永続敗戦からの展望

2014年04月07日 23時45分31秒 | Weblog
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白井聡 | 文化学園大学 助教(政治学・社会思想)
2014年3月17日 7時0分

コメントを見る(1件)メールマガジン「オルタ」に昨年8月に寄稿した文章を転載します。内容は『永続敗戦論』の要約です。

本年三月に、私は『永続敗戦論――戦後日本の核心』(太田出版)と題する著作を上梓した。本書が提起する「永続敗戦」という概念が着想されるにあたり、「二つの起源」を挙げることができる。

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■『永続敗戦論』の執筆動機

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ひとつには、二〇一〇年の鳩山由紀夫政権の崩壊劇である。普天間基地を国外ないし沖縄県外に移そうとして政権は倒れた。この事件は、本質的に言えば、「アメリカの意思」と「日本国民の意思」のどちらをとるか取捨選択を迫られて、前者をとらざるを得なかった、ということだ。アメリカによって間接的に解任されたと言ってもよい。ところが、鳩山政権の末期、メディアはひたすら鳩山氏の政治手法の拙劣さや性格に攻撃を集中させていた。

鳩山氏の人格が実際のところどうであれ、この国ではメディアを筆頭に国民が「我が国の首相は外国の圧力によってクビになった」という出来事の客観的な次元を全く認識しようとしないということ、これが退陣劇において露呈した事態にほかならなかった。つまりは、誰が政権を担おうが、米国の意向という枠内から逸脱するような「政権交代」は土台不可能であるという厳しい現実、この客観的次元を見ないようにするために、政治家の人格云々というお喋りに、人々はうつつをぬかしていた。

この誤魔化しは、八・一五を「終戦の日」と日本人が呼び慣わしていることと全く同じである。「敗戦」を「終戦」と呼んで敗北の事実を曖昧化する。「敗北の否認」である。そして、鳩山政権崩壊以後、菅政権、野田政権と続いたが、政権交代直後に掲げられた諸政策は次々に後退し、あれほどの期待がかけられた「政権交代」の意味は、不明瞭になってゆく。

これもまた、「政権交代の不可能性」の露呈にほかならないが、そこで国民の憤懣はこの不可能性をつくり出しているものに向かうのではなく、民主党の非力・無能力へともっぱら向けられた。そしてついには、「大多数の国民の意思」は蔑ろにされ敗れたという事実は自覚されないまま、自民党へと政権は戻って行った。かように「政権交代の失敗」は、「敗北の否認」に浸透されている。

第二のきっかけは三・一一、とりわけ福島原発の事故だった。原発の重大事故に際して電力会社がひどい振舞いをするということは、私にとって想定内だった。「想定外」だったのは、「安全神話」を守るための努力すらもきわめて不十分であったこと、そして国家と市民社会の事故への反応であった。国家の次元に関して言えば、SPEEDIのデータを国民には秘密にしながら米軍には流していたということをはじめとして、要するにこの国の体制は「国民の生命と安全を守る」ということに基本的に関心がない、ということがわかった。大江健三郎は、中野重治の言葉を引いて「私らは侮辱のなかに生きている」と語ったが、この言葉は全国民の置かれている状況を的確に言い当てたものであろう。

この国の権力構造は、まさしく「侮辱の体制」であることが明らかになった。ところが、怒っている人は少ない。絶対数では少なくはないが、相対的には少ない。東京でのデモの参加者は、大規模なものでは10万人以上にも上るといわれているが、首都圏の人口は全部で3000万を軽く超えている。自分の生命をほとんど直接的に脅かされた――風向き次第では首都圏は深刻な放射能汚染に見舞われたはずである――というにもかかわらず、行動によって抗議の意思表示をしている人はたったこれだけ(人口の1%にも届かない)なのである。

私はここに、日本人の生物としての本能の破壊を見る。しかも、原子力がこれだけの不祥事を起こしてしまった、「王様は裸だ」と誰もが知ってしまったのに、いまだに原発批判はかなりの程度タブーであり続けている。芸能界はその典型である。大学も大差はない。財界については言うに及ばず、脱原発を掲げる経営者もそれなりの数がいるものの、経団連をはじめとする主流派は、臆面もなく引き続きの推進を求めている。つまり、腐敗しているのは国家だけではない。市民社会もまた同じである。

「三・一一以後の光景」を体験してわかったのは、この国の国民は奴隷の群れだということだ。このことがわかったとき、震災前から考えてきたことと震災後の光景が一貫したものとしてつながった。「敗戦」を「終戦」と呼び変えることによって、一体何が温存されたのかが見えてきた。

あの戦争の時代、国民は全体として軍国支配層の奴隷にされたわけだが、その構造は基本的なところで持続してきたということが見えてきた。このことは、大部分の日本人にとって、主に冷戦構造と戦後日本の経済的成功のおかげで見ないで済むようになっていた。この構造を私は「永続敗戦」と名づけた。敗戦の事実を誤魔化しているがゆえに、敗戦をもたらした体制が延々と続いている。

現在の社会・政治情勢を語る上で第二次世界大戦における敗戦という出来事を引き合いに出すのは、何とも迂遠な議論に聞こえるかもしれない。しかしながら、あの敗戦を総括できなかったことが、現代日本社会の在り方、この社会の権力の存在様態を現実的に、かつ強力に規定していることは厳然たる事実である。その意味で、敗戦は「過ぎ去らない過去」であり、この点を清算しない限り、この社会に良き展望が開けることは絶対にあり得ない。

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■「永続敗戦」の構造

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「敗戦の終戦へのすり替え」がなされなければならなかった最大の理由は、敗戦の責任を有耶無耶にし、敗北必至とあらかじめ分かっていた戦争(対米戦)へと国民を追い込んで行った支配層が、戦後も引き続き支配を続けることを正当化しなければならないという動機であった。

この策動は、玉音放送において「降伏」や「敗北」といった表現が慎重に避けられたことから早くも開始され、東久邇宮内閣の「一億総懺悔」という標語の提示に見られるように、明確な意図を持って推進されたと言えよう。こうした流れの果てに、敗戦したことそのものが曖昧化され、「敗戦ではなく終戦」というイメージに、日本人の歴史意識は固着してゆく。そもそも敗戦していないのであれば、誰も責任を問われる道理がなくなるのだから、実に見事な(!)論理である。

こうしたからくりは、言うまでもなく、日米合作によって成立した。非常に限定された形でしか戦争責任を追及せず、戦前の支配層を戦後の統治者として再起用する一方、左翼をはじめとする批判者勢力の力を抑制するという方向性は、「逆コース」以降顕著になるアメリカによる「民主化」の基本方針であり、それは、明瞭なかたちをとり始めた冷戦構造における日本の位置づけによって必然化されたものであった。

こうした経緯を経て戦後日本の権力中枢が再編成されたことを鑑みれば、その体制が対米従属を基幹とする、半ば傀儡的なものとなったのは当然の事柄であった。保守合同による自民党結成(1955年)におけるCIAの資金提供という事実に典型的に見て取れるように、戦後日本の保守政治の根本は半傀儡的政権を通した間接統治であった。

