岡崎久彦・歪められた戦後の「歴史問題」 〔2〕

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岡崎久彦・歪められた戦後の「歴史問題」 〔2〕
2014年02月17日 公開

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《『Voice』2014年3月号より》



日韓歴史問題は解決可能である


 韓国では1988年盧泰愚大統領が就任し、言論自由化を進めた。それまでも、韓国では李承晩大統領時代以来徹底した反日教育を行なっていたが、他面国の外交政策を阻害するような言論は統制されていた。

 ところが、言論の自由化と、折から、日本のマスコミによる反日言動を引き出すための設問とが重なって、対日批判は一挙に噴出した。もう、日本を批判しない人間は非国民であった。

 当時の対日批判の激しさは、現在の朴槿惠政権と同じかそれ以上だったように記憶する。

 当時、私の旧知の友人はいっていた。

「日本のことは聞かないでくれ。聞かれれば批判しないと、自分を守れない」と。

 日本側では、私の友人たちで、それまでは日本の知識人の間の左翼北朝鮮支持の風潮に対抗して、韓国や韓国の留学生を庇っていた佐藤誠三郎東大教授のような人々までが韓国に対して挫折感を抱いたのはその時期だった。

 実はこの時の対日批判は、いったんは収まる。1998年訪日した金大中大統領は、日本側の「お詫び」を受け入れ、それ以降は「韓国政府は、過去の問題を持ち出さないようにしたい。自分が責任をもつ」と言明した。この約束は堅持され、その後、2001年に「新しい教科書」で問題が再燃するまで、2年間、首脳、閣僚レベルで対日批判はまったくなかった。

 この例は、日韓歴史問題は解決可能であり、また、現にいったんは解決されたことを示すものである。

 中国では、最大の転機は、1989年の天安門事件であった。学生たちの自由民主化運動を弾圧した中国政府は、運動に同情的だった趙紫陽を江沢民に代え、自由民主化運動に代わるものとして愛国主義を鼓吹した。

 愛国主義は、如何なる国民の間にも自ずから存在するものであり、これを政府が鼓吹すれば必ず燃え上がるものであることは、戦前の日本、ドイツなど、すべての国民について共通にいえる。

 まさしく、この運動は100%成功した。天安門事件後、数年のうちに、逐次釈放された学生運動家が、以前の仲間に会って、「もう一度やろう」というと、「いまはもうそういう時代ではない。台湾を回復して100年の雪辱を果たすときだ」という返事が返って来て挫折したという。そういう人々の多くは、――天安門時20歳として、現在40代半ばの人々の多くは――現在の中国に絶望して、アメリカや日本に亡命している。

 折から1995年は、日清戦争終結から100年、日本の敗戦から50年を迎え、中国政府は愛国主義運動に拍車をかけた。各地に反日記念館が増設され、内容が拡大するのはその時期である。

 実は、反日記念館の建設についても、その背後には、1980年代の初めから、日本の左翼の工作があった。

 日本社会党委員長を務めた田辺誠は、南京大虐殺の記念館を建てるよう中国側に示唆し、中国側が難色を示したのに対して、田辺は、1983年には総評から3000万円の建設資金を南京市に寄付した。実はそのうち建設に必要なのは、870万円であり、その他は共産党幹部への寄付となったという。

 そして、小平は1985年2月に南京を視察に訪れ、建設予定の記念館のために「侵華日軍南京大遇難同胞紀念館」の館名を揮毫し、小平の視察直後に記念館の建設が着工され、抗日戦争終結40周年に当たる同年8月15日にオープンした、という。

 その後、中国の反日運動はエスカレートして、2001年には、愛国主義教育を推進する法律が制定され、各学校の教育はその綱領に基づくことになり、全国には愛国主義教育基地が設けられたりした。

 現在、中国の愛国主義運動は、特に習近平の反自由主義・民主主義運動の道具として、ますます強化されつつある。



日本から提起された従軍慰安婦問題
 従軍慰安婦問題こそ、日本から提起された問題であるが、それは、それまでは無名だった日本人評論家の売名行為から発する。

 1983年吉田清治は、『私の戦争犯罪』を上梓し、済州島で200人の女性が従軍慰安婦として拉致されたと証言し、それは1989年には韓国語に翻訳された。しかし、吉田の韓国語訳が出た1989年に『済州新聞』の許栄善記者は、「250余の家しかないこの村で15人も徴用したとすれば大事件であるが、当時はそんな事実はなかった」という済州島城山浦の85歳の女性の証言を紹介し、吉田の著作には「裏付けの証言がない」として、吉田のいう済州島での「慰安婦狩り」は事実無根であり、吉田の主張は虚偽であると報じた。

 また、済州島の郷土史家金奉玉も、「何年かの間追跡調査した結果、事実でないことを発見した。この本は日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物と思われる」と、数年間の追跡調査で吉田証言が事実ではないと批判した。

 しかし、これらの『済州新聞』での批判記事は、1992年に日本の歴史学者秦郁彦が許栄善記者の証言を得て、日本の新聞、雑誌で紹介するまで知られることはなく、その間強制拉致説は歴史的事実として独り歩きし、韓国内の対日批判は燃え上がり、日韓関係の障害となるまでになった。

 当時の日本の内閣は、歴代の自民党政権の中でも、最もリベラルに属する宮沢政権であったが、何とか韓国を宥和して、日韓関係を正常化しようとして、加藤紘一、河野洋平の2人の官房長官談話を相次いで発表した。その時は韓国側も何らかの謝罪の意思表示があれば、慰安婦たちへの補償は求めないし、それで解決しようという意向のようであった。

 こうした双方の思惑による妥協的産物が、いわゆる河野談話の公表である。

 河野談話は、官憲による強制連行の証拠が無いことは認めつつも、それを認めないと事態の打開は困難であると認識して、慰安婦の「募集・移送・管理等の過程全体をみると、本人たちの自由意思に反して行われたこと」を認めるという玉虫色の内容になっていた。

