あなたの口ぐせはなんですか?

2004年11月22日 14時25分47秒 | Weblog
「夢の実現方法」を生理学の理論で解説してくれる本
http://allabout.co.jp
運命は「口ぐせ」で決まる(佐藤富雄 著 三笠書房)

目次
1章 人は誰でも「口ぐせどおりの人生」を歩む―“言葉の力”で誰でも簡単に人生を「いい方向」に動かせる(仕事、健康、人間関係…「口ぐせ」の法則に例外はない
なぜ「思い込む」だけで人生が変わるのか? ほか)
2章 「望む人生」を口に出した瞬間から…―“口ぐせ”と“エンドルフィン”の不思議な関係(「古い脳」と「新しい脳」―二つの脳をうまく利用する方法
脳は「想像」と「事実」との区別がつけられない!? ほか)
3章 思いどおりの人生をつくる「脳のメカニズム」―“成功する脳”はこうしてできる!(あなたの「自己像」は、何からできている?
あれこれ悩むより、“脳のコンピュータ”にすべてまかせてみよう ほか)
4章 驚きの効果!…短期間で人生はここまで変わる―ツイてる人に学ぶ“口ぐせ”の法則(いい言葉は「いわれた人」より「使った人」に効果がある!
“ほめ上手”の人が仕事で成功するのは科学的理由がある ほか)
5章 運をつかむ人の24時間―“口ぐせ”習慣から仕事術・生活術・健康術まで(望みは思いきり“ぜいたく”にしていい
“失敗体験”を私がけっして口に出さない理由 ほか)


本の表紙を見たときに、著者の肩書きに「医学博士・理学博士」と書いてあったのが手に取ったきっかけです。この本なら、私がいままで漠然と求めていた「精神論とか気合いとかじゃない話」が書いてあるのでは?と思ったからです。
多少抵抗を感じる箇所もありましたが、人間という生き物の仕組みから積み上がった話は「なるほどー」の連続。理屈で理解したい私のようなタイプにはオススメの一冊です。

人間の脳は「古い脳」と「新しい脳」でできている
進化の過程で古くから生物に備わっている生命維持などを司る脳が「古い脳」、人類に備わっている思考を司る脳が「新しい脳」。新しい脳がいろんなことを考えると古い脳がそれに反応して、例えば悲しいと考えると涙を流してくれるらしいのですが、古い脳は新しい脳が考えたことがホントなのかウソなのか、「想像」なのか「事実」なのかを判別できないんだそうです。
なので、新しい脳が前向きなことばかりイメージしていれば、古い脳はある意味だまされて、行動としてできなかったことをできるようにしてくれる。
私の表現が適切かどうかはわかりませんが、一番「へぇ~!」と思ったのはここでした。

口にした言葉が脳を一番刺激する
聞いた言葉ではなく、自分で口にした言葉は脳のある部分に刺激を送るとのこと。そこから目的を達成するように指令が出て、身体のすべてが達成に向けて動き出す。難しいことはよくわからない部分もあるのですが、自分の身体がそういう仕組みになっているのであれば、それを利用しない手はないですよね。
また、身体を健康な状態に保つことの重要性も語られています。身体の機能をうまく使っていくためには、そういった基本的なことも確かに大切ですね。改めて生活習慣の見直しは必要なのだなと、ちょっと反省もしました。

2004/11/22-2004/11/28

2004年11月20日 16時08分31秒 | Weblog
http://www.st.sakura.ne.jp/~iyukari/week/weekly.html

2004/11/22-2004/11/28 かに座の空模様。

愛に満ち、仕事にも意欲的で、わくわくする目的地を目指している貴方です。
でも、人は目の前にひらけたモノだけでできあがっているわけではありません。
ほしいモノや愛するモノ、
がんばる対象、暖める居場所は
みんな「過去」にその根拠を持っています。
隠された場所に、その存在を支えてくれる何かがあります。

一般に、病気になることや失敗すること
苦労することや恥をかくことは
できればさけたい、悪いこと
とされています。
でも、今現在貴方が手にしているモノのうち、
ひとつでも、そういうネガティブな経緯を持たないモノってあるでしょうか。
失敗したからこそ、
道を間違えたからこそ、
今こういうことを知っていて、こういう仕事につけている。
恋に破れたつらくきびしい経験が
今の愛を育てるためにどれだけ役に立っていることでしょう!

今週、
貴方が消化してきた過去の苦しみや、人に言えない障害が
またひとつ、貴方の役に立ってくれます。
今週災難が起こると言うよりは
すでに乗り越えてきた災難が、
今貴方の手の中で「役に立つ」のではないかとおもいます。
見た目やフラッシュバックする気持ちに負けないでください。
今まで歩いてきた道にあった溝やトラップにおとした種が育って
いま、貴方が食べることができる果実が運ばれてくるのだと思います。


2004/11/22-2004/11/28 みずがめ座の空模様。

愛情が満ちます。
今まで試行錯誤しながら求めてきたことが、
ある形になって貴方の元に現れるとおもいます。
あるいは、
目指す愛情の形が見つかるのかもしれません。

貴方は今、仕事に燃えていたり
なにか注目を浴びる場所にたって
アクティブに動いている最中ではないかな、と思います。
プライベートよりも、外での活動の方が活発なので
あまり「自分の柔らかな気持ち」に
関わっている時間がないかもしれません。

でも、そんなふうに活発に輝いている貴方は
非常に魅力的なのだろうと思います。
貴方の、常に外に高く向かう生き方や考え方を
十分理解し、支援し、愛してくれる人が
今週、貴方の傍らでほほえんでいてくれる気がするのです。

今は、望みがどんどん、鳥のように飛び立っていくときです。
貴方の理想とするイメージや意欲を燃やせることが
どんどん実現していく課程にあります。
そんななかで
貴方が個人としてどのくらい絶対的な価値を持っているのかを認識できるのは
なによりの、運命の神様のプレゼントなんだな、っておもえるのです。

コラム:宗教とは何か

2004年11月15日 13時13分06秒 | Weblog
前に宗教についてのコラムを書いたとき、様々な方からご意見をいただいた。そこでわかったのは、「宗教」という言葉の定義がそもそも違うということである。私は「皆、宗教=カルトだと思っている」と書いたとおり、世の中の人が宗教を変に誤解しているだろうと思っていた。そしてその通りだった。

前のコラムで一番よくあった批判は、「絶対唯一のものはない(諸行無常)」を信じているからといって勝手に仏教徒にするな、というものだった。こう言う人には、仏教徒とは何かを考えてほしい。仏教徒とは、仏教の教えを正しいと信じる人のことである。そして、仏教の教えとは何かというと、「絶対唯一のものはない」という教え(もちろんその他にもいろいろあるが)のことだ。

学校で古典の時間に平家物語を勉強する。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。」この概念は仏教思想である。そして、その概念を理解してテストで答えを書くことを要求される。つまり、学校で堂々と仏教教育が行われているわけである。我々はそういう教育を受けて育ったのだ。仏教を教えられてそれが正しいと信じているのなら、それは仏教徒である。

誤解しないでほしいが、学校で仏教教育をやるなと言っているわけではない。実際には宗教を教育しているのに、宗教に関することは教えていないという嘘をつくなと言うだけだ。国語の時間に人間の内面のような深い哲学を教えようとすれば、宗教を避けるわけにはいかないのだ。