CIAの援助によって成立した政党がほぼ一貫して政権を握り続けてきたという一事をとっても、「敗戦」は今現在に至るまで継続している。ゆえに「永続敗戦」という概念こそ戦後という時代を指し示すのに好適であると私が確信する所以があるが、問題は、このことが大多数の国民にとって意識の外にあるということである。

こうした忘却ないし無意識化を可能にした第一義的なファクターは、戦後日本の経済復興・高度成長という経済的成功であっただろう。ソ連や中国といった連合国=戦勝国よりも明らかに高い生活水準を達成した戦後日本人にとって、あの敗戦は「負けるが勝ち」のエピソードと化す。これによって「敗戦」の「終戦」への転換は国民の意識にとってリアリティそのものとなった。

しかし、いかにこのすり替えが意識における現実となったとしても、欺瞞は欺瞞でしかない。その代償が、際限のない対米従属である。すでに述べたように、戦前からの連続体としての戦後の支配層は、米国の許容と承認のもとに統治してきた以上、太平洋の向こうに頭が上がらないのは当然である。かつ、彼らは親分への隷属を否定してみせなければならない。

隷属こそは敗戦の証拠なのだから、敗戦を有耶無耶にするためには、隷属の事実が否認されなければならない。「真の独立」だの「戦後政治の総決算」だの「戦後レジームからの脱却」だのといった似たり寄ったりのスローガンが同一の政治勢力から飽きもせず繰り返し発せられるのは、以上の事情からである。これらの勢力から一線を画していた鳩山由紀夫元首相ですら、首相辞任にあたって「私は外圧により敗れた」とは言わなかった。「われわれは、負けたのであり、負け続けてきたのであり、負けている」という憂鬱な真実は、戦後日本政治において公言できないトラウマにほかならない。

かように戦後日本社会は「敗戦」を意識の外へと追い遣ってきたが、このことを裏書きしたもう一つの要素は、対アジアへの姿勢である。対米関係において敗戦の帰結を無制限に承認していることと引き換えに、対アジアに対する敗戦は全力で否認されなければならない。このことが、戦後補償や歴史認識の問題をめぐって繰り返し軋轢を引き起こしてきた。ゆえに、対米従属とアジアでの日本の孤立という二つの事柄は、コインの両面であるとみなされなければならない。アジアにおける米国の最重要パートナーという地位があるからこそ、アジア世界では孤立していて一向に構わないという態度が可能となる。

しかしながら、この体制はすでに限界に直面している。以上の構図は冷戦構造とアジアにおける日本の経済力の突出性によって可能になったものにほかならないが、北朝鮮問題を除いて冷戦構造はとうに崩壊し、経済は衰退した。そのとき、敗戦の誤魔化しによって封じられてきた問題が、すべて吹き出てくる。

その代表が領土問題であり、沖縄の米軍基地問題にほかならない。尖閣諸島をはじめとする領土問題に解決の目途が全く立たない理由は、その本質が国民に、否、外国当局者においてすら理解されていないという事情に求められる。その本質とは、現代日本の抱える領土問題が第二次世界大戦の敗戦処理の問題であるという事実である。

ゆえに、これらの領土問題の処理は、カイロ宣言、ポツダム宣言、サンフランシスコ講和条約といった日本が受け入れた(敗戦により受け入れざるを得なかった)諸外交文書の文言によって原則的に規定される。この事情から見れば、日本政府が掲げる「固有の領土」論には相当の無理があるとみなさざるを得ないのだが、このことは敗戦を意識の外に追い遣った国民には、ほとんど理解されていない。こうした現状は、敗戦を否認し、「あの戦争は負け戦ではない、単に終わったのだ」という歴史意識を国民に刷り込んできたことの結果にほかならない。

だが、冷戦構造の崩壊以降、構図は全面的に変化した。アジアにおける日本の経済力の突出性は相対化され、それに伴い、アジア諸国が以前はグッと呑み込んでいた日本への不満を隠さなくなった。そして、米国にとっての日本の位置づけも当然大きく変更されるこことになった。もはや、日本は無条件的に庇護されるべき第一の同盟者ではない。むしろ、TPP交渉において見て取れるように、自身が衰退するなかで、収奪すべき対象へと新たに位置づけられるのは当然の趨勢である。

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■戦後の終わり

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こうした事柄はすべて、「戦後の終わり」を告げている。無論、「戦後の終わり」という観念は新しいものではない。これまでも、多くの知識人が説得力のある論理で、「戦後の終わり」を論じてきた。しかし、それらが本当に大衆的な感覚として根づいたかといえば、かなり疑問が残る。これはある意味で「気分」の問題であって、知識人の議論は、それが鋭いものであっても、「気分」自体を変えられるわけではない。

やはり、「戦後」が決定的に終わってきたのは、ゼロ年代あたりから、つまり「格差社会」がしきりに指摘され「一億総中流」が明白に崩れてきた時代においてである。というのは、「戦後日本」を形容する最も支配的な物語は「平和と繁栄」であったからだ。ゼロ年代から「繁栄」に、明白に翳りが見えてきた。言い換えれば、「みんなの気分」がはっきり変わってきた。

そしてそのあと隣国との対外的緊張が高まりを見せ始め、もう一つの「平和」の方も危機へと向かうに至る。東日本大震災はこうした状況下で発生したのであり、「関東大震災によって大正時代は実質的に終わった」という歴史を思い起さずにはいられない。

つまり、震災と原発事故によって、いよいよ気分としても「戦後」が終わった。なぜそう断言できるのか。それは、ひとつには「戦後民主主義」の虚構性がはっきりと暴露されてしまったことが挙げられる。すでに述べたように、この国の政府は「民主政府」ではない。国民主権は、建前としてすら存在しない。

こうなると、「戦後とは民主主義と平和を大事にしてきた時代だ」という国民の大部分が同意してきたコンセンサスが崩れてくる。ゆえに、社会が急速に「本音モード」に入ってきて、「平和と繁栄」の物語によって覆い隠されてきたこの社会の地金が表面に噴出してくることになる。それを代表するのが、原子力基本法やJAXA法への「安全保障」の文言の取り入れであり、その先には憲法第九条の実質的な廃止があるだろう。

それでは、その「覆い隠されてきた地金」、日本社会の本音とは何なのか? それこそが、「俺たちはあの戦争に本当は負けたわけじゃないんだ」という「敗戦の否認」にほかならない。これまでは、敗戦国だということを一応建前としては認めてきた。「お前らは戦争に負けただろって言われて本当は違うと思うけど、まあいいいか。俺たちは平和で豊かだし。負けたからには押し付けられた民主主義を一応信奉しているふりもしなけりゃいけないなあ」。この建前は、「繁栄」が崩れれば、一挙に崩壊する。「まあいいか」では済ませられなくなって、「本当は違う」という本音が爆発的に噴出し、「民主主義を信奉するふり」もかなぐり捨てられることになる。

