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富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「モーセの誕生と神の御手」出エジプト記2章1~10節

2015-11-13 14:15:13 | 説教

                  ↑  世界遺産・ルクソールの「アブシンベル神殿」の四体のラムセス二世像 

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

日本キリスト教 富 谷 教 会

      週    報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)

 降誕前第6主日    2015年11月15日(日)      5時~5時50分 

          礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21)  33(主に従う人よ、主によって喜び歌え) 

交読詩篇   84(万軍の主よ、あなたのいますところは)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書   出エジプト記2章1~10節(旧p.95)

説  教    「モーセの誕生と神の御手」    辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 458(信仰こそ旅路を)

聖餐式    78(わが主よ、ここに集い)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷              

後 奏  

                                                      次週礼拝 11月22日(日)午後5時~5時50分

                                                          聖書  エレミヤ記23章1~6節説教  

                                                          説教   「王の職務」

                                                          賛美歌(21)149 97 24  交読詩篇 

本日の聖書 出エジプト記2章1~10節

  1レビの家の出のある男が同じレビ人の娘をめとった。 2彼女は身ごもり、男の子を産んだが、その子がかわいかったのを見て、三か月の間隠しておいた。3しかし、もはや隠しきれなくなったので、パピルスの籠を用意し、アスファルトとピッチで防水し、その中に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置いた。

     4その子の姉が遠くに立って、どうなることかと様子を見ていると、5そこへ、ファラオの王女が水浴びをしようと川に下りて来た。その間侍女たちは川岸を行き来していた。王女は、葦の茂みの間に籠を見つけたので、仕え女をやって取って来させた。6開けてみると赤ん坊がおり、しかも男の子で、泣いていた。王女はふびんに思い、「これは、きっと、ヘブライ人の子です」と言った。7そのとき、その子の姉がファラオの王女に申し出た。「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか。」

     8「そうしておくれ」と、王女が頼んだので、娘は早速その子の母を連れて来た。9王女が、「この子を連れて行って、わたしに代わって乳を飲ませておやり。手当てはわたしが出しますから」と言ったので、母親はその子を引き取って乳を飲ませ、10その子が大きくなると、王女のもとへ連れて行った。その子はこうして、王女の子となった。王女は彼をモーセと名付けて言った。「水の中からわたしが引き上げた(マーシャー)のですから。」

               本日の説教

    創世記はヨセフ物語(37章~50章)で終わります。アブラハムの子はイサク、イサクの子はヤコブです。ヨセフはヤコブの息子です。ヨセフは兄達に奴隷として売られてエジプトへ行きますが、ファラオ(エジプト王)の夢を解いたことから出世し、エジプトの宰相になります。カナンの地が激しい飢饉に襲われたとき、ヨセフの父ヤコブと兄弟たち十一人の一族が、ヨセフを頼ってエジプトに移住し、ヨセフの庇護のもと、ゴシェンの地に定住しました。そこでヤコブは死に、ヨセフも長寿を全うして死にます。

 創世記の族長物語(アブラハム・イサク・ヤコブ)が大家族の歴史物語であったのに対し、出エジプト記からは民族の歴史の叙述になります。この橋渡しをしたのがヨセフ物語でした。

 イスラエルの人達は、ヨセフの時代は祭司並みの特権階級でした。これに対して、出(しゅつ)エジプト物語になると、イスラエル人は被抑圧階級、迫害を受けるものとなります。創世記と出エジプト記の間には、実に四百年という時間が流れているのです。イスラエル人はエジプトで外国人労働者として厳しい労働に組み込まれ、奴隷という身分ではないが、激しい労働に従事させられました。イスラエル人はファラオのために貯蔵の町、ピトムとラメセスを建てました。ラメセス二世(紀元前1290~1224年)の頃でした。

    メンフィスにあるラムセス二世の巨大寝像

    ラメセス二世は権力を誇示するために、エジプト各地に記念物を造営させています。アブ・シンベル神殿に残された高さ20mもの座像4基もその一つです。

 出エジプト記1章は、イスラエル人のエジプトでの公の事業のために、一定期間課せられ重労働の苦しみと、ヘブライ人の勢力を弱めるために、ファラオは助産婦に男児殺しを命じた話が記されています。そんな中でモーセが生まれたのです。

  <ヘブライ人>とは、イスラエル人の古代名です。<ヘブライ>はヘブライ語の<イブリー>に由来し、「越えゆく」「渡り歩く」の意があり、ヘブライ人は、「(ユーフラテス川の向こうから)渡って来た者」を意味し、川を渡ってきた遊牧民族をさしたものです。旧約聖書ではイスラエル人を外国人(エジプト人など)と対比させるときに用いられています。

  イスラエルのレビ族の夫婦に一人の男の子が生まれました。6章20節(民数記26・59)によると、アムラムとその妻ヨケベドの夫婦です。母はその子がかわいかったのを見て3ケ月の間エジプト人の目から隠していましたが、もう隠しきれなくなり、その赤子をパピルス(ナイル河畔に生える水草)で編んだ籠を用意し、アスファルトとピッチ(黒色で粘弾性のある樹脂)で防水し、その中に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置きました。

  籠は、ヘブライ語では<テヴァーハ>ですが、ノアの箱舟の「箱舟」と同じ語です。神の保護を約束された容器を意味します。聖書はモーセがノアと同じように特別の導きがあったことを暗示しています。