以前、「日本では誰も宗教を教えてくれない」と書いた。これは厳密には間違いだ。正確には「日本では誰も『これは宗教だ』と言って宗教を教えてくれない」である。宗教を教えているのに、そこに宗教というレッテルを貼っていないのである。日本人が「宗教=カルト」だと思っているのもここに原因がある。日本では、カルト宗教や既存の宗教団体以外の人間はたとえそれが宗教的な何かであっても「宗教である」と明言しないからだ。そして、それは明言しないだけで宗教でないわけではない。

宗教とは何だろうか。多くの人は、何らかの宗教団体に入ってそこで説く教義を信じることだと思っているだろう。あるいは、何らかの宗教的行事を行うことだと思っている人もいる。

日本人は無宗教どころか多宗教だ、と言う人もいる。クリスマスになればキリスト教のお祝いをし、大みそかには仏教になり、元日になれば神道になるというのだ。しかし、日本人はクリスマスに本当にキリスト教のお祝いをしているのではない。ただ欧米がお祝いをするのに合わせてわけもわからず騒いでいるだけだ。クリスマスに皆ホテルでもレストランでもなく教会へ行くのなら、日本人はキリスト教徒にもなると認めてもいいのだが。

宗教儀式をすればその宗教の信者になるというわけはない。ただお寺に行けば仏教徒になり、教会に行けばキリスト教徒になるというような単純な話ではない。そこで自分が何をしているのかがわかっていないといけない。自分が何のためにお寺に参るのかがわかってなくて、ただガンが治るとか商売が繁盛するといって参拝するのであれば、それは仏教ではない。ただ白いウェディングドレスが着たいがために教会で結婚式を挙げても、それはキリスト教徒になったことにはならない。

儀式をしたから信者なのではなく、信者だから儀式をするのだ。寺に参れば仏教徒なのではない。仏教徒だから寺に参るのだ。宗教的儀式イコール宗教という考え方は、目的と手段を混同してしまっている。

宗教団体もまた同様だ。もともと宗教団体は、その宗教をもっと深く知りたいと思う人のためのものだ。宗教団体に入っていろんな行事に参加し、あるいはためになる話を聞き、その宗教の教えを自分のものにしたいと思う人のための場所である。するとこれも手段と目的が逆だ。宗教団体に入っているから信者なのではなく、信者だから宗教団体に入ろうと思うのだ。

宗教は心の問題であり、形式や行為の問題ではない。ある宗教を信じているから宗教的行動に出るのであり、その逆ではない。宗教は信じることがすべてである。行動(儀式)はその結果である。

ある宗教の信者になるというのは特定の団体に入ることでもなければ儀式をすることでもない。その宗教が教える考え方を受け入れるということだ。宗教団体や儀式は考え方を受け入れる手助けをするためのものである。教えこそが宗教なのである。

ただ、「受け入れる」の定義もまた難しい。これを「宗教の根本原理を完全に理解する」と定義してしまうと、教徒というのはゼロに等しくなってしまう。禅寺で修行するお坊さんたちも仏教徒ではないことになってしまう。だから、その宗教の考え方をざっと知って「それはなかなかいい教えだ」と思った時から、その宗教を受け入れたと考えるべきだ。どんなに下手くそでもギターを手にした時から人はギタリストになるのだし、いくら120叩こうとゴルファーはゴルファーだ。上手い下手(どのくらいよく教えを学んでいるか)は無関係である。

例えば、仏教徒とは何かというと、仏教の教えを「それはなかなかいい教えだ」と考え、それに価値があると思う人のことである。仏教の教えとは何かというと、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の三大原理とそこから導かれる数々の教えである。もちろん、この言葉を知っていることが仏教なのではない。こうした言葉が語っている内容、簡単に言えば「すべてのものは移り変わる」「すべてのものに目的などない」「だから何物にもとらわれるな」という教えが仏教である。こうした考え方を少しでもかじっていれば、そしてその通りだと思っているなら、それは仏教徒である。

さらに言えば、これらの教えを「仏教だ」と言われずに教えられたとしても、仏教徒であることを否定することにはならない。その人は自分では仏教の教えなど知らないと言うかもしれないが、それは仏教を知らないのではなく、自分の信じているそれに仏教という名前がついていることを知らないだけなのだ。

宗教とは心の問題であると言うと、宗教とはある経典に書いてある文言を一字一句信じることだと思ってしまう人もいる。そして「空からパンが降ってくるわけはない」とか「水の上を歩くなんてできるわけない」と経典に書いてあることを否定することでその宗教そのものを否定しようとする。

経典に書いてあることが一字一句すべて真実だと考える考え方は「原理主義」と呼ばれる。原理主義はカルト宗教であり、まともな宗教人は相手にしない。普通の宗教人は、経典が一字一句すべて間違いなく真実を語っているとは思っていないし、経典が真実を語りつくしているとも思っていない。だから、この点で宗教を批判するのは的外れである。

経典とは何かというと、その宗教の考え方を人々にわかりやすく書いたものである。ここで注意してほしいのは、これが現代に生きる我々にとってわかりやすく書いたものではないということだ。新興宗教でなければどれも千年以上前の人を対象に書かれている。

もし神がモーセに11戒目として「ネットゲームにはまるな」と書かせたかったとしても、ネットゲームに対応する言葉が当時のヘブライ語になければ書かせることはできない。神はもっといろいろとたくさん言いたかったことの中から当時の人々にもわかるように(そして石板の面積も考えて)10項目を選んで書かせたのだ。経典は教えのすべてを含んでいるわけではなく、当時の人にわかる部分しか含んでいないのだ。逆に、当時は意味があったが社会情勢の変化によって今では意味がなくなってしまっているような事もいくつかあってもおかしくない。

経典を常に今風に修正していく作業が、経典の研究と解釈である。今までに多くの神学者、宗教学者、あるいは僧侶などが経典を(その時代の)現代風に翻訳してその当時の民衆に広めた。宗教とは経典ではなく概念である。文言そのものではなく、それが何を言わんとしているかが重要なのである。だから同じ経典でも解釈の違いによっていくつかの派閥ができたりする。そして宗教とは経典が言わんとしている概念を自分の頭の中に作ることである。つまり、経典を自分なりに解釈することである。

宗教の経典は完璧なものではない。それは神が完璧でないからではなく、それを受け取る我々が完璧ではないからだ。経典にはどれも過度の誇張や省略が含まれている。それは経典が人々に教えを伝えるものであって、教えの定義書ではないからである。ごちゃごちゃしていてよくわからない経典よりは、たとえ不正確なところがあってもわかりやすい経典の方がよい。だから、そんなものの文言について重箱の隅をつつくような指摘をしても意味がない。結局何が言いたかったのかを考える必要がある。

こう考えると、実は宗教にとって経典は絶対的なものではなく、信者になるには経典を読む必要はない。事実、キリスト教徒のほとんどは宗教改革が起きるまで聖書は読めなかったのだ。経典を読まなくとも牧師さんの話を聞けばキリスト教徒になれる。宗教は概念なのだから、経典から直接でなくても概念が伝わればそれでいいのだ。

宗教とは、その教えが伝えようとするものを自分なりにつかむことである。そして「なるほどその通りだ」と思えば信者になったということだ。そしていろんな人の話を聞きながら、あるいは自分でも何かをしながら、その教えをよりはっきりと、より正確に把握しようとする。これが宗教を信じるということである。

無宗教であることを威張ってはいけない。宗教とは、ある人が語る教えに耳を傾けてその言わんとすることを把握しようとすることである。とすると、無宗教であるというのはすべての人々の語ることを無条件に拒否して耳をふさぐことである。もちろん、中には耳をふさいだ方がよいような宗教もある。しかし、世の中のすべての宗教に対して耳をふさぐという態度は良くない。宗教がそれほどダメなものだというのは誤解である。