こうした「気分の変化」には、大局的な背景がある。いま述べてきた「戦後の終わり」は、国民の意識や感情といった領域の問題であり、国民の主観的次元に属する。これとは次元を異にする客観的次元での「戦後の終わり」がある。それは、先にも簡単に触れたように、国際的関係のなかでの日本国家の立ち位置にかかわる。この次元において、二つの意味で「平和と繁栄」の時代としての「戦後」はすでに終わっている。

ひとつには、「繁栄」を支えてきたアジアにおける日本の突出した経済力が、中国の台頭によって相対化されたことが挙げられる。かつての中国は、日本の「敗戦の否認」に対し、不快感を持っても、国力差への配慮からそれを表面化させることを控えてきた。今日こうした遠慮をする必要はなくなった。

もうひとつは、すでに二〇年以上が経過したが、冷戦構造の終了である。これによって、日米関係の真の基礎は変更された。冷戦構造があったからこそ、日本の高度経済成長は可能になったことを鑑みれば、この構造こそは戦後の根幹をなしていた。そして、冷戦が終わった以上、アメリカは日本をアジアにおけるほぼ無条件のパートナーとして庇護してあげる必要はもはやない。

ゆえに、アメリカにとって日本は、助けてあげるべき対象というよりもむしろ収奪する対象に変ってくる。そのことを露骨に告げているのがTPP問題である。それにもかかわらず、冷戦崩壊以降、「日米関係のより一層の緊密化」というスローガンが結局のところ優ってきて、今日ますますそうなっているのは、異様な光景である。真の基礎は変わっているのであるから。

こうして真の基礎が変わるなかで、「暴力としてのアメリカ」の姿が、見える人にははっきりと見えてきた。あの戦争で日本を打ち負かしたところの「暴力としてのアメリカ」である。戦後直後、一九五〇年代には砂川闘争に代表されるように、「暴力としてのアメリカ」の姿は、多くの国民の視界に入って来ざるを得ないものだった。しかし、その後、六〇年安保という危機を乗り越えて、「アメリカ的なるもの」は国民生活のなかに広く深く浸透しつつ、その過程で暴力性を脱色されて文化的なものへと純化されてゆく。だからと言って、アメリカそのものが暴力的でなくなったわけではない。依然として「暴力としてのアメリカ」であった。

ただし、その暴力が日本へと向くことはなく、ベトナムやイラクへとそれは向けられていた。ゆえにわれわれは、それを見ないで済ますことができてしまった。「ウチに向かってくるんじゃないからいいや、さあどうぞ、大人しく基地も提供しますから、よそのどこかで暴れてきてください」、という態度を日本はとり続けた。「暴力としてのアメリカ」の「暴力」が日本に向けられるかもしれないということはそれこそ「想定外」であり、そのために、そのような事態が現実に起こっているのにもかかわらずそれを認識できないのである。

無論、いま述べた構図に当てはまらないのが沖縄である。そこでは復帰以前も以後も一貫して「暴力としてのアメリカ」のプレゼンスがはっきりとしていた。ゆえにいま、沖縄は日本の本土に対する強烈な批判者になっているのと同時に、唯一物事の客観的次元を把握できる立場にいる。これに対して、日本社会の大勢は、沖縄のメッセージを理解していないし理解しようとしてすらいない。よくて、「可哀そうに」とか「申し訳ない」くらいにしか思っていない。つまり、他人事なのだ。ここで見落とされているのは、今日の沖縄の姿は、明日の本土の姿であるということにほかならない。

このように、「戦後」を支えてきたものは、客観的に変わってしまった。にもかかわらず、この国の社会は、この「終わり」を受け止めることができていない。「敗戦の否認」を代表するような政治家を選挙で首相に推しあげて、「成長神話よもう一度」の夢に酔っているのだから。ある意味で、永続敗戦の構造はいま純化しつつあるのだといってもよい。だがそれは、「終わりの始まり」に直面した社会が示している一種の痙攣的な反応だ。結局のところ、いつかは受け止めるほかない。それがソフトランディング的に実行されるか、破局的事態を通じてなのか――それが問題である。

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■またしても「敗北の否認」

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現代の情勢分析として以上のような議論を『永続敗戦論』では展開したが、本書刊行前後から現在までで目についた本論に関わる事態を、いくつか指摘しておきたい。いずれの事象も本書で私が示した構図が真実を抉ったものであることを証明している。その意味で、私の分析家としての力量は証明されたと言えるわけだが、そのことを喜ぶ気には到底なれない。なぜなら、これらの「証明」は、永続敗戦レジームが依然として継続しているだけでなく、純化さえしており、出口を見つけることが全くできていないことを、物語っているからである。

最初に挙げたいのは、2月の安倍首相訪米である。迎えたオバマ大統領の冷遇ぶりは際立っており、ほとんど嫌悪感を隠さなかったと言ってよいだろう。『永続敗戦論』において私は、安倍の掲げる「戦後レジームからの脱却」が本気で追求されるならば、米国は「傀儡の分際がツケ上がるのもいい加減にしろ」という強烈なメッセージを送ってくることになるだろうという趣旨のことを書いたが、果たしてその通りとなった。

加えて、6月に行なわれた習近平・オバマ会談は、長時間に及び、実に対照的なものとなった。この米中首脳会談についての日本の大メディアの報道ぶりは、「永続敗戦レジーム健在なり」を見事・無残なまでに証明するものであるように、私には見えた。すなわち、会談の詳細な内容を知る術はないにもかかわらず、米中の利害・政策対立の表面化を盛んに言い立てる報道が目立った。「米中は永遠に対立していなければならない、そうでなければ日本が米国のナンバーワン・パートナーであり続けられないから」、という報道ならぬ主観的願望の吐露が各紙の紙面を覆った。哀れと言うほかない。

第二には、排外主義の跋扈である。いわゆる「在特会」の活動が先鋭化し、東京・新大久保、大阪・鶴橋といったコリアンタウンでの示威活動が日常化するという状況が現出した。ヘイトスピーチを堂々と行なう彼らの姿は、醜悪極まりなく、衝撃的でもあるが、彼らが戦後日本社会の必然的な鬼子であることは強調されるべきである。戦前の日本において、朝鮮半島出身者をはじめとする植民地出身者は、暗に差別してよい存在であった。現在、彼らもまた同等の人権を認めなければならないのは、敗戦の結果である。

ゆえに、レイシストたちの行動は、実に端的なやり方による「敗戦の否認」なのだ。同等な存在として在日コリアンが存在していることは、日本の敗戦の「生きた証拠」である以上、彼らはそれを全力で否定しようとする。「われわれは負けてなどいない、だから奴らを差別する、そうする権利をわれわれは持っている」。これが、彼らのヘイトスピーチにおけるメタ・メッセージにほかならない。そして、恐ろしいことに、このメッセージの最初の部分、「われわれは負けてなどいない」という部分は、国民のマジョリティに浸透した意識である。