 あらゆる組織、団体行動で、自由行動に制限があることは当然であるから、一見すると無害な談話のように見えたが、この表現は、日本が強制連行を認めた証拠だとして後年まで利用されることになる。事態を一時凌ごうとした小智恵がその後何十年の禍根を残すことになる。

 この問題はその後国際問題となるが、それを提起した発端も日本人または日系米人であった。1992年、従来とも左翼的偏向の強かった日本弁護士連合会は国連へのロビー活動を開始し、「国連人権委員会」に対して、「日本軍従軍慰安婦」を「性奴隷」として国際社会が認識するよう活動した。そして、1996年のクマラスワミ報告書では「軍隊性奴隷制(military sexual slavery)」と明記されるに至った。

 2007年日系の下院議員であるマイク・ホンダは、河野談話で日本官憲の加担が認められたとして、対日非難決議案を出している。

 もうこの時期においては、日本の立場は決定的に不利となっていた。当初は、軍の関与による強制性があったかどうかが問題であったが、時代は変わって、軍による売春施設そのものが人権侵害とされるようになったからである。

 兵士の外部に対する性的暴行を抑制するために軍隊用の慰安所を設けることは、米軍を含め各国の軍隊の慣用であったが、それが罪悪として断罪されるような時勢となっては、この問題で日本の勝ち目はなかった。

 このような歴史問題を収拾しようという努力もなされている。

 2006年の日中首脳会談において、日中の権威ある学者の間で、共同の歴史研究が行なわれることが決まった。それは4回行なわれ、2010年には報告書が提出されている。

 その結果は、双方の意見の一致しない箇所は両論併記とするなどして、一応の学術的報告の形として残っている。

 ただし、2002年から2005年までの間に行なわれた日韓の歴史共同研究では、韓国側は日本が提示した原資料の閲読そのものを拒否するなどして、学問的に意義のある報告は作成されなかったという。

日本自身の反政府運動
 この問題をどう解決したら良いのだろうか。

 問題は歴史に前例がないということである。

 かのヨーロッパで吹きまくったナポレオン戦争の嵐の後遺症も一世代で収まっている。日本の場合は、戦後一世代でいったん収まったものが、その10年後に掘り起こされ、戦後70年を経た現在に至っている。

 しかも、発端はすべて日本自身の反政府運動から発しているというのも独特である。

 人為的に日本から発した問題であるから、日本内の反体制運動が収まれば、それで済むのかといえば、それもわからない。中国、韓国では、発端は日本の反政府運動が火をつけたかどうかにかかわらず、すでに広範な国民世論となっている。

 ただし、考え直してみると、この問題は、国際問題ではあるが、国際問題の基軸である、国家間のバランス・オブ・パワーの変遷に伴う問題でもない。

 各国民の国民感情に伴う問題であり、それが及ぼす影響も国家の基本的利害に影響のない、首脳会談の開催のような形式的な問題の域を出ない。

 国際関係には多々解決すべき問題が残っている。環境問題、人口問題、そして経済の拡大と生活水準の向上改善を維持する問題など、国際協力を要する問題は多い。何時までも20世紀前半の歴史の記憶にかかずらわっていられないはずである。

 中でも、伝統的に最も重要なのは、国家間のバランス・オブ・パワーの変化に伴う、国際の平和の維持の問題である。いったんこの問題が表面に出れば、他の問題などは吹き飛んでしまう。

 現在中国の勃興は、19世紀初頭のドイツの勃興に比すべき、バランス・オブ・パワーの変化ではないか、といわれている。

 しかし、実質はまだそこまでいっていないと思う。中国の軍事力はまだとうていアメリカの優位を脅かす所までいっていない。アメリカはまだ、中国を甘やかすリベラルな態度をとる余裕をもっている。

 おそらくは、国際的なバランス・オブ・パワーにラディカルな変化が生じるまでは、この歴史問題のような問題も生き続けるのではないかと思う。 (文中、敬称略)


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<著者紹介>

岡崎久彦 (NPO法人岡崎研究所所長)

1930年、大連生まれ。東京大学法学部在学中に外交官試験に合格し、外務省に入省。55年、ケンブリッジ大学経済学部学士および修士。防衛庁国際関係担当参事官、初代外務省情報調査局長、駐サウジアラビア大使、駐タイ大使などを歴任。著書に『日本外交の情報戦略』(PHP新書)ほか多数。


岡崎久彦・歪められた戦後の「歴史問題」 〔1

2014年03月22日 05時41分34秒 | Weblog
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岡崎久彦・歪められた戦後の「歴史問題」 〔1〕
2014年02月17日 公開

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《『Voice』2014年3月号より》



敗戦と占領の後遺症で、日本が自ら発した自虐史観



勝者アングロ・サクソンの歴史
 日本の敗戦後70年近くを経て、日本の隣国である中国と韓国との関係において、いわゆる歴史問題がいまだに残っている。

 この問題の不思議なことは、国際問題ではあるが、その根源を探っていくと、問題はすべて日本から発出していることである。

 つまり、戦後の日本の思潮の中に、自らを貶める文化があるということである。現に、そのような史観は日本では自虐史観と呼ばれている。それは、日本の歴史ではかつてなかった思潮である。

 もっとも、20世紀末においては、それは日本だけでなく、世界的な現象ともなっている。英国では、かつての奴隷貿易、米国ではインディアンの土地収奪を責めるいわゆる「レヴィジョニズム」がある。ただ、それは欧米の思潮の中できわめて部分的な地位しか占めず、日本のように、国家の外交にまで影響を及ぼしていない。

 ドイツのホロコーストの場合は、歴史の解釈の問題ではない。ナチス政権の対ユダヤ人政策については、その政策遂行の意思も手段も、歴然たる証拠があり、自虐というよりも解釈の余地のない歴史上の事実であるからである。

 もちろん、すべては日本の敗戦の後遺症である。日本の敗戦は、1945年8月15日のポツダム宣言受諾による降伏では終わらなかった。

 近代国際社会では、戦争がある段階で勝負がつくと、まず休戦条約を結び、その上で講和条約を結んで、その条約の条件に従って、戦争が終結する。

 日本もそのつもりだった。ポツダム宣言という条件を受諾して、降伏を申し入れたのだから、その条件を満たした上で、いずれ、国家を再建するつもりだった。それが、近代における過去の敗戦国が歩んだ道だった。