  その子の姉がどうなるかと様子を、遠くに立って見ていると、そこへ、水浴びをしようと川に下りてきたファラオの王女がその籠を見つけ、仕え女をやって取って来させました。開けてみると男の赤ん坊が泣いていました。

                                          

                  フェルメールのモーセ発見   1670年アイルランド・ナショナル・ギャラリー所蔵

     王女はふびんに思い、「これは、きっと、ヘブライ人の子です」と言いました。そのとき、その子の姉が走り寄って「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りしょうか。」と言いました。「そうしておくれと王女が頼んだので、娘は早速その子の母を連れて来ました。

   王女が、「この子を連れて行って、わたしに代わって乳を飲ませておやり。手当てはわたしが出しますから』と言ったので、母親はその子を引き取って乳を飲ませ、その子が大きくなると、王女のもとへ連れて行きました。その子はこうして、王女の子となりました。

 王女は彼をモーセと名付けて、「水の中からからわたしが引き上げた(マーシャー)のですから」と言いました。「モーセ」はヘブル語では「モーシェ」、「引き上げる」は「マーシャー」です。

   エジプト王が助産婦に命じたのは、ヘブライ人の女の出産を助けるとき、男の子なら殺せという命令でした。助産婦は神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにしまかったので、ファラオは全国民に「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め」と命じたのです。しかし、すべてはむだでした。一人の男の子が網から逃れ出て、その民の救出者となったのです。

   モーセの両親がモーセを隠したのは信仰によるものであるとヘブライ人への手紙11・22で語っています。「信仰によって、モーセは生まれてから三か月間、両親によって隠されました。その子の美しさを見、王の命令を恐れなかったからです。」両親が完全に防水したパピルスの籠の赤子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間においたときも、神の守りと助けを信じて手放したと思われます。両親がこの子の運命を神様に委ねたのです。姉がどうなるかと遠くから見守っていたのは、母の言いつけに従ったのでないかと思われます。また赤子の弟のことを心配し思いやる行為の表れでした。なんのためらいも、恐れももなく、赤子を抱き上げた王女にとっさに駆け寄って乳母としての母を紹介すします。この姉はミリアムと思われます。神様に委ねた子が、再び神様によって母に託されたのです。こうしてモーセは実母のもとに戻り、実母に育てられ、イスラエル人としの自覚を持つことになります。

   王女は赤ん坊が父親の下した殺害命令の対象であることを十分知りながら、自分の子供として養う決意をしました。これは大きな罪を犯すことに他なりません。それどころか、エジプト王女は継母として少年を「モーセ」と名付け、王室に養子として迎えたことを公式に表明したのです。

  仕方なく捨てられた捨て子が不思議にもファラオの王女に助けられ、守られるこの物語には、神は直接現れてはいません。モーセの誕生は、たとえ目には見えなくとも、神の御手の導きがあったことを思わせられます。

  「主は高い天から御手を遣わしてわたしをとらえ、大水の中から引き上げてくださる。敵は力があり、わたしを憎む者は勝ち誇っているが、なお、主はわたしを救い出される」(詩編18・17,18)。

  このことばは、モーセの出生のとき救われた神の御手にも通じることばです。

  このモーセこそ、やがて強制労働の苦しみの中にいたイスラエルの民をエジプトの地から救い出す偉大な民族的、宗教的指導者となるのです。モーセを生み出し、世に送り出すために、母の必死な努力、姉の気転、王女の勇気と不憫に思い養子として育てた慈愛があったこと、更にまた神の御手と導きがあったことを忘れてはなりません。後に、モーセはホレブの山(シナイ山)で主なる神の声を聞きます。

  「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫びを聞き、その痛みを知った。…わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルをエジプトから連れ出すのだ。」(3・7~10)神がすべての有様を見ておられたと言っています。

  「主は天から見渡し、人の子らをひとりひとり御覧になり御座を置かれた所から、地に住むすべての人に目を留められる。人の心をすべて造られた主は、彼らの業をことごとく見分けられる。」(詩編33・13~15)

 「主は国々の計らいを砕き、諸国の民の企てを挫かれる。主の企てはとこしえに立ち、御心の計らいは代々に続く。」(詩編33・10,11)

 

 

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「わたしが示す地に行きなさい」創世記12章1~9節

2015-11-07 18:40:46 | 説教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

日本キリスト教 富 谷 教 会

      週    報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)

    降誕前第7主日    2015年11月9日(日)   5時~5時50分 

         礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 151(主をほめたたえよ) 

交読詩篇   71(主よ、御もとに身を寄せます)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書   創世記12章1~9節(旧p.15)

説  教    「わたしが示す地に行きなさい」   辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 517(神の民よ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷              

後 奏  

                                                                      次週礼拝 11月15日(日)午後5時~5時50分

                                                                               聖書  出エジプト記2章1~10節

                                                                               説教  「救いの約束(モーセ)」

                                                                               賛美歌(21)155 458 24  交読詩篇 84

本日の聖書 創世記12章1~9節

   1主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷の父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい。2わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。3あなたを祝福する人をわたしは祝福しあなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る。」

     4アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。

      アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。5アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、ハランで加わった人々と共にカナン地方へ向かって出発し、カナン地方に入った。6アブラムはその地を通り、シケムの聖所、モレの樫の木まで来た。当時、その地方にはカナン人が住んでいた。

