、世の終わりまで共にいてくださいます。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである、」(ヨハネ3:16)とあります。わたしたちを救うために世に来られ、マリアから生まれたイエス・キリストをほめたたえ、今、父なる神と共に支配している主をほめたたえ、やがて来たりたもう主イエスをほめたえましょう。今、わたしたちの心のうちに、御霊のイエスを迎えることこそが、最大のクリスマスを祝う意義であり、大きな喜びなのです。

 

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「主の日が来る前に」マラキ書3章19~24節

2015-12-13 18:51:27 | 説教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

     日本キリスト教 富 谷 教 会

      週    報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)

 

   待降節第3主日      2015年12月13日(日)     5時~5時50分 

          礼 拝 順 

前 奏            奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 214(わが魂(たま)のひかり) 

交読詩篇   98(新しい歌を主に向かって歌え)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書   マラキ書3章19~24節(旧p.1501)

説  教   「主の日が来る前に」   辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 260(いざ歌え、いざ祝え)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷              

後 奏 

 

                                                       次週礼拝 12月20日(日) 午後5時~5時50分

                                                                  聖書  ルカによる福音書2章1~20節  

                                                                  説教 「キリストの降誕」

                                                                 賛美歌(21)260 268 24  交読詩篇 2 

本日の聖書 マラキ書3章19~24節

19見よ、その日が来る、炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者はすべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。
 20しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには、義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように躍り出て跳び回る。
 21わたしが備えているその日に、あなたたちは神に逆らう者を踏みつける。彼らは足の下で灰になる、と万軍の主は言われる。
 22わが僕モーセの教えを思い起こせ。わたしは彼に、全イスラエルのため、ホレブで掟と定めを命じておいた。
 23見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に
預言者エリヤをあなたたちに遣わす。
 24彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもってこの地を撃つことがないように。

     本日の説教

  マラキ書は、旧約聖書の一番最後の書です。マラキ書の<マラキ>は、3章1節の<見よ、わたしは使者を送る>から取った呼び名で、「私の使者」を意味します。従って、<マラキ>とは人名ではなく、匿名の預言者によって書かれたものとされていまが、この匿名の預言者を<マラキ>と呼ぶことにします。

   紀元前520年頃活動したハガイやゼカリヤは、救いの時が近づいていることを宣べたので、人々はその預言の成就のために神殿の再建に取り組み、紀元前515年の神殿が完成しました。しかし、ハガイやゼカリヤが約束したような、イスラエルは栄光に満ち、土地も豊かな恵みをもたらすしるしは現れないばかりか、相変わらずペルシアの支配が続きました。期待した繁栄が到来しなかったことから起こる不信、やり場のない失望だけが民の間に広がっていました。民にもたらした救いの約束に対する熱狂的な興奮がさめ、祭儀に対する関心が薄らぎ、<祭司の聖務への堕落>、<軽薄な離婚の習慣と異邦人との結婚>、<十分の一の捧げ物の不履行>などが起こりつつありました。マラキはこのような時代に祭司や民の心を再び神へ立ち帰らせようとした預言者です。

   預言者マラキは「イスラエルを愛し」(1・2)、しかも「イスラエルの境を越えて大いなる主」(1・5)を信じ、イスラエルの罪を告発しつつ(3・5)、真に救いをもたらす方の来臨を待望しました(3・23)。たとえ、現実のイスラエルによって、契約は破棄され(2・8)、み名が軽んじられ、主がさげすまれても(1・13)、日の出る所から日の入る所まで諸国の間で、すなわち全世界で、主の名があがめられ、畏れられ、主なる神が真に礼拝されることを預言者は願ったのです。それゆえ、イスラエルが悔い改めて、主に立ち帰り(3・7)、ふたたび「主を畏れ敬う者たち}(3・16)となり、新しい礼拝共同体を形成することを預言者マラキは使命としました。

 この預言書が活動したのは、第二神殿完成時(前515)とエズラ(前458頃活動)・ネヘミヤ(前445頃活動)の登場との間の時代で、紀元前465年頃とされています。

  マラキ書は六つの託宣を宣べています。<託宣>は国語辞典によると「神が人にのりうつったり夢に現れたりして意志を告げること。そのお告げ」とあります。預言者の役割は神の啓示を運び人々に伝達することでした。<託宣>は、神が人々に悔い改めを迫り、立ち直ることを求めるために、預言者をとおして、きびしい語調で裁きの言葉を告げます。預言者は神の意志を示します。そして神の意志に従うところに祝福があり、未来があるのです。神は彼らの永遠の死を望んではいません。一人の<使者>をつかわし、「絶望の民よ、生きよ」と言われるのです。これこそ神のあわれみ、愛のほか何ものでもありません。神は絶望の民を永遠の死から救うことを望んでおられるのです。

  3章19節~24は、<主の日>についての託宣です。

  神が備えた日に、正しい人と悪人とははっきり区別されます。

見よ、その日が来る、炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者はすべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。

<その日>とは審判の日であり、裁きの日であると同時に、<義の太陽の昇る>時でもあります。まず、19節で、悪人の運命が描かれます。旧約聖書での悪人は、神とのかかわりに<正しい人>とは違って、契約を無視し、正しい人を踏みにじり、不当な利益を得ようとする人です。ここでは<高慢な者、悪を行う者>と記しています。高慢とは、主の律法を捨て、人間の物差しでものごとを推し量ることです。悪人に対する裁きは、燃える炉の火にたとえられます。ここでは、根も葉も残らずに完全に燃やし尽くす火のイメージが使われます。高慢な者、悪を行う者を、燃え上がらせ、燃え尽きさせ、わら灰のようにします。<根や枝も残さない>とは、そこから芽を出す可能性が一切遮断されるということです。

しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには、義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように躍り出て跳び回る。
  20節には、正しい人に対する神の計らいが語られます。正しい人は、<神を畏れ敬う人>です。<あなたたちには>、<義の太陽>が昇ります。ここでの<義>は「救い・勝利」の意味です。古代オリエントで礼拝された太陽神は光線を翼のように広げた円盤によって表され、その翼の先には手がついており、その手が礼拝者に命と保護とを与えました。

          

ここではこのイメージが借用されています。<翼>はこの光線のことであり、それによって神を畏れ敬う者はいやしを受けます。義の太陽が昇るとき人々はいやされるのです。高慢で悪事を行う者をじっと耐え忍んでいた正しい者は、牛舎に閉じ込められていた子牛のように、自由と解放を喜びます。

わたしが備えているその日に、あなたたちは神に逆らう者を踏みつける。彼らは足の下で灰になる、と万軍の主は言われる。

  21節では神に逆らう者に対する彼らの勝利が語られま。この勝利は神がもたらす勝利です。

  「わが僕モーセの教えを思い起こせ。わたしは彼に、全イスラエルのため、ホレブで掟と定めを命じておいた。
 22節の<思い起せ>は単純に過去の出来事を想起することで終わるのはありません。<思い起せ>とは、キリスト者の帰るべき原点です。それは、神とイスラエルの関係において基本的な拠り所である、ホレブ(シナイ山)でイスラエルに与えられた神との契約です。これこそ全人類の、ひいては一人一人の人生を豊かに導く拠り所に他なりません。<思い起せ>は初心に立ち帰って、いつも御言葉に生き、神と共に歩むことです。

  「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に予言者エリヤをあなたたちに遣わす。

 23節の<見よ、わたしは……遣わす>は、3章1節の<見よ、わたしは使者を送る>を踏まえた表現です。しかし、3章1節では名指しされなかった使者がここでは<預言者エリヤ>とされています。エリヤが選ばれたのは、彼の死と関係があります。彼は火の馬に引かれた火の洗車によって嵐の中を天に上って行きました(列王記下2章)。天に上った人物であれば、神が遣わす使者に最もふさわしいからです。

 先のモーセと、ここでエリヤが記されているのは、旧約聖書を支えている律法と予言であることを意味しています。預言者は、神の民に対して、彼らの誤った生き方を捨てて、初めの神との真実の関係に至るように呼びかける役目を果たすのです。エリヤはイスラエルの改革のために再び来ると古くから信じられていました(イザヤ書40・3)

。やがて新約の時代を迎え、バプテスマのヨハネがエリヤの再来と考えられます。

  イエスの姿が変わった変貌の山でもモーセとエリヤが現れました(マタイ17・1~4)。イエス・キリストは律法の完成者、また預言の成就者としてこの地上に来られたのです。

彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもってこの地を撃つことがないように。

 24節の<父>は神ではありません。普通の家庭の父です。再来するエリヤの役割は父と子に和解をもたらすことです。和解が成立していなければ、この地は破滅に見われると書かれているから、この不和は深刻であったに違いありません。

 日本の殺人罪は、年々家族間の殺人が増えており、殺人全体の半数にまでになっているとの報道がつい最近ありました。深刻な問題です。家族間の不和や争いを解決すには、まず互いの愛と赦しがなければなりません。この愛と赦しによって私たちを救ってくださるのがキリストです。

  <わたしが来て>の「わたし」とは、モーセやエリヤではなく、イエスです。ここには、律法と予言の成就者として、やがてイエス・キリストによって完成される救いへの信仰が表明されています。初代の教会の人々はマラキの預言を、主の道を備えるバプテスマのヨハネに結びつけて、その成就と理解しました。イエスは次のように言われたとあります。

 「あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである。」(マタイ11・14、マタイ17・11~13、マルコ9・12~13、ルカ1・17)

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「旧約時代の神の言葉」列王記上22章1~17節

2015-12-05 22:29:31 | 説教

  981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

                     日本キリスト教 富 谷 教 会

                 週    報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)

      待降節第2主日  2015年12月6日(日)  午後5時~5時50分 

             礼 拝 順 

前 奏            奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 235(久しく待ちにし) 

交読詩篇   19(天は神の栄光を物語り)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書   列王記上22章1~17節(旧p.572)

説  教   「旧約における神の言」   辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 155(山べにむかいて)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷              

後 奏 

         次週礼拝 12月13日(日) 午後5時~5時50分

          聖書  マラキ書3章19~24節  

          説教 「主の日が来る前にエリヤを遣わす」

          賛美歌(21)214 263 24  交読詩篇 98 

   本日の聖書 列王記上22章1~17節(旧p.572)