 ちなみに、それがそういかなかった理由は、1つは、第一次大戦後、戦争が国家総力戦となったことにある。

 その前の戦争は、極端にいえば、一般市民に関係のない、軍隊同士だけの戦争だった。

 しかし、国家総力戦となると、国民全体の協力が必要となる。そうすると国民の協力を得るためには、相手は悪の権化、自らは正義の味方と国民に信じてもらわねばならない。

 それぞれの歴史の上に立って成立した近代国家の間の戦争で片方が絶対善、片方が絶対悪ということはあり得ないことであるが、戦争の高潮期、そして戦争の決着直後はそれが真実となってしまう。そうなると敗者は悪の権化であるから、どういう処遇をしても良いこととなる。つまり、勝者の圧政が許されることとなる。

 こうして、勝ったほうの判断は歴史として残り、負けたほうの主張は歴史から抹殺されることになる。特に、アングロ・サクソンは歴史を書くのに長けている。世界の歴史で、独自の文明をもつ、中国と日本の歴史を除いては、ペルシャ、インド、エジプトなどの伝統のある大民族の歴史書で、まとまったものは、ほとんどアングロ・サクソンが書いたといって過言でない。ローマ帝国衰亡の長い歴史を書いたギボンはその例である。

 したがって、第一次、第二次大戦の正統な歴史として残るのは勝者アングロ・サクソンの歴史である。



米政府に残る無条件降伏の思想
 日本の占領政策が近代の国際慣例無視となった、もう1つの理由は、ドイツの例が先例となったことである。ドイツの場合は、休戦条約も平和条約もなかった。連合軍がドイツ全土に侵入して、政府も何もない占領下に置かれた。その前例がそのまま適用されて、政府が、公式にポツダム宣言を受諾して、整斉と占領軍を受け入れた日本にそのまま準用されてしまったのである。

 米国では、ローズベルト大統領は一貫して無条件降伏を主張した。日本の伝統を理解し、硫黄島、沖縄などにおける日本軍の勇戦に感動したチャーチルは、日本に名誉ある敗戦を与えようと提案したが、ローズベルトは、真珠湾を攻撃した日本には護るべき名誉など残されていないといって、無条件降伏を主張した。

 ローズベルトの死後、トルーマンは、無条件降伏という主張は行なわず、ポツダム宣言による降伏を提案し、日本はそれを受諾した。

 しかし、ローズベルト以来の、無条件降伏の思想は米政府内に深く残り、降伏の20日後、米国務省は、五百旗頭教授の表現によれば「最も粗暴なる」文書を占領軍司令官に送った。その文書は、「日本との関係は契約的基礎に立つのでなく、無条件降伏に基づくものである」といっている。そしてこの方針は、占領7年間維持された。つまり、戦争裁判でパル判事がいったように、「敗戦者を皆殺しにした昔と、われわれの時代との間の数世紀の文明を抹殺する」ことが既成事実となったのである。

 せめてもの救い、というよりも唯一の救いは、日本を占領した国が、ユーラシア大陸を席巻して、骸骨のピラミッドを築いたモンゴル軍でもなく、現代でもベルリン、満州で暴行の限りを尽くしたロシア軍でもなく、アメリカ軍であったということだけであった。

 法理論的には、野蛮国の占領と同じ状況に置かれたが、占領軍が文明的であったというだけの違いである。

 それでもケーディスなどの、植民地官僚的な振舞いはいまでも嫌悪感を以て記憶されている。

 先に述べた自虐史観もその根源をたどれば、こうして国際法も、国際慣例も、日本が受諾したポツダム宣言も無視した初期占領行政が日本に及ぼした後遺症の1つである。

 占領の後遺症といっても、占領軍の政策の中で、自由と民主主義の復活には、日本側は何の抵抗もなかった。そのほとんどは、戦前、明治の自由民権運動以来自らの手で勝ち得て来たものの復活であった。ただ戦時中はどこの国でも国家統制強化の必要があって、システムは硬直化するが、それは戦争が終われば自動的に撤廃されるものであり、現に撤廃された。

 言論、結社の自由などは戦争が終わるが早いか、米軍の到着を待たず、東久邇内閣によって撤廃された。婦人参政権、労働法、農地改革などは、大正デモクラシーと、その後の世界の趨勢に沿ったものであって、占領軍の政策は日本側のイニシァティヴにほとんどそのまま乗った形となった。

 日本側が、予期もせず、また、いまだに独立国家としての日本の現実と融和していないのは、その時の占領当局の事情で、1週間で作成された英語の原文の翻訳文である日本国憲法だけである。

 ここで問題としている自虐史観は占領の遺産ではあるが、それは法制上というよりも占領中の洗脳の影響だった。

 軍事占領は7年間続いた。7年というのは恐るべき長い期間である。21世紀初めに日本社会の指導層であった60歳代(1930~1940年生まれ)の人々は、ことごとくその少年期の人格形成期の中にこの7年間を体験していることになる。

 しかもその影響はこの世代に限られなかった。現在、日本の社会で活動しているすべての日本人の人格形成に深い影響を与えている。

 それはアメリカの初期占領政策を、アメリカが早々に放棄したにもかかわらず、日本の左翼マルキシスト勢力がその後、半世紀あるいはそれ以上に現在に至るまで、温存したからである。

 米国は、まず降伏によって、物質的な武装解除を行なった。そして、日本国民に対して、これもポツダム宣言(言論、宗教及思想ノ自由竝ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ)、米国人が起草した日本の新憲法、米国憲法のすべてが保障している、言論の自由の違反である厳しい言論統制を布いて、言論の自由を奪い、日本の過去の歴史はすべて悪と断定し、日本人から、国家を護る意識を根絶させようとした。それがいまに残る歴史問題の源である。