ゆえに、レイシストが自分たちの運動を「国民運動」と称していることは、根拠なきことではない。したがって、単なるリベラリズムやヒューマニズムによってはこの運動を解体することはできず、批判者は「戦後の核心」としての敗戦の問題に遡る必要がある、と私は考える。

最後に、福島原発事故の処理とオリンピック(2020年)招致の問題を挙げておく。汚染水の処理問題という事故処理の初歩の初歩が、すでに事故処理を破綻の淵に追い込んでいる。『永続敗戦論』のなかで、この国の「無責任の体系」がこの未曾有の事故を処理できるのか疑問である、という危惧を表明した。不幸にも、この危惧は的中してしまった。この不安を覆い隠すように、オリンピック招致の空騒ぎが演出され、しかもそれは実現してしまった。「永続敗戦」の基本は、「敗戦の否認」であり、「失敗・敗北を認めないこと」にある。要するに、当事者たちは、いまだに原発事故の深刻さを観念的に否定したがっているわけである。こうした意識に基づく実践の帰結がどのようなものとなるのか、私は考えたくもない気分にしばしばとらわれている。

(筆者は文化学園大学助教・社会思想・政治学専攻)

白井聡
文化学園大学 助教(政治学・社会思想)

1977年、東京都生れ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒、一橋大学大学院社会学研究科博士課程単位修得退学。博士(社会学)。政治学者の立場から「いま何が起きているのか」を考え、分析します。私の専門は、政治哲学とか社会思想などと呼ばれる分野です。哲学・思想のプリズムを通して、現実の本質に迫りたいと思います。著書に、『未完のレーニン』(講談社選書メチエ)、『「物質」の蜂起をめざして――レーニン、〈力〉の思想』(作品社)、『永続敗戦論――戦後日本の核心』(太田出版)、共著に『日本人が知らないウィキリークス』(洋泉社新書)などがある。朝日新聞社「WEBRONZA」寄稿者。



「平和と繁栄」の終わり

2014年04月07日 23時44分07秒 | Weblog

http://bylines.news.yahoo.co.jp/shiraisatoshi/20140327-00033939/

白井聡 | 文化学園大学 助教(政治学・社会思想)
2014年3月27日 2時0分

敗戦を直視せず、米国に従属し、戦後日本は平和と繁栄を享受してきた。その時代が本当に終わりつつある。これまでの物語にしがみついて生きるのか。それともまだ見ぬ世界に踏み出すのか。社会思想・政治学者の白井聡さん(36)は、私たちの覚悟を問うている。

■「終戦」の意味

戦後、日本人は敗戦を実感せずに生きてきた。もちろん1945年8月の段階では、そこら中が焼け野原で、負けは誰の目にも明らかでしたが、復興し、経済成長を遂げた。V字回復です。

70年代以降、戦勝国であるソ連や中国と比べて生活水準にはっきりと差が出て、どちらが敗戦国か分からなくなった。むしろ「負けてよかった」という意識を日本人は持ち続けてきたのではないでしょうか。

そのとき、日本の支配層が引いておいた「伏線」が見事に生きてきた。

8月15日は「敗戦の日」ではなく「終戦の日」です。なぜこの日か。連合国に対してポツダム宣言を受け入れると通知した14日でも、ミズーリ号の上で降伏文書にサインした9月2日でもよかったのに。

終戦の日は用意周到に誘導されたのです。8月15日は、死者が帰ってくるお盆に当たる。普通の死者と戦争の死者を一緒にして、戦争が天災のようなものになった。開戦の判断や降伏のタイミングなど、もっと合理的な政治判断があれば避けられた犠牲があいまいにされた。

玉音放送だってそう。「降伏」とか「敗戦」といった言葉が出てこない。玉音放送で国家による「敗戦のごまかしプロジェクト」は始まり、経済成長によって完成した。

では、なぜ敗戦を否認してきたか。戦前の指導者層の権力を戦後も温存するためです。

普通に考えれば、「なんでまたあいつらが偉そうな顔をしているんだ」という話。でも、そもそも負けていないなら誰も責任を取る必要はない。

敗戦の否認を可能にしたのは冷戦構造です。米国としては、日本が社会主義陣営に走らないよう、豊かになってもらわなければならなかった。

米国にべったりと従属して冷戦の最前線を台湾や朝鮮半島に押しつけ、日本は平和と繁栄を享受してきた。この戦後のレジーム(体制)を僕は「永続敗戦」と呼んでいます。

■歴史認識映す

冷戦が終わってこのレジームは崩れたはずでした。でもしがみついてきた。

平和と繁栄の時代が本当に終わったと社会が実感したのは東日本大震災のときです。あの光景を見れば納得できる。

特に原発事故は大きい。日本のエリート層に対する社会の信頼が揺らいだ。優秀と思われてきた官僚機構が実は相当にスカスカだった。素人向けについた「安全神話」といううそに、彼ら自身がだまされていた。ここまでずさんで、うかつな人たちだったなんて、それこそ「想定外」です。

それでも敗戦の否認は今も続いています。在日コリアンの排斥を主張するヘイトスピーチ(差別的憎悪表現)にも、明瞭に表れている。

大日本帝国においては朝鮮人は二級市民扱いされ、半ば公然と差別していい対象だった。敗戦の結果、同等の基本的人権を持つ存在として尊重することになった。

それを、現実に差別的発言をすることで「本当は負けてない」という気分になれる。敗戦を認めずに済む。

怖いのは、現に声高に叫ぶ彼らは少数者だが、実はマジョリティーということ。だって戦後の日本人は敗戦を否認してきたじゃないですか。その歴史意識を非常に極端に煮詰めた、僕たちの自画像なんです。

■成長神話崩壊

アジアとの関係がうまくいかないのは、米国の後ろ盾を前提に付き合おうとするからです。つまり「ドラえもん」でいうところのスネ夫。米国というジャイアンの陰に隠れて、「のび太のくせに」ならぬ「アジアのくせに」と指をさす。アイデンティティーは「家が金持ち」ということ。

経済成長が止まって、近ごろスネ夫のアイデンティティーは崩壊しつつある。だから安倍政権は経済成長を取り戻そうと死に物狂いです。

それにしか価値を見いだせないのは、経済成長を実現する限りにおいて戦後の保守政治は支持され、戦争責任が免罪されてきたから。その系譜を継ぐ安倍政権が経済成長を続けられなければ、その正当性は消滅してしまいます。

けれども親分であるはずの米国は丸々と太った子豚を放ってはおかない。TPP(環太平洋連携協定)のように強い収奪の姿勢をみせてきている。傀儡(かいらい)保守政権がこれに抵抗できないのは当然。これこそ永続敗戦の帰結です。