1三年間、アラムとイスラエルの間には戦いがなかった。 2三年目になって、ユダの王ヨシャファトがイスラエルの王のところに下って来た。 3イスラエルの王は家臣たちに、「お前たちはラモト・ギレアドが我々のものであることを知っているであろう。我々は何もせずにいて、アラムの王の手からそれを奪い返せないままでいる」と言った。 4それから、ヨシャファトに向かって、「わたしと共に行って、ラモト・ギレアドと戦っていただけませんか」と尋ねた。ヨシャファトはイスラエルの王に答えた。「わたしはあなたと一体、わたしの民はあなたの民と一体、わたしの馬はあなたの馬と一体です。」 5しかし同時にヨシャファトはイスラエルの王に、「まず主の言葉を求めてください」と言った。 6イスラエルの王は、約四百人の預言者を召集し、「わたしはラモト・ギレアドに行って戦いを挑むべきか、それとも控えるべきか」と問うた。彼らは、「攻め上ってください。主は、王の手にこれをお渡しになります」と答えた。 7しかし、ヨシャファトが、「ここには、このほかに我々が尋ねることのできる主の預言者はいないのですか」と問うと、 8イスラエルの王はヨシャファトに答えた。「もう一人、主の御旨を尋ねることのできる者がいます。しかし、彼はわたしに幸運を預言することがなく、災いばかり預言するので、わたしは彼を憎んでいます。イムラの子ミカヤという者です。」ヨシャファトは、「王よ、そのように言ってはなりません」といさめた。 9そこでイスラエルの王は一人の宦官を呼び、「イムラの子ミカヤを急いで連れて来るように」と言った。 10イスラエルの王はユダの王ヨシャファトと共に、サマリアの城門の入り口にある麦打ち場で、それぞれ正装して王座に着いていた。預言者たちは皆、その前に出て預言していた。 11ケナアナの子ツィドキヤが数本の鉄の角を作って、「主はこう言われる。これをもってアラムを突き、殲滅せよ」と言うと、12他の預言者たちも皆同様に預言して、「ラモト・ギレアドに攻め上って勝利を得てください。主は敵を王の手にお渡しになります」と言った。 13ミカヤを呼びに行った使いの者は、ミカヤにこう言い含めた。「いいですか。預言者たちは口をそろえて、王に幸運を告げています。どうかあなたも、彼らと同じように語り、幸運を告げてください。」14ミカヤは、「主は生きておられる。主がわたしに言われる事をわたしは告げる」と言って、 15王のもとに来た。王が、「ミカヤよ、我々はラモト・ギレアドに行って戦いを挑むべきか、それとも控えるべきか、どちらだ」と問うと、彼は、「攻め上って勝利を得てください。主は敵を王の手にお渡しになります」と答えた。 16そこで王が彼に、「何度誓わせたら、お前は主の名によって真実だけをわたしに告げるようになるのか」と言うと、 17彼は答えた。「イスラエル人が皆、羊飼いのいない羊のように山々に散っているのをわたしは見ました。主は、『彼らには主人がいない。彼らをそれぞれ自分の家に無事に帰らせよ』と言われました。」

      本日の説教

 今日の聖書の箇所は、イスラエル統一王制がソロモン王の後に分裂し、南ユダ王国と北イスラエル王国の二つになっていた時代のことです。ユダの王は、4代目の<ヨシャファト(前873~849、在位概数25年)>、イスラエルの王は、7代目の<アハブ(前869~850、在位概数22年)>の時代です。アハブ王はフェニキヤ(シドン人)の王女イゼベルと結婚し、進んで異教の神々バアルやアシュラに仕え、さらにバアル礼拝をイスラエルで強要しました。アハブは甚だしく忌まわしいことを行った、悪名の高い王です。

  イゼベルが主の預言者を切リ殺したので、ただ一人残った預言者エリアはバアルの預言者たち450人とカルメル山で対決し、どちらの神が祭壇の薪に火をつけるか勝負した有名な話は18章に記されています。

  20章にはアハブ王が、一人の預言者の言葉に従って、サマリアを包囲したアラム(シリア)の王ベン・ハダトと戦い、アラムに大損害を与えたことが記されています。更に神の人の言葉に従って、平地のアフェクの闘いでも勝利し、ベン・ハダトから「わたしの父が奪った町々をお返しします」という約束をとりつけ、協定を結んだうえで、彼を帰国させたことが記されています。アハブ王はアラムとの戦に勝利したが、交易の利に目がくらみ、アラム王を生かしておきました。アハブのベン・ハダトに対する、アハブ王の寛容な処置は、彼を殺せという神の命令に反するもので、罰せらるべきものでした。そのことによって、アラムはイスラエルにとって、その後も軍事的脅威として残ったのです。

  21章では、アハブ王は、イズレエルの夏の宮殿のそばににあるナポトという人のぶどう畑を、宮殿の菜園にしたいと譲ってくれと頼みましたが、先祖から伝わる嗣業の土地なので譲ることはできないと断られました。この土地をアハブが妻のイゼベルに唆(そそのか)されて、偽証と殺人という不当な手段によって奪ったことが記されています。この犯した罪を預言者エリアは責め、アハブとその家は滅ぼされ、イゼベルもまた悲惨な死をとげることを告げました。神はアハブの悔恨を認め、アハブに対する刑罰はその子の代まで猶予することがエリアから告げられます。

 そして22章に入ります。

 アフェクの戦に敗れたアラム(シリア)の王ベン・ハダトは、ラモト・ギレアドをイスラエルに返す約束であったが、それを果たさずに三年が過ぎました。イスラエルの王アハブはラモト・ギレアドを奪回することを決意し、ユダの王ヨシャファトに支援を求めました。ヨシャファトは息子ヨラムにアハブとイゼベルの娘を妻として迎えさせたので、婚姻関係にありました。アハブからラモト・ギレアドの戦争について援助の要請をうけ、ヨシャファト王はサマリアのアハブ王の所に来たのです。ヨシャファトは無条件の協力を約束しました。

  ヨシャファトはまずラモト・ギレアドの戦をすべきであるか、どうかについて神の言葉を伺い、主の御心かどうかを確かめるようにアハブに勧めました。アハブは四百人ばかりの預言者を集めて、彼らの意見を求めると、王の望むままに、皆一様に勝利を預言しました。ヨシャファトはこれに満足せず、他に一人、預言者ミカヤのいることをアハから聞き出しました。アハブは、ミカヤが自分に幸運を預言することなく、災いばかり預言するので、彼を憎んでいる、と言いました。ヨシャファトは、「王よ、そのように言ってはなりません」といさめました。そこでアハブは宦官を遣わしてミカヤを呼ぶことにしました。ミカヤはエリアの系統に属する、倫理的預言者の先駆者とされている預言者です。ミカヤを呼びに行った王の使いは、預言者ミカヤに、「あなたも、他の預言者たちと同様に、王に幸運えお告げてください」と忠告しました。