 こんな人類の歴史の常識に反した政策が長続きをするはずはない。

 国際情勢はどんどん変転する。新たに現われたのが、ソ連の脅威であった。そこで、日本が自由主義陣営側として軍事力でも貢献することを望む、ジョージ・ケナンなどの米政府中央の戦略家たちと、初期占領政策に固執するマッカーサーとの間に相克が生じた。

 しかし、真の問題は、マッカーサーよりも日本国民にあった。占領中に洗脳された日本人はもう昔の日本人ではなかった。

 日本を自由陣営のパートナーとしようとして、そして対日講和締結の交渉のために訪日したダレスは日本人と会って、そのパシフィストぶりに驚いたという。




米国の初期占領政策が左翼によって増幅された
 どうしてこういう現象が起きたかというと、それは、米国の初期占領政策が、日本の左翼によって温存、増幅されたからである。しかも、それはその後、半世紀続いている。

 理由は簡単である。左翼勢力の目的は米国の初期占領政策とまったく同じだったからである。共産圏としては、いざという場合日本を取りやすくしておくのがその目的である。

 そのためには、物質的、精神的、法制的に日本から戦争を遂行する能力を奪う必要がある。その役割を、占領軍から、100%以上引き継いだのが日本の左翼勢力であった。

 もちろん、当時の日本社会党と共産党がその主力であった。社会党が政権を取ったのは、それも議会の過半数を制する多数党としてではなく、連立政権の一部としてではあったが、片山内閣(1947年5月24日~48年3月10日)と村山内閣(1994年6月30日~96年1月11日)の2回しかない。

 その間、共産圏諸国の利益を代表し、憲法擁護の旗印の下に米国の初期占領政策を護ったのは、主として、労働組合、特に、教育、出版、新聞関係の労働組合であった。

 1949年、中国共産党が中国本土を席巻し、1950年には、北朝鮮軍が韓国に侵入して朝鮮戦争が勃発し、東アジアが自由共産両陣営対立の主要舞台となるにつれて、各組合の共産圏側に与する活動が活発化した。

 日教組は、1951年1月に開いた中央委員会で「教え子を再び戦場に送るな、青年よ再び銃を取るな」という方針を決めた。

 マッカーサーは国家警察予備隊の創設を指令して、再軍備に道を開き、日本を「反共の砦」と位置づけた。また、米軍基地を許容する日米安保条約の締結に向けて動き出した。

 これに対して、日教組は、「われわれは、一切の武力を放棄することを宣言した憲法の大原則を確認し、如何なる国に対しても戦争に導く要素となる軍事基地の提供には断固反対する……」。

 日本政府も連合国軍による占領終了に伴う主権回復を前にして、「日の丸」「君が代」「道徳教育」復活などの教育政策を志向し始めた。

 これに対して、1950年(昭和25年)以降、日教組は、国旗掲揚と国歌斉唱の強制に対して反対を決定した。

 国旗掲揚と国歌斉唱を義務付ける法律が、数々の抵抗を押し切って通過したのは、敗戦後50年以上を経過した1999年の小渕内閣の時であった。しかし、それでも済まなかった。その後は、各教職員組合から、相次いでその法律について違憲訴訟が起こされ、それが最高裁まで持ち込まれて、結審を見たのは、やっと2011年になってからであった。

 日本の国歌が各学校で普通に歌われるようになるのには、実に戦後60年かかっている。それはアメリカ、英国を含め、世界のどこの国でも考えられないような反国家主義の跳梁を示している。

 戦後の日本の政治情勢の流れの中で、この種の左翼反国家主義、具体的には、憲法改正反対、国防力増強反対、日米同盟反対の運動が頂点に達するのは、いわゆる60年安保騒動、70年安保騒動であった。

 60年安保条約は、占領が終わって平和条約を結ぶ際に同時に結んだ不平等性が強い旧安保条約を改定して、より独立国にふさわしいものにするためのものであり、誰も理論的には反対し得ないものであった。しかし、共産圏の利益を代表する左翼は、日米同盟の存続そのものに反対であり、条約の改正を機に大反対運動を巻き起こした。

 そして、この運動の実際の尖兵となったのは学生運動であった。もっとも学生運動は、その頃の、世界的趨勢といえるかもしれない。

 隣の韓国では、李承晩大統領が追放されて(1960年)、朴正熙の軍事政権が始まるのが1962年である。そして、60年代後半は、米国でベトナム反戦運動が荒れ狂い、フランスでは68年にはやがてドゴール大統領を退陣させる五月革命が起こっている。すべては、学生運動から始まっている。そういう時代であった。

 学生主導であるから、元より論理は未熟であり、矛盾撞着している。それは、まさに、キッシンジャーがベトナム反戦運動について厳しく指摘しているところである。

 単なる若い情熱のはけ口に過ぎなかったとはいえるが、それが、米国ではベトナム反戦世代、フランスでは68年世代、日本では全学連(1960年)、全共闘(1970年)世代として、現代の支配層の中にも残っている反体制思想の源となっている。日本の場合は、それからも教育労組による偏向教育が続いたためその後の世代にも影響が残っている。

 実は日本では70年安保問題で、左翼反体制運動は引き潮に入った。1969年、東大の安田講堂を占拠した学生が、警視庁機動隊によって排除され、年末の選挙では、自民党が300議席の大勝利を収め、国民世論の動向は明らかになった。そして翌1970年は大阪万博の年であり、国民挙げてのお祭り騒ぎとなり、反体制運動も左翼運動もまったくといって良いぐらい影を潜めてしまった。



1970年代に「戦後」は終わっていた
 ここで特筆すべきは、その後10年間国際的にいわゆる日本の歴史問題なるものは、まったくなかったということである。つまり、「戦後」は終わっていたのである。

 戦争の記憶というものは、世代経てば消えるものである。

 ワーテルローは1915年である。その後約1世代は、いわゆるレアクシオンの時代であり、ナポレオンは、コルシカ生れの下賤な侵略者として非難された。スペインのゴヤの絵のテーマはスペインにおけるフランス軍の残虐行為を描写してあますところない。まさに南京事件記念館の19世紀版である。