      7主はアブラムに現れて、言われた。

      「あなたの子孫にこの土地を与える。」

      アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。

    8アブラムは、そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ。 9アブラムは更に旅を続け、ネゲブ地方へ移った。

      本日の説教

   創世記11章前半で創世記の第一部であるいわゆる神話の部分が終わって、12章から第二部の族長伝説に入ります。

    創世記11章26節から32節までのところには、アブラハムの父テラの系図が記し、アブラハム物語の導入部になっています。

  アブラハム[多くの者の父の意味]という名は神によって改名されるまでは、アブラム[高められた父]という名でした。父の名はテラで、弟はナホルで、もう一人の弟の名はハランでした。ハランにはロトが生まれました。アブラハムの生まれ故郷はカルデアのウルです。

  アブラハムの妻の名はサライ。神によって改名された名で、初めはサラでした。アブラハムの弟ナホルの妻の名はルカでした。ミルカは妹ハランの娘です。ハランにはもう一人娘がいて、名はイスカでした。アブラハムの妻サライは不妊の女で子供ができませんでした。

                テラ

                 ↓ 

   アブラハム        ナホル            ハラン

   妻サライ(異母兄弟)  妻ミルカ(ハランの娘)      ↓

      創世記20・12                娘ミルカ、息子ロト、娘イスカ

    テラは、息子アブラハムと孫ロトと嫁のサライを連れてカルデアのウルを出発して、カナン地方に向かったが、ハラン[人名のハランと地名のハランは原語では綴り字が違います]まで来ると、そこにとどまって生涯を終えました。(地名のウル、カナン、ハランは、新共同訳聖書巻末の1聖書の古代世界を参照)

        

   ≪ヨシュア記24:2-3にはウルという地名は出ませんが、その地は「ユーフラテス川の向こう」にあり、そこでアブラムの父テラは、異教の神々へ仕えていたことが記されています。神はアブラムたちを、そのような異教的生活の地から連れ出して、約束の地へと導き出されたと考えらえます。ウルはユーフラテス川下流沿岸の古代都市です。ハランは同じユーフラテス川上流の都市です。

  創世記12章には、アブラハムの召命と移住が記されます。主はアブラハムに、≪あなたは生まれ故郷の父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい≫と命じます。≪生まれ故郷≫は直訳すると、<あなたの地から、あなたの親族から>となります。ハランは生まれ故郷ではありません。≪ハラン≫から離れて、ということです。わたしが示す地に行きなさい≫は、神の目指す新しい共同体の成立する場へ向けての出発が強く促されます。祝福の約束が続きます。<ハラン>は、現在のトルコの東の方の町ウルファに、ハランの遺跡があります。シリア国境に近い地です。

  ≪わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように≫。アブラハムには罪と呪いに陥った人類を救うための仲介者としての使命を与えられるのです。選民イスラエルの歴史がアブラハムから始まるのです。アブラハムはイスラエルの父と言われ、イスラエル民族の始祖です。

   アブラハムは甥のロトと共に、主の言葉に従って旅立ました。紀元前1950年頃、エジプト第十二王朝(1991~1778)時代のことです。(ちなみにエジプト初期王朝は、紀元前3125ころから、首都メンフィスで始まっています。) 

   主はアブラハムが向かう先を≪わたしが示す地≫としか言わなかったが、五節では、アブラハムはそれをカナン地方であると理解しています。アブラハムの父テラがアブラハム、サラ、ロトを連れてカルデアのウルを出発して向かったのがカナン地方であったここから、テラもアブラハムと同じように主から命令を受けたのではないかと思われます。15章7節で、主はアブラハムに「わたしはあなたをカルデアのウルから導き出した主である」と言っています。

  アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳でした[アブラハムは百七十五歳まで生きたとされています]。アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、ハランで加わった人々と共にカナン地方へ向かって出発し、カナン地方に入りました。

  アブラムはその地を通り、シケムの聖所、モレの樫の木まで来ました。当時、その地方にはカナン人が住んでいました。 ≪シケム≫はカナン地方のほぼ中心に位置しています。(聖書巻末の4統一王国時代のシケムの位置を参照。)シケムの聖所、モレの樫の木は一種の聖木で神が託宣を与える場でした。7節では主が、この場に顕現し、カナン地方をアブラハムの子孫与えるとの約束をアブラハムにします。アブラハムは彼に現れた主のために、そこに祭壇を築きました。シケムの聖所はカナン先住民の聖所で、エール礼拝が行われていました。

   主が言われた≪わたしが示す地≫は、やはりカナン地方であったのだが、カナン地方にはすでにカナン人が住んでいたので、アブラハムはここに住むことが出来ませんでした。アブラハムは、そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼びました。≪ベテル≫という地名は、ヤコブが旅の途中、夢を見た地で、「神の家」という意味です。その町はそれまではルズと呼ばれていました。≪西にベテル、東にアイ≫は、 13章の物語の舞台となるところです。≪主の御名を呼んだ≫とは祭儀を行ったということです。