  二人の王はサマリアの城門の入り口にある広場に王座を設け、預言者たちを集めて王の前で預言をさせました。まず四百人ばかりの預言者の一人、ツィドキヤが、アハブの勝利を象徴する数本の鉄の角を作って立ち、「主はこう言われる。これをもってアラムを突き、殲滅(せんめつ)せよ」と勝利を預言すると、他の預言者たちも皆同様に預言して、「ラモト・ギレアドに攻め上って勝利を得てください。主は敵を王の手にお渡しになります」と言いました。

  アハブがミカヤの預言を求めたとき、ミカヤは最初他の預言者たちと同じことを預言しましたが、それがミカヤの真の預言でないことを感じたアハブは重ねて預言を求めたので、彼は二つの幻を語りました。一つは牧者のない羊のように迷っているイスラエルの民をそれぞれ安らかに家に帰らせよ、と言われる主の言葉で、他の一つは、一つの霊が偽りを言う霊となってすべての預言者の口に宿り、アハブをいざなう幻でした。

 第一の幻はアハブのラモト・ギレアド出陣の失敗を警告したもので、イスラエルの牧者であるアハブが戦死して人民が牧者を失った羊のようになることを表しています。第二の幻はアハブが偽りを言う預言者にいざなわれてラモト・ギレアドに上り、自分を滅ぼすに至ることを示したものです。

 「今御覧のとおり、主がこのあなたの預言者たちの口に偽りを言う霊を置かれました。主はあなたに災いを告げておられるのです(歴代誌下18・22)」。

 ミカヤの言葉を聞いたツィドキヤは怒ってミカヤを打ちました。ミカヤは自分の預言の真偽はやがてイスラエル軍の敗北によって分かるでしょう。人民がツィドキヤにだまされたことを憤り、ツィドキヤを捕らえようとするので、彼の面目がつぶれ、彼は身を隠すようになる、と言ったのです。アハブはその真偽を確かめるためにミカヤを捕らえ、自分が勝利して帰ってくるまで獄屋につないでおけと命じました。

 頑迷なアハブはミカヤの預言に耳を傾けず出陣しました。その結果、敵の流れ矢を受け、ラモト・ギレアドの合戦で戦死しました。主の預言通りの事が起こりました。

 無事にエルサレムの宮殿に帰ったユダの王ヨシャファトの前に預言者イエフが進み出て言いました。「悪人を助け、主を憎む者の友になるとは何事ですか。そのため、主の怒りがあなたに下ります。しかし、あなたには良い事も見られます。あなたはこの地からアシュラ像を除き去り、揺るぎない心で神を求めました」と語りました。

 ヨシャファトは主を恐れ、ただひたすら主を求め、モアブ人とアンモン人が、死海のかなたのエドムから大軍をひきいてエン・ゲディまで攻めてきた国難に際して、ヨシャファト全国に断食を布告して、民と心を一つにして、神の前に祈ったとあります(歴代誌下20章)。

 旧約時代のイスラエルでは、神の言葉を預かり、それを人々に伝える役割を果たす預言者がいました。国王は預言者の語る神の意志に従い、国を治めるべき存在と考えられていました。ですから、預言者は国王が神の御心に背を向けているときは、これを指摘し、正すことが本来の使命です。

 しかし、イスラエルの歴史の中で、常に偽預言者が現れます。王や民が聞きたいことを語る預言者です。真の預言者は真実を語るゆえに迫害されます。しかし、真実は語らなけばなりません。また、聞かれなければなりません。

 アハブ王の生き方は、神が求めておられることを知りながら、なお神の御心に背を向けて、自分の思い通りに生きようとします。わたしたちも同じように、自分の思いのままに生きていないでしょうか。実はすべての人が罪の下にあるのです。イスラエルの始祖のアブラハムも、モーセも、理想的な王とされるダビデ王も罪を犯しました。だれ一人神の前に義とされないのです。神の律法を完全に行うことのできる全く正しい者は一人もいないのです。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みによって義とされるのです(ローマ3・24)。主イエスはわたしたちを裁くために来られのではありません。わたしたちを愛し、わたしたちが一人も滅びないで、永遠の命を得るようにするために来られたのです。

 神の言葉は正しく人々に伝えなくてはなりません。それには真の預言者がいなければなりません。また神の言葉を正しく理解し、それを守り教え、民の代わって神に仕える祭司がいなければなりません。また、神の言葉を正しく行い世を治める真の王がいなければなりません。古代イスラエルでは「王」「祭司」「預言者」の職務に就く者は任職の儀式として、頭に油が注がれ、聖別されました。

 イエス・キリストは、預言者・祭司・王の三つの役割を完全に果たすメシア(救世主)として世に来られました。人に仕えられる王としてではなく、人に仕え、人の罪を贖う「苦難の僕」として十字架への道を歩む王として世に来られました。

 主イエスは、世の初めより神と共にあった言(ことば)であり、「神の言」そのものなのです(ヨハネによる福音書1・1、14)。「言は肉となってわたしたちの間に宿られました。」いまだかつて、神を見た者はいません。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのです。クリスマスは この世の来られたこの方の誕生を祝う喜びの日です。

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「主の来臨の希望」イザヤ書52章1~10節 

2015-11-29 21:10:01 | 説教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

                       日本キリスト教 富 谷 教 会

                     週    報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)