 しかし、フランスでは、戦後1世代経った1840年にはナポレオンの遺体はレザンヴァリードに安置され、やがてナポレオンは、フランスの栄光を輝かした英雄として復活し、その歴史観は現在に至っている。『レ・ミゼラブル』の中で、それまで共和派だったマリユス青年が、ナポレオンの栄光に目覚め、ボナパルティストになる逸話もある。

 現在、歴史問題は、日本が戦後70年間放置して解決をしなかった問題だといわれている。ところが、1970年代は、それはもう過去のこととなっていた。

 1980年という年、1年間を取ってみると、私は、外務省から防衛庁に出向し、その間、国会で300回は立って答弁したが、日本の戦争の過去の歴史問題が取り上げられたことは皆無である。それは、議事録を取り寄せてみればわかる話である。

 その後、日本は歴史問題を解決していないとか、十分に謝罪していないとか論じているアメリカ、欧州、韓国、中国の政治家、評論家、学者に対して、私は何度も国際会議で、設問を試みた。すなわち、「皆さんの中で、たとえば、1980年という1年間を取ってみて、一人でも一言でも日本は戦争の歴史を清算していないという趣旨の発言をした人がいれば証拠を示して下さい」と。いまに到るまで、誰一人、反証を挙げていない。

 つまり、歴史の前例の通り、戦後1世代を経て、戦争の記憶は過去のこととなっていたのである。そして、こうしていったん過去となった問題が復活した発端は、すべて、日本人の手によるものである。

 それは事実であるが、その理由は、いままでに、誰も分析していない。私個人の仮説を申し上げると、70年安保で反体制左翼は完全に逼塞してしまった。学生運動に参加した人々は、一般の会社には就職が難しく、数多くがジャーナリズムの世界に入った。その世代が10年経って、新聞社、通信社の中で第一線に出てくるようになったのが、主たる理由ではないかと思っている。就職せず大学に残った学者についても同じようなことがいえると思う。つまり全共闘世代の反撃、それも、日本国内では支持がないので、問題を外国に持ち出しての反撃ではなかったかと思う。

 現にその後の歴史問題の提起は、悉く日本のジャーナリズムから外国への働きかけに発している。

 発端は、1982年の教科書検定問題である。高等学校用日本史教科書において、中国・華北への「侵略」という表現が、文部省の検定で「進出」に書き直されたと日本テレビの記者が報道した。それはすぐに誤報だとわかった。問題の教科書では、初めから「進出」と書いてあったのである。しかし、この報道は広く報じられ、中国と韓国が抗議して外交問題となった。

 これに対して、政府は、それを誤報と知りつつ、当時の宮沢官房長官談話として決着を図り、その結果、「近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がされていること」が基準とされ、以後、日本の教科書に対する近隣諸国の介入の端緒を開いた。

 靖国参拝問題こそ、戦後の未処理の問題ではまったくない。1985年の中曽根総理参拝まで、戦後の総理は60回参拝し、一度も国際問題となったことはない。ただ、1975年には、8月15日に参拝した三木総理は、公式参拝か私的な参拝かと問われ、私的参拝と答えた。そして、その秋の国会で、天皇のご参拝が私的であり得るかどうかが議論された。その後の経緯は宮内庁内の決定なので資料はないが、宮内庁が、天皇に関するあらゆる政治議論を避けるために、大事をとって、天皇のご参拝は中止し勅使の派遣だけに止めることとしたのは十分想像される。

 中曽根総理の靖国参拝中止は、日本側の工作によること明らかである。85年の総理靖国訪問の前から『朝日新聞』は、訪問反対のキャンペインを始め、この問題で初めて中国の批判を引き出すことに成功した。そして、社会党の訪中団も靖国問題に対する中国の介入を要請した。その結果、中曽根総理はその後一度も参拝していない。

 それが、靖国参拝問題に対する外国の介入の発端である。それ以降は、一部英米のマスコミで日本の総理の靖国参拝は右傾化の象徴のように報じられるようになったが、それは1985年まで敗戦後40年間まったくなかったことである。

 現在では、A級戦犯の合祀が、靖国参拝反対の理由の一つとされているが、合祀は1978年であり、その際如何なる国際的反響もなく、その後、戦後最もリベラルな自民党総理だった鈴木総理は9回、中曽根総理は10回靖国参拝を続けている。

 こうして、82年の教科書問題と85年の靖国参拝問題では、日本のマスコミが先導して外国の干渉を招き、それを政府の政策にまで反映させることに成功したが、それが将来この問題が国際的に爆発する導火線となった。その転機は80年代末に来る。


運は“自己暗示”で強くなる! ― 運気を上げる法則とは

2014年03月22日 05時37分44秒 | Weblog
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運は“自己暗示”で強くなる! ― 運気を上げる法則とは
2013年11月28日 公開

Share on Tumblr 樺 旦純(思考心理学者、評論家、著述家)

《『運は暗示で強くなる!』より》

自己暗示は潜在意識を変え、運をも変える


 運とは、なんでしょうか。

 持って生まれたものでしょうか。それとも自分自身でつかみとるものでしょうか。

 宝くじに当たるような運は、自分ではどうすることもできないものかもしれません。しかし、ビジネスで手に入れるようなお金に関する運は、そのほとんどは自分自身でつかみとれるものです。同じように仕事、人間関係、恋愛などの運は、その人の心の持ちようや行動習慣で上昇したり、低迷したりするものではないでしょうか。

 運気が低迷している人と話をすると、「いつも不安でしかたがない」「自分に自信が持てない」と感じている人が多いことに気づきます。つまり、自分を信用しきれていないのですね。

 今までに何度も失敗を繰り返し、傷ついてきたという人にこの傾向が強く見られますが、自分を信じるのも信じないのも自分しだいです。誰のせいでもありません。



 「もともと才能がないから」

 「自分はみんなより劣っているから」

 こんふうに考えるのは愚の骨頂です。このことを発見したのは、アメリカの整形外科医で臨床心理学者のマクスウェル・マルツでした。

 彼は整形手術を受けて美しくなり、コンプレックスから逃れて性格まで明るくなった女性を数多く見てきました。しかし、美しい容姿を手に入れても、もとの暗い性格が直らず、魅力的になれない女性もいたそうです。