宗教を信じるというのは、宗教の教えを自分なりに解釈して、それはなかなか良いことを言っていると思うことである。もしそう思えないのなら、それを否定する前に自分の解釈が間違っているのではないかと考えた方がよい。新興宗教ならともかく、何千年もつぶれずに残っている宗教はそれなりに何か良いものがあると考えた方がよさそうだ。

宗教の経典は基本的にその経典が成立した当時の人に対して語ったものである。我々はその中から時代遅れになったものと現代にも通じるものを選別しなくてはならない。それが解釈である。誰か他の人の意見を聞くのはよいが、解釈は基本的に個人が自分自身でするものである。

ある宗教の信者になるのに経典を読まなければならないということはない。その宗教をよく知る他の人の話を聞くだけでも十分だ。そうしていろいろな人の言うことを総合して、自分なりにその宗教の教えを把握することが宗教を信じるということである。

宗教を信じるというのはこのように自分の頭の中だけの問題である。解釈もその人によって幅がある。そしてその結果何をするかはその人次第だ。結果である行動だけを見て宗教を考えてはいけない。宗教は人の行動について言う言葉ではなく、概念について言う言葉である。

と、宗教とは何かを述べたところで、ついでにカルトの話もしておこう。カルトとは、ある教えを自分なりに解釈せず、人が言ったことをそっくりそのまま正しいものと受け取ってしまうことだ。教えを自分なりに解釈して、自分の中で矛盾のない体系を構築することを「理解」と呼ぼう。カルトとは、ある教えを理解しないまま正しいものとしてしまうことだ。これは宗教だけではなく何にでも言える。ある考えについて自分で納得のいくまで考えるということをせず、テストの答え合わせのようにただ答えが合っていればいいという考え方が良くないのだ。

答を丸暗記しただけで自分で考えていないと、応用問題に弱くなる。暗記した問題には答えられるが、ちょっと違う問題になると答えられなくなる。そして仕方がないので暗記した答えをそのまま書いてしまう。カルトが突拍子もない自説をただ繰り返すだけなのはここに原因がある。彼らは問題と答えの組だけを教えられて、その問題の解き方や考え方を教えてもらっていない。だから馬鹿の一つ覚えで答えを繰り返すことしかできない。

しかしこれももちろん程度がある。すべての問題について解き方や考え方を理解しろというのも無理な話だ。問題は解き方や考え方を知らないことではなく、知らないままで満足してしまうことだ。問題について答えを知っただけでよしとするのがいけないのだ。

宗教にとって教義や経典は答えである。質問に対して経典のココにこう書かれていると答えるのは質問に対して答えだけを述べていることにあたる。答えだけを言ってもしょうがない。その答えに至る考え方も述べないといけない。考え方というのはどこかに書かれているものではなく、自分の言葉で語るものである。

まとめよう。カルトでは、質問に対して書物を引用することしかできず、自分の言葉で語ることができない。それは、その人がその教えを本当にわかってはいないからである。そして真の問題は、わかっていないのに書物を引用するだけで答えたつもりになってしまうところである。

さて、宗教とカルトの話をしたところで、どうだろうか。宗教批判としてよく見る文章は、よく見てみると単なるカルト批判であることが多い。おっしゃることはその通り、だけど本物の宗教というのはそんなものじゃないよ、と言いたいのである。
http://iwatam-server.dyndns.org

全世界を100人の村に縮小するとどうなるでしょう。

2004年11月14日 13時51分56秒 | Weblog
全世界を100人の村に縮小するとどうなるでしょう。
http://www.188.jp/pool/07_poolside/world/world01.html
お金に執着することなく、喜んで働きましょう。
かつて一度も傷ついたことがないかのごとく、人を愛しましょう。
誰も見ていないかの如く自由に踊りましょう。
誰も聞いていないかの如くのびやかに歌いましょう。

そう、誰も気にしない。俺は俺。今ある仕事を精一杯
頑張ろう

占いメモ

2004年11月12日 14時42分00秒 | Weblog
2004/11/15-2004/11/21 かに座の空模様。

愛とは不思議なモノです。
それ自体をじーっと見つめると
なんだかぼやーっと視界がぼけて
何を見ているのか、わからなくなります。
でも、ふと視線を逸らして他のモノを見たとき
視界の端にある愛の姿が
クッキリ浮かび上がってきます。

すきなこと
でも、同じようなことがあります。
やりたいことはなんですか
って聞かれたとき、いままさにやっていることについて
「これがやりたいんです!」
っててらいもなく言える人って、あまりいません。
いやー、これもいいところはあるんだけど
実際、苦労や苦痛も多くてね、、、失敗もするし。
他に夢中になれることがあるんじゃないかとおもうんだよね、自分
って言いたくなることの方が、多いんじゃないでしょうか。
それは、恋人や家族についても
同じようなことがおこります。
「この人とつきあってるけど、他にもっと私に合う、イイ人がいるんじゃないかな」
とか。
「ウチの家族は全然ダメだ」
とか。

しかし。
すっごくいやなことをやらされたり
すっごく気の合わない人(でも世間的には人気のある人)とお酒飲んだり
ものすごくヤバイ家族に接する機会があったり
すると
「ああ、、、やっぱりあの仕事(私の彼、ウチの家族)でなきゃダメだ、私」
ってなったりします。

貴方にとって本当に大事なことや貴重なモノ、得意なことって、なんなのか。
今週、それが解るきっかけがあるでしょう。
でも、上記のように「ありふれていると思ったモノの良さが解る」みたいな
ちょっとジミな出来事しかおこらないのかなー
と想像するのは、当たらないかもしれません。

今週、そういう「ちょっとジミだけど幸せな発見」の可能性とともに
どっきりサプライズ
の配置も、あるからなのです。
2つながら、目と心を開いておくと、イイと思います。


2004/11/15-2004/11/21 みずがめ座の空模様。

イイコト
って、想像すると
なにか一点曇りのない喜びとか、
大成功!大行楽!
心ぱんぱんの笑顔!
みたいなイメージを思い浮かべてしまいます。

そういう意味では、水瓶座、
ちょっと今週はそぐわないとおもいます。
でも
不運な辛い時期
かというと、決してそうではないです。
むしろ、
とてもいいこと
があるようにみえます。

では、今週ふさわしいような「いいこと」って何でしょう。
それはたとえば、
お仕事のことやお金のこと、就職のことなどに
結びついているかもしれません。
ぱーん!やったあ!
っていう、
「見た目からしていかにもイイコト」
ではないかもしれませんが
ハッキリ言ってそんなちゃちなおもちゃみたいな「イイコト」
よりも
もっとずっと耐久性があって、利用価値のある
イイコト。

お誕生日プレゼントに洗濯機や冷蔵庫をもらってもあまりときめかないですが
生活にものすごく大事で役に立つのは
アクセサリーより家電製品とか生野菜とかだったりします。
貴方に今週もたらされるのは、そのような
ぱっと見、ジミだけど、ハッキリ言って財産
なんじゃないかなーとおもうのです。
http://www.st.sakura.ne.jp/~iyukari/week/weekly.html

Welcome To My Life

2004年11月12日 14時36分57秒 | Weblog
Simple PlanのWelcome To My Lifeです。
のりのいい、ディーネージャの曲です。
若いことってええな~って感想です。
おっさんです。

do you ever feel like breaking down
do you ever feel out of place
like somehow you just dont belong
and no one understands you
do you ever want to run away
do you lock yourslef in your room
with the radio on turned up so loud
that no one hears you screaming

~CHORUS~
no you dont know what its like
when nothing feels alright
you dont know what its like to be me
to be hurt
to feel lost
to be left out in the dark
to be kicked
when youre down
to feel like youve been pushed around
to be on the edge of breaking down
when no ones there to save you
no you dont know what its like
welcome to my life

do you wanna be somebody else
are you sick of feeling so left out
are you desperate to find something more
before your life is over
are you stuck inside a world you hate
are you sick of everyone around
with the big fake smiles and stupid lies
but deep inside youre bleeding
http://zingy.vo.llnw.net

癒されたいから

2004年11月12日 14時22分26秒 | Weblog
1.今夜、同僚夫妻と飲んだ。
彼は俺に近い人、素直じゃないところまで似ている。
奥さんはきれいな人。
ただそれだけ。

2.好きな人がいるけど、それを伝えることが出来ない。
彼女はそれをわかっているかな?わかっていないだろうな。

だけど、彼女のどこが好きなんだ?
かわいいところ?
スタイルがいいところ?