 待降節(アドベント)第1主日    2015年11月29日(日)      5時~5時50分 

           礼 拝 順 

前 奏            奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 231(久しく待ちにし) 

交読詩篇   42(涸れた谷に鹿が水を求めるように)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書   イザヤ書52章1~10節(旧p.1148)

説  教   「主の来臨の希望」      辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 241(来たりたまえわれらの主よ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷              

後 奏 

                                                                          次週礼拝 12月6日(日) 午後5時~5時50分

                                                                                聖書  列王記上22章1~17節  

                                                                                説教   「旧約における神の言」

                                                                                賛美歌(21)231 196 24  交読詩篇 147 

               本日の聖書 イザヤ書52章1~10節(旧p.1148

1奮い立て、奮い立て、力をまとえ、シオンよ。輝く衣をまとえ、聖なる都、エルサレムよ。無割礼の汚れた者が、あなたの中に攻め込むことは再び起こらない。
2立ち上がって塵を払え、捕らわれのエルサレム。首の縄目を解け、捕らわれの娘シオンよ。
3主はこう言われる。「ただ同然で売られたあなたたちは、銀によらずに買い戻される」と。
 4主なる神はこう言われる。初め、わたしの民はエジプトに下り、そこに宿った。また、アッシリア人は故なくこの民を搾取した。5そして今、ここで起こっていることは何か、と主は言われる。わたしの民はただ同然で奪い去られ、支配者たちはわめき、わたしの名は常に、そして絶え間なく侮られている、と主は言われる。6それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るであろう。それゆえその日には、わたしが神であることを、「見よ、ここにいる」と言う者であることを知るようになる。
 7いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王となられた、と、シオンに向かって呼ばわる。
8その声に、あなたの見張りは声をあげ、皆共に、喜び歌う。彼らは目の当たりに見る、主がシオンに帰られのを。            9歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃虚よ。主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。10主は聖なる御腕の力を、国々の民の目にあらわにされた。地の果てまで、すべての人が、わたしたちの神の救いを仰ぐ。

     本日の説教

 イザヤ書は66章までありますが、歴史的背景や思想などの違いから、一人の預言者の書ではなく、三人の預言者の書とされています。1章から39章までは、預言者イザヤの書、40章から55章までは、無名の預言者なので、第二イザヤの書、56章から66章までは、第三イザヤの書として区別しています。今日の聖書の箇所52章は、第二イザヤの書に当たります。

   最初のイザヤは、紀元前8世紀後半、南ユダ王国の首都エルサレムで活動した預言者です。

 第二イザヤは、イザヤから200年後、イスラエルの民がバビロンに捕らわれていた捕囚の末期から、捕囚解放、そして祖国のエルサレムに帰るまでの、紀元前6世紀中頃に活動した預言者です。

 第三イザヤは、第二イザヤの弟子であったと考えられ、ユダヤ人の祖国帰還と第二神殿再建(B.C.515年)直後まで活動した預言者です。

   イザヤ書全体を通して共通しているのは、神を聖なる神としてとらえ、ヤハウェのことを「イスラエルの聖なる方(神)」と呼んでいることです。また、広い世界的視野の観点から神の言葉を語っていることです。

 イスラエルの民がバビロンへ捕らえ移されたのは、バビロニア帝国の攻撃によって、イスラエルの南ユダ王国が滅亡したからです。王や住民の重立った者たちが、三度にわたって、バビロニア帝国の首都バビロンへ捕え移されました。これがバビロン捕囚です。第一回目の捕囚の時から58年後の紀元前539年、ぺルシア王、キュロスがバビロンを攻撃し、占領しました。翌年に、「キュロスの勅令」の発布により(エズラ記1:2-4参照)、捕囚の民はエルサレムへ帰還することが許されました。

  バビロン捕囚は、度重なる預言者の悔い改めの勧告にも耳を傾けず、神への背信の罪を繰り返すユダ王国の民に対して下された神の審判でした。神と契約を結んだ、選ばれた民でありながら、国を失い、異教の地で半世紀近くもユダの民は苦難をなめました。彼らの苦しみは、単に政治的な屈辱や絶望、あるいは経済的な貧困や不安だけではなく、主なる神・ヤハウェが異教の神に負けってしまったのではないのかという失望や、自分達は神に見捨てられたのではないのかという疑惑がつのり、神に選ばれた民としての意識は失われ、将来への希望を失いかけたことでした。イスラエル人の荒れはてた心の苦しみを、第二イザヤは捕囚民の中で、自分もその苦しみを深く味わいながら、唯一の神が共にいてくださること、主なる神は必ずイスラエルをあがないたもうことを力強く語り、希望と平安をもって生きることをすすめました。

    第二イザヤは、おそらく捕囚の地で生まれた第二世代の人であり、祭儀と深く関係していた人物と推測されます。預言者として活動したのは、捕囚時代の末期です。紀元前546年から538年にかけて活動しました。

  今日の聖書の箇所52章には、「主は王となられる」という小見出しが記されています。≪主≫とは、全能の神のことです。

奮い立て、奮い立て、力をまとえ、シオンよ。輝く衣をまとえ、聖なる都、エルサレムよ。無割礼の汚れた者が、あなたの中に攻め込むことは再び起こらない。ち上がって塵を払え、捕らわれのエルサレム。首の縄目を解け、捕らわれの娘シオンよ。主はこう言われる。『ただ同然で売られたあなたたちは、銀によらずに買い戻される』と。」(52・1~3)

 ≪シオン≫とは、イスラエルのエルサレム地方の歴史的な地名です。転じて、イスラエル全体のことを指しています。≪無割礼の汚れた者≫とは、ここではアッシリヤやバビロニアの異邦人を指していています。ここではシオンは≪娘≫として登場します。その娘シオンに≪立ち上がって塵を払え≫と、汚された娘シオンを神が励ますのです。≪銀によらずに買い戻される≫とはただ同然で売られたあなたたちを、神は代償金を払うことなしに買い戻し、あなたがたを救うということです。

