死から学ぶ

2005年10月31日 03時38分43秒 | Weblog
肩書きやお金といった世俗的なものに頼っていると
病気や死に直面し、真っ裸にされた時に
自分がどうにもならなくなる
そこで必要なのは感謝です

 病気になった時の問題として、身体機能を失う恐怖もあります。胃や肺を取られる、目が見えなくなる、歩けなくなる、などの恐怖は大変大きいものです。そこで大事なことは、それが避けて通れない以上、今、自分は何をすべきか、という本来の大きな目的を回復すること。そのためには、ゼロからの発想でものを見ることです。

 人間は元々、ゼロから出発している。にもかかわらず、これだけの仕事をさせていただいている。有り難い。ならば、今、何をすべきか――このように考えれば、失うことよりも、もっと大事なものに目を向けられるのです。

 本当に大事なものが人生にはあります。それを守り、実現するためには、病気と戦わなくてはなりません。つまり、病気が悪だから戦うのではなく、これはどう生きるかという自分自身のための戦いなのです。

 私の後輩が整形外科に入院した時の話です。隣のベッドは40代のやり手ビジネスマン。彼は目を輝かせて仕事の話をしてくれたそうです。ところが、手術が2日後と決まった夜、後輩がトイレに行く際にふと隣のベッドを見たら、彼の顔が昼間と全く違っていたというのです。後輩はこう考えました。

 大きな手術だから、全身麻酔され、裸になり、上にシーツをかけられる。これは彼にとって文字通りすべてを剥ぎ取られたことになる。肩書きも何もかもなく、自分がどうなるか分からない恐怖に出合い、精気を失った――と。

 肩書きやお金といった世俗的なものに頼っていると、病気や死に直面し、真っ裸にされた時に自分がどうにもならなくなる。拠り所がなくなるんですね。そこで必要なのは感謝です。「おかげさま」という気持ちを思い出すことが、心の拠り所になるはずです。

 私が大学で受け持っている授業で、「デスエデュケーション」(死から学ぶ教育、あるいは死の準備教育)というものがあります。この授業がある程度進んだところで、予告なく「別れの手紙」という作文を学生に課します。

 自分が病気で死なざるを得なくなったと仮定し、病気と余命を決めた上で、最も大切な人に最後の別れの手紙を書かせるのです。学生にとってはかなりきつい内容です。ある女子学生が両親に宛てた手紙を紹介しましょう。

「病気のことはお医者さんから聞きました。私は死ぬのは怖くないから心配しないでください。(中略)大学まで行かせてもらいながら、まだ何のお返しもしてない。それなのに、お父さんやお母さんより先に逝かなくてはならない。それがやっぱり納得できない。第一、私にはしたいことがあった」

 この後、彼女はやりたかったこと、すなわち、恋愛や就職、子育てといった様々な事柄を延々と書きつづり、最後にこう締めくくります。

「でも今となれば、こういうことは、大したことではないような気がする」

 つまり、死ぬということに照らされたら、あれもしたい、これもしたい、ということはみんな光が失せてしまうのですね。すると、もっと大事なものは何かを考え、残された時間を悔いなく生きたい、家族や恋人、友人といった身近な他者を大切にしたい、と思うようになっていく。若い女子学生の例ですが、これは年齢や立場を問いません。私達が死を迎える際に直面するのは恐怖だけではなく、そこには人間を成長させるものがあるのです。

 病気になるとか、歳を取るとか、死ぬというのは“負け”だというのが、戦後50 年間、日本の社会全体の考え方でした。ところが、高齢化社会を迎え、ガンで亡くなる方が死亡者の3分の1近くを占めるようになってくると、病を得るとか、老いるとか、死ぬというのは負けだということより、最後まで人間らしく上手に生きていこうという考え方が主流になります。言葉を変えれば、生命の自然な在り方に対して人間として成熟していこうと考えるようになってきているのです。

 私達は現実の会社や仕事を背負いながら生きています。その与えられた状況の中で、病や死を通して、人間として成長していく。これこそが、私達がより良く生きるということではないでしょうか。

(構成・田中和之)http://smallbiz.nikkeibp.co.jp/members/COLUMN/20051026/106392/