   アブラハムは更に旅を続け、ネゲブ地方へ移りました。≪ネゲブ地方≫はユダ山地の南側の地域のことです。

   ヘブライ人への手紙11章8節では、「信仰によって、アブラハムは、自分の財産として受け継ぐことになる土地に出ていくように召し出されると、これに服従し、行く先も知らずに出発したのです」と記しています。アブラハムは住み慣れた土地を離れ、親族と分かれて旅立ったのは大きな犠牲を払って神の言葉に信頼して行動したのであり、「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する」(ヘブライ11・1)信仰によるものでした。アブラハムは、<信仰の父>と呼ばれるにいたった人です。創世記25章10節まで、アブラハムの物語は続きます。

  「信仰によってアブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、…幕屋に住みました。…自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを言い表したのです。…実際は、更にまさった故郷、天の故郷を熱望していたのです。…神は彼らのために都を準備されていたからで」(ヘブライ11・9~16)。

   わたしたちにも、勇気をもって決断しなければならないことがあります。アブラハムの場合のように、人生の転機に立たされた時には、不安があっても、神のみこころを求め、神の導きを信じて従い、必ず神が守って下さるという神への信頼に立っことが、わたくしたちを勇気ある決断に導きます。

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永眠者記念礼拝説教「わたしは道であり、真理であり、命である」

2015-11-05 11:35:13 | 説教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

日本キリスト教 富 谷 教 会

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)

   永眠者記念礼拝    2015年11月3日(火・文化の日) 11時~11時50分 

       礼 拝 順 序

招 詞    詩編68篇20-21節

      「主をたたえよ。日々、わたしたちを担い、救われる神を。この神はわたしたちの神。主、死から解き放つ者。」

讃美歌(21) 492(み神をたたえる心こそは) 

交読詩篇   84(万軍の主よ、あなたのいますところは)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書   ヨハネによる福音書14章1~6節 (新p.196)

説  教   「わたしは道であり、真理であり、命である」     辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 382(力に満ちたる)

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷              

後 奏  

  本日の聖書 ヨハネによる福音書14章1~6節

  14:1「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。 14:2わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。 14:3行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。 14:4わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」

14:5トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」

14:6イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。

     説 教

 「永眠者記念礼拝」とは、神に召されて亡くなった方々を覚えて礼拝することです。 

 「命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます。…いかに幸いなことでしょう。あなたの家に住むことができるなら、まして、あなたを賛美することができるなら(詩編84・3,5)」、とあるように、今は天に迎えられ、神を賛美している方々を覚えながら、わたしたちはみ神をたたえるのです。

 アブラハムから始まった創造主への信仰は、「わたしの示す地に行きなさい」と言われた神に、聞き従うことから始まりました。それは、紀元前1950年頃、エジプト第二王朝時代のことです。すでに、アブラハムを呼び出された時から、神は世界の民を救うために御子・キリストを世に与えるご計画を立てておられました。

 イエス・キリストによる救いが分かるのは、信仰によらなければなりません。信仰は神のことばを聞くとき、キリストの福音を聞くときに与えられます。聖霊の恵みによって、神の愛、キリストの愛が分かり、キリストの復活も信じることができるようになるのです。信仰は神がわたしたちに与えてくださる恵みによって生じるのです。

 聖書は人間の罪や死を次のように教えています。人間は、人間を造られた神と霊的に交わり、神に生きる特別な存在として創造されました。それにも関わらず、神に背を向け、神に従うのではなく、神から自由になって、自分が主人となり、自分の思いに従って生きる者となりました。<罪>とは、神に背を向かせる方向に働く霊的な力であり、人間に及ぼす支配力です。人間は、この罪に陥ったため、神との関係は破れ、神との交わりを絶たれ、罪のゆえに死ぬべき存在となりました。この罪によって神との関係だけでなく、人間同士の間の愛の関係も損なうことになりました。

 罪の故の死は、ただ身体が死ぬということではなく、霊的存在としての人間が、神との霊的交わり失い、霊的に死んでいる状態を言います。身体の死はその結果であり、死とはそのような霊的な死をもたらす支配力を言います。罪と死は一体として人間を支配する霊的な力なのです。この罪があるために、神の前には正しい者は一人もいないのです。罪の自覚が生じるのはそのためです。

 罪の支配下にある人間へ、罪へ誘う欲情が働き、死に至る実を結ぶせます。それが、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、貪欲といったものです。このような罪を犯す者は神の怒りのもとにあります。罪にそまっているわたしたちは、行いによって神に正しい者と認められることは不可能です。御子キリストの救いを信じる信仰によってのみ、正しい者とされ、神との霊的な交わりを取り戻すことができるのです。神の霊を受けて歩む人間は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制の実を結ぶ人になります。

  神の御子イエス・キリストは、この罪と死の支配するこの世に来られ、十字架の死によるあがないによって人間の罪を赦し、陰府(よみ)にまで降って、死を打ち破って復活し、天に昇られました。わたしたちのために天に場所を用意してくださるためです。

 洗礼式は、イエスの十字架の死とあずかって、イエスと共に死に、イエスの復活にあずかって、新しい命をいただき、聖霊を受けて生きる者とされるための式です。

 イエスは、最後の晩餐のあとの告別説教で、弟子たちに、わたしは「場所を用意しに行く」と言われました。イエスは、これから受ける苦しみ(十字架の死)と栄光(復活)を、弟子たちが父の家に入ることができるようになるために準備しておられます。イエスは道であり、真理であり、命です。イエスを通らなければ、だれも父のもとに行くことができないのです。