 「主なる神はこう言われる。初め、わたしの民はエジプトに下り、そこに宿った。また、アッシリア人は故なくこの民を搾取した。そして今、ここで起こっていることは何か、と主は言われる。わたしの民はただ同然で奪い去られ、支配者たちはわめき、わたしの名は常に、そして絶え間なく侮られている、と主は言われる。それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るであろう。それゆえその日には、わたしが神であることを、『見よ、ここにいる』と言う者であることを知るようになる。」(52・4~6)

  ≪初め、わたしの民はエジプトに下り、そこに宿った。≫とは、イスラエルの民がエジプトに420年間ほど移住して寄留していたことを指しています。エジプトでの寄留、アッシリアによる搾取(これは、イスラエル北王国がアッシリア帝国によって滅ぼされ、民が奪われ、暴虐が行われたことを指しています。)を回顧した後、バビロン捕囚期のシオンに思い致します。そこでは異教の国の支配者たちがわめき、吠え、主なる神は蹂躙された。そのことに主は耐え得ない。それゆえにシオンへの救いを現す。≪見よ、ここにいる≫と語る主が、自らその存在を表明する。

  「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王となられた、と、シオンに向かって呼ばわる。その声に、あなたの見張りは声をあげ、皆共に、喜び歌う。彼らは目の当たりに見る、主がシオンに帰られのを。歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃虚よ。主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。主は聖なる御腕の力を、国々の民の目にあらわにされた。地の果てまで、すべての人が、わたしたちの神の救いを仰ぐ。」(52・7~10)

  預言者はここでは≪良い知らせ≫を伝える福音伝達者とされています。良い知らせ、福音とは≪平和≫と≪救い≫を告げる≪恵みの良い知らせ≫であり、信仰はこれを聞くことによって始まります。彼はシオンに向かって「あなたの神は王となられた」と叫びます。預言者は主の帰還を賛美し、その栄光を歌います。これは主なる神の即位を意味し、今より後主の永遠の王国が建設されることを言います。そのような福音を伝える者の足は≪なんと美しいことか≫という感動で始まります。主はすでに王者としてエルサレムに来たりつつあるので、オリブ山に上った先ぶれの伝令が、神王の到着を伝えます。預言者は一足先に帰って、行列をシオンの城門で出迎える見張り人の役に代わります。≪見張り≫は、向かいのオリブ山に現れた伝令の叫びを聞き、歓声を上げます。彼の歓声にエルサレムの民は和して≪喜び歌う≫のです。そして実際に彼らは主(神)の帰られるを≪目の当たりに見る≫のです。これは、捕囚民がエルサレム神殿の祭儀の用いる≪主の祭具を担≫ってエルサレムに戻って来ることを象徴しているのでしょう。

 何のために神は王としてエルサレムに帰る来るのか、それは、主が≪その民を慰め≫、この都を≪贖う≫ためです。それゆえ≪エルサレムの廃墟≫も≪歓声を上げ、共に喜び歌う≫べきです。≪主はその民を慰め、エルサレムを贖われた≫、≪主は聖なる御腕の力を、国々の民の目にあらわされ≫ました。過去形の訳されていますが、これは「預言者的完了形」と呼ばれるもので、未来のことを必ず実現すべきものと確信していい表す、ヘブライ語の特徴ある表現です。≪御腕≫とは、神の力と支配の象徴です。それゆえ、≪地の果て≫までが主の救いを見るのです。

  第二イザヤ書の40-48章においては、終始一貫してバビロン捕囚からの解放とエルサレムへの帰還が主要テーマとなっています。53章では「苦難の僕(しもべ)のうた」が歌われます。この苦難の僕とはいったい誰を指すのでしょうか。神は王になって来られる(52・7)とすでに語られています。「王」と「僕」とは全く対照的です。ここには偉大な転換があります。神から遣わされる新しい王は、この世では、僕として奉仕するのであり、苦難の僕こそ栄光の王と考えられているのです。そして神の子、ナザレのイエスは、この苦難の道を歩むことによって神の国の王として真の栄光を受けられたと新約聖書は告げています(フィリピ2・6~11)。55章の終章では、解放された民が安全に荒れ野を通って故国に帰ることが告げられています。

  現代においても、戦禍のために国外に逃れ、いつ祖国に平和がくるのか、祖国に帰れる日はいつ来るだろうか、という思いで苦難の日々を過ごしている民は大勢いま す。特にシリア共和国の避難民にとっては深刻な問題です。日本でも、大津波の被害や原発の放射能汚染で荒廃した故郷に戻ることができないでいる大勢の人たちがいます。

  主イエスは、ナザレの会堂で、預言者イザヤの巻物が渡されたとき、「主(父なる神)がわたしを遣わされたのは、捕らわれといる人々に解放を…告げ、主の恵みの告げるためである」と言われ、「この聖書のことばは、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話されました(ルカ4・16~21)。

  <今日、…実現した。>とは、 神の国はここに来ている、ということです。今は神の恵みの時である。神の約束が成就され、神の目的が実現する終末の時が、来たのだ。貧しい者や不当な扱いを受けていた者、抑圧されていた者のための変化が、今日現れるのだと、主イエスは宣言したのです。

  主イエスは、罪と死に捕らわれているわたしたちを開放し、救うためにこの世に来られた神の独り子です。わたしたしを罪と死の支配から解放し、わたしたちに聖霊を与えて神との交わりを回復してくださり、永遠の命に生きる道を開いてくださいました。この神の愛を受けて生きるとき、人々も互に兄弟姉妹として愛し合う関係が生まれます。そこにこそ真の平和の道が開かれるのです。

 

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「エレミヤの救済と回復の預言」エレミヤ記23章1~6節

2015-11-20 22:38:50 | 説教

            レンブラント1630年「悲嘆にくれる預言者エレミヤ」エルサレムの破壊を悼むエレミヤ) アムステルダム国立美術館 (かすかに、エルサレムが燃える火と逃げ出している人の姿が、左奥に描かれています。エレミヤは大きな柱に寄りかかり、足元に絨毯が見えます。エレミヤの傍らに見える金属製のものは、神殿から持ち出した聖杯なのでしょうか?二本の紐がついたものは、預言を記した巻物でしょうか?)                