まただよ、俺って。
前の失恋で、彼女に求めるものは性格が重要だと思ったはずだ。
だが、どうだ?あの子は?

性格は?
クールで、自分の関係ないところは、完全無視で
全然暖かくない。友達も少なそうだ。
自分の仕事以外で振ると露骨に嫌な顔する。

それに比べるとKさんはどう?
優しいし、気がつくし、何よりも、何事にもチャレンジブルだ。
尊敬に値する。

おれってなんで、こう見た目にだまされる。
自分の容姿に自信がないから?

そう言えば、前彼の言葉。
「相手に電話するのは、癒されたいからでしょ」
そう、その通り。

なら、俺はあの子で癒されるの?
No! No! No! No! No! No! No! No! No! No! No! No! No!

だけど、彼女の声、顔を見るのが好き。

だらな俺の人生は続く。

Coors LIGTH

2004年11月10日 14時19分18秒 | Weblog
最近、酒に逃げている。逃避行。現実逃避。
ほぼ、毎日飲んでいる。夕飯食べた後、無性に飲みたくなる。

同僚が家庭内ストレスで大酒して、翌日無断欠勤した。
翌々日、俺が彼に説教たれた。

俺って何様?!
おれさま~(笑)

あほ!

ほんまにあほ。

だけど月曜日から禁酒中。つーか、まだ二日目。
あ~飲みたい~。

なんだかな~

ちなみに最近のお気に入りは無断欠勤した彼が俺に勧めた
Coors LIGTHです。まじうまかです。

「いきがい」の夜明け』

2004年11月10日 14時02分14秒 | Weblog
WWW版『「いきがい」の夜明け』
-生まれ変わりに関する科学的研究の発展が人生観に与える影響について-
福島大学経済学部助教授 飯田史彦
http://kobe.cool.ne.jp/so2002/realaim/Lifeindex.html

読んだ。
俺は両親に産んでもらったのではなく、両親を選んできた。
俺は魂を向上するために何度も生まれ変わっている。
困難、壁、問題は俺の精神を向上するためにある。

本当か!そんなの死ななきゃわからないじゃないか!
やっぱり宗教じゃないか!
それとも宗教が正しいのか?

本当の幸せって何だろうか?俺はそれにさわったことがあるのだろうか。
それとも、こうやって、住む家があって、仕事にも就いていて
それなり暮らしていることがそうなのか?

そうなんだろうな。だけど、この虚無感はなに?

生まれ変わりに関する科学的研究の発展が人生観に与える影響について

2004年11月10日 13時45分12秒 | Weblog
過去生の記憶「生きがい」の夜明け

生まれ変わりに関する科学的研究の発展が人生観に与える影響について

飯田史彦(福島大学経済学部助教授)

商学論集第64巻第1号1995年9月より「はじめに」と「おわりに」を掲載し、本文については見出し部分を掲載したものである。

 
はじめに

私は、人事管理論を専攻する関係から、人間の「働きがい」や「生きがい」と呼ばれるもの、あるいは「幸せ感」について考えることが少なくない。とりわけ、最近では、各地で、「生きがいのマネジメント」というテーマで話をして欲しいと依頼されることが増えており、この命題の重要性がますます強まりつつあることを痛感している。

元来、私は「組織文化」すなわち「構成員に共有されている価値観」の研究者であるため、経営学の枠組みの中で、価値観の転換による働きがいの向上という観点から考察を進めてきた。つまり、「人間の価値観」をキーワードに、企業組織の革新を、経営者や上司による、一種の「望ましいマインド・コントロール」としてとらえてみたのである。

ところが、その研究過程で私は、経営者や管理職の方々が、ある共通した問題意識を抱いていることを発見した。それは、「労働意欲を高める様々な方法を実施してみたが、どれも表面的な技法にすぎないため、せいぜい、従業員に仕事が好きになったと錯覚させただけではなかったのか」という危惧である。そのため、彼らは、何らかの方法で従業員の価値観を深層から揺さぶり、既存の思考の枠組みを根底から覆すことによって、単なる働きがいの向上に留まらない本質的な変化を生じさせたいと模索しているのであった。

そこで私は、ある個人的体験を契機に知った待殊な情報について、試みに、各所でそれとなく話をしてみることにした。その結果、その情報を伝えた人々が、目を丸くし、時には涙を浮かべながら、真剣に聞き入ってくれることを発見した。ある経営者は、「それこそが私の求めていたものです。私は間違っていました。社員に何をしてもらえるかではなく、社員に何をしてやれるかという、すっかり忘れていた問題意識がよみがえってきました」とうなづいた。また、ある管理職は「ぜひ、部下ばかりでなく家族や知人にも教えてあげたい」と目を輝かせ、ある学生は、「これで何も怖くなくなりましたしこれからは下宿に帰って一人きりでいても、寂しくありません」と喜ぶのであった。

その特殊な情報とは、「死後の生命」や「生まれ変わり」に関する遠年の科学的研究成果の内容であった。私は、人々にその情報を伝えることによって生じる効果の、あまりの大きさに驚いた。その情報を、ただ聞き手の先入観をなくしながら正しく伝えるだけで、人々は、職場における働きがいの意味をはるかに超えた、人生全体の「生きがい」や「幸せ」の意味について、根本的に自問し始めるのである。それまで、いかなる価値観変革の技法を駆使しても頑として揺るがなかった各人の自我が、劇的に固い殻を脱ぎ捨ててゆく光景を目前にするたび、私はそこに何か偉大なカの介在を感じないではいられなかった。

その後、私は、これらの情報を潜在的に求めている人々が、世の中にいかに多いかという現実を思い知らされることになった。とりわけ、大きな試練に直面している人や、突然の不幸に見舞われた人、挫折感に打ちひしがれている人ほど、「死後の生命」や「生まれ変わり」に関する科学的知識を、大いに心の拠り所としてくれることが判明してきた。

大学教官という立場から、人々の相談を受けることは数多い。しかし、恋人に去られた女性、志望校に落ちた受験生、希望企業に入社できなかった四年生に対してさえも、一個人として差し延べる手だては限られている。ましてや、障害を持つ方やその御両親、事故で手足を失った若者、夫に先立たれた新妻、不治の病に冒された患者さんたちを、ほんの小さな存在にしかすぎない私のカで、どうやって元気づけることができるだろうか。