 信仰の証人となった聖徒たちは、様々な困難な闘いの中で、最後まで信仰を捨てず、この世の幸いよりも、永遠の御国に憧れて、その生涯を走り終えました。そして御国へと力強く凱旋されたのです。人生は死をもって終わるものではありません。死はしばらくの間の眠りです。そして、永遠の光の中で再び目覚めるとき、私たちは、キリスト顔と顔とを合わせてお会いすることになり、信徒同士もまた神を賛美し、手と手をとり合って共に喜びに溢れるでしょう。その喜びを奪い去る者はだれもいません。死に勝利させてくださる十字架と復活の主と、御子を世に下さった父なる神に感謝をささげましょう。

   祈 り

  聖なる天の父よ、きょうわたしたちは過ぐる日みもとに召された辺見哲三兄、加藤英治兄、加藤昌子(よしこ)姉を記念して、世に会った日をしのび、またご遺族の上に主の慰めを祈り、礼拝をささげるためにここに集まりました。どうか、み言葉によって主の深いみ旨をさとらしめ、主の慰めとみ恵みとを豊かに与えてください。兄弟、姉妹が世にあったとき、主にある交わりを与えられ、共に主の恵みあずかったことを深く感謝いたします。

  今は主のみもとに受け入れられ、平安と祝福とのうちにあることを信じて、み名をあがめます。また、わたしたちも兄弟姉妹のよい模範にならい、心を尽くして主に仕える者とならせて下さい。救い主イエス・キリストのみ名によってお願いいたします。アーメン。

 

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「罪に陥った人間とキリストによる救い」創世記3章1~15節

2015-10-31 11:59:57 | 説教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

               日本キリスト教 富 谷 教 会

      週    報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)

          降誕前第8主日    2015年11月1日(日)       5時~5時50分 

         礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21)   6(つくりぬしを賛美します) 

交読詩篇   51(神よ、わたしを憐れんでください)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書   創世記3章1~15節(旧p.3)

説  教   「罪に陥った人間とキリストによる救い」   辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21)  68(愛するイエスよ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷              

後 奏  

                                                              次週礼拝 11月8日(日)午後5時~5時50分

                                                                   聖書  創世記12章1~9節

                                                                    説教  「神の民の選び」

                                                                   賛美歌(21)151 517  24  交読詩篇 71

        本日の聖書 創世記3章1~15節

  1主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」

  2女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。 3でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」

    4蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。5それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」

    6女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆(そそのか)していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。7二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。

    8その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、9主なる神はアダムを呼ばれた。  「どこにいるのか。」

   10彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」

   11神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」

   12アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」

   13主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」

  14主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前はあらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。15お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く。」

     本日の説教

   創世記1章1節から2章3節までの創造物語は、イスラエルの祭司記者によって、バビロンの捕囚地で書かれたものであることを、先週の礼拝でお話しいたしました。イスラエルの民は国を失い、民族の滅亡の危機にあって、国を失ったのは自分たちの罪のためであったことに気付いて悔い改め、神に選ばれた民である自覚を取り戻し、世界の民を生かしているのは、天地を創造した神であることを、創造物語で告白したのです。

    創世記2章4節bから、3章24節までの楽園の創造と喪失は、神の名が祭司記者が用いた<エロヒーム>というヘブライ語ではなく、<ヤーウェ>という語が用いられており、祭司記者は創世記を書くのにこの資料を用いました。この資料は、捕囚前のソロモン王朝時代に、南ユダ王国で成立したと言われています。

   2章4節bから25節までの2章では、神の意志の実現としての人間の創造が語られました。

   3章は、男と女が、取って食べてはいけないと神から禁止されていた木の実を、蛇にそそのかされて取って食べてしまい、エデンの園から追放されるという物語です。神の意志にそむく人間の罪と神の罰としての呪いのもとにある人間の現実的な姿が描かれます。

   この物語の中で、蛇が神の言葉への不信をもたらすために登場したのが蛇でした。蛇もまた神によって造られたものでした。腹で這い歩く蛇の不気味さを古代人もきらい恐れました。古代エジプトやメソポタミヤでは蛇が知恵の象徴でした。野の生き物のうちで最も賢「」が女に「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」と問いかけます。罪に陥ることは、たんなる心の中の現象ではなく、人間の人格に働きかける不気味な力によって惹き起こされる事件として、蛇がそのワキ役でした。主イエスの荒れ野の誘惑のときは、誘惑するものは悪魔でした。この神話では蛇が悪魔の役割を果たしています。

   この蛇の問いかけに注意すると、神は「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしま」と、神は「すべての木の中の一つだけ」を禁止されたのに対して、蛇が神の禁止の範囲を、ことさらに拡大してみせたのは、女に口を開かせるための誘導尋問でした。神が言われたのは、すべての木に対する禁止命令のように、不満をさそい出すように問いかけています。

   それに対して、女は、一応、神のことばを正しく再確認して、「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。 でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました」と言います。<てもいけない>は神の言葉にはありません。女は神の言葉を忠実に守ろうとするあまり、神の言葉を拡大解釈し、自分の言葉を付け加えています。神様の命じた禁止がよりきびしいものとしてうつり不満の思いが生じています。その不満をあおりたてるように、さらに蛇は言います。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」。蛇はまるで神の手の内を知り尽くしているように語ります。人のために配慮して神が禁止したことに対して、神の善意を疑うように語りかけたのです。それを食べると神のように善悪を知るものとなると誘惑したのです。「善悪を知る」とは、全知全能になるということです。神の禁止命令は人間を束縛し、不自由にする悪意あるものではないのかとの疑いをいだいたのです。神に従って生きるのではなく、自由になって、自分の思いに従って生きようと思ったのです。ここに人間の神様に対する背きの罪があります。人が神から自由になって神のように」なりたいと思う傲慢に、聖書は人間の罪の根を見ます。罪の本質は、神に背を向け、神に従うのではなく、自分が主人になり、神様に成り代わろうとすることです。