             981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

       日本キリスト教 富 谷 教 会

                週    報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)

 降誕前第5主日    2015年11月22日(日)     5時~5時50分 

          礼 拝 順 

               司会 永井 慎一兄

前 奏            奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 149(わがたまたたえよ) 

交読詩篇   72 (神よ、あなたによる裁きを)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書   エレミヤ記23章1~6節(旧p.1218)

説  教   「エレミヤの救済と回復の預言」   辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21)  97(羊飼いの羊飼いよ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷              

後 奏 

                                                       次週礼拝 11月29日(日)待降節 午後5時より。

                                                          聖書  イザヤ書52章1~10節  

                                                          説教   「主の来臨の希望」

                                                          賛美歌(21)231 232 24  交読詩篇 42 

   本日の聖書 エレミヤ記23章1~6節

  1「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」と主は言われる。 2それゆえ、イスラエルの神、主はわたしの民を牧する牧者たちについて、こう言われる。

   「あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった。わたしはあなたたちの悪い行いを罰する」と主は言われる。

    3「このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。         4彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない」と主は言われる。

    5見よ、このような日が来る、と主は言われる。

   わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え
この国に正義と恵みの業を行う。6彼の代にユダは救われ
イスラエルは安らかに住む。彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる。

     本日の説教

  先週は「モーセの誕生と神の御手」という題の説教でした。モーセは紀元前1280頃の人物です。今日はエレミヤの預言について学びます。

    エレミヤは紀元前650年頃に生まれたとされている、イスラエルのユダ王国で活躍した預言者です。モーセからエレミヤの時代までの間には、およそ630年の時が過ぎています。その間、次のような時代が経過しました。

   40年間の出エジプト時代、50年間のカナン進入時代、180年間の士師時代、サウル王、ダビデ王、ソロモン王と98年続いた統一王国時代、そして統一王国は、紀元前922年に、北と南の二つに分裂しました。

  北のイスラエル王国は198年続きましたが、アッシリア帝国に攻められ、紀元前722年に滅亡しました。南のユダ王国はアッシリアの属国として存続しました。

   エレミヤが生まれたのは、バビロニア帝国が世界制覇を成し遂げたバビロニア時代(前626~539年)です。エレミヤが53歳頃の紀元前597年に、エルサレムは陥落し、ヨヤキン王は重要人物らと共に、バビロンに連行されました。

   エルサレムではゼデキヤが王として任命されたのですが、バビロニヤに反逆したので、エルサレムは包囲され、陥落し、338年続いたユダ王国は、紀元前586年に滅亡しました。エレミヤの最晩年64歳の頃です。王とその家族、側近たちは処刑され、民はバビロンへ連行されました。この時代は、イスラエルの長い歴史の中で、最も激しく危険な、悲劇的な時代だったのです。

 エレミヤの出身地はエルサレムの北東4・5キロの地点にあるベニヤミン族に属するアナトテです。アナトテはレビ人の町の一つです。ベニヤミン族は、北イスラエル王国に属する部族でしたが、エルサレムに近かったのでアッシリアの占領を免れました。

 北王国の滅亡期の預言者はホセアヤ、イザヤですが、南王国の滅亡期の預言者はエレミヤです。エレミヤが預言者として召されたのはヨシヤ王の時代の治世13年(紀元前627年)、彼が22、3歳の頃です。エレミヤの預言活動は、バビロニアの占領に抵抗したグループによって、エジプトへ連行されるまで(紀元前585年頃)まで、およそ42年間続きました。

エレミヤは召命体験を、彼が46歳の頃に、弟子バルクに命じて記述させ、これをユダのすべての人に語らせました(36・1~10)。召命の記事は、エレミヤ記1章の4~19節に記されています。

「主の言葉がわたしに臨んだ。『わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前にわたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。』 わたしは言った。『ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。』 しかし、主はわたしに言われた。『若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行ってわたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて必ず救い出す』と主は言われた。』」

  エレミヤの召命は、神の御言葉を真実に選民イスラエルの滅亡期に身をもって語ることでした。エレミヤは、主の言葉を、文字通り命がけで伝えた預言者です。彼はどんなに烈しい言葉であっても妥協なく語らざるを得なかったのです。

  エレミヤはエルサレム神殿で、「主の神殿、主の神殿、主の神殿とという、むなしい言葉に依り頼んではならない」(7・4)と厳しく非難し、このまま形ばかりの礼拝を続けるなら、エルサレムは滅亡するであろうと預言したので、人々の反感をかい、迫害されます(26・8)。エレミヤの生涯のうちで、最も苦悩に満ちた時期でした。