日米同盟基軸論者は米国が日本を守ってくれることを前提にしているが、日米安全保障条約だって、日本を守ることが米国の国益になる限りにおいて日本を守るかもしれないというだけです。その意味で自主防衛以外に道はない。ただし、自己保身のために戦争を続けた末に多くの国民を死なせた人たちの継承者に国防を語る資格はありません。

■語られぬ政治

新年だから明るい話題? そうですね、唯一の希望は沖縄独立の動きでしょうか。元外務省主任分析官で作家の佐藤優さんは「絵空事ではない。沖縄の政治エリートたちがその気になれば、短期間で独立できる」と長年強調しています。

そういう動きは本土に大きな刺激を与える。「そういうことをしていいんだ」って。

先日も三浦市で米軍ヘリの不時着事故があった。艦載機の飛行ルートを米軍に問い合わせても教えてもらえない。日米地位協定があるからです。沖縄や神奈川だけでなく、日本中どこも同じ。「それでいいのか」という声が、大きくならなければいけない。

「仕方ない」とやり過ごす国民に問題がある。主権者という意識がない。憲法に書いてあったって、主権者たろうと努力しない限り主権者たりえない。

こういう話は必ず波風が立つ。日本政治の専門家が論じるべきだけど、空気を読んでいるのか、誰も言わないから僕が言いました。若者が政治に興味を持たないと言うけれど、当たり前。生臭い政治問題を語る教育者や学者が少ないからです。

何が起きたらこの国民は正気に返るんでしょう。原発事故で殺されかけたのに。首都圏で今こうやって生活できるのはたまたまだと、なぜ気付かないのか。政府が演出するクールジャパンとか絆じゃなくて、本当に守るべきものを僕らは持っているのでしょうか。

白井聡
文化学園大学 助教(政治学・社会思想)

1977年、東京都生れ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒、一橋大学大学院社会学研究科博士課程単位修得退学。博士(社会学)。政治学者の立場から「いま何が起きているのか」を考え、分析します。私の専門は、政治哲学とか社会思想などと呼ばれる分野です。哲学・思想のプリズムを通して、現実の本質に迫りたいと思います。著書に、『未完のレーニン』(講談社選書メチエ)、『「物質」の蜂起をめざして――レーニン、〈力〉の思想』(作品社)、『永続敗戦論――戦後日本の核心』(太田出版)、共著に『日本人が知らないウィキリークス』(洋泉社新書)などがある。朝日新聞社「WEBRONZA」寄稿者。



教科書を7回読むだけで、断然トップになれた!

2014年04月07日 23時40分44秒 | Weblog
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プレジデントファミリー 2月22日(土)10時15分配信

 弁護士、山口真由さんの華麗なキャリアは、東京大学法学部への現役合格から始まる。

 東大入学後は、3年次にたった1年の準備期間で司法試験に一発合格。国家公務員第I種(当時)試験もクリア。卒業までに必要な162単位でオール「優」を取得。法学部における成績優秀者として「東大総長賞」を受賞し、同学部を首席で卒業している。

 卒業後は財務省に入り、エリートコースと呼ばれる主税局に配属。約2年後に退職して弁護士に転身。最近は弁護士業の傍ら、テレビのニュース番組などにも出演し、単行本も出版している。

 深いため息がもれそうな経歴だが、山口さんの勉強法は、意外なほどシンプルで安上がりだ。

 基本は教科書を7回読むこと、ただそれだけ。中学時代から彼女はこの勉強法を続け、そのキャリアをつかんできた。塾に通ったり家庭教師についたりしたことは過去一度もない。親の立場で見れば、なんて親孝行な勉強法だろうか。

 「教科書を7回読むことで、定期試験に出る範囲の内容を反復して自分の内側に入れて、試験ではその一部を吐き出すというか、再現するような作業なんです」

 山口さんはそう話す。「吐き出す」とか、「再現する」という言い回しは独特だが、彼女の読み方を知れば、多くの人が納得できるはずだ。最初に断っておくと、この勉強法に一番フィットするのは社会や英語、理科(主に生物や地学)などの暗記教科だという。司法試験への挑戦も、「この勉強法に最も適しているのではないか」と山口さんは直感し、ひたすら読み続ける勉強法で一発合格したのだという。

 さっそく、教科書を7回読む方法を、山口さんに解説してもらおう。

 教科書の理解度を目安にすれば、その勉強法は3段階に大別される。

 まず1回目から3回目までは「土台づくり」。彼女いわく「出題範囲の見取り図を作る」作業だ。4、5回目で理解度が飛躍的に高まり、6、7回目は、細かい部分まで含めた最終確認と山口さんは話す。

 「1回目は意味をとろうとせずにサラサラッと読みます。大見出しだけを目で追うようにして、出題範囲の全体像を頭に入れるためです。この項目はこれぐらいの分量で、あの項目はこの程度かと、薄ぼんやりとつかむ感じです。そうすることで頭の中に出題範囲全体の見取り図をつくるんです」

 1回目を読むとき、何より大切なのは内容を理解しようとしないこと。最初から丁寧に読んで理解しなければと考えると、「大きなストレスになるから」だという。

 「意味にとらわれずにサラサラッと読むことで、『なぁんだ、この程度のページ数か』と、思うことができます。それが教科書を繰り返し読むことの面倒くささを、ある程度やわらげてくれるんです」

 そういう読み方なら、誰にでもまねできそうだ。続いて、2回目もサラッと読む。すると、小見出しの語句くらいは頭に入ってきて、少しだけ意味がとれるようになる。彼女が言う出題範囲の「見取り図」が、やや具体的になってくる。

 「3回目になると、同じようにサーッと読みながらも、たとえば世界史の教科書なら、『次のページの右端には、耳にピアスをしたチンギス・ハーンの写真があって、その左ページはこんな記述があったはずだなぁ』といった、見当がつくようになります。ページをめくりながら、自分のイメージ通りかどうかを確かめるような読み方になってきます」

 3回目までは、あくまで「土台づくり」。だから、全体の理解度は2割程度らしい。回数を重ねることで、そこで築いた土台の上に、より具体的な教科書の情報を積み上げていく。いわば、「習うより慣れろ」式の読み方なのだ。

 この勉強法の原点は、彼女が子供時代に、母親がしてくれた絵本の読み聞かせにある。両親ともに医師の家庭に生まれた彼女は、1歳違いの2人姉妹の長女。

 「読み聞かせって、同じ内容を何回も繰り返し読むじゃないですか。すると、怖い絵の近くに怖い話が書かれていて、物語の起承転結を、絵とエピソードのワンセットでそれぞれ記憶しますよね。今から思えば、大事なものは何回も繰り返し読むものだ、そして読んでいるうちに覚えてしまうものだということが習慣として身につき、いつからか私の勉強法になっていったんです」
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 4回目も同じようにサラッと読むのだが、山口さん自身の受け止め方に変化があらわれる。

 「それまでは、私の内側に川のようによどむことなく流れていた教科書の内容が、4回目ごろから川の中に柵のようなものができて、そこに教科書の情報が少しずつ引っかかるようになる。つまり、より細かな意味が、私の頭に入ってくるようになります。5回目に読むころには、教科書の理解度が2割くらいから、いきなり8割くらいにはね上がります」