   女がその木を見ると、いかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆(そそのか)していました。女が誘惑に敗れた時の三つの語、<おいしそう><目を引き付け>賢くなる>は、人間の欲望やそそります。彼女はついに取って食べ、一緒にいた夫に渡したので、彼も食べました。

  その結果、<目が開け>自分たちが裸であることに気づきました。楽園では、「人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」のです。しかし今や何かが失われました。人間のあるがままの姿を素直にあらわすことが出来なくなったのです。裸であることに気づいて、その恥と不安を少しでも隠そうとして、二人はイチジクの葉をつづり合わせ腰に巻きました。禁断の木の実を食べるという違反行為は、「神の人への善意を疑う」という、神への不信から生じた結果でした。

   その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきたので、アダムと女が、神の顔を避けて園の木の間に身を隠しました。神のいましめにそむいたため素直に神の前に立てないのです。罪の結果は明白でした。人と妻は神の顔を避けて存在するものとなったのです。神はアダムにどこにいるのかと呼ばれました。罪を犯し、神様の顔を避けて身を隠す人間に、「あなたはどこにいるのか」と神はこう呼びかけられます。わたしたちの魂の在処(ありか)を尋ねる神の声です。

   彼は「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから」と、答えました。「あなたの目に自分の裸をさらすのが恐ろしいから身を隠した」と答えたのです。「裸」も「恐れ」も、「隠れた」のもほんとうの動機ではありません。本当の動機は、神の命令を破ったからです。しかし、その真実は告白から省かれました。

   神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか」と問いました。すると、アダムは「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」と言う表現で、自分の罪の責任を神と女の両方に転嫁しており、神の言葉を無視した自分の罪を認めようとはしていません。

   神は女に向かって、「何ということをしたのか」と言われました。女は「蛇がだましたので、食べてしまいました」と答えました。女は蛇に自分の罪を転嫁したのです。神への反逆は彼らの連帯責任であったはずなのに、男は女に罪を着せ、女は蛇のせいにしました。今まで一心同体として愛と信頼で結ばれていた夫婦が、自己防衛のためにその一体性を一瞬にして切り捨ててしまいます。その結果、蛇は最も呪われて、きらわれものとなり、女と蛇は恨(うら)み合う仲となりました。「彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く。」人間と罪の力との間に続く幾世代にも及ぶ闘いが記されています。

  アダムとエバ二人は罰せられ、楽園であったエデンから追放されるのです。神への背きの罪のために、人はいのちの源である神との親しい交わりを失い、死すべきものとなりました。

   アダムとエバの物語は、人間が罪に陥る過程を実にリアルに表現しています。聖書はアダムとエバが罪に陥る物語を通して、わたしたちすべてがかかえている罪の問題を指摘しているのです。

   罪に堕ちた結果は、このように、神との関係が破れて、信頼と交わりが失われ、人間同士もまた対立し、憎み合い。利用し合うようになっている状態をいうのです。しかし神は、これをひどく悲しみ、「あなたはどこにいるのか」と呼びかけながら、尋ね歩かれるのです。イエス・キリストは、わたしたちを、もう一度、神との交わりに呼び戻そうとして、この世に来られたのです。

   神話の衣をまとった物語の主人公を指す<アダム>という名は、ヘブライ語では「人・人間」という意味の集合名詞で、現実の人類を代表しています。人間そのものの姿をアダムという「一人の人」に起こった出来事として物語っているのです。アダムはすべての人間を代表であり、人間全体の象徴であって、「人間というものは」という全体の問題として創世記に書かれているのです。

   パウロは<罪>について語るとき、<罪>とは、神に背を向かせる方向に働く霊的支配力のことを指しています。

   このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです(ローマ5・12)。

   このパウロの言葉は、従来アダムの罪が人類に継承され、宿っているという人間の原罪を理解する根拠とされてきました。しかし<すべての人が罪を犯したからです>という理由づけがあるように、罪の責任が個々の人間にあることを語っています。<一人の人>というのは、全人類の代表としての「最初のアダム」のことであり、アダムにおいて、アダムと共に全人類は罪を犯したために、全人類に罪と死が支配しました。<死>とは、ただ身体が死ぬことではなく、霊的存在としての人間全体が命の起源である神から切り離されて死んでいる状態(身体の死はその結果)であり、そのような死をもたらす支配力を言います。罪と死は一体として人間を支配する霊的力なのです。

   実にアダムは、来るべき方を前もって表す者(5・14)>だったのです、とあるように、最初のアダムは、最後のアダム(1コリント15・45)となられた十字架のの贖いによって救いをもたらすイエス・キリストを待ち望む者だったのです。神の恵みにより、<一人のイエス・キリストを通し>て、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。その恵みの賜物は罪とは比較にならないほど大きいのです。

   最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。…わたしたちは、土からできた人の似姿となっているように、天の属するその人の似姿にもなるのです(1コリント1・47~49)。

