忘れてしまったもの 一片のパン「幼いマリコに」

2007年11月07日 03時29分30秒 | Weblog
 81歳、進駐軍兵士だった元ハワイ州知事、ジョージ・アリヨシ氏から手紙(英文)が、記者の手元に届いたのは今年10月中旬だった。

 親殺し、子殺し、数々の不正や偽装が伝えられる中、元知事の訴えは、「義理、恩、おかげさま、国のために」に、日本人がもう一度思いをはせてほしいというものだった。終戦直後に出会った少年がみせた日本人の心が今も、アリヨシ氏の胸に刻まれているからだ。

 手紙によると、陸軍に入隊したばかりのアリヨシ氏は1945年秋、初めて東京の土を踏んだ。丸の内の旧郵船ビルを兵舎にしていた彼が最初に出会った日本人は、靴を磨いてくれた7歳の少年だった。言葉を交わすうち、少年が両親を失い、妹と2人で過酷な時代を生きていかねばならないことを知った。

 東京は焼け野原だった。その年は大凶作で、1000万人の日本人が餓死するといわれていた。少年は背筋を伸ばし、しっかりと受け答えしていたが、空腹の様子は隠しようもなかった。

 彼は兵舎に戻り、食事に出されたパンにバターとジャムを塗るとナプキンで包んだ。持ち出しは禁じられていた。だが、彼はすぐさま少年のところにとって返し、包みを渡した。少年は「ありがとうございます」と言い、包みを箱に入れた。

 彼は少年に、なぜ箱にしまったのか、おなかはすいていないのかと尋ねた。少年は「おなかはすいています」といい、「3歳のマリコが家で待っています。一緒に食べたいんです」といった。アリヨシ氏は手紙にこのときのことをつづった。「この7歳のおなかをすかせた少年が、3歳の妹のマリコとわずか一片のパンを分かち合おうとしたことに深く感動した」と。

彼はこのあとも、ハワイ出身の仲間とともに少年を手助けした。しかし、日本には2カ月しかいなかった。再入隊せず、本国で法律を学ぶことを選んだからだ。そして、1974年、日系人として初めてハワイ州知事に就任した。

 のち、アリヨシ氏は日本に旅行するたび、この少年のその後の人生を心配した。メディアとともに消息を探したが、見つからなかった。

 「妹の名前がマリコであることは覚えていたが、靴磨きの少年の名前は知らなかった。私は彼に会いたかった」

 記者がハワイ在住のアリヨシ氏に手紙を書いたのは先月、大阪防衛協会が発行した機関紙「まもり」のコラムを見たからだ。筆者は少年と同年齢の蛯原康治同協会事務局長(70)。五百旗頭(いおきべ)真(まこと)防衛大学校長が4月の講演で、元知事と少年の交流を紹介した。それを聞いた蛯原氏は「毅然(きぜん)とした日本人の存在を知ってもらいたかったため」と語った。記者は経緯を確認したかった。

 アリヨシ氏の手紙は「荒廃した国家を経済大国に変えた日本を考えるたびに、あの少年の気概と心情を思いだす。それは『国のために』という日本国民の精神と犠牲を象徴するものだ」と記されていた。今を生きる日本人へのメッセージが最後にしたためられていた。

 「幾星霜が過ぎ、日本は変わった。今日の日本人は生きるための戦いをしなくてよい。ほとんどの人びとは、両親や祖父母が新しい日本を作るために払った努力と犠牲のことを知らない。すべてのことは容易に手に入る。そうした人たちは今こそ、7歳の靴磨きの少年の家族や国を思う気概と苦闘をもう一度考えるべきである。義理、責任、恩、おかげさまで、という言葉が思い浮かぶ」

 凛(りん)とした日本人たれ。父母が福岡県豊前市出身だった有吉氏の“祖国”への思いが凝縮されていた。

 ■厳しい時代に苦闘と気概の物語

 終戦直後、米海軍カメラマンのジョー・オダネル氏(今年8月、85歳で死去)の心を揺さぶったのも、靴磨きの少年と似た年回りの「焼き場の少年」であった。

 原爆が投下された長崎市の浦上川周辺の焼き場で、少年は亡くなった弟を背負い、直立不動で火葬の順番を待っている。素足が痛々しい。オダネル氏はその姿を1995年刊行の写真集「トランクの中の日本」(小学館発行)でこう回想している。

 「焼き場に10歳くらいの少年がやってきた。小さな体はやせ細り、ぼろぼろの服を着てはだしだった。少年の背中には2歳にもならない幼い男の子がくくりつけられていた。(略)少年は焼き場のふちまで進むとそこで立ち止まる。わき上がる熱風にも動じない。係員は背中の幼児を下ろし、足下の燃えさかる火の上に乗せた。(略)私は彼から目をそらすことができなかった。少年は気を付けの姿勢で、じっと前を見つづけた。私はカメラのファインダーを通して涙も出ないほどの悲しみに打ちひしがれた顔を見守った。私は彼の肩を抱いてやりたかった。しかし声をかけることもできないまま、ただもう一度シャッターを切った」