 そのレベルに達すると、彼女が当初話していた「教科書の再現力」は一気に高まる。ページをめくる作業が、次のページの内容を自分の脳に喚起するためのスイッチになり、教科書に書かれたキーワードだけでなく、出題範囲全体の論理の流れもはっきりと見えるようになる。

 いよいよ、最終段階に突入する。6回目では、全体像が頭に入っているので、机の引き出しから必要なものを取り出すように、見出しを見れば、その説明がすぐ思い浮かぶようになると、彼女は話す。

 「最後の7回目は、斜め読みのような感じでも、自分が細かい部分まで理解できていることを実感します。しかも読むスピードをとくに変えなくても、ある部分については詳しく確認したり、ある部分については読み飛ばしたりすることが、自由自在にできるようになります。そのレベルに到達できれば、読むスピードも1回目の5分の1程度の速さになっているので、この段階なら、300ページ前後の法学の専門書を1日7冊ぐらいは読めてしまいます」

 1日2000ページ以上、しかもそれが難解な法学専門書ということを考え合わせれば、彼女が中学時代から磨き上げた勉強法がとてもシンプルな半面、誰もがすぐにその域に達することはできないものであることもわかる。山口さんは、自身の勉強法をこう要約する。

 「あえて言えば、1回目から3回目までは、教科書の内容を写真のように写し取る作業。それを自分の内側に入れます。出題範囲の全体像をつかんだうえで、4回目から7回目までは、ここにはこういう項目が書いてあるはずだ、と確認していく作業ということになるかもしれません」

 後半は、自分の内側に写し取った全体像から、細部の論理の確認作業になるため、「(覚えたものを)再現する」とか「吐き出す」という、彼女の冒頭の説明にも納得がいく。




 山口さんの勉強法の最大の特徴を挙げるとするなら、基本書といえる教科書中心でありながら、最初から覚えようとせず、出題範囲の全体像をつかむことを優先し、続いて大見出し、次に小見出しという順番で細部を少しずつ頭に入れていくという点だろう。もう1つ気づかされるのは、定期試験はあくまで教科書の出題範囲から出されるという当たり前で、それでいて見過ごされやすい事実だ。問題集やドリルをやみくもに解くより、教科書の出題範囲だけに集中したほうが効率的で、より確実なのだ。ハイレベルの学生が集まる東大で、教科書一本で勝負した彼女が4年間162単位オール「優」という成績を取ったことが、何よりの証拠といえる。

 ちなみに、司法試験やビジネス英語の勉強など、これといった教科書が決まっていないケースでは、「MY教科書選び」にとことんこだわるという。使える1冊を選び抜く。

 「最初から最後まで読んで覚えるので、私にとっては網羅性がいちばん重要です。あと、あまりカラフルすぎると読みにくいので、2色刷りくらいが好みです」

 ところで山口さんは、文章の行間を読み取って解答しなければならない国語の読解問題や、英単語や慣用句をその正確なスペルまで暗記しなければいけない英語の場合、どう勉強していたのだろうか。

 「国語は、教科書よりも、むしろ授業ノートを同じ方法でひたすら読み込みます。ノートには先生が授業中に話していたポイントや、筆者がその文章で言いたかったことなどが書いてありますから。それを教科書の本文と見比べながら、繰り返し読んで頭に入れました」

 英語の場合は、単語や慣用句を発音しながら、書いて覚えたりもした。「ただし、書き写したものは一切見ません。五感を使ってより効率的に覚え込むために、ただ手を動かしているだけですから。この方法は暗記科目の社会や生物や地学でも、必要に応じて使っていました」


「書き写したものは一切見ません。五感を使ってより効率的に覚え込むために、ただ手を動かしているだけですから」と山口さん。

 これまた、誰でもまねができそうだ。撮影のために、彼女に本を実際に読みながら書いてもらった。愛用している3色ボールペンで書き始めると、彼女は目をかっと見開き、本の右隣に置いたメモ用紙に軽快にペンを走らせ始める。

 視線は本から一瞬も離さず、書き写している右手が紙の端からテーブルに移ったのを感じとると、機械的に次の行の頭に右手を戻して、再び書き始める。教科書を読み飛ばしながら見取り図をつくる一方で、音読や、英単語や慣用句を紙に書くことで情報を積み上げ、より立体的に肉付けする作業といえる。

 最後に、山口さんが「我慢の教科」と表現する数学は、教科書をひたすら読む方法が使えない。いったい、どうしていたのか。

 「教科書を読む代わりに、『赤チャート』と呼ばれる、高校教科書の標準レベルから、東大や京大の難関理系学部の入試問題レベルまでを収録した参考書を使い、それを合計7回繰り返し解いて、問題のパターンを覚え込む方法をとりました」

 いくら応用問題とはいえ、数学の問題も突き詰めれば何パターンかに集約できると考えたからだという。パターン別に問題を繰り返し解いて、正解を導き出す流れを覚え込んだ。

 「1回目は解答を見ながら問題を解きます。同じ問題を反復して解くことで、4回目ぐらいになると、考え方のパターンが頭に入り、解答を見なくても解けるようになってくるんですよ」

 これは、算数への苦手意識が強い子こそ、まねしやすい方法かもしれない。山口さん自身、大学入試では、数学は高得点を期待できなかったが、平均点程度さえ取れれば、超高得点が狙える暗記科目で十分に補えるために、とくに支障はなかったらしい。

 理科の場合は、「暗記できる部分が多い生物や地学に逃げるんです」と、彼女は苦笑しながら、正直に話す。

 「教科書を7回読む。中学から大学まで、この勉強法を続けてきましたが、これが一番ゴールに近く、無駄がありません。妹に『どうやって勉強すればいいの? 』と聞かれるたびに、私は『教科書を読みなさい』とだけアドバイスしてきました。読み込む勉強法なので、問題の解き方や考え方を他人にわかりやすく説明するのは、私、今でも苦手なんですよ」

 彼女はあっけらかんとそう言い、両頬をふっとゆるめてみせた。

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山口真由 
1983年、札幌市出身。2002年、東京大学入学。司法試験、国家公務員第I種試験に合格。06年4月、財務省に入省。現在は弁護士として活動する傍ら、テレビ出演や執筆などでも活躍中。近著に『天才とは努力を続けられる人のことであり、それには方法論がある。』(扶桑社)。



歴史上の偉人は、こんな親に育てられた

2014年04月07日 23時38分02秒 | Weblog

http://president.jp/articles/-/12117
プレジデントファミリー 3月15日(土)10時15分配信

 歴史上の偉人たちは、どんな家庭に生まれ、どんな親に育てられたのか?  教育方針や勉強法に、なにか秘訣があったのか?  そして、今すぐにでも、わが家でできそうなことはあるのか?  古今東西の自伝・伝記をもとにした著書が多数ある木原武一さんに語り尽くしてもらった。