   なんとすばらしい恵みを、わたしたしはキリストにあって受けているのでしょう。罪と死との支配から解放され、天に属するキリストの似姿にわたしたちは変えられつつ、その完成を目指しているのです。

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天地と人間の創造

2015-10-25 14:34:35 | 説教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

               日本キリスト教 富 谷 教 会

          週    報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)

       降誕前第9主日  2015年10月25日(日)      5時~5時50分 

          礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21)   6(つくりぬしを賛美します) 

交読詩篇  148(ハレルヤ。天において、主を賛美せよ。)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書   創世記1章1~5、24~31節a(旧p.1、2)

説  教     「天地と人間の創造」    辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 281(大いなる神は)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷              

後 奏  

 

                次週礼拝 11月1日(日)午後5時~5時50分

                    聖書  創世記3章1~15節

                    説教  「人間の堕落」

                    賛美歌(21)6 69  24 交読詩篇 51

 本日の聖書 創世記1章1~5、24~31節a

  1初めに、神は天地を創造された。2地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。3神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。4神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、5光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。

………

  24神は言われた。「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」そのようになった。25神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。26神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」27神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。28神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」29神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。30地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。31神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。

     本日の説教

 創世記の一章一節には、「初めに、神は天地を創造された」とあります。そして神が宇宙や世界、そしてあらゆる生き物を造られたことが記されています。

  しかし、現代の自然科学的宇宙論や人間を含めて動植物の進化の過程を知っている現代人にとって、聖書の物語はでたらめな神話にすぎないとして、否定してしまう人が多いのではないかと思います。

  自然科学が究明しようとしていることは、自然現象の生成過程についての客観的な事実の解明です。それに対して聖書の記している創造物語は天地の起源という物語を通して、この世界の存在の意味や、人間の生きる目的についての真理を知ることにあります。

  創世記一章は、世界がどのようにして成立したか、を説明するために記したのではありません。そうではなく、世界と人間の存在の確かさ、その意味はどこにあるのか、という根源的な課題に答えたものです。

  創世記一章は、およそ紀元前六世紀頃、バビロニアの捕囚(ほしゅう)地でイスラエルの祭司記者によって書かれました。イスラエルのユダ王国はバビロニア帝国に滅ぼされ、多くの民は捕囚の民として連れ去られ、苦役に服しました。紀元前597年から538年にかけて、60年近い捕囚の時期がありました。彼らにとって、そこは「異教の地」であり、多神教と偶像礼拝の支配している地でした。当時世界最大の都バビロンでは壮大な祭りが行われていました。新年祭には巨大な神像が運ばれる行列を見て、イスラエルの民は圧倒されたに違いありません。バビロニアの勝利はバビロンの神の勝利であると誇り、イスラエルの敗北と亡国は、彼らの信じるヤーウェ(主なる神)の敗北としてあざけられ、彼らは屈辱を味わいました。イスラエルの国家は滅び、神から与えられたとする嗣業の地を失い、神との契約は破棄され、それまでの社会体制は崩壊しました。それは大きな変動と荒廃の時代でした。このような崩壊と虚無の中から、祭司記者といわれる人々は、まず<世界>の存立の根源を問いはじめました。創世記一章は、こうした激動期に捕囚地バビロニアで成立したのです。

  第一章の創造物語は、バビロニアの創造神話からの影響の下に成立したと言われています。ただバビロニア神話の方は多神教ですが、聖書の創造物語の方は、イスラエルの唯一神教の信仰によって修正され、独創的なものになっています。このように、創世記一章は、世界がどのようにして成立したかを説明するために、記したものではありません。そうではなく、世界と人間の存在の意味、その確かさがどこにあるのか、という当時の緊急かつ根源的な課題に答えたものです。イスラエルの民は、偶像を崇拝するバビロニアの民に精神的に屈することをしませんでした。深い悔い改めとともに、国を失ったのは自分たちの罪の故であることを認め、神に選ばれたイスラエルの歴史を回顧し、唯一の創造神を信じ、神は必ず自分たちを守り、この苦役から解放してくださると期待したのです。

 「主の御前に、国々はすべて無に等しく、むなしくうつろなものに見なされる」(イザヤ書四〇・一七)。第二イザヤはその預言の冒頭から、バビロンの巨大な神像は細工人の造ったものに過ぎないこと、真の創造主はマルドゥクの神ではなく、唯一の神ヤーウェであること、それゆえイスラエルは「主を待ち望む」べきことを歌っています。創世記第一章の天地創造物語の背後には、このような信仰の闘いがあったことを知る必要があります。

  「初めに、神は天地を創造された」(一節)。

  一節は創造物語全体を要約する序文です。<初めに>とは、世界の初めのことですが、イスラエルは捕囚という国家と民族の滅亡の危機にあって、自分たちの存在意義とその「救い」を求めるために世界の<初め>を問いました。それは単なる知識の興味としてではなく、彼らの生死をめぐる信仰の闘いの問題としての切実な問いでした。イスラエルの民は、捕囚の中で神の全能とその恵みを知らされ、世界の始原について、「初めに、神は天地を創造された」と告白せざるを得なかったのです。<初め>に おられる方は、創造者にして人格的な唯一の神です。