 このことからマルツは「肉体の変化が人間を変えるわけではなく、心のイメージが変わると人間は変化するのだ」と考えました。

 つまり、人間が幸福になれるかどうかは、与えられた環境や条件ではなく、「幸福になる」イメージを自分が描き、幸せだと暗示にかけることによって決まるのです。このようなイメージを信じられれば、心は落ち着き、自信に満ちあふれた状態になるでしょう。

 また、自分に自信が持てれば、一瞬でツキを手に入れることができるでしょう。

 さらにマルツはこうも語っています。

 「人はどんな場合でも、自分自身や環境に対して自己イメージに基づいて行動する。これは人間の心の基本的法則のようなもので、事実かどうかは関係ない。たとえば、催眠状態の人に『あなたは今、北極にいます』と言えば寒さに震えるし、『これは真っ赤に焼けた火箸です』と言って割り箸を肌に押し当てると、熱さを感じるだけではなく、本当に火膨れまでできてしまう」



 想像妊娠も、この自己イメージによるものです。想像妊娠とは「赤ちゃんが欲しい」と強く思うあまり、生理がとまってお腹が膨らんでくる症状をいいます。実際に妊娠しているわけではなく、そう思い込んだだけで体に変化があらわれたということです。

 目標を達成したい場合にも同じことが言えます。プラスの結果を得たいと願うなら、潜在意識にプラスのイメージを刻みつける暗示をかければいいのです。

 人間の脳や潜在意識のなかには、過去の経験や知識などがすべてデータとして組み込まれています。日常の行動を決定づけるのは、このデータです。つまり、頭の中で何かしらのイメージを描けば、日常の行動がそれに左右されるのは当然なのです。

 もし、「仕事で成功したい」「○○さんと交際したい」と望むなら、それが実現したときのイメージを描き、「きっと実現する」という暗示をかけるのです。

 このイメージがとくに重要なはたらきをするのは、困難に直面したとき。このとき挫折するか、初志を貫徹できるかは、その人が描いているイメージが大きく関係します。



 「イメージだけで変化などするものか」と思う人は、次のような簡単な実験をしてみてください。

 まず、30センチほどの糸の一方に5円玉を結びつけ、もう一方を親指と人差し指でつまんでコップの中につり下げます。

 この状態で5円玉を見つめながら、「5円玉が自然に動き出す」と心の中で念じてみてください。このとき、言葉を繰り返すだけではなく、実際に5円玉が動き出すイメージを思い浮かべると、より効果的です。

 すると、しだいに5円玉が左右に動き出し、やがてコップの内側にカチッカチッと当たるほど揺れは大きくなっていきます。

 5円玉が動き出したら、今度は「右回りに動いていく」「左回りに変わる」などと念じてみてください。すると、そのとおりに5円玉が動くはずです。

 実は、このとき動いているのは5円玉ではなく、あなたの体なのです。これは、「5円玉が自然に動き出す」という暗示が体を動かす「観念運動」という現象です。

 「こっくりさん」という占いを覚えていますか。皆さんも1度くらいはやったことがあるでしょうが、複数の人が硬貨の上に指を置くと、自然に硬貨が動き出して何らかのメッセージを伝えるものです。これも、この観念運動によるものだと言われています。

 自己暗示は潜在意識を変える大きな力を持っています。この潜在意識が、その人の運を決めるのです。

 運のいい人、悪い人の違いはここにあります。運というすばらしい力を味方につけ、人生の運をアップさせる術を身につけましょう。


マイナスの言葉をやめれば運をつかめる


 私は心理学の専門家で、占いができるわけではありませんし、人の運命をよい方向に持っていく力もありません。しかし、人の運気がどんな状態にあるのかは、数分だけ会話を交わせばわかってしまいます。なぜなら、運気が落ちている人には共通した傾向がみられるからです。その傾向とは、マイナスの表現が多いことです。

 たとえば、
 「明日の会議は失敗しそうだな」
 「がんばってプレゼンしても、どうせ契約は取れないさ」
 「課長はオレのことを嫌っているから」
 などといった具合です。

 たかが言葉じゃないか、と考える人もいるでしょうが、これはとても危険なことです。なぜなら、マイナスの発言をしていると知らぬ間に暗示にかかり、心までマイナスになってしまうからです。心がマイナス状態になってしまったら、自信など跡形もなく消えてしまいます。そうなれば、何をやってもうまくいかないのは当然のこと――これは、私たちがよく口にする「運気が下がっている」という状態です。つまり、マイナスの言葉を使えば使うほど運気は下がり、ツキは逃げていくというわけです。

 信じられない人には、「クエイズム」という精神療法を紹介しておきましょう。

 これはフランスの精神療法学者エミール・クーエが考案したもので、マイナスの言葉を排除するだけで効果が得られる暗示療法です。

 たとえば、膝関節の痛みに苦しんでいる患者さんには、「痛みは消える、消える、消える」という言葉を繰り返し聞かせます。すると、患者が永年苦しめられてきた膝の痛みは消えてしまうのです。こうしてクーエは、多くの難病患者を痛みから救いました。

 そういえば、子どもの頃、怪我をすると、お母さんが手当てをしてくれながら優しく「大丈夫ちちんぷいぷい」などと言ってくれたものです。これも暗示の一種で、今となってはその言葉で痛みが消えたかどうかまでは覚えていませんが、たとえ痛みは残っていたとしても、安心感を覚え、落ち着くことができたはずですね。

 マイナスの言葉は、「できない」「ダメ」などだけではありません。「嫌い」や「嫌だ」「悪い」「失敗」「痛い」なども含まれます。

 前出のクーエも、「痛み」という言葉は1度しか使っていません。否定語である「痛み」を使わなければ、クエイズムの効果はより高くなるのだそうです。

 「疲れた」という言葉が口癖になっている人がいます。「疲れた」と言っていると、実際には疲れていなかったにもかかわらず、本当に疲れてしまいます。体が疲れたら、何をやってもうまくいかないでしょう。