もちろん、「元気を出して頑張れ」と激励することはたやすい。けれども、生きがいを見失った人々は、「生きる力の源泉」そのものを喪失していることが少なくない。いわば電池の切れた装置が、スイッチを入れても動かないのと同じ状態であり、ただ「いつまでもスイッチを切っていないで入れてみろよ」と声をかけるのみでは、抜本的な効果は望めないのである。このような、生きがいの源泉を喪失した人々は、周囲のどこにでも存在する。企業の中にも、学生たちの中にも、家族や親族の中にも。そして、今日は希望に満ちあふれている親友が、もしかすると、明日には全てを失い倒れてしまうかもしれない。

現在、私は、「死後の生命」や「生まれ変わり」に関する科学的研究成果について聞きたいという希望があれば、どこにでも駆区けつけ、もちろん無償で、これらの情報を丁寧にお話しすることにしている。その際には、まず、トロント大学医学部精神科で主任教授を勤めるジョエル・L‐ホイットン博士の、次の言葉を紹介することから始める。

「生まれ変わりが真実だという証拠については、そのほとんどが状況証拠ではありますが、きわめて有力なものがそろっている現在、理論的にこれを認めることに、待に問題はないと思われます。どうか皆さんも、私と同じ結論に到達されるようにと願っています。すなわち、私たちはかつて前世を生きたことがあり、おそらく、来生をもまた生きるだろう、そして今回の人生は、永遠に続く鎖の、ほんの一部でしかない、と。」

この言葉に続けて、死後の生命に関する近年の事例を幅広く.分析し、肯定論者と否定論者の主張を客観的に検討したジョージア大学教授のロバート・アルメダー博士が、1992年に下した次のような結論を紹介することにしている。

「我々は現在、人類史上初めて、人間の死後生存信仰の事実性を裏づける、極めて有力な経験的証拠を手にしている。このことが、哲学や倫理学における今後の考察に対して持つ意味は、きわめて大きい。人間が死後にも生存を続けるという考え方は、誰にでも認められる証拠によって事実であることが証明できるばかりか、誰にでも再現できる証拠によって、事実であることがすでに証明されているのである。」

彼らが結論づけたように、もしも「死後の生命」や「生まれ変わり」が事実であるならば、我々の人生観は、どのような修正を余儀なくされるだろうか。日常の小さな不満はどのように無意味化され、何の価値も持たないように見えた不幸や挫折が、いかなる重要な意味を帯びてくるのだろうか。本稿では、「死後の生命」や「生まれ変わり」に関する近年の科学的研究の成果を紹介することにより、その内容が我々にとって、他の何にも代え難い、強力な「生きがいの源泉」となる事実を示していきたい。

なお、本稿では、いわゆる霊能者や宗教家、民間のセラピスト(治療家)やジャーナリスト(報道関係者や評論家)、あるいは文化人や芸能人が書いた文献は、一切取り上げない。それらの著作の中にも、読み物として優れたものがあることは否定しないが、あくまでも学術的かつ客観的な立場を守るために、名の通った大学の教官、博士号を持つ研究者や臨床医の研究のみから引用し、一般人の体験者自らが本名で記した具体的記録を若干加えながら構成する。しかも、決してそれらの研究を盲信するわけではなく、信頼度が低いと判断される文献や、実証的でなく主義主張の水準にとどまっている文献は、たとえ興味深い内容であっても容赦なく排除した。

また、私は家族も含めていかなる宗教にも帰依しておらず、正月には神社に詣で、盆には寺に参り、クリスマスにはツリーを飾る、典型的な「雑宗教」の日本人として生活している。ある時に個人的な超常体験に遭遇して以来、いわゆる「魂」の存在は具体的な実感として認識しており、本稿も「魂」たちの強い勧めに勇気づけられて記すものであるが、私自身や本稿の内容は、いかなる宗教団体とも全く関係がないことを重ねて強調しておきたい。
おわりに

本稿の目的は、「死後の生命」や「生まれ変わり」に関する近年の科学的研究の成果を整理することにより、その内容が我々にとって「生きがいの源泉」となる事実を示すことであった。とりわけ、高度成長が終焉し、物質文明の価値と「豊かさ」の意味が問い直されている現在、我々日本人は、京都大学助教授のカール・ベッカー博士が鳴らす次のような警鐘を、謙虚に受け止める必要があるだろう。

「日本は不思議な国です。明治以前には『霊』の存在を当然のこととしてきたのに、今では過去の欧米に追従して、この種の現象を真面目に考えようとしない風潮が、特に科学者の間に強くあります。欧米諸国はこの方面で、ある意味ではむしろ昔の日本に近付きつつあるのに、逆に日本は、過去の欧米の水準から一歩も進もうとしないのは、まことに皮肉というほかありません。」

すでに多くの言葉を費やしたが、本稿で紹介した科学的知識は、「死後の生命」や「生まれ変わり」に関する数多くの研究の、ほんの一端にすぎない。興味を抱かれた方は、ぜひとも原典に目を通していただきたい。先入観を捨てて一読いただければ、彼らの真摯な研究姿勢に心を打たれ、その研究成果が持つ意味の重大さに震憾されることだろう。

研究者たちの言葉の数々は、我々に、生きることの真の意味を問いかけている。我々にとって、「死」とは決して恐ろしいものではなく、むしろこの世での修業を終えて帰郷する、安らぎの瞬間である。愛する人々との死別は、決して永遠の別れなどではなく、あの世で再開を喜び合うまでのほんの少しの間、直接の会話ができなくなるにすぎない。しかも、この世で修業を続ける我々を取り囲むように、先立った家族や友人たちの魂が、いつも温かく見守り話しかけてくれているし、我々からの呼びかけも必ず彼らに届いている。我々は、たとえ荒野の真ん中にひとりたたずんでいようとも、決して孤独ではない。

そして我々は、この世という修業の場に繰り返し来訪しては、愛すること、許すこと、感謝することの大切さを学ぶ。人生とは、いわば、生まれる前に自分で作成した問題集のようなものである。それぞれの問題を、解くことができてもできなくても、正解は、問題集を終えるまで見てはならない。人生という問題集を最後までやり遂げた時、初めて我々は正解と照らし合わせ、自分の成長度を自己評価することができる。そしてまた、解けなかった問題を解くために、あるいは一段と難しい問題を解くために、自分自身で新たな問題集を編み、それを携えて、この世という修業の場を再訪する。研究者たちの言葉は、あたかも「生きがい」を見失って闇に沈む現代人の心に、待ちわびていた夜明けをもたらしてくれるかのようである。

本稿の執筆は、経営学者としての私にとって、決して得になる行為ではない。おそらく、悪意を伴う批判ばかりでなく、善意による忠告も、私を待ち受けていることだろう。しかし、私にとっては、目先の損得勘定や、経営学者としての序列など、もはや眼中にない。本稿で整理した科学的知識を、人々に広く知らしめることの方が、取るに足らない私の個人的評価よりも、はるかに重要で価値の高いものだと確信しているためである。

本稿が、ひとりでも多くの悩める方々の目に触れ、それぞれの人生にわずかでも勇気と希望を与えることができるよう、私は心から祈っている。

 
●以下表題
第1節 「死後の生命」と「生まれ変わり」に関する実証研究の系譜
第2節 過去生の記憶

1. 退行催眠の方法
2. よみがえった過去生
(1)過去生退行の一例
(2)過去生記憶の妥当性

第3節 「生まれ変わり」の仕組み

1. 「あの世」への帰還

(1)「魂」としての自覚
(2)「あの世」の心象
(3)先立った魂との再会

2. 人生の回顧と反省
3. 人生の自己計画

(1)果てしない成長の追求
(2)ソウル・メイトとの共同計画
(3)「この世」ヘの再訪

第4節 「死後の生命」と「生まれ変わり」に関する研究の正当性

1. 死後生仮説の科学的説得力
2. 死後生仮説の優位性

[1]「死後の生命は存在しない」ことを「科学的に実証する」ことは不可能である
[2]死後にも意識があった場合、否定論者は自分の誤りを知ることになるが、死後には無に帰してしまう場合、肯定論者の意識はなくなるため自分の誤りを知ることはない