○ 進化論を提唱した『種の起源』で知られるイギリスの生物学者、チャールズ・ダーウィン(1809~82)は、幼いころから長い時間をかけて、じっくりと自分自身の個性と好奇心を育んだ人物である。

 医者の家庭に6人兄姉の次男として生まれたダーウィンは『ダーウィン自伝』(八杉龍一ほか訳)に、幼いころから、貝殻、封筒のシール、貨幣、石ころなど、なんでも集めたと書いている。彼は8歳のときに母親を失い、その後は父親の監督下で育てられる。だが、父はダーウィンの「生まれつきの性癖」をまったく評価しようとしなかった。ダーウィンはある日、父からこう言われた。

 「おまえは、鉄砲を撃ったり、犬を飼ったり、ネズミ捕りをしたりする以外には能なしだ。そんなことでは、自分でも恥ずかしい目に遭うし、おまえの家族みんなにも恥をかかせることになるぞ」

 父親は、家業を継がせるために、ダーウィンをエディンバラ大学の医学部に入学させる。だが、彼は医学に興味がないだけでなく、解剖や手術の実習に耐えることができなかった。大学での息子の勉学のありさまを知った父親は、ダーウィンを医者にする道はあきらめ、医学の勉強は2年間で終わった。

 そこで今度は、父は息子を牧師にするためにケンブリッジ大学の神学部で学ばせることにした。けれども、ダーウィンは牧師になるつもりもなかった。大学でとくに親しくしていたのは植物学や動物学の教授であり、彼がもっとも熱中し、楽しみにしていたのは、何とカブトムシの収集だった。前述の自伝にこう記している。

 「ある日、古い樹皮をひき裂いてみると、2匹のめずらしいカブトムシが見つかったので、1匹ずつ両手につかんだ。ところがさらに3番目の新しい種類のものが見つかった。これをつかまえないのは残念でたまらないので、私は右手につかんでいた1匹を口のなかにほうりこんだ。なんと、それはものすごく辛い液体を出し、私の舌を焼かんばかりであった。私はやむなくそのカブトムシを口から吐き出したが、それは逃げ、そしてまた、3番目のやつも逃げてしまった」

 幼いころのコレクターそのままである。彼は、みずからを「大きくなりすぎた子供」と言っているが十分にうなずける。しかし、それがのちにビーグル号の一員となり、世界一周におもむいたときに生きた。そこで彼が見せたのは、生来の収集癖によって培われた冷静な観察眼と分析力だった。例えば、ガラパゴス島に上陸した際、くちばしの大きさや形が違う同種の鳥が13種類もいることに気づく。その理由をダーウィンは、自然環境への適応の結果だと仮定し、生物の進化を理論化していくわけだ。


○ 次は、「天才とは99%の努力と1%の霊感である」の言葉で知られるアメリカのトーマス・エジソン(1847~1931)。

 「今日の私があるのは母のおかげです。母はとても誠実で、私を信頼してくれていましたから、私はこの人のために生きようと思いました。この人だけはがっかりさせるわけにはいかないと思ったのです」(ニール・ボールドウィン『エジソン』椿正晴訳)

 これこそ、子供が親にささげることのできる、もっともすばらしい言葉ではないだろうか。のちに発明王と呼ばれるエジソンの少年時代は、たいへん好奇心が強く、普通に考えるとばかげたこととしか思えないような質問を連発して大人を困らせる厄介な子供だった。父親はうんざりしていたが、母親のナンシーはどんな質問にも誠実に答えた。
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 こんなエピソードがある。彼はあるとき、母親に「お母さん、ガチョウはなぜ卵の上にすわるの? 」と聞いた。ナンシーは「温めてやるためよ」と教える。すると「なぜ温めるの? 」と質問は続く。彼女も面倒がらず「卵からガチョウのひなをかえしてやるためなのよ」と説明した。

 ほかの子供なら、そこで納得して終わりである。しかし、なんでも試してみなければ気のすまないエジソンは、ガチョウの卵をかかえて、自分でかえそうとした。自分の体温で温めたのだ。もちろん、かえるはずもない。人間の体温では卵をかえすことはできないことを彼は学ぶ。

 エジソンは8歳のときに小学校に入学したが、3カ月後のある日、彼の生涯を決定するような体験をする。学校を視察に来た視学官に「エジソンの頭はどうかしている。これ以上、学校にとどめておくのは無駄である」と、校長が話しているのを耳にしたのだ。

 エジソンは泣きながら家に帰り、母親にそのことを話した。怒ったナンシーは息子を連れて学校へ乗り込み、校長に激しく抗議して息子を退学させてしまう。ナンシーは、18歳で結婚する前に1年ほど教師をしていたことがあったが、自分の手で教育していくことを決意したのだ。

 ナンシーは、息子の興味を引き出すことに努めたという。その教材は子供向けのやさしいものではなく、ギボンの『ローマ帝国衰亡史』といった、大人向けの歴史書を読んで聞かせた。

 母親の期待や信頼にエジソンは十分に応えた。9歳のころには、自分から進んでシェークスピアやディケンズのような古典文学を読むようになる。子供は大人が思っている以上に、いわゆる難解な本でも読みこなす能力を持っているものである。

 息子の読書力が高まったことと、何ごとも試さずにはいられない性質をよく知っていたナンシーは、家庭でできる科学実験を記した『自然・実験哲学概論』という一冊の本を買い与えた。これが、エジソンの才能に火をつけたといっていい。

 その本には挿絵入りで、数多くの実験の方法が詳しく書かれていた。ナンシーは、野菜の貯蔵場所である地下室を実験室として使うことを許可し、エジソンは、本にあるすべての実験を自分で試したという。後に、生涯に千を超える特許を取得した才能は、こうして培われた。


○エジソンの例のように、子供がどんな能力を持っているかは、それを引き出してみないとわからないものだ。その一方、幼時からの早期教育によって、能力をつくり出すこともできるという例もある。

 16世紀のフランスの思想家であり、『エセー』の著者として知られるミシェル・ド・モンテーニュ(1533~92)がそうだった。まだ乳飲み子の母国語も話せないころからラテン語を学ばされ、見事マスターする。

 古代ローマ人が使っていたラテン語は、当時のヨーロッパの知識人のあいだで共通語になっていた。大学ではラテン語で講義が行われ、学者の論文やフランス政府の公文書さえもラテン語で書かれていた。社会でエリートとして活躍するためには必須科目だったのだ。

 「わが子を立派な人間に育てるには、なんといってもラテン語を身につけることが必要だ」というモンテーニュの父親の考えは、けっしてとっぴなものではない。けれども、彼の方法は実に破天荒だった。6、7歳からラテン語教育をはじめたのでは遅すぎる。母国語を覚える前に、これを覚えさせるべきだと考えたのだ。