 口を開けば必ず「どうせ」「しょせん」という言葉が最初に出てくる人もいます。これは、物事を悲観的に考える人によくみられる口癖で、自ら可能性に限界をつけて努力することを放棄している証拠です。こうした言葉が口癖になっているタイプは、やってもいないうちからあれこれ考え込んでしまい、結局は行動しません。これでは運気が上がらないのは当然。何事もやってみなければ、うまくいくかはわからないものです。まず一歩を踏み出すためにも、マイナスの言葉は避けるべきですね。

 では、運を上げるためにはどういう言葉を使えばいいのでしょうか。簡単なことです。「大丈夫」「元気」「よし!」「やるぞ」などと言えばいいのです。体のどこかに痛みを感じている場合は、「楽になる」と繰り返してもいいでしょう。プラスの言葉は、大脳生理学的にも効果があるとわかっています。脳の潜在意識を司る部分をプラスの言葉で繰り返し刺激することによって、意識もまたプラスの方向に向くようになります。

 サッカーの日本代表・本田圭佑選手は、デビユー当初は「ナマイキだ」という批判を受けることがよくありました。当時、フリーキックをさせたら日本一と言われていた中村俊輔選手に「俺に蹴らせてくれ」と詰め寄ったこともあるそうですから、そう思われてもいたしかたないでしょう。

 しかし、そんな批判を受けても、彼は自信にあふれる態度をとりつづけました。その結果、自他共に認める世界的なサッカー選手になれたのです。その理由が彼の実力にあったのは事実です。しかし、たとえ実力があったとしてもネガティブな思考の持ち主だったとしたら、今のような“運”はつかめなかったでしょう。運やツキは訪れるのを待つものではなく、暗示をかけ自分でつかみに行くものという好例です。



目標を書き、「できる」と言うだけで可能性は高まる


 大手生命保険会社が、全国の小学6年生までの子ども200人を対象に「将来何になりたいか」というアンケートを行ったところ、男の子の1位は「サッカー選手」で、女の子の1位は「食べ物屋さん」でした。

 この結果を聞いて、「子どもは夢があっていい」と他人事のように考える人は、運が下がる一方でしょう。

 たしかに、子どもと大人では世界や環境は異なりますが、このアンケートの回答のように、目標を漠然としたものではなく、具体的に明確にすることがポジティブな暗示をかけるためには欠かせないことだからです。

 具体的な目標を思い浮かべたら、今度はその目標にどうやって到達するかを考えなければいけませんが、それにはまず紙に書くことです。具体的な目標を、いつも目につくところに貼っておけば、知らず知らずのうちに暗示にかかり、それが潜在意識に刻み込まれていきます。潜在意識に目標がくっきりと刻み込まれれば、自分で意識しないまま目標へ向かって行くことができます。

 受験生時代、勉強部屋に「○○大学合格!」などと書いた紙を貼った人もいるでしょう。これは単なる気休めではなく、確実に効果があったということですね。

 さらに強く潜在意識に刻み込むために効果的なのが、目標を口に出すことです。大声で叫ぶ必要はなく、独り言のように小声で口に出すだけで充分です。

 作家やプロのスポーツ選手などがスランプになると、「俺はできる!」と繰り返し叫ぶそうですが、これと同じです。「俺はできる!」と叫ぶことによって、知らず知らずのうちに自信が回復し、やる気が出てきます。これは“気のせい”ではなく、自己暗示の一種なのです。

 このときのポイントは、小さくてもいいから必ず声に出すこと。英単語を必至に暗記したときのことを思い出してください。頭の中だけで繰り返したときよりも声を出したときの方が記憶に残ったはずです。この違いは、大脳生理学的にも認められているところなので、目標は必ず口に出して繰り返すように。

 小さな子どもは独り言を言いながら遊んでいたりします。これは、自分の考えていることを言葉にし、その言葉に刺激されて自分の行動を進めているのです。もちろん、子どもと大人では目標は異なりますが、それを実現するための努カ――自己暗示をかけるためのヒントにはなるはずです。




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<書籍紹介>

運は暗示で強くなる!
一瞬でツキが手に入る自己暗示の法則

樺 旦純 著


運は持って生まれたものじゃない。心の持ち方や行動習慣であっという間に強くなるもの。心理学を駆使した運のあげ方を紹介します。

<著者紹介>

樺 旦純(かんば・わたる)

思考心理学者、評論家、著述家

岩手県生まれ。産業能率短期大学で人事労務関連教科を担当。同大学経営管理研究所で創造性開発・能力開発の研究、指導(兼任)に携わり、産業教育研究所所長を経て、現在に至る。企業などの社員研修、能力開発を全国規模で精力的にこなすほか、わかりやすい語り口のセミナー・講演も人気を博している。
著書に『ちょっとしたひと言で疲れさせる人 会いたくなる人』『カチンとくる話し方 好かれる話し方』『会話がはずむ人 はずまない人たった1つの違い』(以上、青春出版社)などがある。


【佐藤優のインテリジェンス人生相談】

2014年03月22日 05時36分15秒 | Weblog
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20140315-00597656-sspa-soci

. 彼女が別れた旦那と仲良くしているのが腹立たしい【離婚経験者の悩み】
週刊SPA! 3月15日(土)16時21分配信
【佐藤優のインテリジェンス人生相談】

“外務省のラスプーチン“と呼ばれた諜報のプロが、その経験をもとに、読者の悩みに答える!

◆バツパパ(ペンネーム) 会社員 男性 30歳

現在お付き合いしている20代バツイチ女性が、別れた旦那と定期的に2人で食事しています。彼女の話によると、旦那と離婚した理由は「性格の不一致」です。自分から別れを切り出し、まったく揉めることなく円満に離婚し、離婚した当日も2人で食事をして帰ったようです。だから、元旦那との食事も、当たり前のように私に報告してきます。

 一方で、私もバツイチですが、まったくの潔白だったにもかかわらず別れた嫁には浮気を疑われ、昼ドラのようなドロドロの離婚裁判を闘いました。当然、離婚してからは会っていません。だからこそ、今の彼女の行動が気にかかります。そんな私は、男としては度量の狭い人間なのでしょうか? このままずっと気にならないふりを続けるほうがいいのでしょうか?