第5節 「死後の生命」と「生まれ変わり」に関する研究の有効性

 
●以下にこの論文の参考文献(発表年順)を掲載します。
[1]「死後の生命」と「生まれ変わり」に関するもの

1. Moody,R.A.,Life After Life,Sobel Weber Associates,1976.
  中山善之訳『かいま見た死後の世界』評論社,1989年
2. Moody,R.A”Refections on Life After Life,Sober Weber Associates,1977.
  駒谷昭子訳『続・かいま見た死後の世界」評論社,1989年
3. Rawlings,M”Beyond Death’s Door,Thomas Nelson lac.,1978.
  川口正吉訳「死の扉の彼方」第三文明社,1981年
4. Ring,K.,Life at Death,Coward,McCann&Geoghegan,1980.
  中村定訳『いまわのきわに見る死の世界』講談社,1981年
5. Sabom,M.B”Recollections of Death,Harper&Row,1982.
  笠原敏雄訳『あの世からの帰還』日本教文社,1986年
6. Kastenbaum,R.,Is There Life After Death?,Multimedia Publications,1984.
  宮本忠雄訳『死の世界を考える』東京書籍,1986年
7. Stevenson,I.,New Studies of Xenoglossy,University Press of Virginnia,1984.
  笠原敏雄訳『前世の言葉を話す人々』春秋社,1995年
8. Whitton,J.L.&Fisher,J”Life Between Life,Dell Publishing Group,1986.
  片桐すみ子訳『輪廻転生』人文書院,1989年
9. Stevenson.I.,Children Who Remember Previous Lives,The University Press of Virginia,1987.
  笠原敏雄訳『前世を記憶する子供たち』日本教文社,1990年
10. Osis,K.&Haraldsson,E,At theHour of Death,Hastings House,1987.
  笠原敏雄訳『人は死ぬ時何を見るのか』日本教文社,1991年
11. Moody,R.A.,The Light Beyond,Sober Weber Associates,1988.
  笠原敏雄訳『光の彼方に』TBSブリタニカ,1990年
12. Weiss,B.L.,Many Lives,Many Masters,UNIAge11cy,1988.
  山川紘矢・亜希子訳『前世療法』PAp,1991年
13. Dossey,L,Recoveringthe soul,John Bookman Associates,1989.
  上野圭一.井上哲彰訳『魂の再発見』春秋社,1992年
14. Doore,G.,WhatSurvives?,Jeremy P.Tarcherlnc”1990.
  井村宏治他訳『死を超えて生きるもの』春秋社,1993年
15. Harris,B.&Hansom,L.C.,Full Circle,The Addle Leonine Agency,1990.
  立花隆訳『臨死体験』講談社,1993年
16. Pasricha,S.,Claims of Reincarnation,Barman Publishing,1990.
  笠原敏雄訳『生まれ変わりの研究』日本教文社,1994年
17. Kubler‐Ross,E.,On Life After Death,Babara Hogenson Agency,1991.
  伊藤ちぐさ訳『死後の真実』日本教文館,1995年
18. Eadie.B.J.,Embraced bathe Light,Barorlnternetional,1992.
  鈴木秀子訳『死んで私が体験したこと』同朋舎出版,1995年
19. Morse,M.&Perry,P.,Transformed by the Light,Sober Weber Associates,1992.
  木原悦子訳『臨死からの帰還』徳間書店,1993年
20. 中村雅彦『臨死体験の世界』二見書房,1991年
21. Alnleder,R.,Beyond Death,UNIAgency,1992.
  笠原敏雄訳『死後の生命』TBSブリタニカ,1992年
22. Becker,C.『死の体験』法蔵館,1992年
23. Grof,S”The Holotropic Mind,John Bookman Associates,1992.
  管靖彦・吉田豊訳『深層からの回帰」青土社,1994年
24. Weiss,B.,Through Timeinto Healing,UNIAgency,1992.
  山川紘矢・亜希子訳『前世療法‐2』PAp,1993年
25. Brinkley,D.&Perry,P”Saved by the Light,Sober Weber Associates,1994.
  大野晶子訳『末来からの生還』同朋舎出版,1994年
26. Moody,R.A”Reunions,Sober Weber Associates,1994.
  宮内もと子訳『死者との再会』同朋舎出版,1994年
27. Morse.M.&Perry‐P.,Partng Visions,Sobel Weber Associates,1994.
  池田真紀子訳『死にゆく者たちからのメッセージ』同朋舎出版,1995年

[2]その他

28. From m,E.,The Art of Loving,Hapfer&Brothers,1956.
  鈴木晶訳「愛するということ」紀伊國屋書店,1991年
29. 上田吉一「自己実現の心理」誠信書房,1976年
30. Chamberlain,D.,Babies Remember Birth,Jeremy P.Tarcherlnc.,1988.
  片山陽子訳『誕生を記億する子供たち』春秋社,1991年
31. Argyle,M.,The Psychology of Happiness,Methuen&Co.,1987.
  石田梅男訳「幸福の心理学」誠信書房,1994年
32. 小林司『生きがいとは何か』 NHKブックス,1989年
33. 安斎育郎『科学と非科学の間』かもがわ出版,1995年
34. 桜井邦朋『宇宙には意志がある』クレスト選書,1995年
35. 高田明和『死ぬときに見る光景』 PHP,1995年

 
●詳しくご覧になりたい方

飯田史彦 著
「生きがいの創造 ~生まれかわりの科学が人生を変える~ 」
(PHP出版より6月に出版 \1,700)

 http://www.osoushiki-plaza.com/anoyo/takai/takai3.html

人生とは修業。因果応報。そうだね。なるほど。

2004年11月10日 13時42分12秒 | Weblog
「人生における意味と価値の喪失」現象の原因と、本質的解決策について

 人生において生じる諸現象に対して、最も意味と価値を見出しにくい人生観とは、「現象が意味に優先する」という大前提、つまり、「人生における全ての現象は偶然の積み重ねにすぎないものであり、我々人間にとって可能なのは、せいぜい、現象が生じた後で何らかの意味づけを試みることにすぎない」という人生観です。現在の日本社会、および日本の教育界(宗教系の学校は除く)は、まさに、このような人生観に支配されています。

 一方で、人生に対して、より多様な意味づけを可能にする人生観が、「意味が現象に優先する」という大前提、つまり、「人生における全ての現象は、まず先に存在する何らかの意味を具現化したものであり、意味のない現象は生じない」という人生観です。言い換えれば、宇宙とは「意味空間」であり、宇宙の本質は、「物質」ではなく、その意味を生み出している「精神」であるという考え方です。
 このような宇宙観・人生観を提示する論拠として、飯田は、一連の「生きがい論」関係の著作において、様々な大学教授や医師による研究成果を紹介・分析しています。具体的な情報分析および理論構築については、私の代表作、『CD付き新版 生きがいの創造』(PHP、2003年)をご参照ください。(本日の講演では、最後に、時間のある限り、できるだけ詳しくご紹介いたします)