 この写真は、今も見た人の心をとらえて離さない。フジテレビ系列の「写真物語」が先月放映した「焼き場の少年」に対し、1週間で200件近くのメールが届いたことにもうかがえる。フジテレビによると、その内容はこうだった。

 「軽い気持ちでチャンネルを合わせたのですが、冒頭から心が締め付けられ号泣してしまいました」(30代主婦)、「精いっぱい生きるという一番大切なことを改めて教えてもらったような気がします」(20代男性)。

 1枚の写真からそれぞれがなにかを学び取っているようだ。

 オダネル氏は前記の写真集で、もう一つの日本人の物語を語っている。

 激しい雨の真夜中、事務所で当直についていたオダネル氏の前に、若い女性が入ってきた。「ほっそりとした体はびしょぬれで、黒髪もべったりと頭にはりついていた。おじぎを繰り返しながら、私たちになにかしきりに訴えていた。どうやら、どこかへ連れていこうとしているらしい」

 それは踏切事故で10人の海兵隊員が死亡した凄惨(せいさん)な現場を教えるための命がけともいえる行動だった。オダネル氏は「あの夜、私を事故現場まで連れていった日本女性はそのまま姿を消した。彼女の名前も住所も知らない。一言のお礼さえ伝えられなかった」と述べている。

 苦難にたじろがない、乏しさを分かつ、思いやり、無私、隣人愛…。

 こうして日本人は、敗戦に飢餓という未曾有の危機を乗り切ることができた。それは自らの努力と気概、そして米軍放出やララ(LARA、国際NGO)救援物資などのためだった。

 当時、米国民の中には、今日はランチを食べたことにして、その費用を日本への募金にする人が少なくなかった。日本がララ物資の援助に感謝して、誰一人物資を横流しすることがないという外国特派員の報道が、援助の機運をさらに盛り上げたのだった。

 こうした苦しい時代の物語を、親から子、子から孫へともう一度語り継ぐことが、今の社会に広がる病巣を少しでも食い止めることになる。(中静敬一郎)
http://sankei.jp.msn.com/life/education/071106/edc0711060344001-n4.htm

禅とSEXと恋愛

2007年11月06日 06時06分58秒 | Weblog

フランスで禅がブームらしい。
日頃気付きにくい内面の声を聞くことによって、今自分に必要なことは何か?見極めることができるかもしれませんね。それは、幸福な恋愛のはじめの第1歩に・・・

禅とは?

内面の言葉にならない意志を宇宙の力と融合し

自らの存在そのものを「無」の境地へ誘い

「有」として実存する日常の自分の姿を顧みる精神を養う技術である。

言い換えれば自分を見つめ直す

~社会という名の枠組みの中で矮小化された「個」の存在理由を

そのフィールドごと社会を超越した視点に置き換え見直す技術である~

その新たな世界には時空すら意味をなさない広大なフィールドが広がっている・・・

簡単に言えば、物事の一時的な負の要素など、一連の人間関係や時間軸でのみ考えれば

精神的なダメージは大きいかもしれないが

視点を変えれば

「失恋も、上司の小言も、夢破れた敗北なども・・・」

たいしたことではない。

生きていく限りそこに、新たなチャンスがある、新たな場が生じる、新たな出会いがある

「今」という時間軸にとらわれすぎている現代人にとって

それを超越する禅的な精神フィールドが与える、生命力の浄化と希望が

いかに大きな希望を呼び込む装置であるか、理解できるのではないだろうか。

瞑想

方法論としてはひたすら座禅~瞑想を繰り返す・・・

中国の禅の祖 達磨大師はひたすら9年間 壁に向かい座禅したという。

この座禅の際、人は何を思うのだろう?

単に煩悩を滅却するためではない、なぜなら煩悩を滅却するという欲が働けばすでにそれも

煩悩を滅却したい という新たな煩悩の誕生でしかないからである。。

禅の応用

本格的な「禅」の修行はちょっと・・・と言う人には、禅のスピリッツを適用した自己診断が可能な方法もあります。

以前、禅スピリッツと恋愛に関する入門編として禅スピリッツと恋愛道と言う記事を書きました、そちらのほうも読んでみて下さい。

また、その記事から。

禅のスピリッツをイメージから判断し、今、自分がどのような精神状態にあるのか?