◆佐藤優の回答

 結論から言いますと、あなたが付き合っている彼女は元夫に未練があります。

 こういう人と付き合うことは構いませんが、結婚の相手にはならないと思います。離婚をした人には、共通する文化があります。私も離婚経験者ですから、そのことが皮膚感覚でわかります。私は評論家の佐高信さん(離婚経験あり)と、以下のようなやりとりをしました。

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佐藤:喧嘩はだいたい不愉快で不毛なもんです。基本的に。それに「雨降って地固まる」じゃないけど、喧嘩から生産的な何かが生まれてくるっていうのはこじつけで、そういう前向きの喧嘩は、一生の内に二回か三回あるかないかの話です。喧嘩の原因、経過、結果を膨らませて大きくして、何度も何度もその話をしても、雨降って地固まるみたいな話は、夫婦喧嘩だってほとんどないですよね。雨降って地固まった振りしてるだけですよ。離婚した前の奥さんとの離婚劇を語る時に、「それはちゃんと話し合って、それなりにお互い納得して別々の道を進んだ」とか言って円満離婚を装ったって、その後、元女房と会う人なんて、まずいないですよね。

佐高:いない。

佐藤:だいたいその話が出てきた段階で、下向いて話逸らしますよね。もちろん作品にも書かないですしね。

佐高:そうそう。やっぱり別れた元奥さんが住んでいるところとか行きたくないし、その沿線の電車にも、乗りたくないものですよね。

(『喧嘩の勝ち方――喧嘩に負けないための5つのルール』82~83頁)

――――――――――――

 これが、離婚経験者の標準的な元夫、元妻に対する感覚です。その意味では、あなたの感覚のほうが普通です。

 ちなみに、あなたは「まったくの潔白だったにもかかわらず別れた嫁には浮気を疑われ、昼ドラのようなドロドロの離婚裁判を闘いました」と書いていますが、本当でしょうか? 家庭裁判所の審判は、事実関係についてはかなり調べるので、あなたの側に非がないならば、そう簡単に離婚を認めません。

 いずれにせよ、あなたがどういう経緯で離婚したかについて、詳しい事情がわからないので、踏み込んだ助言ができませんが、今付き合っている人と結婚しても、かなりの確率で、家庭内で深刻な問題が起きると思います。

 あなたが結婚を真剣に考えているならば、彼女に「僕とどういうつもりで付き合っているのか。結婚の対象と考えているのか」と尋ねてみるといいでしょう。彼女が結婚を視野に入れているならば、元夫とはきっぱり別れてもらいましょう。「もう二度と元夫と会わない」という約束をしてもらうことです(相手との間に子供がいる場合は別ですが、子供はいないという前提で助言します)。

 彼女が「結婚は考えていない」ということならば、今の関係を続ければいいと思います。

【今回の教訓】

離婚した人には共通の文化がある

◆募集

佐藤優さんへの相談を募集中。匿名希望の方はペンネームを記入してください。採用者には記念品をお送り致します。

⇒応募はコチラから https://nikkan-spa.jp/icol_form

【佐藤優】

’60年生まれ。’85年に同志社大学大学院神学研究科を修了し、外務省入省。在英、在ロ大使館に勤務後、本省国際情報局分析第一課で主任分析官として活躍。’02年に背任容疑で逮捕。『国家の罠』『読書の技法』『日本国家の神髄』など著書多数 (※写真はイメージです)
.日刊SPA!

実はちょっとしたこと 日常生活に幸せを呼ぶしぐさや心がけ

2014年03月22日 05時31分05秒 | Weblog
http://news.livedoor.com/article/detail/8628698/

実はちょっとしたこと 日常生活に幸せを呼ぶしぐさや心がけ
何か特別なときだけでなく、何気なく過ごしている日常の中にも幸せを感じられたら、毎日が楽しく過ごせるはず。

 心と身体の生活習慣の改善を促すカウンセラーとして活躍する、ボディ・サイコロジストのおのころ心平さんは、著書『ハッピーすいっち 一瞬で幸せを呼ぶ日常しぐさ』で、“前向きに・明るく・楽しく”といった幸せな気持ちになれるしぐさを、「ハッピーすいっち」として紹介してくれています。

 たとえば、朝目覚めるときには、目を開ける前に、口角を上げて微笑んでみましょう。

「人の意識には、自覚的な『顕在意識』と、本能的で無意識とも言える『潜在意識』とがあります。朝目覚めたときは、2つの意識の狭間にいます。この状態でにっこりと微笑むことで、潜在意識に働きかけて、脳に幸せを感じさせることができます」(おのころさん)

 また、言葉を工夫することで、自分はもちろん、話し相手も幸せな気分にすることができるとおのころさんは言います。まずは、否定的な言葉は使わずに、肯定的な言葉を使うように心がけてみて。たとえば、「心配しないで」は「安心してね」、「ミスしないで」は「上手にできるよ」というふうに。

「否定的な言葉も言い方を換えれば、肯定的な表現になります。『~しないで』という打ち消しの言葉は、『~してね』というおすすめの言葉に換えるだけで安心感がありますよね。これを習慣づけていくと、物事も肯定的にとらえられるようになりますよ」(おのころさん)

 ネガティブな感情も、受け止め方次第で変化させることができるそう。電車内で赤ちゃんが泣き出したときに、イライラする人もいれば、気にならない人もいます。赤ちゃんの泣き声は気にならないのに、イヤホンから漏れる音には我慢できないという人も。これは、短気な性格や気持ちに余裕がない状態といった問題ではなく、「条件設定」の問題だと、おのころさん。

「ある現象に対してイライラするかしないかは、自分の条件設定が決めています。物事は自分のとらえ方次第で、よくも悪くもなるのです。何かイライラすることが起こったら、それはいいことがやってくる前兆だと考えるなど、よくなるほうに条件を設定し直してみてください」(おのころさん)

 こうしたちょっとしたしぐさや心がけを習慣づけて、「日常に幸せを見つける力」を高めていけたらいいですね。