 その宇宙観・人生観は、以下の諸仮説に集約されますが、これらを「真理」として「強制」するのではなく、あくまでも「科学的な仮説に基づく人生観」として「提示」し、「あなたが今後の人生を生きるにあたって、役に立つ人生観だと思うならば、あなたの意志で、あなたなりに活用してください」と「紹介」するにとどめることが、飯田の「生きがい論」の特徴です。この点において、飯田の「生きがい論」は、「万人が従うべき真理」を強制する「宗教」とは決定的に異なっており、単なる「人生観」であり「思想」にすぎません。
 したがって、以下の仮説を受け入れない者に対しては影響力を発揮しませんが、だからこそ飯田の「生きがい論」は、特定思想の強制を避けるべき教育現場において、安心して活用できる教育ツール(道具)となるはずです。(当然ながら、飯田は、あらゆる宗教からの中立を守っており、いかなる思想団体にも属していません)


 仮説1: 人間は、トランスパーソナルな(物質としての自分を超えた精神的な)存在である。

《 教育現場における伝達方法の一例 》

 「あなたは、決して孤独ではありません。いつ、どこにいても、心の奥で、数多くの人々の意識、多数の生命たちと、つながり合って生きているのです。この宇宙は、あなたの仲間たちで、満たされているんですよ。そして、あなたは、無意識のうちに、それらの仲間たちと、心の奥で励まし合いながら生きているのです。」

 「『死ぬ』ということは、『身体から離れて生きる』ということにすぎません。あなたが愛する、その人という存在が、宇宙から一切消え去ってしまったわけではありません。今は身体を持っていないその人も、『意識』として、今も確かに宇宙に存在し、あなたとつながって、貴重なメッセージをくださっているのです。あなたは今も、愛するその人と、ともに生きて(宇宙に存在して)いるのだということを忘れないで、また必ず会えるその時まで、安心して生きていきましょう。」


 仮説2: 人間の本質は、肉体に宿っている(つながっている)意識体(spirit ; soul)であり、修行の場である物質世界を訪れては、生と死を繰り返しながら成長している。

《 教育現場における伝達方法の一例 》

 「あなたは、あなたの意志で、わざわざ学びの人生計画を立てて生まれてきたのですから、自殺によって人生という問題集を放棄しても、何の解決にもなりませんよ。なぜなら、また同じように、自殺したくなるほどの試練を自分に与えて生まれ、それを乗り越えなければならないからです。あなたが、今回の人生で、その自殺願望を乗り越えて前向きに生きることを選ばない限り、いつまで経っても、その試練から逃れることはできないのです。」


 仮説3: 人生とは、死・病気・人間関係などの様々な試練や経験を通じて学び、成長するための学校(修行の機会)であり、自分自身で計画した問題集である。したがって、人生で直面するすべての事象には意味や価値があり、すべての体験は、予定通りに順調な学びの過程なのである。

《 教育現場における伝達方法の一例 》

「人生は、偶然の積み重ねでもなく、ほかの何者かに押し付けられたものでもありません。自分の意志で計画して生まれ、人生を終えた後には、自分で評価するものなのです。したがって、あなたは、誰かのせいでひどい目にあっているわけではなく、全てのことは、あなたのために起きている、順調な、ありがたい試練なのです。ですから、あなたはもう、誰も恨む必要はありませんよ。あなたはもう、誰も恨まないで済むのです。」

 「人生は、なかなか思い通りにならないものですが、それは、わざわざ自分自身で、思い通りにならない人生を計画して、その葛藤や克服から学ぼうとしているからなのです。あなたはこれまで、人生は、思い通りになればなるほど価値がある、と誤解していませんでしたか? そうではなく、人生は、思い通りにならないからこそ価値があるのです。一見すると、嫌なこと、面倒なこと、辛いこと、悲しいこと、腹が立つことにしか見えないような出来事が、あなたに、『成長』という大きな価値をもたらしてくれるのです。」

 「人生は、自分の成長度に応じて自分が設計した問題集ですから、学びを積んだ者ほど、より高度な試練に数多く直面する人生を計画します。したがって、病気や障害などの身体的ハンディキャップや、厳しい生活環境を体験しながら生きる人生を計画してきた人々は、すでに多くの学びを積み、今では人間を卒業する最終試験に挑んでいらっしゃるような、勇気ある、素晴らしいチャレンジャーなのです。そのような方々は、決して『運の悪い、かわいそうな人』ではなく、『それほど高度な学びに挑戦するに値する、素晴らしい人』なのですよ。だからこそ、そのような素晴らしい挑戦者の方々のために、私たちも、できる限りのお手伝いをして差し上げて、それらの方々の大きな学びの恩恵をいただきましょう。」

 「人生では、自分に解けない問題は、何ひとつ用意してありません。人生で出会う大きな試練は、自分で自分に与えたのですから、手を伸ばせば必ず届く、ちょうど良いレベルの問題ばかりです。目の前にある試練が、つらければつらいほど、悲しければ悲しいほど、大きな挑戦であればあるほど、『自分は、これほどの問題を解くに値する、素晴らしい人間なのだ』ということを、証明しているのです。あなたは、もう、足し算・引き算レベルの問題集など、とっくの昔に解いてしまったので、今、因数分解や微分積分レベルの、高度な問題集に挑戦しているのです。あなたは、もう、それほど困難な問題でなければ学べないほどに成長した、素晴らしい人間なのです。どうか、それほど困難な問題に挑戦している自分に誇りを持って、自分にならば絶対に解けるのだという信念を忘れずに、その問題に挑戦してくださいね。」


 仮説4: 人生では、『自分が発した感情や言動が、巡り巡って自分に返ってくる』という、因果関係の法則が働いている。この法則を活用して、愛のある創造的な言動を心がければ、自分の未来は、自分の意思と努力によって変えることができる。

《 教育現場における伝達方法の一例 》

 「人生には、因果関係の法則が働いていますから、自分が誰かを傷つけると、いつか必ず、同じくらい、自分も誰かから傷つけられます。しかし、逆に、自分が誰かを助けてあげると、いつか自分が困った時に、同じくらい、不思議に誰かから助けてもらえるのです。したがって、人生では、ほかの人から返してもらいたいと思うような言動だけを、ほかの人に対して行えば良いのです。とてもシンプルで、わかりやすい法則ですよね。ですから、『こいつをいじめても、仕返しなんかされないから大丈夫だ』なんて思ってしまうと、大変なことになりますよ。その人ではない誰かから、そのうち必ず、同じくらいお返しをされるのです。そして、『こんな人を助けても、何も返してもらえないから仕方ないや』なんて思わないで、どんな人でも助けてあげましょう。その人ではない誰かから、そのうち必ず、同じくらい助けてもらえる時が来るからです。」

 「人生は、因果関係の法則を活用しながら、自分の意志によって創り上げるものであり、あなたには、いつでも、自分の人生を望ましい方向へと転換するチャンスが開かれています。たとえ、予定通りに厳しい試練に見舞われたとしても、その試練の結果は、自分の言動によって変えることができるのです。あなたは、変えることのできない一本道の運命を、いやいや押し付けられているのではありません。今後の人生のシナリオを、あなたの意志と言動によって、常に選び取りながら生きているのです。」


 仮説5: 人間は、自分に最適な両親(修行環境)を選んで生まれており、夫婦や家族のような身近な人々は、過去や未来の数多くの人生でも、立場を交代しながら身近で生きる。

《 教育現場における伝達方法の一例 》

 「『そで擦り合うも、他生の縁』とは、家族や親友や恋人など、今回の人生で身近な人々は、過去や未来の人生でも身近に生きる縁の深い人々なのだから、愛し合い、助け合い、切磋琢磨し合いましょう、ということなのですよ。『多少の縁』ではありませんからね。」