判断できる記事をその続編 スピリッツ系占い1号 で書いていますので、診断してみて下さい。

このように、禅のスピリッツを応用し、自己診断する方法が今、色々と研究されています。

今後、さらにディープな考察が可能な方法論が開発させていくでしょう。

その応用には無限の可能性があるような気がします。楽しみですね!

SEXと恋愛

どのようなイメージが元になり個人それぞれのSEXのイメージが生成されただろう?

■実体験

■バーチャル

■うわさ・・・

など、その私的ルーツは千差万別でしかも、様々なイメージの混合体である。

この生成過程は恋愛と酷似している。

基本的にSEXと恋愛は切り離して考えられるものではないのであるから当然かもしれない。

SEXの本能的欲求が恋愛の希求を呼び込む これが生命の果実で言うところの果皮である。

しかし、その禁断の果実には、やはり実もある、種もある・・・

その実とは?

恋愛の発端を単なるSEXの本能的欲求としてとらえず、より精神的な渇望の元に寄り添い合う心の寄りどころを求めるための、他者との精神的融合を求める気持ちを発端として考えていく姿勢。

そこに「禅」に通じる「新たな恋愛観」が生じる (そして、混迷する現代社会においてはそれは必要なものであるかもしれない・・・)

SEXは子孫を絶やさないという人類の生物としての存続を維持するための装置であった。

恋愛はその装置を作動させるための引き金であった。

■原SEX ⇔ 原恋愛

このような構図は、現代社会においてはほとんど意識されることはない。

社会が形成され、文明が生じ、文化が芽生え、

これらの原型には元の姿・目的とは異なる形がすでに根付いてしまっている。

SEXはSEXとして楽しむように

恋愛は恋愛として楽しむように

それぞれ、変化した。

あらゆる文化の価値はその多様性にある

同時に人間の精神的欲求も多様化したわけである。

それに対し、老朽化した固定観念に縛られたSEXなり恋愛観なりが精神的な拘束力を持っていると、

そこにストレスが生じてもしかたない。

問題は、恋愛がひとりでは成立しないので、パートナーとの、こういった多様性に関する理解~認識度の調和がとれるか否か?である。

なぜか、相手に惹かれ恋に落ちたとしても・・

SEX~恋愛観

こういった価値観があまりにかけ離れているとしたら、それは悲惨な結果にしかならなくて当然であるのかもしれない・・・

相手選びの基本

自分で選んでいるようで、実はもっと大きな力で選ばされているような感覚?

を出会いに感じることはないだろうか?

■相手がどのような、精神文化レベルでの恋愛(SEX)を求めるか?

■自分がどのような、精神文化レベルでの恋愛(SEX)を求めているのか?

この見極めのシンクロがとれなければ、精神的に恋愛関係は、癒しへとは繋がることはないだろう。

やりがいのない恋愛~SEXにならざるを得ないかもしれない。

そこで、まず、

自分が求めるもの を見極める

なぜなら、自分が求めるものが何であるのかも、わかろうとせずに

相手の求めている物が何であるのか?を知ることは不可能である。

もちろん、自分の求めるものについても、

相手が求めるものについても、

最終的な答を得られなくて良い。

この答を得ることもまた、不可能である。

しかし、だからといって、

■答を得ようと自ら精神を磨き、答に近づこうとする努力を怠らない精神的姿勢と

■はなっから、答を求めようとしない精神的姿勢とが

同じ、安らぎを内面に生成できるはずはない。

内面に安らぎを生成し、その広大な内面の浄化された宇宙を際限なく広げていく「心の鍛錬」は

この時点で「禅の基本姿勢」に通ずるのではないだろうか?

このような「心の鍛錬」を互いに持ち合わせた恋愛が幸福な恋愛の第1歩を歩み出す可能性を最も強く内包しているはずである。

互いの存在そのものを高めあえるような恋愛はここから始まるのである。

存在価値を高め合うとあえて表現しないのは、この「高め合う」という言葉が示す定義に誤解が生じやすいからである。

高め合うといっても、商品価格が値上がりするたぐいの高め合うではない。

より深く、互いが自分にとって相手の存在価値を深く理解し合う

と言うことである。

「個」の存在を、まず認めるのは「個」である。

その「個」は自己に始まり、他者に発展していく、

その最小単位が 1対1 の人間関係である。

恋愛は、互いが認め合う最小単位の人間関係のひとつである。

恋愛のまえに・・・

もう一つの、最小単位の人間関係

VS 自分

この見極めをある程度、日常的に行えば・・

恋愛のアドバンテージが得られるに違いない。

少なくとも、闇雲な片思いで心を焦がしすぎる(笑)、ことはなくなるのではないだろうか・・・

「合わないのだから、仕方ない」

この内面的決定は単なるあきらめではない。

心のステップアップである。


http://allabout.co.jp/interest/fortunetelling/closeup/CU20070819A/index.htm