  <神>は、ヘブライ語の原典では、エローヒーム(力を表わすエルの複数形)という語が用いられています。これは、諸種の働きや、尊厳性の表現としての複数形であって、多神教の神を表しているわけではありません。<天地を>とは、天と地、つまりこの世のすべてのものを、という意味です。<創造された>のヘブライ語バーラ-は神の創造行為にのみ用いられる語で、何らかの材料を用いて作る場合の語はアーサーです。従ってバ―ラーは「無からの創造」を示しているのです。

  イスラエルはこの創造物語において、歴史を開始し、これを治め、これを審き、かつ救う全能の主なる神を告白しているのです。この言葉の根底には一切のものの造り主である創造者への賛美と神への服従があります。

  二節は、独立した句で、一節や三節とのつながりはありません。二節で、深く見つめているのは世界の<不確かさ>です。二節は、<地><深淵><水>が既存のものとして描かれているので、一節の「無からの創造」と矛盾します。これはバビロニアの創造神話の影響によるものです。一節の「無からの創造」との関連を求めるなら、神の創造の第一歩は「混沌」の創造であったことになります。しかし大切なことは、バビロニアの神話を借用しながら、その神々に勝るイスラエルの神の唯一の主権を告白する意図がここにあることです。

  <地は混沌であって>とは、秩序がなくなり、荒廃している様子を示しています。「形も姿もなく」と訳される荒涼とした情景を表現しています。

  <闇が深淵の面にあり>の≪深淵≫とは「原始の大洋」のことで、古代の神話的世界像に共通して見られる宇宙生成以前の状態を海のイメージで表したもので、「底なしの深み」を言います。底なしの深みにしかも≪暗闇≫がおおている世界という見方、それが祭司文書記者の現実認識でした。

  <神の霊>の≪霊≫は、「息」「風」という意味もある語なので、ここは「激しい風」と訳すこともできます。二節は暴風雨のときのような海のイメージで創造以前の状態を描写していると解することができます。

  創世記一章の記者の見つめている現実世界は、強風が間断なく荒れ狂う底知れぬ深みを、暗闇がおおう、混沌とした荒涼世界です。混沌は空しく空虚で、何もありません。聖書はこの死の現実を厳しく見つめます。

  「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」(三節)

  <神は言われた>とは、創造は神のみことばによる、ということです。みことばは神の力です。神が<光あれ>と言われたのは、明確な命令のことばであり、神の意志の表現です。神が最初に創造した光は、太陽や星の光ではありません。太陽や星の創造は一六節で語られます。

  この光は天体の光ではありません。混沌や闇や深淵を手に取るように照らし出す、希望と慰めに満ちた光です。この光によってすべてのものが整然と秩序正しく形づくられていくのです。この光はやがて「わたしは世の光である」(ヨハネ9・5)と宣言されたイエスによって、より具体的に輝くのです。この光が暗闇を照らしたことは、

  神の意志が創造された世界に貫徹されたことを意味します。<神は光を見て、良しとされた>。神は創造されたものを、満足と喜びの対象として見られます。底なしの深みと混沌の海を照らした光は夜と昼を分ける秩序の光です。

  世界は神に見捨てられたのではなく、神が語りかけ、それが実現する世界です。

  「神は…闇を夜と呼ばれた」(五節)。<呼ばれた>は、<名づけた>とも訳される語で、これは、神の主権と支配を意味します。神が闇を夜と名づけた、とは、神が闇をご支配のうちに置かれたことを示します。キリストが陰府(よみ)にくだられたのは、キリストが死の深淵の支配者となられたとの勝利の告白です。

  五節は、「こうして夕方となり、朝となった」という文です。イスラエルの一日は夕方六時より始まります。神は地上に家畜、這うもの、地の獣を創造され、これを見て、良しとされました。

  次に、神は御自分にかたどって人を創造されました。神にかたどって創造された。男と女に創造されました(二七節)。

  <ご自分にかたどって>は、ヘブライ語を直訳すると、「われわれの形・像として、われわれの姿・摸像のように」となります。神が自らを<われわれ>と複数形表現しているのは、尊厳の複数形とか三位一体性を意味するとか、いろいろな解釈があります。これは古代オリエント世界の神話を背景とした「主なる神を中心とした天的存在の議会」というイスラエルのイメージに由来するもので、ここでは「神の熟慮・決断」の表現として用いられているようです。<人>は、集合名詞の「人間」「人類」という意味です。人が「神の像として造られた」ということは、人間の外形が神に似ているという意味ではなく、人間が神と霊的に交わることができる、神に向き合う者として造られたということです。人間は「神の像」としての尊厳と地を支配する機能を担うべき存在として創造されたのです。

  <見よ、それは極めて良かった>は、創造全体の総括として最上級の表現を用いています。創世記を記した祭司記者は人間の創造の背後に強烈な神の決意のあることを知ったのです。「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這生き物をすべて支配せよ。』」(二八節)。

  「産めよ、増えよ」とは、呪われた世界に対する神の祝福の言葉です。神は彼らを祝福して言われたのです。この祝福は人間に大きく未来を開く生命力を与えるものです。

  「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです」(ヘブライ十一・三)。

  わたしたちは信仰により、存在するすべてのものを無より創造であることを知り、全能の神を告白するのです。信仰は神のことばを、福音を聞くことにより生じます。この創造の神により頼む人は、詩人も歌っているように助けを得ることができるのです(詩編一二一・一、二)

  「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る、天地を造られた主のもとから。」

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