 「現在の人生を、過去の人生・未来の人生との関係性の中でとらえて、色々な情景を想像してみましょう。そうすれば、今回の人生で起きる出来事や出会う人々に、より奥深い意味を見出すことができるようになりますよ。たとえば、あなたのお父さんやお母さんは、これまでの人生で、あなたの子どもとして生きていたことがあるかもしれません。そして、あなたの結婚相手になる人は、これまでの人生でも、ずっと妻や夫として共に生きてきた人で、今も、この地球のどこかで、あなたとの運命の出会いを待ってくれているのです。」

 「私たちの正体は、みな善なる存在なのですから、あなたと表面的に敵対している人も、本当はあなたと同じ、愛に満ちた仲間なのです。ただし、人生という名の『学びの舞台』では、時に、敵と味方に分かれて貴重な学びを積むこともありますから、ちょうど今、その人とあなたは、ライバルになって争い合うという配役を演じているのでしょう。その配役から多くのことを学んで、お互いに、許し合うことに挑戦してみましょう。」
http://homepage2.nifty.com/fumi-rin/

実践! 小顔に近づくための表情筋トレーニング 

2004年11月10日 13時03分16秒 | Weblog
Part3 はれぼったい瞼をすっきり
一番印象に残る目もとをパッチリさせる!

【1】口を軽く開き、ゆるく目を閉じます。

顔の中で、目もとの印象はとても強いものです。朝起きたときなどに、瞼がはれぼったいと感じたとき、このトレーニングをすると効果抜群です。


【2】5つ数えながら、目を絞り込むように、強く固く目を閉じます。そのままの状態で5つ数えます。

トレーニングをするときは、目もとを絞るのと同時に、つられて歯をくいしばらないように、口を軽く開けます。瞼ばかりでなく、強く固く目を閉じることにより、目の周りの筋肉「眼輪筋(がんりんきん)」が鍛えられます。


【3】5つ数えながら、自然な表情に戻していきます。

【1】~【3】までの動きを1回15秒で行います。この動作を1日3回連続で行います。

http://allabout.co.jp/L/s/041103/index3.htm

実践! 小顔に近づくための表情筋トレーニング 

2004年11月10日 13時01分25秒 | Weblog
Part2 口もとから頬にかかるふくらみを解消
美しく笑うためのポイントとなる笑筋を鍛える!

【1】上下の前歯を軽くかみ合わせ自然な形で口を閉じます。

口もとから頬にかかるふくらんだ部分「笑筋(しょうきん)」を鍛えるトレーニングです。笑うときに、一番のポイントとなる部分です。口角の下がりが気になるかたは、引き上げの効果があるので、チャレンジしてみてください。


【2】5つ数えながら、口角をゆっくりと外側に引いていきます。外側に引き上げたところでとめ、5つ数えます。

笑筋は、口の両側に伸びる幅の広い筋肉で、口の両端を外側に伸ばす働きをします。この筋肉が弱くなると、口の両わきにたるみがでてしまいます。


【3】5つ数えながら、自然な表情に戻していきます。

【1】~【3】までの動きを1回15秒で行います。この動作を1日5回連続で行います。
http://allabout.co.jp/L/s/041103/index2.htm

実践! 小顔に近づくための表情筋トレーニング 

2004年11月10日 12時57分47秒 | Weblog
Part1 二重アゴをなくす
まずは、フェイスラインを引き締める!

【1】ゆったりとした気持ちで立ち、姿勢を正し天井を仰ぐ。

アゴと首の間にある三角形の筋肉「顎舌骨筋(がくぜつこつきん)」を鍛えるトレーニングです。この筋肉は、口の中の舌ともつながっているので、舌を使ったトレーニングが有効的です。


【2】天井を仰いだ状態で口を大きく開け、舌をできるだけ出して5つ数えます。

肥満やアゴの筋肉が弱くなると、二重アゴになってしまいます。二重アゴになると、フェイスラインが崩れ、老けた印象をあたえます。


【3】天井を仰いだ状態で舌を戻し、口を閉じて5つ数えます。

この顎舌筋肉を鍛えることで、フェイスラインのたるみや二重アゴの防止になります。また、毎日続けることで、小顔美人に近づくことができます。


【4】5つ数えながら、ゆっくりと正面を向いた状態に戻します。

【1】~【4】までの動きを1回15秒で行います。この動作を1日3回連続で行います。
http://allabout.co.jp/L/s/041103/index1.htm

わくわく・どきどきするもの、ありますか?

2004年11月10日 12時40分36秒 | Weblog

「枯れない」のためのチェックリスト
ネガティブな会話で飲むお酒は「毒薬」に等しい!


22:30のバー。知り合いの男女が偶然合流。そこで4人で語らいが始まった。そんな光景を自分がテレビカメラで客観的にとらえてみましょう。

下記のような癖が自分自身に想像できた場合は気をつけましょう。「枯れた大人」にならないために下記の習慣は避ける必要があります。

<女性>

・笑顔は適度にあるだろうか?(苦虫を潰した顔でないか?)

・マシンガントークをして息継ぎに口からタバコの煙を吸い込み、天井に吹き上げていないだろうか?(鯨の潮吹き)

・自分ばっかり「聞いて聞いて!」トークをしていないかだろうか?(講演会)

・会話の内容のほとんどが否定語で構成されていないだろうか?(ネガティヴトーク)

・他人の悪口を言ってそれに同調してもらう場としてその場を独占していないか?(自己の正当化と同調者の募集)


<男性>

・自分で話をしていてその話の内容が「つまらない」と自覚してしまっていないか?(心に血が通っていない)

・自分は学歴も会社も一流じゃないし・・が口癖になっていないか?(限界を勝手に決めている)

・人の成功にケチをつけていないか?(自分の物差しだけで他人を見ている)

・今日のファッションはいまいちだ・・と毎日思っていないか?(自分演出の不足)

・ツイテいない人に囲まれてお酒を飲んでいないか?(運、不運は伝染する)

さあ、いかがでしたか?・・・誰でも疲れているときやイライラしているときは上記の1個や2個当てはまるものです。初期のうちに直しておくとよいと思います。

ストレスをなくして大人のフェロモンを出そう!
自分自身の感性をわがままに放射する時間が必要



フェロモンというのは元々、動物同士のコミュニケーションツールと言われており、性的な信号以外にもさまざまな信号を伝えるといわれています。

実はこのフェロモン、ストレスにめっぽう弱いそうなのです。フェロモンを強めるためには「ワクワク、ドキドキ」と生きることを愉しむことが必要です。

24時間を振り返ってみていかがでしょう?腹の底から笑ったり、感動したりする時間があまりにも不足していませんか?

積極的なリフレッシュは「恋愛体質」を強化するためにも絶対必要なのです。外見がそれほど優れてなくても、異性からモテル人がいますが、それはこのフェロモンの力によるものです。

とくに男性の場合、自分の好きなことに出会い、それを楽しみ、社会的な貢献を自負しながら勤めることができている人が、長い目でみて「女性からモテル」要素を磨いてゆきます。

10代や20代の頃は、「外見」や「ファッション」だけで勝負できた男性が、30代になるとだんだん、歯が立たなくなってくることがよくあります。

逆を言えば、「自分がワクワクドキドキする楽しいことで、人生の時間をできるだけ多く埋めてゆく」ことによって「モテヂカラ」を磨くことができるというものです。


「自分が一番輝ける場所」を探すことは「運命の相手」をさがすのと同じくらい重要なことです。 http://allabout.co.jp/relationship/meeting/closeup/CU20041014A/index2.htm

そうだ。自分がわくわくするものが必要だ。それって何!
やっぱり、くるま!
買い換えしようか!
323?STS?
G35?レクサスIS?