  「エレミヤの告白」が、20章7~20節にあります。

 「わたしは一日中、笑い者にされ、人が皆、わたしを嘲ります。わたしが語ろうとすれば、それは嘆きとなり『不法だ、暴力だ』と叫ばずにはいられません。主の言葉のゆえに、わたしは一日中恥とそしりを受けねばなりません。主の名を口にすまい、もうその名によって語るまい、と思っても、主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて、火のように燃え上がります。押ささえつけておこうこうとして、わたしは疲れ果てました。……呪われよ、わたしの生まれた日は。母がわたしを産んだ日は祝福されてはならない。……なぜ、わたしは母の胎から出て労苦と嘆きに遭い、生涯を恥の中に終わらねばならないのか。

 神に対する嘆きの訴えです。エルサレムの滅亡が近づき、国の危機を預言する真の預言者エレミヤと、泰平を預言する、宗教的に最高の地位にあり、大きな権力を握っていた偽りの預言者の対立がいよいよ激しくなったと時の告白です。エレミヤは、神の都の平安をみだす危人物とされ、その宮を冒涜する反逆者として打たれ、捕らえられ、足かせをもってつながれました(20・2)。エレミヤは内村鑑三などから「涙の預言者」と呼ばれていますが、それは彼の味わった苦悩の深さを示す表現です。

 エレミヤ記1章1・1~3節には、エレミヤが活躍した時の王の名が3人記されています。しかし治世の短い王は略されています。ヨシヤ王(治世31年)、[ヨアハズ(治世3か月)]、ヨヤキム(治世11年)、[ヨヤキン(治世3か月)]、ゼデキヤ(治世11年)です。  

  今日の聖書の箇所・23章は、バビロン捕囚期の回復の預言です。同様の回復の預言は、3・14~18、30章、31章、33章にも見られます。この予言は、バビロニア帝国によってエルサレムが陥落し、イエスラエルの国家は滅び、民は敵地バビロンに捕らわれて行った後の預言です。

 「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」と主は言われる。それゆえ、イスラエルの神、主はわたしの民を牧する牧者たちについて、こう言われる。」(1、2節)

  ここで言っている牧者たちとは、支配者たちであり、ユダの王たちのことです。牧者である彼らはかえって狼の如く、神の羊の群れを散らす。この牧者たちは、国を滅ぼし、バビロンへの捕囚に導いたからです。

  ユダの王たちとは、22章10節以下にその名が記されています。宗教改革を行ったヨシヤ王の悲運について述べたあと、22章11節には、ヨシヤの子シャルム(=ヨアハズの幼名)、18節には、ヨシヤの子ヨヤキム、34節では、ヨヤキムの子コンヤ(エコンヤの表記もある=ヨヤキン)の三人の王の名があげられ、彼らが申命記に記されたような神の律法を守らなかったことを厳しく批判し、ユダの王であった者たちに対する罰を告げています。 

  ≪正義と恵みの業を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救え。寄留の外国人、孤児、寡婦を苦しめ、虐げてはならない。またこの地で、無実の人の血を流してはならない(22・3)≫。これが律法の要約です。ヨヤキムは、≪不当な利益を求め、無実の人の血を流し、虐げて圧制を行っている≫と批判されています。

  「このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない」と主は言われる。」(3、4節)

  エレミヤの預言は、バビロニアによってイスラエルが滅亡し、国を失ったのを境にして、その調子が一変します。エレミヤは、真実の預言者として、ただ祖国の災いと滅亡を預言するだけでなく、救済と回復とを予告します。

  ≪群れの残った羊とは、ここでは捕囚として散らされた民のことです。神が自ら牧者として、散らされた民を集め、もとの牧場であるユダの地に帰らせ、新しい牧者を立てると言います。

  「見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え、この国に正義と恵みの業を行う。彼の代にユダは救われイスラエルは安らかに住む。彼の名は、『主は我らの救い』と呼ばれる。」(5,6節)

  ≪枝≫とは、メシアを象徴する言葉です。一度切り倒されたダビデの木の株から一つの若枝が生じるとして、イザヤ書の4・2、11・1などの預言と対応しています。

 「その日には、イスラエルの生き残った者にとって、主の若枝は麗しさとなり、栄光となる。この地の結んだ実は誇りとなり、輝きとなる。」(イザヤ4・2)

  エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち…」(イザヤ書11・1) 

  ≪ダビデ≫の名は、新約聖書の良い羊飼いとしてのイエスを表しています。バビロンで召命を受けたエゼキエルの書34章にも「イスラエルの牧者」についての長い回復の預言が見られます。

  エレミヤ書のこの箇所は詩文であり、本来の預言としての格調を持っています。この王は、詩編72・2-~4で歌われているような王の理想を実行します。≪王は治め、栄え、この国に正義と恵みの業を行う。≫彼は神の意志を行うので、≪主は我らの救い≫と呼ばれます。エレミヤもまた新しい理想的な新しい王がダビデの家に生まれることを期待したのです。

  イザヤと共に、エレミヤは「最大の預言者」と言われています。エレミヤは祖国の罪に対する神の審判だけを叫んだ滅亡の預言者ではありません。彼は次のように預言しています。エレミヤ書31章27,28節では新し時代と到来を告げ、

わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる(33節)」という新しい契約が結ばれます。

 エレミヤの最後は明らかではありませんが、エジプトで石で打たれて殉教したと言われています。彼の預言者生活は闘争と緊張の連続でした。

  エレミヤの、「口だけで神に近づき、心では神から遠ざかる」形式的な宗教への徹底的な批判は、真実なる神との「新し契約」の主張に至りました。それがキリストの血による「新しい契約」によって成就するのです。それは、この世のすべての人のための罪の赦しであり、神との交わりの回復であり、≪神、われらと共にいます≫ということが実現しました。

 (読者の方は、記事一覧から、2014年8月10日の説教「『神の真実』を説いた涙の預言者」をお読みいただければ幸いです。)

 

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