 そのため、裕福な貴族だった父親は、フランス語がまったく話せないドイツ人のラテン語教師を高額の報酬で招き、さらに2人の助手をつけた。また、家族と会話するときでさえもラテン語しか使ってはいけないという特別な環境をつくって“ラテン語漬け”を徹底させた。

 この早期教育は約4年間つづけられ、のちに普通の子供と同じように初等教育(小学校)でラテン語を学ぶことになるが、モンテーニュの語学力は傑出していた。当時のフランスの有名なラテン語の教授も、子供なのにあまりにラテン語が上手だったので、驚き恐れおののいたという。

 同じことが、19世紀のイギリスの経済学者・思想家であるジョン・スチュアート・ミル(1806~73)についてもいえる。彼の場合は、まずギリシャ語からはじめられたが、3歳から習いはじめている。

 ミルは父親がつくった、ギリシャ語の単語に英語の意味が記された単語カードをひたすら覚えるというやり方を取った。そして、簡単な文法を習ってから『イソップ寓話集』の訳読に進む。それ以後、父の指示に従ってギリシャの古典を次々と読むことになる。こうしてミルは、7歳のときにはプラトンの対話篇をも読むことができるようになったという。

 父親による教育は続き、ミルが8歳になるとラテン語の学習もはじまった。語学のほかにも幾何学、代数、微分学などの高等数学、歴史、論理学、哲学、さらには経済学におよんだ。13歳でこれらの教育が終了したときには、彼はケンブリッジやオックスフォードの大学生と同等か、それ以上の知識を持つにいたっていた。

 この2人の例から、どんな教訓を得ることができるか。それは親の努力次第でいかようにも子の才能を伸ばせられる、幼年期の子供には限りない学習能力があるということだ。






○ 目と耳と口の機能を奪われながらも、みごとに三重苦を克服したアメリカのヘレン・ケラー(1880~1968)。彼女の生涯をたどってみて、最初に気づくのは、これまで人間の成長や発達について常識と信じられてきたものが、まったく通用しないということである。

 心理学者や教育学者の研究によると、人間の知能や情緒の発達は、3、4歳までの家庭環境や刺激の与え方によってほぼ決まるといわれている。

 ヘレン・ケラーの場合はどうか。生後6カ月目には片言で「こんにちは」としゃべり、満1歳で歩きはじめるなど、心身の発達は平均よりもむしろ速いほうであったが、生後19カ月で病気のために目と耳の機能を失い、暗黒と沈黙の生活がはじまる。

 それからのヘレンは、わがまま気ままの手に負えない子供になってしまう。顔つきは知的だが、魂みたいなものが欠けていた少女だった。家では暴君のようにふるまい、手づかみで食事をする野生児と化していた。

 ここで登場するのが、ヘレンにすべてを教えた生涯の師、アン・サリバンだ。サリバンがヘレンと会ったのは7歳のときで、重要な幼児教育の時期はとうに過ぎている。

 そんな少女に師はどう接したのか。ヘレンは自分の手のひらに師が指で記す文字だけを頼りに言葉を覚えていくことになるが、それを最初に理解するきっかけとなったのが、「水」という言葉だった。その瞬間は、まさに彼女の生涯のハイライトといえる。ヘレンは『わたしの生涯』(岩橋武夫訳)に、こう記す。

 「先生は樋口の下へ私の手をおいて、冷たい水が私の片手の上を勢いよく流れている間に、別の手にはじめはゆっくりと、次には迅速に“水(ウオーター)”という語をつづられました。私は身動きもせず立ったままで、全身の注意を先生の指の運動にそそいでいました。ところが突然、私は何かしら忘れていたものを思い出すような、あるいはよみがえってこようとする思想のおののきといった一種の神秘な自覚を感じました。この時はじめて私はw-a-t-e-rはいま自分の片手の上を流れているふしぎな冷たい物の名であることを知りました。この生きた一言が私の魂をめざまし、それに光と希望とを与え、私の魂を解放することになったのです」

 ヘレンはこれを契機に「新しい心の目をもって、すべてのものを見るようになった」とも言う。サリバンはヘレンが覚えた言葉の数を克明に記しているが、はじめの3カ月で約400の単語を習得したという。障害のない子供が覚える速度に比べてはるかにハイペースで、いかにヘレンの学習意欲が高かったかを物語っている。こうして魂が抜けた野生児から生き生きとした人間へと変貌していくのである。




○アメリカの名門、ケネディ家。第35代大統領のジョン・F・ケネディ(1917~63)、弟で司法長官になったロバート、そして上院議員のエドワード。最近では、駐日大使として赴任したジョンの長女であるキャロラインと、きら星のごとく政治家がならぶ。

 彼らの母親、ローズは4男5女の子育てに臨んで、確固たる考え方があった。彼女は子育ての記録を『わが子ケネディ』(大前正臣訳)という本にまとめているが、これを読むと、いかに彼女が周到な準備のもとに子育てに臨んだかがよくわかる。

 「子供たちを優れた人間に成長させるためには、小さいときから始めねばならない。子供はたとえば10代になってから突然、すばらしい会話者とか話し手に開花することはないし、頭の回転の速さ、感情のバランス、幅広い知識を獲得することもできない。それは遅くとも4歳か5、6歳のときに準備と努力をはじめなければ、14歳か15、6歳になって、たまたま出てくるものではない」

 とはいえ、夫は多忙な実業家で、彼女自身も子育てや家事に追われていて、子供たちとゆっくり話をする時間はあまりなかった。そこで彼女が目をつけたのが、家族全員が集まる食事の時間である。

 彼女はこんな工夫をした。子供たちが食堂に集まる途中のかならず目につきそうな場所に掲示板を置き、新聞や雑誌の切り抜きを張っておく。字が読め、理屈を考えられる年齢に達した子供がそれを読んで、食事のときの話題にすることができるようにするためだった。

 もちろんそれは子供たちの自発的な会話ではあったが、母親が質問をしたり論評するなど巧みにリードし、教訓を導き出す。ローズは「けっしてポイントのない雑談に終わらせるつもりはなかった」と言っている。

 例えば、フロリダ州が話題に出ると、フロリダとはどういう意味で、なぜこんな地名になったのかと質問する。「これは何語かしら」「この州にあるスペイン語の名前の町を考えてごらん」「カリフォルニア州はどうかしら」といったぐあいだ。一種の“教育ゲーム”である。子供たちは大いに興味を示し、知らず知らずのうちにアメリカ史を学ぶことになる。

 こういったことを食事のたびに経験すれば、思考力や会話力が身につくのは間違いないだろう。1960年の大統領選挙では、候補者となったケネディとニクソンのテレビ討論が勝敗の行方を決めたといわれる。そのテレビ中継を見て、母親のローズは、子供時代の元気のよい議論の習慣が役立ったと思ったという。

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木原武一 
1941年東京生まれ。東京大学文学部ドイツ文学科卒業。著書に『天才の勉強術』『大人のための偉人伝(正・続)』『父親の研究』『あの偉人たちを育てた子供時代の習慣』『子供を知的に育てる親の態度』。